襲撃
咲は陽助が去った後も、しばらくその場で座り続けた。
息はとっくに落ち着き、気持ちも落ち着いた。
逃げている時、怖いという感情が、恐ろしく彼女を襲った。
あの時、少し距離が開いていなかったら、陽助の場所までたどり着けなかっただろう。
もしあの時捕まったかと思うと、ゾッとする。
もしかしたら、さっきあんなことを言ったのは、自分を安心させるためだったのかも知れない。
迷うところなんてなかった。
彼女の手には、小さな小包。それは先程陽助に渡されたもので、中には十つの爆弾が入っているらしい。
このまま何も力を与えないのは危険だと、陽助が判断したからだった。
好奇心から小包を開き、中を覗いた。中には確かに十粒の玉が入っていた。
紅の玉は、夜月に照らされ、紅く輝く。それがとても美しかった。
大きさは、ビー玉ほど。
こんなものに破壊力があるのか、咲には到底信じられなかった。
試しに一つ投げてみようと思ったが、止めた。
周りにまだいるかも知れない。
……人間捕獲のプロが。
あの男達は下の下だろうか。
最近、夜十一時以降に町を彷徨く人々が消息を断つという事件が発生している。
家の中にいる人は無事なのだが、外にいる人は外にいる人は危険だ。
警察もその犯人を追っているのだが、未だに捕まらない。
何か、特殊な装置でも使っているのか、それとも、単に逃げ足が早いのか。
犯罪をしているのは、何かの組織のようで、世界中で同じような事件が起こっている。
そんなことを、月明かりだけが頼りの路地で考えた。
「あ、どこの学校に通っているのか聞くの忘れた……」
咲が今日、夜に来た理由はこれだった。
昼でもよかったが、夜の方が聞きやすい気がした。その途中でさっきの犯罪グループに襲われた。
今から聞きに行けるが、そこまでの度胸はなかった。
さっき、危うく捕まりかけたばかりである。
幸い、ここは家に近く、五分も歩けば帰れる。
「はぁ……」
溜め息を吐きながら、咲は歩き出した。
なぜ、陽助がこんな危険なものを持っているのか、疑問すら持たずに。
***
朝、午前八時半。
空はどんよりと灰色の厚い雲が覆う。
傘を持っていったほうがよかったのかもしれない。
外出など、滅多にしない咲が家から飛び出すのは、基本、一つのことに決まってくる。
遅刻。
「ああ、もう! 私のバカ!」
そんなことを叫びながら、長い道を走る。
そんな彼女に驚く通行人はいない。この時刻は仕事やら、家事やらで忙しいのだろう。
咲の通う高等学校までの距離は、それほど遠くはない。
ただひたすら走る。途中、視界の端に、陽助の姿が、寝ている姿が入った。
それを羨ましく思いながら、走る。
結果、間に合わなかった。
朝のホームルームはとっくに始まった。
「お前が遅刻なんて、珍しいな。下の職員室で遅刻届け書いてから来なさい。」
優しくて、生徒の中でも人気が高い、担任の先生が苦笑を顔に浮かべながら言う。
ここは三階の一年生の教室。
職員室は一階。駆け上がってきた階段を、咲はトボトボと降りた。
この学校のことを、咲はあまりよく思っていなかった。
自分を苛める生徒、見て見ぬふりをする生徒、それに気付きすらしない大人。
苛められる原因の一つは、その美貌。
誰もが息を飲む美しさに、男子生徒のほとんどは全員、彼女に釘付けになっている。
その好意の裏返しのものが、女子生徒の苛め。
同じクラスのほとんどの女子が、彼女に暴行を加える。
地味な嫌がらせから、派手なものまで様々。
その次の原因は、優しい性格。
女神のような優しさを皆見せつけられ、誰かが傷付けられたなら、敵わぬ相手と知りつつも、勇敢に仕掛ける。
仕掛けると表したが、その内容はいつも違う。勿論、その中には殴り合いの喧嘩もある。
しかし、その弱い優しさは、誰も救えていない。
全敗、自分から仕掛けておいて、勝ったことは一度もなかった。
善意でやっているのに、それのせいでまた、偽善ぶっていると言われ、苛められる。
まさに負の連鎖。それでも彼女は精神を強く保とうとした。
結果、崩れた。彼女は表面的な優しさだけ見せ、人間から逃げるようになった。
弱気になった彼女に追い討ちを掛けるように、女子生徒の苛めは過激さを増す。
昨日、陽助と会った日なんて、掃除後のバケツの水を掛けられた。
お陰で服もびしょ濡れ、代えもなかったので、そのまま帰った。
