表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/45

白紙のまま残す

 その夜、エレノアは夢を見た。


 夢の中で、彼女は創立祭の準備室にいた。昼間と同じ机、同じ椅子、同じ窓、同じ書類の束がそこにあるはずなのに、部屋には人の気配がなく、ランプの光だけが紙の端を淡く照らしている。窓の外は夜で、硝子に映る自分の姿は少し輪郭が薄く、指先で触れれば水面のように揺れて消えてしまいそうだった。


 机の上には、手帳が開かれていた。


 エレノアは、その頁を見下ろす。


 昨日まで確かに書き込まれていたはずの文字が、薄く滲んでいた。担当、確認期限、次の判断者、共有先。ひとつずつ整えた項目が、霧に溶けるようにほどけ、やがて紙の白さへ戻っていく。


 消えてしまう。


 エレノアは慌ててペンを取った。


 記録しなければならない。何が未確認で、誰が判断し、どこへ戻すべきなのかを残さなければならない。そうでなければ、また誰かの役目が曖昧になり、止まった場所が見えなくなり、すべてが彼女の手元へ戻ってきてしまう。


 けれど、ペン先は紙に触れているのに、文字が書けなかった。


 黒いインクは一滴も落ちず、白い頁だけが、ランプの光を受けて静かに光っている。何も書かれていない紙は、責めるようにそこにあった。空白が広すぎて、見ているだけで胸が苦しくなる。


「何も、残せていません」


 夢の中の自分の声は、思っていたよりも小さかった。


 その声に応えるように、背後で足音がした。


 振り返らなくても、誰なのか分かった。


 アレクシスだった。


 彼は夢の中でも急がなかった。音もなく近づくのではなく、かといってこちらを驚かせるほど近くもない距離で立ち止まり、エレノアの肩越しに、机の上の白い頁を見た。


「白紙ですね」


 その声は、夜の準備室にひどく静かに落ちた。


 低すぎるわけでも、甘く囁くわけでもないのに、耳の奥に残る。夢だからだろうか。いつもより声が近い気がして、エレノアは手帳を押さえる指に少しだけ力を込めた。


「記録係なのに、何も書けていません」


「書けていないのですか」


「はい」


 エレノアは頷いた。


「何を残すべきか分かっていたはずなのに、文字が消えてしまいました。書かなければならないことがあったはずなのに、白紙になってしまって」


 言いながら、エレノアは自分の声が震えていることに気づいた。


 白紙が怖い。


 何も決まっていないことが怖い。


 誰かのために埋められる場所があると、そこへ自分の手を伸ばしてしまいそうになることが怖い。


 アレクシスは責めなかった。慰めるように急いで言葉を重ねることもなかった。ただ、白紙の頁を見つめ、それから静かに言った。


「では、これから何を書くか選べますね」


 エレノアは息を止めた。


 選べる。


 その言葉は、白い紙の上に落ちた一滴の水のように、じわりと胸の奥へ広がっていく。


「何も書かれていないのは、失敗ではないのですか」


「失敗であると決めるには、まだ早いのではありませんか」


 アレクシスの声は近かった。


 近いのに、触れない。


 その距離が、かえってエレノアを落ち着かなくさせた。手を伸ばされているわけではない。何かを求められているわけでもない。それなのに、彼がそばにいるというだけで、夜の空気が少し濃くなる。


