可愛い幼馴染
何事もなかったかのように食事が終わって、健は席を立った。
「すみません、そういえば会社に一通メール送らなきゃいけないこと思い出して。今日は帰ります。ごちそうさまでした」
ーーーもちろん嘘だが。
楽し気に雑談をする気にならなかっただけだ。
今日一日、一人きりで気持ちを整理しよう。……明日からは本気で恋人同士だ。
玄関に向かうと、後ろからおずおずとした足音がついてきた。
「健君……あの、あのね」
詩織が何かを言いたそうについてきていた。
……多分、謝られるのだろうと思った。
思わず、ため息が出そうになった。
本音では、冗談じゃない。謝ってほしいわけじゃない。思い出させないでほしい。
だけど、この関係を続けていくなら、詩織の謝罪を受けてからなのだろう。
『いいよ。気にしてない』そう言って笑うのだ。作った笑顔ならば造作もないことだ。だが、詩織はきっと見破るだろう。
どうしたものかと振り返ると、
「送ってく」
眉をㇵの字にした詩織が健を見上げていた。
―――そんな表情が見たいわけじゃないんだけど。
そう言いたくなる気持ちに蓋をして、軽く頷いた。
玄関ドアを開けると、湿った風が吹き抜けた。
もう梅雨だなあと、全く関係ないところに意識を飛ばした。
カシャンと、後ろでドアが閉まる音がした。
振り返らずに階段を降りたところで、遠慮がちに手を握られた。
足を止めて詩織を見下ろすと、俯いた詩織が耳を赤くしていた。
「あの…嬉しいの」
「はっ?」
ちょっと大きな声が出た。
詩織は健の声に慌てたように健の腕を掴んで言った。
「あ……あ!申し訳ないなとか、気が付かない自分がバカだとか、反省はしてるんだよ!ちゃんと反省はしてるの」
健の驚いた顔をどうとらえたのか、詩織は必死に言葉を紡いでいた。
詩織は、遠慮がちに握っていた手を放して、健の腕を両手で握りしめた。
縋るように下から見上げてくる彼女は、非常に可愛かった。
「でも、でも……。この一年、私、健君の彼女だったんだなあって思ったら、嬉しくて」
最初は必死に見上げてきていた顔が、健の呆然とした顔を見て俯いた。
「嬉しくてね、嬉しすぎて……ごめんなさい」
それでも、詩織は健の腕を離さなかった。
「そうか」
他に何か言えないのか。
自分自身で突っ込みながら、真面目に感動していた。
もう許しました。この一年の記憶、そのまんまで結構です。
詩織は、健の声に顔を上げて、健と目を合わせるとほっとしたように笑った。
本当に怒ってないのだと、すぐに分かってしまう付き合いの長さに苦笑する。
「少し散歩してから帰ろうか?」
腕を掴んでいた詩織の手に触れて、言った。
手をつなぐのは、付き合っていない間もしていたんだ。
だったら、腕を組んで歩こう?
詩織は、少し恥ずかしそうな顔をしてから、健の腕にぎゅっと抱き付いて、頬をよせた。
歩き出して、詩織がまた恥ずかしそうに何かを言った。
近くの公園……っていうような場所もないし、適当に歩くかなあと考えている時だった上に、俯いて言うから、今度は聞き取れなかった。
「何?聞こえなかった」
「うっ……あ、や、やっぱいい」
ふるふるっと詩織の頭が振られた。
「詩織?」
「大丈夫っ!なんでもない」
健が詩織を覗き込むと、目に涙が溜まっていた。
「なんでもないことないだろ?我慢していることがあるなら言え。―――嫌なのかと思うだろ?」
腕を組まれている状態で、詩織が嫌がっているなどとは全く思わないが、健が悲しそうな顔を作ると、詩織は申し訳ないという表情になる。
健が表情を作ることが得意なことを知っていて、簡単に引っかかる幼馴染は本当に可愛い。
口を数度開け閉めして、やっぱり口を閉ざしてしまう。
薄暗くてよく分からないが、顔が赤いと思う。
一応ズボンのチャックを気にする。……大丈夫だ。
「キスしてもいい?」
言った途端、詩織がびくんと跳ねた。
「嫌なら、今はしないから」
さっき初めて軽く触れただけの唇が噛みしめられているのを見て、したくなって、いきなり声に出してしまった。
サイテーか。
詩織は「あうあう」と意味不明の声を出しながら、小さく頷いた。
初めての許しを得てのキス。
ゆっくり、優しく唇を合わせてから、わざとリップ音をさせて唇を離すと、詩織が健にしがみついてきた。
「何で分かったの……」
そんな風に呟くから、さっき詩織が言いかけたこともキスだったのだと分かった。
「やっぱり最初っから、聞こえてたんでしょ!?」
言いがかりだ。「そんなはずないだろ」そう言いながら頬にもキスをした。
「意地悪っ」
詩織は信じてくれないが。
可愛いからぎゅうっと抱きしめ返した。
「そんなことしたって駄目なんだから!」
健が抱きしめたのは、詩織の機嫌を取るためだと認識したらしい詩織から、怒った声が聞こえた。
「じゃあ、どうしたらいい?」
詩織の照れ隠しだと分かった上で、おでこを合わせて聞いた。
詩織は、視線をうろうろさせてから、小さく呟いた。
それを聞いて、健は小さく噴き出す。
その笑いに詩織が怒る前に、詩織の要望を叶えるべく、彼女の口をふさいだ。