多分、下着は見えていたと思う。
男子生徒の、哀れむような目に混じって、ジロジロと見詰める男子もいたから。
そんなことを授業の終わりに窓の外を見上げながら考える。
陽助にも、当然見られていただろう。
そのことを今更になって気付くと、身体が暑くなった。
誰に見られても恥ずかしくないのに、彼には見られたくない。そんな感情。
(不思議だなぁ)
そんな感情を、他人事のように考えた。
ここは窓の近くの角にある特等席。
「おい、星空! この問題分かるのか!」
突然、教師の声が自分に飛んだ。
咲が、慌てて立ち上がると、黒板に書かれていたのは、理解不能の方程式。
「えっと……分かりません」
顔を伏せがちに答える咲に、教師の声が飛ぶ。
「分からないのなら、もっと授業に集中しろ。お前はワースト五位のランキングに入っているんだぞ!」
「……はい」
クラスの中からクスクスと笑い声が聞こえる。
それは伝染するように広がっていき、やがてクラス全体が笑い声に包まれる。
「授業中だぞ!」
教師の一言で、笑い声は止む。
この笑い声が、自分に対する嘲笑なのだと分かっていながら、咲は席に座った。
勿論、こんなことは慣れている。
なのに、涙が溢れそうになったのは、なぜだろうか。
放課後、咲は特に嫌がらせをされることなく、校門を出た。
こんなことは珍しい。必ず、誰かが仕掛けてくるのに。
「でも、まあいいよ。気にしないで行こう」
自分に言い聞かせるように、呟く。
パンパンと頬を叩いて、胸に宿る不安を押し込む。
残念ながら、この不安は、すぐに現実の形になる。
咲が帰り道を歩いている時、突然、背筋に寒気がした。
驚いて後ろを振り返ると、何もいない。
自分の気のせいか、過剰反応しすぎたのか。でも、そうなると今のは一体……
咲がそう考え、足を進めていると、いつもの川原の道に出た。
だが今日は、陽介の姿が見えない。
「どこかに出かけてるのかな?」
咲はこの前転んだ時のことを思い出し、慎重に、坂を降りる。
誰の姿も見当たらない。
だが、先程の寒気が再び背中に走った。
瞬間、何者かに口を塞がれる。
「…………ッ!」
声を出そうにも、その大きな手で口を塞がれ、息さえもできない。
何とか逃げ出そうともがくが、男の力が弱まる気配はない。
次第と酸欠になり、目の前が眩む。
(そうだ……爆弾……)
朦朧とする意識の中で、ポケットの中に直接入れていた、紅の玉を取り出す。
後ろにいるであろう男の顔面の位置を、予測しながら投げた。
すると、頭の上より少し後ろの位置で、小さな爆発音。
咲を抑えていた巨大な手が崩れ落ち、咲もまた、膝から崩れ落ちる。
「はぁ……はぁ!」
荒く呼吸し、なんとか酸素を取り込み、立つ。
まだ油断してはいけない。昨日は五人いた。
しかもこの男は、いきなり姿を現した。何かの装置を使っているのか、それ以外か。
ふと男の顔を見てみると、酷い火傷を負っている。
痛々しく爛れた皮膚が、爆弾の威力を理解させてくれる。
男を見ていると、早かった心臓の鼓動が、さらに早くなる。
これを自分でやったことが、信じられなかった。
呆然と立ちすくむ少女の背筋に、冷たい感覚。
身体が小刻みに震えるのを感じる。
少女はそれを抑えるために、無言で駆け出す。ただ後ろを見ただけだと分からなかったが、走る足音は聞こえる。
たまに音が重なる。
当然、一人のものではない。
恐らく、ニ、三人のものだろう。
昨日と同じように、住宅街に向かって走る。足跡も彼女を追ってついてくる。
まず、最初の曲がり角で、小型爆弾を落とす。
角で死角となったその場所へ、危険とも知らずに足跡が曲がる。
瞬間、爆弾が爆発。規模はさっきよりも大きく、大の大人を飲み込むくらい。
その爆発が収まった後に、空気が揺れる。
徐々に姿を見せていく男の姿は、スーツだった。
立ったままの男を支えていた足が崩れ、膝をつく。そのまま、俯せに倒れた。
だが、そんなことを気にできる咲ではない。冷静さを欠いている彼女は、呆然と立っているであろう男達に攻撃を仕掛けなかった。
理由は、怖いから、だけだ。
そもそも逃げるのが目的の、この戦いで、無駄に怪我人を出す必要はない。
要は、逃げ切ればいいのだ。
簡単で、難しい内容。少女には、少し無理がある。
二つ目の曲がり角で、少女は再び爆弾を仕掛ける。
