三、シスターズ(distance)
結果から言えば、春子さんの運転は上手と言ってよいものだった。少なくとも、大学に入学してから何回か乗った、先輩方の運転に比べれば、安心出来る走りだった。(逆に言えば、これ程に上達するまで、何年前から春子さんが運転をしていたのか気になる所だ)
道中聞くところによると、春子さんは毎日この車で学校に通っているらしい。この島は日本国の法律が通用しないのだろうか。
まぁ、私が気にする事ではないか。郷に入っては郷に従う事としよう。ましてや相手が郷の支配者だと言うのならば尚更だ。命は惜しい。
特に危なげもなく、私達を乗せたまま十分程車が走ると、島のシンボルとも言える、早馬神社の鳥居の下まで着いたのだった。
「はーい、ここで降りてください」
車は鳥居をくぐること無く、その直ぐ側に駐車された。鳥居の奥に見える社がまだ遠く、また、そこまでの道のりが、車が走れるほどには十分に舗装されていることを考えると、ここで車から降りたのは、此処から先は神域であるという事か。
ふと、船から見た人影を思い出し、鳥居の上に視線を向けるが、そこには虚空の闇が広がっているだけだった。カラスすら止まっていない。やはり見間違いだったか。そもそも、高さ十メートルはあろうかという、大理石の円柱をよじ登れる人間がいるとは到底思えない。いるのならば、こんな島からは早く出て、日本の体育会に貢献するべきである。
「……何か不気味な所だな」
赤目が私にだけ聞こえるように囁く。なんとも失礼な言い草だが、なるほど確かに、私も知識としてしか知らない早馬神社だが、その歪な歴史を感じさせるだけの、現し世と隔離された異質さは、十分に備えていた。
元々日本の神は須く神聖なものという訳ではない。悪神もいれば、汚れ神もいるというのが日本の宗教観だ。もっとも、この早馬神社に祀られている神に関して言えば、自分に仕える巫女に、島一つを支配するだけの力を授けるのだから、中々に尊い出自ではある事だろう。もっとも、聞いているだけの知識で言えば、今はその巫女が現人神そのものとなっているようだが。成り果てていると言った方が良いか。
「足元暗いですから気を付けて下さいね」
山の中だからだろうか、港に居た時と比べると、影はすでにより濃い闇に塗りつぶされ、周りはもう夕方から夜へと移ろっていた。
しかし社までの参道は灯籠で明るく灯され(灯籠が本来の使われ方をしているのを初めて見たかもしれない)、その間を歩く春子さんは、巫女装束も相まって、この世のものとは思えない幽玄さを湛えている。
私と赤目も慌てて荷物を持ち、その後ろを追いかける。そこまでの長期滞在を予定していなかったので、荷物は赤目のバットを除けば、二人共リュック一つずつだ。
春子さんには車の中で、「意外と荷物が少ないんですね」と言われたが、私はそんなに衣装持ちにでも見えたのだろうか。それとも何でも持ち歩く心配症か。私はどちらかと言えばミニマリストだ。このリュックに私物のほぼ全てが詰まっていると言っても過言ではない。今、私の下宿が火事になって、私の部屋が黒墨と化したところで全く困らないだろう。
社に近づくとその後ろに日本家屋が建てられている事に気が付いた。春子さんはこちらに住んでいるのだろう。当たり目といえば当たり前である、神社は神様の住むところだ。
家屋は高さこそ社より目立つ訳にいかないからだろう、社よりも低いものとなっているが、それでもそれなりに大きな平屋だ。今にも中から陽気な主婦が飛び出してきて、じゃんけんをしてきそうな佇まいである。
