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委員長席に記す一行

 婚約者が私との約束を破るのは、これで七度目だった。


 もっとも、そのたびに彼が口にする理由はいつも同じである。

 病弱な幼馴染の体調がすぐれない。だから、そばにいてあげたい。

 今回もまた、それを丁寧な書面にしただけのことだった。


 私は図書塔の窓辺に立ったまま、その紙を読み終える。春の朝の光が白い封筒の縁を透かし、床に細い影を落としていた。


「エレノア様……」


 届けに来た下級生の少女が、不安そうに私を見上げる。

 気を遣わせてしまったことに気づいて、私は小さく笑った。


「大丈夫よ。ありがとう」


 そう言って、開いていた本に栞を挟む。

 読みかけの頁が静かに閉じる音を聞くと、なぜだか少しだけ安心した。


 王立学園創立祭の最終打ち合わせは、まもなく始まる。

 婚約者であるアルフレッド様は実行委員長、私は記録係を兼ねた補佐役だった。正確には、彼が見落とした予定を拾い、足りない書類を整え、誰かが困る前に手を回しておく役目を、いつのまにか当然のように引き受けていた。


 机の上には、私が作り直した進行表が三種。

 雨天時の導線図。

 来賓席の名札。

 欠席者が出た場合の代替配置まで揃っている。


 それでも彼は、今日も来ない。


 理由はやはり、リディア様が倒れたから。


「お優しいのね、アルフレッド様」

「幼馴染ですもの、放っておけないのでしょう」

「エレノア様も理解がおありで素敵だわ」


 廊下の向こうで交わされる声が、閉めきらない扉の隙間から入り込んでくる。

 私はそれを聞かなかったことにしながら、記録帳を開いた。


 昔は、そのひとことひとことが胸に刺さった。

 どうして私ばかり、と思わなかったわけではない。

 けれど人は不思議なもので、繰り返されると、傷つくことにすら手順ができてしまうらしい。


 微笑む。

 相手を困らせない。

 話を止めない。

 自分が埋められるところは先に埋める。


 そうしているうちに、私の微笑みはすっかり上手くなってしまった。


 欠席欄に彼の名前を書く。

 インクがじわりと紙へ染みるのを見て、ふと、ひどく冷静な気持ちになった。


 みんなはこれを、美しい話だと思っているのだ。

 病弱な幼馴染を支える心優しい婚約者と、その事情を理解して静かに譲る婚約者。

 誰にも都合のいい、整った物語。


 でも、その物語の頁をめくるたびに、いつも削られていたのは私の予定だった。


 私はペンを置いた。

 そして閉じた本の表紙をそっと撫でながら、静かに思う。


 ――もう、この物語の続きを、私が支えてやる必要はないのかもしれない。


 打ち合わせの開始を告げる鐘が鳴った。


 私は記録帳と書類の束を抱え、図書塔の小部屋を出る。廊下へ出た途端、春のやわらかな空気はざわめきにかき消された。創立祭を三日後に控えた学園は、どこを見ても人と声と花の匂いで満ちている。


