エモーション
春の黄昏は格別、情趣に満ちて人の心に添う。
伽耶を駅まで送った朝霧は、夕日の照らす茂る木立の歩道を歩いた。陽の当たる箇所が朱赤色に染まり、所々、黄金じみてもいる。それらの色に紛れて闇がある。その闇は生温かく、ふくよかな気配を滲ませていた。
帰宅して部屋着に着替える朝霧の穏やかで満ち足りた表情を、メフィストフェレスは凝視していた。
美しい春の黄昏。
日が沈むからこその美しさ。
今この瞬間を切り取ったら最高であろうという時の頂点。
だというのにメフィストフェレスは、自らの気分が沈みがちであることを自覚していた。
所謂、メランコリーになる理由が解らない。ミカエルの茶々は気に喰わないが、どうということもない。契約は成立し、朝霧は不信心者だ。着替えを終えた朝霧は、いつものように机の前に座り、鉱物の観察を始めた。
「デートは楽しかったか?」
「うん」
「塩キャラメルをくれ」
「良いよ」
「お前の魂をくれ」
朝霧が手に持っていた虫眼鏡を置いてメフィストフェレスを見る。温和な眼差しで。
「良いよ」
そう。
その答えこそが正解の筈だ。なのにメフィストフェレスの胸に湧き起こる寂寞の念は何だろう。朝霧は清らか過ぎて、メフィストフェレスには眩しい。彼の行くべき場所はミカエルの指し示す天の国であると、否が応でも解ってしまう。メフィストフェレスは人型となり、塩キャラメルを受け取って咀嚼する。舌の上で転がし、歯で噛む。いずれは朝霧の魂もそのようになるのだろうか。契約を交わしたものの、朝霧の魂の取り扱いを、メフィストフェレスは明確には決めていなかった。魂を喰らえばこの上なく美味なのだろう。だがそれでは少しつまらない気もする。仮初めの人型を与えて一緒に地獄を巡るのはどうだろう。朝霧は嫌がるかもしれないが、そういう時こそ契約書を見せつけて無理矢理に連れ回す。そんな旅も愉快だろう。
真紅の薔薇色のスーツを着たメフィストフェレスが何やら考え込んでいる風であるのを、物珍しげに朝霧は見て、それからまた鉱物に目を戻した。
左手には孔雀石がある。孔雀石は緑色の顔料として古代から使用されており、クレオパトラもアイシャドウに使ったという。合成品の顔料もあるが、古美術の修復などには天然の孔雀石が欠かせない。魔除けの石、邪悪なものから身を守ると言われるので、メフィストフェレスとは相性が良くないだろうなと、朝霧はこっそり笑んだ。
頭の中には今日、過ごした伽耶との記憶の反芻がある。
彼女の笑顔。
共に過ごした時間は貴重で、朝霧が大切にする蒐集品とも引き換えには出来ない。
菫青石は至上なのだ。
それから朝霧はヴィンテージ特集の載った雑誌を眺めた。次に伽耶と出掛ける時にはヴィンテージの服を着たい。どんな風に着こなせば良いか、買ったほうが良い物はあるか、じっくり雑誌を見て検討する。つんつん、と頬を突かれたので、無言で塩キャラメルの箱を差し出す。ふん、という鼻息がメフィストフェレスの不満を伝えるが、今は彼に構う気はなかった。これからどんどん暖かくなる。薄手のパーカーがあったが良いだろうか。別の雑誌に載っていたミリタリーのパーカーを思い出す。ああいう物は、伽耶はどう思うだろう。恋とは不思議だ。今まで、自分の好みを中心に据えられていた事物が、他人の思惑を中心にすり替わる。そしてそのことが決して不快ではない。
朝霧は母が淹れてくれた桜の紅茶に口をつけた。桜の花が浮かんだ、甘い香りのするお茶だ。紅の色がきついようにも思えるけれど、味は良い。だが。
だが何かおかしい。
異変に先に気付いたのはメフィストフェレスだった。
朝霧の手からティーカップを叩き落とす。陶器が割れる音。
朝霧は椅子から落ちて床に転がった。
「朝霧!」
朝霧の鼓膜にはメフィストフェレスの声は届いていない。
エリヒトーの声がする。
朝霧。朝霧。
手招きされる、赤い空間。涙に濡れた美女が朝霧を艶めいた声で呼んでいる。
「くそっ。媚薬か。エリヒトーめ」
しかもこれは毒物に近い濃度の媚薬だ。メフィストフェレスは朝霧の口中に指を突っ込み、液体を吐かせようとした。朝霧が咳き込み、嘔吐する。キリムの上に散る、赤い飛沫。
朝霧は赤い空間にいた。華やぎの赤が彼を迎え入れて歓待する。
ノースリーブの桜色のワンピースを着たエリヒトーが、しどけなくクッションの山に座っていた。頬に涙は絶えることなく。朝霧は彼女に歩み寄る。エリヒトーが両腕を伸ばす。真っ白い腕。爪には儚い暮色を思わせる薄紫色が塗られている。ワンピースは身体の線が浮き出るような美麗な作りで、胸の膨らみがくっきりと出ている。細い腰、その下にまた膨らみ、それからしなやかな長い素足。柔らかな肉体に、朝霧は身を埋めようとしていた。
次話で完結となります。




