街の混乱
いつの間に病気が感染症であるという噂話が広がったのか。
まったくの誤解である。
私はずっと看病していたが、病気にかかっていない。
それにエルツ様も感染症の可能性は極めて低い、と言っていたのだ。
逃げゆく人々に向かって私は叫ぶ。
「謝肉祭をきっかけにした病気は、移るものではありません!」
「うるさい!!」
男性に突き飛ばされ、その場に転倒してしまう。
『ベアトリス様!!』
「だ、大丈夫です」
モモを安心させるため、すぐに立ち上がった。
気がつけば私の周囲にはたくさんの人達がいた。
「この女が、謝肉祭の病気は移らないなんて、適当なことを言うんだ!」
「患者を抱える家族じゃないのか?」
「だったら、この女も感染しているはずだ!」
なんてデタラメな主張をするのか。すぐに否定をする。
「私は患者さんを看病していましたが、至って健康です」
「信じられるものか!」
私を囲む人々の中の一人が、手にしていたリンゴをこちらに投げるように振りかぶる。
しかしながら、別の方向から悲鳴にも似た叫びが聞こえたので、リンゴが飛んでくることはなかった。
「こいつ、咳をしているぞ! 病気に感染しているんだ!」
すると、蜘蛛の子を散らすように私の周囲にいた人々はいなくなる。
「いったい……どうしてこんなことに?」
まるで煉獄に堕ちた者達を描いた絵画のような、阿鼻叫喚の様子が広がっている。
どうしたらこの騒ぎを収めることができるのか。
きっと私がイーゼンブルク公爵であり、魔法薬師だと言っても信じてもらえないのだろう。
絶望しかかった瞬間、馬車から純白のドレスをまとった女性が出てきた。
その女性はシスターの法衣を華やかにしたような装いで、顔はベールに覆われている。
続けて馬車から降りてきたシスターが突然叫んだ。
「聖女様のおなりだ、静まれ!!」
皆の注目が、聖女と呼ばれた女性のもとへ集まる。
同時に、咳き込んでいた者が法衣をまとった青年の手によって聖女のもとへ連れていかれた。
激しく咳き込みながら地面に伏す患者に、聖女はしゃがみ込んで話しかける。
「あなたは謝肉祭で病気を患った人ね?」
その声を聞いた途端、胸がどくん! と嫌な感じに脈打つ。
聖女の声に聞き覚えがあったのだ。
それはオイゲンと共に離婚承諾書を突きつけた女性ヒーディ。
けれども心の中で否定する。彼女――ヒーディが聖女なわけがない。
ヒーディはオイゲンとの婚約破棄をしたあと、修道女へ身を寄せることとなった。
今頃出産し、療養しているころだろう。
「私が、あなたの病気を回復してみせましょう」
聖女の発言を聞いた途端、ワッと歓声が沸く。
病気については原因などは追及されておらず、奇跡の力で治るものでもない。
いったい何を言っているのか。
聖女は腰ベルトからぶら下げていた鞄から瓶を取り出す。
その瓶には見覚えがあったので叫びそうになった。けれども口から出る寸前で、ごくんと飲み込む。
聖女が手にしていたのは、イーゼンブルク公爵家から盗まれたエリクシールが入った瓶であった。
「あれは、私の調合した――」
私の声は周囲の歓声でかき消された。
掲げられたエリクシールは、エメラルドのごとく光り輝いている。
それを見た人々は、奇跡を目にしたようにうっとりと見入っていた。
あの瓶は特注で頼んだもので、特別な細工が施されているのだ。
さらに私が作ったエリクシールはエメラルドのような輝きを放っていた。見間違えるわけがない。
「さあ、どうぞ。飲んで」
聖女にエリクシールを飲まされた患者は、ごくんと飲んだ瞬間ハッとなる。
「な、なんだこれは! 先ほどまで喉が焼けるように熱かったのに! 咳も止まった!」
再度、ワッと歓声が沸く。
奇跡を目の当たりにした人々は、聖女に向かって拍手していた。
聖女が手を挙げると、風が吹く。ベールが飛ばされ、聖女の顔が露わとなった。
ブルネットの髪に琥珀色の瞳を持つ美しい女性――見間違えるわけがない。
聖女はオイゲンの元妻であるヒーディだった。
イーゼンブルク公爵家の屋敷から魔法薬を盗み出したのは、どうやら彼女だったようである。
ここで彼女を盗人だと糾弾するつもりはない。
人々の熱気を見るに、彼女を聖女だと信じ切っているようだから。
もしも私が彼女を責めるようなことを言えば、逆にこちらが悪者扱いされるだろう。
それにしても、エリクシールを悪用するなんて許さない。
エリクシールの回復力で一時的に症状は軽くなっているようだが、しばらく経てば症状がぶり返すだろう。
エリクシールは傷の回復などに特化する魔法薬で、病気を治す力なんてない。
病気で苦しむお祖父様の苦しみを和らげる目的で調合したものなのだ。
その後、患者は教会にある療養施設へと連れていかれた。きっと奇跡の力が偽りであると口外させないために、閉じ込めておくつもりだろう。
聖女――ヒーディは皆に声をかける。
「病気など恐れることはないわ! 奇跡の力で、収めてみせるから!」
盗んだエリクシールの数は限られているというのに、どうやって奇跡を見せるというのか。
「奇跡は神を信じる者だけに訪れるものなの。私は中央街に新しくできたスズラン教会にいるから、みんな祈りにきて」
そんな言葉を残し、ヒーディは転移の魔法巻物を使って姿を消した。それすら、人々には奇跡の力を使ったように見えたようだ。
残った人々は声をあげる。
「聖女様、万歳!!」
患者を恐れて逃げ回っていた人々の表情が、希望に満ちる。
騙されて気の毒だが、皆、聖女の奇跡に熱を上げていた。
今は何もせずに、ここを去ったほうがよさそうだ。
モモと一緒に、路地を通ってイーゼンブルク公爵家の屋敷に移動したのだった。
◇◇◇
イーゼンブルク公爵家の屋敷にいる患者の様子は、相変わらずであった。
ただ、ここにくる前よりはよくなった、と看病をしていた下町の人達が教えてくれた。
私が考案した魔法スープのおかげだと言う。レシピを料理人達に託してよかった、と思った。
屋敷で働く者達には、街は混乱状態にあるため、なるべく外出を控えたほうがいいと伝えておく。
執務室の机に山盛りになっていた書類の決裁を終えてため息を吐いていたら、エルツ様の訪問が知らされた。
急いで客間へ行くと、腕組みし険しい表情を浮かべるエルツ様の姿があった。
「その、お疲れのようですね」
「いいや、疲れているというより、頭が痛くなるような話を聞いたのだ」
それは聖女についての話題だった。あとで話すつもりだったが、それよりも先にモモが報告してくれたらしい。
「ビーの調合したエリクシールを患者に飲ませて奇跡がどうこうと、ふざけたことをぬかす者が現れたようだな」
「はい……」
「その女がビーが作った魔法薬を盗んだというわけか」
「おそらくですが」
さらに聖女がオイゲンの元妻だと言うと、エルツ様は怒りを露わにする。