 壁際には、今年の装飾を担当する下級生たちが色とりどりの布を抱えて立っていた。中庭へ続く扉は開け放たれ、遠くから楽隊の試し奏でる音が途切れ途切れに届いてくる。

 これだけ浮き立つ空気の中で、予定通りに物事が進むと信じている者がいるなら、よほど幸福か、あるいは何も見ていないかのどちらかだろう。


「エレノア様!」


 階段の踊り場のあたりから、焦った声が飛んできた。

 振り向くと、実行委員の一人である二年生の少年が、名札箱を抱えたまま駆け寄ってくる。


「来賓席の名札なんですが、南側の並びが一枚足りません。昨日いただいた一覧にはあったはずで……」

「グレイス侯爵夫人の分ね。朝のうちに席順が一つ繰り上がったから、箱の下段に入れ替えてあるわ」

「えっ」

「金の縁取りのある紙箱。右から三番目」

「あった……!」


 少年は目を丸くしたあと、安堵したように息をついた。


「ありがとうございます!」

「よかった。落ち着いて運んでね。角を折ると叱られるから」

「はいっ」


 少年が駆けていく。

 私はその背を見送りながら、無意識に息を吐いた。


 こういうことがあるたびに思う。

 もし私が何もしていなかったなら、創立祭はとっくにどこかで止まっていたのではないだろうかと。


 けれど、止まらないようにしてしまったのは私自身だ。

 止まらないのだから平気だと思われ、平気だと思われるからさらに任される。

 静かに整える人間は、たいてい最後まで整えられる人間だと誤解される。


 会議室へ向かう途中、今度は装飾係の女生徒二人が小さく頭を下げてきた。


「エレノア様、舞台袖に運ぶ花瓶の数、やっぱり六つでよろしいですか?」

「六つで大丈夫よ。ただし中央の二つは背の低いものにして。幕が下りるときに当たるから」

「あ……そうでした、ありがとうございます」


 彼女たちの顔に浮かぶ、助かった、という安堵。

 それを見てしまうと、きつい言葉を返す気にはなれない。

 この子たちはただ困っているだけで、私を都合よく使おうとしているわけではないのだから。


 問題なのは、困ったときに私へ聞けばいいと、最初から仕組みのように組み込まれてしまっていることだ。


 会議室の扉を開けると、中ではすでに十数人が席についていた。長机の中央には、私が昨日遅くまでかけてまとめた進行表の束が置かれている。視線が一斉にこちらへ集まり、そのすべてが、ごく自然に私の隣――本来ならアルフレッド様が座るはずの席へ流れた。


 一拍の沈黙。


 そして誰からともなく、事情を察したような空気が広がる。


「本日も、アルフレッド様は……?」


 副委員長のマーカス様が、言葉を濁しながらたずねる。


「欠席です。リディア様のご体調が優れないそうなので」

「ああ……そうですか」


 その返答に、何人かが同時に気まずそうな顔をした。

 同情、遠慮、そして少しばかりの安堵。

 委員長本人が不在でも、私が来たのなら会議は進む。そういう安堵だ。


 私は自分の席に書類を置き、静かに椅子を引いた。


「始めましょう。時間が惜しいので」


 そう言うと、みなほっとしたように紙へ目を落とす。

 誰も「申し訳ありません」とは言わない。必要がないからだ。

 この場は私が回すものだと、もう決まっている。


「まず、来賓席の配置変更についてです。今朝、グレイス侯爵家の随員が一名増えると連絡がありましたので、南列を一つずつずらしました。変更後の一覧をお配りしています」

「助かります」

「次に、舞台転換の人員ですが、音楽科から二名追加がありました。ただし一名は開始三十分前まで授業があるので、最初の転換には入れません」

「では、第一幕と第二幕で分けたほうが……」

「その案でいきましょう。私のほうで書き換えておきます」


 会議は滞りなく進んだ。

 あまりに滞りなく進むものだから、途中でおかしくなりそうだった。

 アルフレッド様が不在でも、問題は起こらない。誰も立ち往生しない。私がいるからだ。


 その事実を確認するたび、胸の奥で何かが静かに冷えていく。


 やがて議題がほとんど片づいたころ、会議室の扉が控えめに叩かれた。返事をするより早く、すらりとした人影が入ってくる。


「失礼。創立祭実行委員会はこちらで間違いないかな」


 見覚えのない青年だった。

 濃紺の制服は高等科のものだが、この会議室にいる誰よりも胸元の銀糸が多い。上級生――それも、生徒会に近い役職の人間だろうか。整いすぎた顔立ちのせいか、室内のざわめきが一瞬で止む。


