委員長判断欄
エレノアが委員会室を出たのは、午後の光が少し傾き始めたころだった。
手にしているのは、先生から追加確認を求められた資料の控え。
次年度の引き継ぎに残す項目のうち、学園側の承認が必要なものだった。
「こちらを職員室へ届けてまいります」
エレノアがそう告げると、下級生のひとりが顔を上げた。
「その間、こちらの仕分けは進めておきます」
「ええ。迷ったものは、迷った理由を残してください」
「はい」
返事はすぐに返ってきた。
以前なら、エレノアが席を立つだけで、何枚もの紙が彼女の手元へ寄せられていた。
これも見てほしい。
これも判断してほしい。
これはどうすればいいのか。
けれど今、机の上の資料にはそれぞれ札が置かれている。
担当者確認待ち。
先生確認待ち。
外部報告用。
次年度引き継ぎ用。
そして、委員長判断待ち。
エレノアはそれを見て、小さく息を吸った。
場が、少しずつ自分の手を離れている。
そう思うと、胸の奥が静かに痛んだ。
けれど、その痛みは嫌なものではなかった。
自分がいなくても進む。
その事実を、寂しいと思えるほどには、エレノアはここに心を残していたのだ。
「では、お願いいたします」
エレノアは軽く礼をして、委員会室を出た。
扉が閉まる音が、いつもより少し遠く聞こえた。
廊下を歩きながら、エレノアは腕の中の資料へ目を落とす。
作成者欄には、自分の名前が入っている。
まだ見慣れない。
けれど、消したいとは思わなかった。
名前が残ること。
その名前が、次の誰かの道しるべになること。
それはまだ少し怖い。
それでも、逃げたいとは思わない。
「エレノア嬢」
廊下の向こうから声がして、顔を上げる。
アレクシスだった。
彼は資料を抱えたまま、こちらへ歩いてくる。
その歩き方は急ぎすぎず、けれど迷いがない。
「職員室へ?」
「はい。先生から、追加確認を求められました」
「では、途中までご一緒しても?」
「もちろんです」
隣を歩き出してから、アレクシスはすぐに資料の中身を尋ねなかった。
そういうところが、エレノアには不思議だった。
彼はいつも、先に踏み込まない。
けれど、見ていないわけでもない。
「委員会室を離れるのは、少し落ち着きませんか」
エレノアは思わず笑った。
「……分かりますか」
「はい。先ほど、扉の前で一度だけ振り返られましたから」
見られていた。
けれど、責められた気はしなかった。
「以前なら、離れることに不安がありました。戻ったときに、また何もかもが積み上がっているのではないかと思って」
「今は?」
「今は……少し違います」
エレノアは答えを探すように、ゆっくり歩いた。
「進んでいてほしいと思います。でも、進んでいたら、少し寂しいのかもしれません」
言ってから、そんなことを口にした自分に驚く。
けれどアレクシスは笑わなかった。
「それは、自然なことだと思います」
「自然、ですか」
「はい。大切にしてきたものが、自分の手だけでなく動き始めるのですから」
エレノアは、胸の奥にあった小さな痛みが、少しだけほどけるのを感じた。
慰められたのではない。
急がされてもいない。
ただ、その痛みに名前を与えられたようだった。
「ですが」
アレクシスは少しだけ視線を和らげる。
「あなたが離れても進むのなら、それはあなたが不要になったということではありません」
エレノアは足を止めそうになった。
「あなたが、進める形を残したということです」
その言葉は、ひどく静かだった。
静かなのに、胸に深く入ってくる。
エレノアは資料を抱える手に、少し力を込めた。
「……そう思えたら、きっと楽になりますね」
「思えるまで、急がなくてもよいと思います」
その言い方に、エレノアは小さく笑った。
この人は、いつも結論を奪わない。
気づけ、とも言わない。
強くあれ、とも言わない。
ただ、エレノアが自分で受け取れる距離に、言葉を置いてくれる。
それが心地よいと気づくには、もう少し時間が必要だった。
けれど、その時間を待ってくれる人なのだと、少しずつ分かり始めている。
職員室での確認は、思ったより早く終わった。
先生は資料の分類を見て頷き、二か所だけ補足を加えるよう指示した。
「この形式なら、最終報告にも使えますね」
そう言われ、エレノアは丁寧に礼をした。
戻る道で、彼女は足を速めすぎないように気をつけた。
急がなくてもよい。
その言葉が、まだ耳に残っていた。
委員会室の扉に近づくと、中から声が聞こえた。
「こちらは、外部報告に載せるべきでしょうか」
「それとも、次年度引き継ぎ用でしょうか」
エレノアは扉に手をかける前に、足を止めた。
聞こえてきたのは、下級生たちの声だった。
そして、そのあとに続いたのはアルフレッドの声だった。
「そのあたりは、エレノアに確認を――」
途中で、紙をめくる音がした。
それから、下級生の声が静かに返る。