立派といえば立派であるが、島の支配者が住むには思いの外普通の民家であるので、どうリアクションを取れば良いのか分からない。先程からこの島、早馬神社、ひいてはこの柊一族に対してどんなスタンスで臨めば良いのかを掴みきれない。足場が覚束ない。春子さんも美少女ではあるが、中身は少々常識知らずである事を除けば、どこにでもいる普通の女の子というのが、ここまでの道中で下した私の春子さんへの評価である。
「さぁさぁ、入ってください」
と、春子さんが玄関の戸を開くのが早いか遅いかのタイミングで、ドタドタと足音が通路の奥から響いてきた。
そして、私達が柊家に足を踏み入れるより先に、その音の正体が私の隣の赤目へと跳びかかった。
「ぐえっ!」
結果として、赤目が敷居をまたぐことは無かった。その影の体当たりをまともに腹に食らった赤目は再び夕闇へと消えていった。
「いらっしゃーい! 小夏はずっとずっと待ってたよ! これからずっと一緒だよ!」
赤目を吹き飛ばし、倒れた赤目の腹に座り込む影の正体は、春子さんを二回りほど小さくしたような少女。
「こら、小夏! 離れなさい! お客様に失礼でしょう!」
ヒョイッという擬音が似合うかのように春子さんに持ち上げられる様子は、まるでやんちゃ盛りの子犬を彷彿とさせる。
「うちの妹が失礼致しました。ほら、小夏、ちゃんと挨拶して」
「だってー、ずっと楽しみにしてたんだもん、ごめんなさい……。では、改めまして、柊小夏です! 中学二年生です! 二人のことは聞いてるよ! 研究者さんなんだよね? 凄いね! えーと、この倒れてる大きい人が鬼ヶ島さんで、綺麗なあなたが榎さんだよね? よろしくお願いします!」
終始ハイテンションで話かけてくる、春子さんの妹と紹介されたその少女は、今も春子さんの腕の中でうごめいている。止まると死んでしまうのだろうか。
それにしても綺麗と言われてしまった。なんだか照れる。それに研究者でも無いのだが、少々思い込みの激しい子なのかもしれない。
目鼻立ちというか、全体の顔立ちは春子さんに似て、整い過ぎているという程に整っている。ただ、その顔は小麦色に焼けており、彼女が常日頃から元気に野山を走り回っているのだろう事を想像させた。髪も日に焼けたからだろうか、傷みから色が抜けており、少し茶色くなっていた。
服装も普通の少女らしいキャミソールにキュロット。それもあってか、春子さんから感じた様な異質さ、幽艶さをこの少女に感じ取ることは出来ない。
なので、私は自分から、
「こちらこそ、よろしくお願いします、小夏ちゃん。その通り、私が榎夏木、夏木でいいよ。そっちの大男も赤目でいい。可愛い女の子に出迎えてもらえて、私も嬉しいよ」
と、歯の浮くようなセリフを並べて、自ら握手を求めるのだった。
「うん、うんうん! よろしく! よろしく! よろしくだよ! 今日は嬉しいなぁ~、家族が二人も増えちゃった!」
この子には警戒心というものが無いのだろうか、差し出した手を腕ごと捕まれぶんぶんと振り回される。きっとこの子は、小さい頃よく、おもちゃを壊したことだろう。もしかしたら今もかも知れない。
そして私は、少女に手を取られるまま、家の中に引き釣り込まれる。右へ左へと揺さ振られながらだが、幸い廊下が大変広い為に壁にぶつかることは無い。この廊下だけで私の下宿よりも広いのでは無いだろうか?
