白紙のまま残す
その夜、エレノアは夢を見た。
夢の中で、彼女は創立祭の準備室にいた。昼間と同じ机、同じ椅子、同じ窓、同じ書類の束がそこにあるはずなのに、部屋には人の気配がなく、ランプの光だけが紙の端を淡く照らしている。窓の外は夜で、硝子に映る自分の姿は少し輪郭が薄く、指先で触れれば水面のように揺れて消えてしまいそうだった。
机の上には、手帳が開かれていた。
エレノアは、その頁を見下ろす。
昨日まで確かに書き込まれていたはずの文字が、薄く滲んでいた。担当、確認期限、次の判断者、共有先。ひとつずつ整えた項目が、霧に溶けるようにほどけ、やがて紙の白さへ戻っていく。
消えてしまう。
エレノアは慌ててペンを取った。
記録しなければならない。何が未確認で、誰が判断し、どこへ戻すべきなのかを残さなければならない。そうでなければ、また誰かの役目が曖昧になり、止まった場所が見えなくなり、すべてが彼女の手元へ戻ってきてしまう。
けれど、ペン先は紙に触れているのに、文字が書けなかった。
黒いインクは一滴も落ちず、白い頁だけが、ランプの光を受けて静かに光っている。何も書かれていない紙は、責めるようにそこにあった。空白が広すぎて、見ているだけで胸が苦しくなる。
「何も、残せていません」
夢の中の自分の声は、思っていたよりも小さかった。
その声に応えるように、背後で足音がした。
振り返らなくても、誰なのか分かった。
アレクシスだった。
彼は夢の中でも急がなかった。音もなく近づくのではなく、かといってこちらを驚かせるほど近くもない距離で立ち止まり、エレノアの肩越しに、机の上の白い頁を見た。
「白紙ですね」
その声は、夜の準備室にひどく静かに落ちた。
低すぎるわけでも、甘く囁くわけでもないのに、耳の奥に残る。夢だからだろうか。いつもより声が近い気がして、エレノアは手帳を押さえる指に少しだけ力を込めた。
「記録係なのに、何も書けていません」
「書けていないのですか」
「はい」
エレノアは頷いた。
「何を残すべきか分かっていたはずなのに、文字が消えてしまいました。書かなければならないことがあったはずなのに、白紙になってしまって」
言いながら、エレノアは自分の声が震えていることに気づいた。
白紙が怖い。
何も決まっていないことが怖い。
誰かのために埋められる場所があると、そこへ自分の手を伸ばしてしまいそうになることが怖い。
アレクシスは責めなかった。慰めるように急いで言葉を重ねることもなかった。ただ、白紙の頁を見つめ、それから静かに言った。
「では、これから何を書くか選べますね」
エレノアは息を止めた。
選べる。
その言葉は、白い紙の上に落ちた一滴の水のように、じわりと胸の奥へ広がっていく。
「何も書かれていないのは、失敗ではないのですか」
「失敗であると決めるには、まだ早いのではありませんか」
アレクシスの声は近かった。
近いのに、触れない。
その距離が、かえってエレノアを落ち着かなくさせた。手を伸ばされているわけではない。何かを求められているわけでもない。それなのに、彼がそばにいるというだけで、夜の空気が少し濃くなる。
ランプの火が揺れる。
白紙の頁に、二人の影が薄く重なった。
「白紙は、急いで埋めるためだけのものではないと思います」
アレクシスはそう言った。
「これから選ぶ言葉のために、残しておくこともできます」
エレノアは、手帳から目を離せなかった。
白い頁は、まだ白いままだ。
何も書かれていない。
けれど、先ほどまでのように責められている気はしなかった。むしろ、その白さには、まだ誰にも渡していない何かが眠っているように見えた。
「残して、おいてもよいのですか」
「あなたがそう望むなら」
その返事を聞いた瞬間、エレノアは胸の奥がひどく静かになるのを感じた。
夢の中で、アレクシスはそれ以上近づかなかった。
ただ、同じ白紙を見ていた。
そのことが、なぜかとても危うく、同時に、とても安心だった。
朝、目を覚ましたとき、エレノアはしばらく天井を見つめたまま動けなかった。
窓の外はもう明るく、夜の準備室も、ランプの光も、白紙の手帳もそこにはない。自分の部屋の天井、見慣れたカーテン、朝の空気。すべてが現実のものとして戻ってきている。
それなのに、耳の奥にはまだ、夢の中のアレクシスの声が残っていた。
これから何を書くか選べますね。
エレノアは布団の中で、そっと片手を頬に当てる。
熱い。
夢に見たことを、本人に知られるわけでもない。何か恥ずべきことがあったわけでもない。ただ、白紙の手帳を前に、彼が静かに言葉をくれただけだ。
それなのに、頬の熱はなかなか引かなかった。
夢にまで見てしまうほど、気にしているのだろうか。
そう考えた瞬間、エレノアは目を閉じた。
気にしている。
その言葉は、まだ少し大きすぎる。
けれど、否定するには、夢の中の声があまりにはっきり残っていた。
その日の創立祭準備では、昨日作られた確認表の運用が続いていた。各班の欄には少しずつ書き込みが増え、判断済みの項目には印がつき、未確認のものには期限と担当者が添えられている。
エレノアは記録係として控えを確認していたが、途中でひとつ、空白の欄に目を留めた。
来賓控室に置く花の種類。
備品係の表では、数と搬入時間は決まっているのに、花の種類だけが空欄になっていた。以前なら、エレノアはすぐに候補を書き込んだだろう。季節に合うもの、来賓の格にふさわしいもの、色合いが会場装飾とぶつからないもの。考えれば、すぐに二つ三つは候補が出せる。