 その人は机上の資料に目を落とし、それから空いたままの委員長席を見て、わずかに眉を上げた。


「話の途中だったならすまない。生徒会から、最終日の閲覧制限区域について確認に来た」


 その声音は穏やかだったけれど、少しだけ、おかしかった。

 何がおかしいのかすぐには分からなかったが、たぶんそれは、委員長不在の場に驚くより先に、誰が実際にこの場を回しているのかを一瞬で見抜いたような目をしていたからだ。


 私は立ち上がり、手元の資料を一枚抜き出した。


「でしたら、こちらをご覧ください。図書塔西階段から上の区画は、当日午前中のみ入室制限をかけます。理由は展示資料の搬入があるためです」


 青年は私の差し出した紙を受け取り、目を通したあと、静かに笑った。


「ずいぶん整っているね。助かる」

「そうですか」

「委員長が優秀なのかな」

「いいえ」


 思ったより早く言葉が出た。

 室内の空気が、ぴたりと止まる。


 けれど私はすぐに、いつもの微笑みを浮かべた。


「記録係が、少しばかり心配性なだけです」


 青年は一瞬だけ目を見開いたあと、ふっとおかしそうに目を細めた。

 まるで、たった今、本の面白い一行を見つけたみたいに。


「なるほど。では、その心配性な記録係殿に確認したい」


 会議室の空気が、先ほどとは別の意味で張る。

 私は資料を持ったまま、軽く会釈した。


「どうぞ」

「最終日の午後、図書塔西階段より上を閉鎖するなら、生徒会側で掲示と見回りを追加したい。ただ、提出されている書類だと、閉鎖開始時刻が資料ごとに少しずつ違っている」


 私はすぐに机上の束から三枚の書類を抜き出した。

 閲覧制限区域の案内、展示物搬入計画、警備補助申請書。

 言われてみれば、二枚は午前九時、残る一枚は九時半になっている。


「……失礼しました」

「気づかなかったのか?」

「いいえ。修正するつもりで、後回しにしていました」


 青年がわずかに眉を上げる。


「後回しに?」

「委員長の確認印が必要だったので。いただけないまま、今朝になってしまっただけです」


 会議室のあちこちで、気まずそうに視線が泳いだ。

 副委員長のマーカス様が、咳払いを一つする。


「で、では、今ここで決めてしまえばよいのでは」

「ええ。搬入担当は九時には動き始めますから、閉鎖も九時で統一すべきです」


 私がそう言うと、青年はうなずいた。


「異論はない。生徒会への提出書類も、九時開始で統一しておこう」

「助かります」


 彼はそこで一拍置いてから、机の上の進行表へ目をやった。


「ところで、この会議の進行役は本来誰なんだ」

「……実行委員長はアルフレッド様です」

「本来、という言い方をしたはずだけれど」


 室内がしんと静まり返る。

 誰も答えないまま数秒が過ぎ、それからマーカス様が観念したように口を開いた。


「現在は……実質的に、エレノア嬢が」

「なるほど」


 その一言だけで、青年はそれ以上何も追及しなかった。

 けれど追及しないことそのものが、妙に冷静だった。

 見て、判断し、必要以上には踏み込まない。そういう種類の人なのだろう。


「確認は以上だ。邪魔をしたね」


 彼は私のほうを見て、ほんの少しだけ口元をゆるめた。


「書類の修正、無理のない範囲で」

「……はい」


 それだけ言い残して、青年は会議室を出ていった。

 扉が閉まると同時に、誰かが小さく息をつく音がした。

 張っていた糸が、ようやく一本ゆるんだような空気だった。


「では……議題に戻りましょうか」


 私が口を開くと、みなは救われたようにうなずいた。

 会議はそのまま何事もなかったように進み、結局、予定していた確認事項はほぼすべて片づいた。

 終了の鐘が鳴る頃には、配布資料の端に書き込まれた修正点まできれいに整理されていた。


「助かりました、エレノア嬢」

「本当に。委員長がいらっしゃらなくても、あなたがいると安心です」


 最後にそう言ったのは、会計担当の上級生だった。

 悪意はない。むしろ純粋な感謝なのだろう。だからこそ、胸のあたりに薄い紙を何枚も重ねられるような重さが残る。


 私はいつものように微笑んだ。


「お役に立てたなら何よりです」


 その言葉まで、驚くほどなめらかに出てきた。


 会議室を出ると、廊下には昼前の明るさが満ちていた。

 窓の外では、中庭の花壇を囲んで下級生たちが笑いながら装飾用の花を選んでいる。遠くで誰かが呼ぶ声、靴音、布の擦れる気配。創立祭前の浮き立つ気配は、私一人の気分など待たずに、学園じゅうを軽やかに流れていく。


「エレノア様」


 呼び止められて振り向くと、先ほどの下級生の少女が、申し訳なさそうに封筒を抱えて立っていた。


「また?」

「その……使いの方が、どうしても今のうちにと」


 受け取らなくても中身は分かった。

 封蝋の刻印も、紙の質も、見慣れてしまっている。


 私は礼を言って封を切る。

 几帳面な筆跡が、いつもと同じ調子で並んでいた。


――打ち合わせを任せきりにしてしまい、すまない。リディアの熱がまだ下がらない。君なら滞りなく進めてくれると分かっているが、どうか無理はしないでほしい。埋め合わせは必ずする。


 そこまで読んで、私は思わず目を伏せた。


 君なら滞りなく進めてくれると分かっている。


 以前はその文句に、少しだけ救われていた気がする。

 信頼されているのだと、自分に言い聞かせることができたから。

 けれど今は、紙の向こうから聞こえてくる声音があまりにもはっきり分かってしまう。


 君なら大丈夫。

 君ならできる。

 君は聞き分けがいいから。


 その全部が、私の手を借りるための都合のいい言葉だったのだと、今なら分かる。


 ふいに、去年の冬のことを思い出した。

 王宮図書館から特別展示の許可をもらうため、私たちは本来なら二人で学外の説明会へ出るはずだった。けれど当日の朝、アルフレッド様はやはりリディア様の体調不良を理由に現れず、結局私は一人で馬車に揺られ、慣れない相手に頭を下げ、展示責任者としての説明まで肩代わりした。