赤目は春子さんに抱えられるように、私の後ろをヨタヨタと付いて来る。まだ意識は戻らず、反射だけで歩いているようだ。情けない奴だと笑うことは出来ない。今そのパワーを私は身を持って味わっているのだから。
「こら、夏木さんをどこに連れて行く気ですか?」
「小夏の部屋、一緒に遊ぶの」
こともなげに応える小夏ちゃん。そうか、今から私はこの子のおもちゃになる所だったのか。
「ダメです、まずは居間にお通ししなさい」
え~!と、一瞬不貞腐れたものの、小夏ちゃんが大人しく進路を変えた所を見ると、ちゃんと姉の言う事は聞くようだ。春子さん、意外と厳しいのかもしれない。
そして、一際大きな襖の前で立ち止まると、
「秋名ー! 入るよー!」
と言って襖を開いた。その先には、大きな畳敷きの居間に、大きなちゃぶ台、そして小さな少女が大きな本を抱えて、ちょこんと座っていた。
座敷童子かと思った。
見たところでは、小夏ちゃんよりも更に幼いであろう少女である。しかし、顔立ちこそ幼さの残るものの、その表情、私を見上げる視線からは、年相応のあどけなさは感じられない。座っているのに、見下されているかのようだ。
春子さんと同じ、白い肌に黒い髪。ただその髪の毛は、所謂おかっぱに切り揃えられており、また、服装も日本人形の様な鮮やかな着物を身にまとっていて、まさに想像する通り、そのままの座敷童子といった出で立ちだった。
その少女、もとい秋名と呼ばれた童女はこちらに一瞥をくれると、首だけで会釈をし、一言も発する事無く、再び本へと視線を落とすのだった。
「こら、秋名、ご挨拶くらいちゃんとしなさい」
「挨拶なら……した……」
「首を曲げるだけは、挨拶とは言わないの、ごめんなさい、この子少し人見知りで」
追いついて来た春子さんが、秋名ちゃんをたしなめるが、それもどこ吹く風、次はこちらを見ることも無く、
「秋名は、人見知り……」
と、誰に向けてでもなく、呟くだけだった。私の人生では今のところまだ、こんなに落ち着いて、自分を人見知りだと評する人見知りには、彼女の他に会ったことがない。中々の大物だ。
春子さんも小夏ちゃんも、秋名ちゃんのこの様子には慣れたもののようで、春子さんは「はーっ」と少し深めに息を吐き出すと、
「すみません、今お茶をお入れしますので、しばらくお待ち下さい」
私達をおいて出て行ってしまった。すがるような目で小夏ちゃんを見ると、
「あ! 私も手伝うよ! 行こ! 赤目さん!」
気絶している赤目を引き摺って、その後ろを付いて出て行ってしまった。
結果として、今、この部屋には秋名ちゃんと二人っきりである。
大変に気まずい。
さて、どうしたものか……。
部屋が広い分、静かだと余計に静かさが耳に響く。
そういえば、まだこちらが名乗っていなかった事に気が付いた。これは良い取っ掛かりを見付けたものだと一人で喜んでいたが、しかし、幸か不幸か、それを行動に移す前に、意外にも、秋名ちゃんの方から話しかけてきた。
「あなたは、まるで真昼の暗闇のようだ」
どうやら、不幸の方だったようである。
その声色は、先程までの様なたどたどしいものではなく、強い意志を感じさせるものだった。いや、その言い方は正確では無い。その口調に見え隠れするものは、間違いなく私への敵意だ。
その言葉の意味は分からない。しかし、その声質はまるで氷の様に冷えきり、尖りきっており、真夏にも関わらず背筋に寒いものを感じさせた。
「え?」
「あなたはどうしてこの島にやって来たのですか?」
「なぜって、それは調査で……」
「失礼、質問が適切ではありませんでした。なぜあなたはまだ生きているのですか? なぜこの島まで辿り着けてしまったのですか?」
「……どういう意味かな?」
質問を質問で返す。しかし、残念ながら、私はその意図するところに気が付いていた。いや、ずっと気付かないようにし続けていただけだ。それこそ物心ついた時からずっと。
秋名ちゃんは初対面である筈の私の心をえぐり続ける。
「そのまま二つの意味です。あなたは本来なら、今まで生き永らえている筈も無ければ、また、生きていて良い筈もありません」
「それは、なぜ?」
私は性懲りもなく、気付かない振りを続ける。前述の通り、私は何かを隠すのが上手い、はずだ……。
「大した面の皮の厚さです。その厚い皮の中には何も無い、ただの空洞だというのに。そう、あなたには何もありません。信念、情熱、信条、心情、感情、理念。人を動かす原動力、源となるものが何一つ無い。悪人ですら無い。あなたは何かを隠すのが上手いんじゃない。隠すものを最初から持っていないだけです」
綺麗に輝いて見えるのは外見だけ、その中身には汚物すら詰まっていない。
「だから、私はあなたを真昼の暗闇と評します。なまじマトモに、下手に魅力的に見える分だけあなたは質が悪い。犯罪的ですらある。まるで誘蛾灯です。寄ってきた哀れな虫達を、あなたは今まで何匹焼き尽くしてきたのでしょう。直に連れてきたあの男も、あなたは食い散らかすのでしょう。無から有は生まれません。あなたは何も生み出しません。零は掛けたものを零に引き摺り込むだけです」
だから、あなたは居ない方が良いんです。
その童女は、まるで神託のように一息にそう言い切った。
怒気を孕みながらも淡々とした口調。それを伝えることこそが、自分の使命だと言わんばかりの強い口調。その言葉はとても十やそこらの少女のものではなかった。
「君に……、そんなことを……」
そんなことを……。
……私に、その先を言う事は出来なかった。
言われる筋合いは無い?