けれど、それは備品係と装飾班で決めることだった。
空白だからといって、今すぐ彼女が埋める必要はない。
エレノアはペンを持ったまま、少しだけ息を整える。
夢の白い頁を思い出した。
急いで埋めるためだけのものではない。
エレノアは備品係の令嬢に声をかけた。
「こちらの花の種類は、まだ未定でよろしいでしょうか」
「あ、はい。装飾班と色合いを合わせる必要があるので、午後の確認後に決める予定です」
「承知しました。では、未定として残します。午後、装飾班確認後に記入予定、としておきますね」
「はい、お願いします」
それだけで済んだ。
空欄は、失敗ではなかった。
まだ決める時ではないものを、決まっていないまま残しておくための場所だった。
エレノアは控えの表に、未定、午後確認後記入予定、とだけ記した。余白はまだ残っている。そこへ候補を書きたくなる気持ちは少しあったが、今は書かない。
白紙のまま残す。
それは思っていたよりも、勇気のいることだった。
昼過ぎ、来賓導線の確認のために、アレクシスが準備室の近くへ来た。
彼は創立祭当日に来賓対応の一部を任されているらしく、教員と共に回廊の幅や控室までの案内経路を確認していた。準備室の扉が開いていたため、エレノアの席からも、その姿が見えた。
見えた瞬間、エレノアは手元のペンを止めた。
夢の中の準備室。
ランプの光。
白紙の頁。
近い声。
それらが一度に胸の奥へ戻ってくる。
アレクシスは教員との確認を終え、ふと準備室の方へ視線を向けた。目が合う。彼は穏やかに礼をし、エレノアも慌てて礼を返した。
いつも通りにできたはずだった。
けれど、いつも通りではなかった。
アレクシスは少しだけ目を細めると、準備室の入口まで歩いてきた。
「お疲れですか」
その問いに、エレノアは一瞬、返事に迷った。
「いいえ。体調が悪いわけではありません。ただ、少し……白紙について考えておりました」
口にしてから、自分でも奇妙な答えだと思った。けれど、取り消そうとすればするほど、夢の中の夜気まで現実に持ち込んでしまいそうだった。
アレクシスは笑わなかった。
「白紙ですか」
「はい。未定の欄を、無理に埋めないことについてです」
そう言えば、少しは仕事の話に聞こえるはずだった。
けれど、エレノアの耳には、夢の中の自分の声が重なっていた。何も残せていません、と言った声。白紙を怖がっていた自分。
アレクシスは準備室の中へ入りすぎることなく、入口のところで足を止めたまま、机の上の確認表へ目を向けた。
「決まっていないものを、決まっているように扱わないためでしょうか」
エレノアは驚いて、顔を上げる。
「……はい」
「それなら、白紙は役に立っているのだと思います」
夢と似た言葉だった。
まったく同じではない。
けれど、白紙を責めないその言い方が、あまりにも夢の中の彼と重なって、エレノアはすぐに返事ができなかった。
アレクシスは、不思議そうにこちらを見る。
「何か」
「いいえ」
エレノアは首を振った。
「少し、夢見が悪く……いえ、悪くはありませんでした」
言い直した瞬間、自分の頬が熱くなるのが分かった。
アレクシスは、ほんのわずかに目を瞬かせた。
それから、深く踏み込まないまま、静かに言った。
「悪くなかったのなら、よかった」
その一言に、エレノアは胸の奥を掴まれたような気がした。
何の夢だったのかを聞かない。
誰が出てきたのかも尋ねない。
ただ、悪くなかったのならよかった、と受け取る。
その距離が、夢の中と同じように近く、同時に遠かった。
「はい」
エレノアはようやく頷いた。
「悪い夢では、ありませんでした」
アレクシスは静かに礼をし、教員の待つ回廊へ戻っていった。
その背中を見送ってから、エレノアは机の上の確認表へ視線を戻す。
花の種類の欄は、まだ空白のままだ。
けれど、その空白はもう怖くなかった。
夕方、準備が一段落したころ、装飾班から返答が届いた。来賓控室の花は、淡い青と白を中心にしたものに決まり、会場装飾とも調和するという。備品係の令嬢が確認表へ丁寧に書き込み、エレノアは記録係の控えにも同じ内容を残した。
空白だった場所に、決まったことが入る。
それは、誰かが急いで埋めた言葉ではなかった。
必要な人が確認し、必要な時間を経て、そこへ来た言葉だった。
エレノアはその文字を見て、小さく息を吐く。
夜、自室に戻ってから、彼女は自分の手帳を開いた。
今日の記録は多かった。確認表の運用、来賓導線の確認、備品係と装飾班の共有、花の種類の決定。それらをひとつずつ書き残したあと、エレノアは最後の頁に少しだけ余白を残した。
以前なら、そこにも何かを書き込んだだろう。
思いつくことを、忘れないように。
不安なことを、先に潰すために。
誰かに求められる前に、動けるように。
けれど今日は、何も書かなかった。
白紙は、何もない場所ではなかった。
これから自分で選ぶ言葉のために、残しておける場所だった。
エレノアはペンを置き、白い余白をしばらく見つめる。
そこにはまだ、誰のための予定も、誰かの穴を埋めるための役目も書かれていない。
ただ、彼女がこれから何を書くかを選べる場所として、静かに残っている。
その白さを怖いと思わなかったことに、エレノアは少しだけ驚いた。
そして、夢の中の声を思い出す。
では、これから何を書くか選べますね。
エレノアは頬に残る熱を隠すように、手帳をそっと閉じた。