「恐れ入ります。こちらは、委員長判断欄です」
室内が、一瞬静かになった。
エレノアは、扉の前で息を止める。
責める声ではなかった。
冷たく突き放す声でもなかった。
ただ、そこに書かれている行き先を読み上げただけの声だった。
「委員長判断……」
アルフレッドが小さく繰り返す。
「はい。外部報告に載せるか、次年度引き継ぎに残すかの判断です。エレノア様には、分類の形式をご確認いただいておりますが、こちらの内容判断は委員長確認となっています」
淡々としている。
淡々としているからこそ、逃げ道がなかった。
いつものように。
エレノアに確認を。
彼女なら分かるだろう。
そうやって滑らかに流れていたものが、札一枚で止められている。
委員長判断欄。
そこには、彼の役目が置かれている。
アルフレッドはしばらく黙っていた。
エレノアは扉の外で、その沈黙を聞いていた。
以前なら、すぐに入っていただろう。
困っているなら、助けなければ。
場が止まるなら、動かさなければ。
そう思って、扉を開けていた。
以前なら、ここで自分の名が呼ばれることに、少しだけ安堵していた。
必要とされているのだと、思えたから。
けれど今は、その呼ばれ方が何を自分に戻していたのか、分かっている。
これは、彼の判断だ。
彼が引き受けるべき問いだ。
やがてアルフレッドが、ゆっくり言った。
「内容を、もう一度見せてくれ」
「はい」
紙が動く音がする。
「これは……外部報告に載せるには、少し内側の事情が多いな」
「では、次年度引き継ぎ用でしょうか」
「そうだな。外部報告には概要だけを残す。詳しい経緯は、次年度引き継ぎに回してくれ」
「承知しました。判断理由はどのように記録いたしましょう」
また、少し間があった。
けれど今度の沈黙は、逃げるためのものではなかった。
考えるための沈黙だった。
「外部向けには不要な内部調整を含むため、詳細は次年度引き継ぎへ」
「承知しました」
ペンが走る音がした。
エレノアは、扉の前で静かに目を伏せた。
進んでいる。
自分がいなくても、場が進んでいる。
そのことが、少し寂しい。
そして、その何倍も、安堵した。
扉を開けると、室内の視線がこちらを向いた。
「戻りました」
「おかえりなさいませ、エレノア様」
下級生が、整理した資料を持って近づいてくる。
「先生確認分は、こちらに反映すればよろしいでしょうか」
「はい。二か所、補足指示をいただきました」
「承知しました」
別の下級生が、少し誇らしげに言う。
「先ほどの資料は、委員長にご判断いただき、次年度引き継ぎ用に回しました」
エレノアは、一瞬だけ言葉を止めた。
委員長にご判断いただき。
その言葉が、室内に自然に響いている。
自分が代わりに受け取らなかった判断が、正しい場所に戻っている。
「そうですか」
エレノアはゆっくり頷いた。
「では、判断理由が記録に残っているかだけ、確認いたします」
「はい。こちらです」
差し出された紙には、アルフレッドの判断と、その理由が短く書かれていた。
外部向けには不要な内部調整を含むため、詳細は次年度引き継ぎへ。
少し硬い。
けれど、意味は通る。
何より、そこには彼自身の判断があった。
エレノアは赤を入れようとして、少しだけ手を止める。
もっと読みやすくできる。
もっと整えられる。
もっと滑らかに言い換えられる。
そう思うのは、癖だった。
けれど今、それをすべて直してしまえば、また彼の判断の跡を消してしまう。
エレノアは、表現の端だけを整えた。
「このままでよいと思います。末尾だけ、次年度に引き継ぐ、という形にそろえましょう」
「分かりました」
下級生が頷く。
エレノアは資料を返した。
そのとき、アルフレッドと目が合った。
彼は何かを言いかけたようだった。
けれど、言葉にはならなかった。
エレノアも、何も言わなかった。
責める言葉も、慰める言葉も、今は必要ない。
彼が初めて自分で置いた判断を、誰かが代わりに回収してしまわないこと。
それだけが必要だった。
作業はその後も続いた。
担当者確認待ちの札が動く。
先生確認済みの資料が束ねられる。
次年度引き継ぎ用の紙が、順番に並べられていく。
その中に、委員長判断済みの札が一枚、静かに置かれていた。
エレノアはそれを見て、胸の奥に残る小さな寂しさをそっと受け止めた。
自分がいなくても進む。
それは、自分が不要になったということではない。
自分が残した形が、誰かの手を動かし始めたということだ。
窓の外では、夕方の光が机の上まで伸びていた。
アルフレッドが、分類表の前で足を止める。
その視線は、委員長判断欄に向けられていた。
「委員長判断、か」
小さな声だった。
誰に聞かせるためでもない。
ただ、自分の口の中で確かめるような声。
エレノアはその声を聞いた。
けれど、すぐには振り向かなかった。
その言葉は、ようやく本来の場所へ戻ったのだから。