 ランプの火が揺れる。


 白紙の頁に、二人の影が薄く重なった。


「白紙は、急いで埋めるためだけのものではないと思います」


 アレクシスはそう言った。


「これから選ぶ言葉のために、残しておくこともできます」


 エレノアは、手帳から目を離せなかった。


 白い頁は、まだ白いままだ。


 何も書かれていない。


 けれど、先ほどまでのように責められている気はしなかった。むしろ、その白さには、まだ誰にも渡していない何かが眠っているように見えた。


「残して、おいてもよいのですか」


「あなたがそう望むなら」


 その返事を聞いた瞬間、エレノアは胸の奥がひどく静かになるのを感じた。


 夢の中で、アレクシスはそれ以上近づかなかった。


 ただ、同じ白紙を見ていた。


 そのことが、なぜかとても危うく、同時に、とても安心だった。


 朝、目を覚ましたとき、エレノアはしばらく天井を見つめたまま動けなかった。


 窓の外はもう明るく、夜の準備室も、ランプの光も、白紙の手帳もそこにはない。自分の部屋の天井、見慣れたカーテン、朝の空気。すべてが現実のものとして戻ってきている。


 それなのに、耳の奥にはまだ、夢の中のアレクシスの声が残っていた。


 これから何を書くか選べますね。


 エレノアは布団の中で、そっと片手を頬に当てる。


 熱い。


 夢に見たことを、本人に知られるわけでもない。何か恥ずべきことがあったわけでもない。ただ、白紙の手帳を前に、彼が静かに言葉をくれただけだ。


 それなのに、頬の熱はなかなか引かなかった。


 夢にまで見てしまうほど、気にしているのだろうか。


 そう考えた瞬間、エレノアは目を閉じた。


 気にしている。


 その言葉は、まだ少し大きすぎる。


 けれど、否定するには、夢の中の声があまりにはっきり残っていた。


 その日の創立祭準備では、昨日作られた確認表の運用が続いていた。各班の欄には少しずつ書き込みが増え、判断済みの項目には印がつき、未確認のものには期限と担当者が添えられている。


 エレノアは記録係として控えを確認していたが、途中でひとつ、空白の欄に目を留めた。


 来賓控室に置く花の種類。


 備品係の表では、数と搬入時間は決まっているのに、花の種類だけが空欄になっていた。以前なら、エレノアはすぐに候補を書き込んだだろう。季節に合うもの、来賓の格にふさわしいもの、色合いが会場装飾とぶつからないもの。考えれば、すぐに二つ三つは候補が出せる。


 けれど、それは備品係と装飾班で決めることだった。


 空白だからといって、今すぐ彼女が埋める必要はない。


 エレノアはペンを持ったまま、少しだけ息を整える。


 夢の白い頁を思い出した。


 急いで埋めるためだけのものではない。


 エレノアは備品係の令嬢に声をかけた。


「こちらの花の種類は、まだ未定でよろしいでしょうか」


「あ、はい。装飾班と色合いを合わせる必要があるので、午後の確認後に決める予定です」


「承知しました。では、未定として残します。午後、装飾班確認後に記入予定、としておきますね」


「はい、お願いします」


 それだけで済んだ。


 空欄は、失敗ではなかった。


 まだ決める時ではないものを、決まっていないまま残しておくための場所だった。


 エレノアは控えの表に、未定、午後確認後記入予定、とだけ記した。余白はまだ残っている。そこへ候補を書きたくなる気持ちは少しあったが、今は書かない。


 白紙のまま残す。


 それは思っていたよりも、勇気のいることだった。


 昼過ぎ、来賓導線の確認のために、アレクシスが準備室の近くへ来た。


 彼は創立祭当日に来賓対応の一部を任されているらしく、教員と共に回廊の幅や控室までの案内経路を確認していた。準備室の扉が開いていたため、エレノアの席からも、その姿が見えた。


