睡蓮
伽耶が菫の花が咲いていた、と話すのを聴いた時、朝霧は近所の公園の、睡蓮の開花がそろそろだと思った。一緒に見に行かないかと誘うと、伽耶は嬉しそうに頷いた。お弁当を作るねと言って、頬を紅潮させた。色素の薄い髪がさらりと揺れて、良い香りがした。
朝霧は着る物に頭を悩ませた。祖父の遺品でサイズが合う物もあるが、ブランド物も多く、生地からデザインから上質過ぎて、朝霧の場合は服に着られてしまうようだった。年月を経た男性にしか似合わない物があるのだと思い知らされる。先日、小さな公園に伽耶と出かけた時は、清潔でカジュアルな装いを心掛けて私服から選んだ。今回も、そのようにするのが賢明かもしれない。
「まるでデート前の女だな」
黒猫姿のメフィストフェレスが冷やかす。その言葉を聞き流して、朝霧はサックスブルーのポロシャツとグレーの麻のジャケット、黒いジーンズを選んだ。メフィストフェレスは退屈だと全身で主張するように、右に転がり左に転がりした。仕舞いにはむくりと起き上がり、一言、要求する。
「塩キャラメル」
「良いけどさ。お前って、虫歯にはならないの?」
「虫歯になる悪魔がいると思うか?」
「いたら面白いけど」
言いながら包み紙を剥いだ塩キャラメルを寄越すと、メフィストフェレスは猫のまま、尻尾を満足そうに振って、キャラメルを口に運んだ。
日曜の天気は晴天で、朝霧は喜ばしい気持ちで、睡蓮の咲く池のある公園の四阿で伽耶を待っていた。先日、伽耶と出かけた公園とは規模が違い、睡蓮の咲く池の他に本格的な遊具があり、ソフトクリームやホットドッグを売る店もある。
細かく切り刻んだ光の切れ端が舞うような日光を眺めながら、影となって涼しい四阿の中、朝霧は微睡むように座っていた。
日光とは別種の、強い光を感じた朝霧の視界には青い瞳があった。
いつの間にか朝霧の向かいに座り、長い脚を優美に組んで、軽く小首を傾げている。
神の存在を朝霧に断言した男性だ。なぜ、このようなところにまでいるのか。朝霧は困惑と疑念から、男性を睨むように見据えた。
「良い天気だね」
「…………」
「君は自分のしたことが解っているのかな」
「何のことです」
「悪魔と契約した」
朝霧は確信した。彼は人間ではない。恐らくは――――。
蒼穹を従えるような純白の。
「風見さんが救われるなら、それで良い」
「愚かだ。君のしたことを知れば彼女は泣くだろう」
憂いがちに首を振り、男性が答える。首を振ると輝く金髪が豪奢に揺れた。
「知らせなければ良い。――――知らせないでくれ」
伽耶の世界を守って。
苦しみや悲しみから遠ざけて。
「僕の魂をあげるから、か。やはり愚かだ。愚かで、それゆえに尊い」
朝霧の心の声が聞こえたように、そう響きの良い声で語ると、男性は立ち去って行った。
朝霧はその背中を見送り、水に浮く睡蓮を見る。
クロード・モネは睡蓮の絵を二百点以上、残した。余程、睡蓮に魅了されていたのだろう。清らかで楚々と開く水上の花。睡蓮の花言葉は「清純な心」、「信頼」、そして「信仰」。前半は伽耶に相応しく、後半は自分に相応しくない。
やがて遅れたことを詫びながらやって来た伽耶に、朝霧は何事もなかったかのような笑みを向けた。急いできたのだろう、上気した顔がいじらしい。紺色のワンピースは八分丈のパフスリーブで、伽耶の清楚な雰囲気によく似合っていた。今日の自分の装いとも合うところが、朝霧を満足させた。
伽耶の作った弁当を広げて、昼食を摂りながら、二人して早咲きの睡蓮に見入った。朝霧が伽耶の横顔をちらりと盗み見ると、伽耶も朝霧を見て、二人して照れて笑い合った。そんな時間が得難く幸せだった。ずっと続けば良いのにと思う横で、朝霧は金髪碧眼の男性について考えを巡らせる。朝霧の推測に間違いがなければ、恐らく彼は天使だろう。だが、だからと言って何になる。神も天使も朝霧の祖父母を救ってはくれなかった。見殺しにした。今更、朝霧につきまとい、警告めいたことを言ったところで、何も変わるものではない。自分はメフィストフェレスの力を得て伽耶を幸せにするし、代わりに魂をメフィストフェレスにやる。願いには相応の対価が必要だという理屈は、至極、納得出来るものだ。あの男性の存在は、朝霧には厄介なだけだった。
伽耶の髪が風に靡く様を見るのが好きだ。
色白の頬に、主張の弱い色の髪が数本はりつき、或いは斜線となる。
睡蓮を眺める伽耶の小振りな唇を見て、それに触れたことを思い出し、朝霧は赤面する。柔らかさと甘さに我を忘れた。
一度、味わえば、もっと欲しくなるのが人間だ。
ああ、自分は醜い人間だ。
天使の言い分は間違っている。
自分は欲に塗れたちっぽけな男だ。
朝霧は伽耶を恋する自分の心が、純粋なばかりでないと知り、少なからずショックを受けた。
メフィストフェレスは言った。
無償の愛など愚か者の演じる道化芝居だと。
他方では聖人だと称えられるであろうそれが。
いつか、伽耶の幸福以上に、自らの欲を優先させたくなる日が来たら。
その時にはメフィストフェレスに願って、魂を早く引き渡してしまおう。きっと彼もそのほうが喜ぶに違いないのだから。
エリヒトーは朝霧たちをしばらく見てから、踵を返した。その足で、彼女は古道具屋の魔女の元を訪ねた。どうしても手に入れたい物が、彼女にはあった。古道具屋まで歩きながら、エリヒトーは涙を流していた。朝霧が恋しくて、滂沱の涙を流した。
絹のクッションに丸まっていたメフィストフェレスにふと光が射す。影ではなく。それだけでもう、訪問者が誰なのか解ってしまい、メフィストフェレスは不機嫌な顔で身を起こした。
反対にミカエルは憂いある美貌を俯かせている。
「あの少年は頑固だ。自ら救われる道を拒む」
「振られたか、ミカエル」
青い双眸がメフィストフェレスを射抜く。
「さぞやお前にたぶらかされているのだろう」
「おい、人聞きの悪いことを言うな。あいつは自由意思で、俺を選んだんだぜ」
「神を信じない人の子供。それでも私は彼を救いたい」
へ、とメフィストフェレスが嗤う。
「お前には無理だよ。これ以上、しゃしゃり出るな。目障りだ」
「そういう訳には行かない」
「羽を落として行くなよ。朝霧が喜ぶから」
「では四、五枚、落としていくかな」
「莫迦言ってろ」
冗談めいたミカエルの言葉に、メフィストフェレスが呆れた一瞬後には、彼の姿は消えていた。あとには律儀に数枚の羽が落ちていて、その始末にメフィストフェレスは苦慮した。