それは違うだろう。本当なら自分で自覚していなければならなかった事だ。
それを秋名ちゃんは代わりに教えてくれただけ。むしろお礼を言うべき場面だ。
だけど、言い返したかった。どうしても自分はそんな人間ではないと弁明したかった。
だが、どうしても言葉が出なかった。
そして、そんな私に構うこともなく、なおも彼女は呪詛を紡ぐ。
「せめて、あなたの呪いだけは取り除いておくとしましょうか……」
気休めに過ぎないでしょうけれど、
そう言って、秋名ちゃんは私に顔を近づける。
「私の、呪い?」
私が呪われている?
にわかには信じがたいその言葉。
だが、それを笑い飛ばすことはできない。
そうするには、私には心当たりが多すぎる。
「そうです。呪いです。愛し愛されたものを等しく呪う、反吐が出そうなほどに醜い、あなた自身とも言えるあなたの呪い。それを取り去ってあげましょう」
そう言いながら、秋名ちゃんはその手に持つ本を閉じ、衣擦れの音一つ立てずに私へと近寄る。
間近で見たその目は、まるで塗りつぶされたように真っ黒だった。
いや、違う。
その目は決して平面的ではない。究極的なまでに立体的だ。ただ、その目の奥が見通せない程に深く、暗く、光を発さないために、入った光を逃さないために、まるで深海のごとく、夜空のごとく黒く塗りつぶされた様に見えているだけだ。
その目に射すくめられた私は、蛇に睨まれた蛙の様に動くことができない。
そして彼女は、すぅっと、まるで指揮者が指揮を始める前のように、その細くしなやかな指を私に向ける。
「そのまま、決して動かないで下さい」
動こうにも、私の身体は依然として、金縛りにあったように言うことを聞かない。
そして彼女は、その指で、私の額をトンッと軽く突いた。
そう、それだけだった。
「え?」
それだけの動作だったはずなのに、私の発したその間の抜けた言葉と同じように、私の身体から力が抜けていく。
座る姿勢を維持することすらできず、私はそのままずり落ちるように畳へと倒れ込む。声を出すことすらできない。
呼吸をする以外は何もできないため、自然と意識が私の内へと向けられる。
すると、抜けたのは力だけでなく、それが何かは分からないが、私の芯から核となるようなものが抜け落ちた様な喪失感を覚えた。
一体、何をされたのだろうか?
「思ったよりも余裕そうな顔ですね。それとも、そんな顔しかできないのですか?」
先程までは彼女を見下ろしていた私が、今では完全に見下される側になっている。
「安心して下さい、すぐに動けるようになります。後はこの島に滞在している間、大人しくしていて下さいね」
そう言った秋名ちゃんは、すでにこちらを見てさえいない。その視線は再び本へと戻されている。
結局、私は春子さんと小夏ちゃんが戻ってくるまで、まるで酸素を求める金魚のように、口をパクパクと開け閉めしているだけだった。私が本当に取り入れたかったのは、酸素じゃなくて失われた中身だったのかもしれない。