 見えた瞬間、エレノアは手元のペンを止めた。


 夢の中の準備室。


 ランプの光。


 白紙の頁。


 近い声。


 それらが一度に胸の奥へ戻ってくる。


 アレクシスは教員との確認を終え、ふと準備室の方へ視線を向けた。目が合う。彼は穏やかに礼をし、エレノアも慌てて礼を返した。


 いつも通りにできたはずだった。


 けれど、いつも通りではなかった。


 アレクシスは少しだけ目を細めると、準備室の入口まで歩いてきた。


「お疲れですか」


 その問いに、エレノアは一瞬、返事に迷った。


「いいえ。体調が悪いわけではありません。ただ、少し……白紙について考えておりました」


 口にしてから、自分でも奇妙な答えだと思った。けれど、取り消そうとすればするほど、夢の中の夜気まで現実に持ち込んでしまいそうだった。


 アレクシスは笑わなかった。


「白紙ですか」


「はい。未定の欄を、無理に埋めないことについてです」


 そう言えば、少しは仕事の話に聞こえるはずだった。


 けれど、エレノアの耳には、夢の中の自分の声が重なっていた。何も残せていません、と言った声。白紙を怖がっていた自分。


 アレクシスは準備室の中へ入りすぎることなく、入口のところで足を止めたまま、机の上の確認表へ目を向けた。


「決まっていないものを、決まっているように扱わないためでしょうか」


 エレノアは驚いて、顔を上げる。


「……はい」


「それなら、白紙は役に立っているのだと思います」


 夢と似た言葉だった。


 まったく同じではない。


 けれど、白紙を責めないその言い方が、あまりにも夢の中の彼と重なって、エレノアはすぐに返事ができなかった。


 アレクシスは、不思議そうにこちらを見る。


「何か」


「いいえ」


 エレノアは首を振った。


「少し、夢見が悪く……いえ、悪くはありませんでした」


 言い直した瞬間、自分の頬が熱くなるのが分かった。


 アレクシスは、ほんのわずかに目を瞬かせた。


 それから、深く踏み込まないまま、静かに言った。


「悪くなかったのなら、よかった」


 その一言に、エレノアは胸の奥を掴まれたような気がした。


 何の夢だったのかを聞かない。


 誰が出てきたのかも尋ねない。


 ただ、悪くなかったのならよかった、と受け取る。


 その距離が、夢の中と同じように近く、同時に遠かった。


「はい」


 エレノアはようやく頷いた。


「悪い夢では、ありませんでした」


 アレクシスは静かに礼をし、教員の待つ回廊へ戻っていった。


 その背中を見送ってから、エレノアは机の上の確認表へ視線を戻す。


 花の種類の欄は、まだ空白のままだ。


 けれど、その空白はもう怖くなかった。


 夕方、準備が一段落したころ、装飾班から返答が届いた。来賓控室の花は、淡い青と白を中心にしたものに決まり、会場装飾とも調和するという。備品係の令嬢が確認表へ丁寧に書き込み、エレノアは記録係の控えにも同じ内容を残した。


 空白だった場所に、決まったことが入る。


 それは、誰かが急いで埋めた言葉ではなかった。


 必要な人が確認し、必要な時間を経て、そこへ来た言葉だった。


 エレノアはその文字を見て、小さく息を吐く。


 夜、自室に戻ってから、彼女は自分の手帳を開いた。


 今日の記録は多かった。確認表の運用、来賓導線の確認、備品係と装飾班の共有、花の種類の決定。それらをひとつずつ書き残したあと、エレノアは最後の頁に少しだけ余白を残した。


 以前なら、そこにも何かを書き込んだだろう。


 思いつくことを、忘れないように。

 不安なことを、先に潰すために。

 誰かに求められる前に、動けるように。


 けれど今日は、何も書かなかった。


 白紙は、何もない場所ではなかった。


 これから自分で選ぶ言葉のために、残しておける場所だった。


 エレノアはペンを置き、白い余白をしばらく見つめる。


 そこにはまだ、誰のための予定も、誰かの穴を埋めるための役目も書かれていない。


 ただ、彼女がこれから何を書くかを選べる場所として、静かに残っている。


 その白さを怖いと思わなかったことに、エレノアは少しだけ驚いた。


 そして、夢の中の声を思い出す。


 では、これから何を書くか選べますね。


 エレノアは頬に残る熱を隠すように、手帳をそっと閉じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