 あの日の帰り、さすがに少し疲れた顔をしていたのだろう。

 事情を知らない図書館司書の老婦人が、控え室で温かい茶を淹れてくれた。

 そして、「お一人でよく頑張られましたね」と言ってくれた。


 たったそれだけの言葉に、どうして泣きそうになったのか。

 今なら分かる。

 私はあのとき、頑張ったことより、当たり前に一人にされたことを、誰にも見えていないと思っていたのだ。


「エレノア様?」


 下級生の少女が、おそるおそるこちらをのぞき込む。

 私ははっとして、封筒をたたんだ。


「ごめんなさい。少し考えごとをしていたわ」

「お顔の色が……」

「平気よ」


 平気。

 そう口にしようとして、わずかに喉が詰まった。

 平気なのではない。平気にしてきただけだ。


 私は封筒を持つ手に少しだけ力を込め、それから、できるだけ穏やかな声で言った。


「ありがとう。もう大丈夫だから、持ち場へ戻って」

「はい……失礼します」


 少女が去ったあと、私は廊下の窓辺へ歩み寄った。

 中庭では風にあおられた花びらが、日差しの中を淡く舞っている。どこまでも明るく、浮き立つような春だった。


 なのに心の中だけが、妙に澄んでいた。

 曇りが晴れた、というのとも少し違う。長いこと水底に沈んでいたものが、ようやく輪郭を取り戻したような感覚だ。


 たぶん私は、もう知ってしまったのだ。

 アルフレッド様は優しくないわけではない。

 ただ、その優しさが私へ向けられることはきっとないのだろう。

 少なくとも、彼の中で私は、気遣うべき誰かではなく、頼っても崩れない仕組みの一部になってしまっている。


 それが分かってしまった以上、もう以前のようには微笑めない。


「……降りましょう」


 誰に聞かせるでもなく、私は小さく呟いた。

 その一言は驚くほどすんなり胸に収まった。


 この人たちの作った美しい物語から。

 聞き分けのいい婚約者という役から。

 委員長不在でも黙って会議を成立させる、便利な補佐役から。


 どこまでを一度に手放せるかは、まだ分からない。

 婚約を解消するには家同士の話もあるし、創立祭を目前に控えた今、すべてを放り出せば迷惑がかかる人が多いことも分かっている。


 でも、少なくとも。


 私はもう、彼の欠席を当然のように埋めない。

 彼が確認すべき書類を、黙って通したりしない。

 「君ならできる」と差し出された仕事を、笑って受け取ったりしない。


 それだけで、世界は少し違って見えた。


「――いい決意だと思う」


 背後から落ちてきた声に、私は肩を震わせた。

 振り返ると、先ほど会議室へ現れた青年が、廊下の柱にもたれるように立っていた。いつからそこにいたのか分からない。手には数冊の帳簿と、巻いた掲示用紙を抱えている。


「……聞いていらしたのですか」

「最後の一言だけ」

「それはほとんど全部です」

「違いない」


 彼は悪びれもせず答え、それから手元の帳簿を少し持ち直した。


「盗み聞きの詫びに名乗っておこう。高等科三年、生徒会書記のユリウス・ベルナールだ」

「……エレノア・フォルナーです」

「知っている」

「そうですか」


 短いやり取りのあと、不思議な沈黙が落ちた。

 気まずいはずなのに、なぜか息苦しくはない。

 たぶん彼が、慰めるでも励ますでもなく、ただ事実としてそこに立っているからだ。


 ユリウス様は窓の外へ一度だけ視線を流し、淡々と言った。


「君はたぶん、限界まで丁寧に降りようとするんだろうね」

「そうかもしれません」

「君らしいけれど、あまりおすすめはしない」

「なぜですか」

「丁寧に降りる人ほど、周りはその丁寧さに甘えるからだ」


 私は思わず彼を見た。


 その言葉は、慰めではなかった。

 けれど、だからこそ妙に正確だった。


「……ご忠告、ありがとうございます」

「忠告というより観察かな」


 彼はそこでわずかに口元をゆるめた。


「創立祭が終わるまでの三日間だけでも、委員長の確認が必要なものは本人へ戻すべきだ。君が埋めるから、あの席はいつまでも空のままで済んでしまう」

「それでは、滞るかもしれません」

「滞ればいい」


 あまりにもあっさり言われて、私は言葉を失った。


「滞って困るべき人が困らない限り、仕組みは変わらない。書類の時刻違いだって、本来は委員長が気づくべきものだろう」

「……そう、ですね」