しかし、相手も馬鹿ではない。少し距離を開けたようで、誰も突進してこない。
地面に落ちた爆弾は、水に波紋を残残すように地面に入り込むと、爆発した。
まるで、地雷が爆発したように、地面が弾け飛ぶ。
凄まじい音と共に。
少女は、爆発と同時に走りだし、ある物陰に隠れた。
路地から大通りに出たところに止めてあった、トラックの後ろ。
簡単に見つかってしまいそうだが、それでもよかった。
ただ、相手を驚かせられるだけの隙が欲しい。
ドクン、ドクンと自分の心臓が波打つのを感じる。走って乱れた呼吸を、何とか小さくする。
車が通るこの大通りでは、足音は聞こえない。
だが、少女には彼等を確認する方法がある。
それは、視認。
人通りの多い場所で、消えたり現れたりを繰り返せば、人目を引くに決まっている。
人目を引きたくない犯罪者達は、その機能を解くしかなくなってくるはずだ。
爆弾は、念じればある程度、威力を調整できるらしかった。
その中でも最弱を、男の顔面にぶつける。あまり自分も目立ちたくなかった。
凶器を持っているのを見られたら、警察に通報されるかもしれないからだ。
問題は、男が左右のどちらから来るかどうか。
それを見極めるべく、咲はトラックの真ん中の位置で、軽い体重を預けていた。
相手も自分を警戒している。いきなり突っ込むなどということはしないだろう。
咲は、走ってきたことと、その美貌のせいもあるのだろう、注目の的だ。
もう、隠れている意味などないだろう。咲は、いつまで経っても現れない男達に苛立ち、走り出す。
目標は、また曲がり角の多い住宅街。やはり、そこでの戦闘が、逃げるほうにとっては有利だ。
だが、今回は足音が聞こえない。
振り返っても、誰もいない。
「あ、あれ……?」
視認確認は頼りにならないが、足音がしないのは不思議だった。
もう、自分のことを諦めたのか、そう思った。
ポツリと、顔に滴が当たる。
「雨?」
空を見上げると、少しだが、確かに雨が降り始めていた。少しずつ、強まっていく。
咲は、今来た道を通らずに、遠回りして帰ることを決めた。
まだ周りを警戒し、いざとなったとき、走り出せるように、体力を温存して歩く。
だが、その対策も、無駄に終わる。
突然、再び、背筋がゾッとした。
駆け出そうとした時、転んだ。
本当に、ついていなかった。足元にまで集中する余裕がなかったというのも事実だが。
慌てて立ち上がった時、何もいないはずの後ろから、首を捕まれた。
そのまま締め上げられ、足が少し浮く。
「う……あ……」
右手をポケットに突っ込もうとすると、その腕も捕まれた。
もう、完全にお手上げだ。
こうなっては、非力な少女は何もすることができない。ただ、気を失うのを待つだけ。
「…………」
雨が、強く降り始めた。身体は、どんどん動かなくなっていく。
自分の首を掴んでいる手を掴めたが、解けるわけがない。
意識がどんどん遠くなっていく。
ああ……もう……死んじゃうんだ。
そう思った時
首を絞めていた、腕が解けた。
咲は足から着地できたが、身体を支えるほどの力は残っていない。
そのまま、地面のコンクリートに頭をぶつける。
荒く、呼吸をする。身体が動かない。恐怖と、身体のダメージからだろう。大人しくしておくことにした。
横でも、人が倒れる音。それは、数人分。
身体を強引に動かし、上を見上げると
空を飲み込む黒雲と、一人の少年の姿が目に映った。
その姿を見るだけで、とても安心した。
「ほら、立てる?」
少年の差し出した、手を取り、やっとの思いで立ち上がる。
「ぁ……」
それでも、バランスを崩して、少年にもたれ掛かってしまう。
慌てて身体を動かそうとしても、全く動いてくれない。
いくらなんでも、首を絞められただけでこんなになるとは思わなかった。
「あの爆弾は、一回使うごとに魂の力を使うんだ。魂の力っていうのは、なくなれば死に、使わなければ回復する。君は、それの半分以上使っているね。身体を動かせないはずだよ」
そんな困惑気味の彼女に、少年は優しく説明する。
「いいんだよ。このままでも、泣いても。僕は馬鹿にしたりしない」
最後にそう付け加える。
空から落ちてくる大量の滴、それは彼女の目から溢れる滴を打ち消し、ただ、降り続ける。
少女の鳴き声だけが、静かな川原に響く。