「もっとも、君がそれを選べない気持ちも分かる。君は優しいからではなく、たぶん、物事が崩れる音が嫌いなんだ」


 図星だった。

 私は本の頁が破れる音も、何かがきれいに収まらなくなる瞬間も、昔から少し苦手だ。だから隙間があれば埋めてしまうし、歪みがあれば指でならしてしまう。


 彼はそれを見抜いたように言う。


「だが、壊れるべきものまで支える必要はない」


 その一言は、静かだった。

 静かだったのに、胸の奥へまっすぐ落ちてきた。


 私は窓辺の封筒を見下ろし、それから小さく息をついた。


「……覚えておきます」

「そうするといい」


 ユリウス様はそれ以上踏み込まず、持っていた掲示用紙を軽く持ち上げてみせた。


「私は本当に仕事に戻る。君も、次の仕事があるだろう」

「ええ」

「ああ、それと」


 数歩進んだところで、彼は振り返った。


「図書塔の閉鎖時刻、君の案でいい。記録係殿」

「……ありがとうございます」


 彼が去っていく。

 磨かれた床を踏む足音は、しばらくして春のざわめきに溶けた。


 私はその場に一人残り、胸の中に残った言葉を反芻する。


 滞ればいい。

 壊れるべきものまで支える必要はない。


 どちらも、私の辞書には長いこと載っていなかった文だ。

 けれど、だからこそ必要だったのかもしれない。


 午後の確認作業のために図書塔の小部屋へ戻ると、机の上には朝から積み上げた書類がそのまま残っていた。進行表の控え、申請書の写し、席次の変更一覧、そして、委員長の確認印が必要なまま止まっている数枚の書類。


 私はそれらを前にして、しばらく立ったまま指先を見下ろした。


 これまでは、ここで迷わなかった。

 不足があれば補い、遅れがあれば先回りし、確認が必要なら、できるだけ相手の手を煩わせない形へ整えてから差し出した。

 そうして滞りなく進むなら、そのほうがいいと思っていたから。


 けれど今は、その“滞りなく”の中に、誰がいなくても困らないように私自身が組み込まれてきたのだと分かっている。


 私は椅子に座り、机いっぱいに広げていた書類を二つの束に分けた。


 ひとつは、私の判断だけで今日中に進められるもの。

 もうひとつは、委員長であるアルフレッド様の確認印が必要なもの。


 後者の束は、思ったより厚かった。


 こんなに多くを、私はこれまで「いずれ見てくださるだろう」と都合よく解釈してきたのかもしれない。

 あるいは、見なくても済むように整えてしまっていたのか。


 私は一番上の申請書を取り、右上の余白へ、いつもより少しだけ丁寧な字で書き添える。


 委員長確認未了。保留。


 たったそれだけの一行を書くだけで、胸の奥がひどく静かになった。


 次の紙にも、同じように。

 その次にも。


 委員長確認未了。保留。

 委員長確認未了。保留。


 書き進めるうちに、不思議と手は震えなかった。

 怖くないわけではない。

 明日になれば、困る人もいるだろう。驚く人も、戸惑う人も。もしかしたら、責める人だっているかもしれない。


 それでも、と思った。


 困るべき人が一度も困らないままでは、ずっとこのままだ。

 私だけが静かに埋め続ける物語は、たぶん、ここで終わらせなければならない。


 私は保留の束をそろえ、机の端へ揃えて置いた。

 その上に、明朝一番で副委員長へ共有するためのメモを重ねる。


 そこまでしてから、ようやく小さく息を吐いた。


 窓の外では、傾きかけた陽が図書塔の石壁を淡く染めている。

 朝に見た春の光と同じはずなのに、今は少しだけ別の頁の景色みたいだった。


 私は記録帳を開く。

 本日の欄へ、いつものように丁寧な字で会議の経過と変更点を書き込み、最後に一行だけ、新しく加えた。


 委員長確認印を要する書類数件について、本日付で保留処理。明朝、副委員長へ共有予定。


 書いたあと、その一文をしばらく見つめる。

 たったこれだけのことなのに、胸の奥で何かが静かにほどけた。


 物語を降りるというのは、案外こういう小さな一行から始まるのかもしれない。


 私はペンを置き、閉じた本の表紙にそっと触れた。


 明日になれば、たぶん誰かが困る。

 そしてそのとき初めて、空席のままだった委員長席が、本当に空いていたのだと気づくのだろう。

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