第三部第五章
そして夏も過ぎ……。
建永元年九月、九条良経の供養法会が九条家の別邸で営まれることとなった。
法然は七月にはこの別邸の近くの、小松御堂――かっての平重盛の屋敷跡である――に居を移していた。九条兼実の招きに応じたのである。
三月に良経が死去して後、政治的には大きい後ろ盾を失った法然一門であったが、一方の興福寺も、良経死去との関わりを噂されて、法然一門への表立った抗議運動を控えざるを得なかった。こうして両者の間には膠着状態が続いていた。
そんな中での供養法会であった。
その法会に向かう人々の群れの中に、慈円の姿があった。自分の甥の法要であるから、当然と言えば当然であるが、実はもう一つの目的があった。――法然の一番弟子、信空との会談である。
秘密裏に予定されていた会合であったが、法然門弟らの間ではすでに噂として知れ渡っていた。
そんな門弟の中の二人の姿が都大路にあった。ー住蓮と安楽である。彼らも九条家別邸での法会に向かう途上であった。
歩きながら住蓮が傍らの安楽に話しかけた。
「安楽、聞いたか。供養が終わったあとに、慈円様が、信空様と会談をもたれるそうだ」
住蓮は、噂を聞いて、複雑な思いでいたのである。
なぜなら…。
かって、慈円と法然の間で持たれた会談は決裂した。
この折に、慈円の目論んだ、山の念仏への専修念仏の吸収統合計画は、その結果頓挫したことはすでに述べた。
「また、同じことの目論見であろうか?」
安楽の返事に、住蓮は少し首を横に振ると、声を潜めてこう言った。
「噂であるが……。此度は信空様が、慈円様に呼びかけたらしい」
「何!」
安楽は驚いた。
――なぜ、我らの側からそのような呼びかけをする必要があるのか?
彼には容易に理解できなかった。
「興福寺側の糾弾の動きもかってほど活発ではない。それなのに、我らが天台に譲歩する必要が現時点であるのか?」
安楽は思わずつぶやいた。---彼にはどうしても理解できなかったのである。
そんな不審げな安楽の表情を見て、彼の疑問に答えんと、住蓮は話を続けた。
「信空様は、専修念仏の停止を受け入れることで、どうやら、ことの決着を図るお考えであるらしい」
「何!」
それでは、自殺行為ではないか!――安楽は思った。自分達が、全勢力を傾けて六時礼賛興行を執り行っているのも、専修念仏を広めんがためえである。
「しかし、師がそれを受け入れるはずがなかろう。すでに先の慈円様との会談で、山の念仏との和解話は決別しているはずではないか!」
安楽が興奮するのを宥めるように、住蓮は穏やかに話を続けた。
「安楽、しかし、考えてもみよ。あの時から、我らを取り巻く情勢は明らかに悪化しておる。九条殿死去の報を聞いた折は、もはやこれまでか、と皆落胆したではないか。幸い、興福寺による陰謀の噂が出て、興福寺側の勢いが削がれたから、今まで事なきに至っているのだ、と言っても過言ではあるまい。違うか?」
「確かに、それはそうだが……」
安楽は、血気盛んで、ともすると勇み足がちになる自分と違って、この友の冷静さに学ばされることが多い。
――今回の事態もそれなりに止むを得ないことなのだろうか?
「先日の、院の御所で持たれた宗論の話は聞いておろう」
住蓮に問われて、安楽は答えた。
「うむ、善信(後の親鸞)と善綽、それに性願らが、参加したあの論議のことであるな。まことにあれは冷や汗ものだったという話だが……」
宗論……。それは興福寺の圧力に反発する善信ら、法然門下の若手の急進派が、ある日、院の御所に興福寺の使者が訪れると聞き、彼らを途中で阻止せんと、院の御所へ赴いた時の出来事である。
丁度、御所の手前で出くわした双方が、激しい言いあいを繰り広げていたところ、そこへ御所内より法印尊長が現れ、彼らを御所へ招き入れたのであった。
彼らは、その場で尊長よりこう告げられた。
「かねてより双方の主張をこの耳で直接聞きたいと思っていた。今日は絶好の機会といえよう。是非、私の前で、忌憚無く各々、自らの主張を述べるが良い。自力聖道門と他力浄土門、果たしてどちらが正しいのかこの耳でしかと確かめたい」
善信らにしてみれば、意外な展開となった。ともすれば乞食坊主と揶揄されることの多い境遇であるのに、御所の中へ招きいれらるとは!
「これは我ら、師の教えの正しさを御上に訴える絶好の機会ではないか…」
そう、彼らが考えたのも無理はない。若い三人は意気揚々と御所内へと入っていった。招き入れられるままに……。
結果は善信が興福寺の僧の言い分を一方的に論破する展開となった。最後には興福寺の僧たちは皆押し黙ってしまい、言葉を発する者はもはや一人としていなかった。
その状況を見て、尊長が「もう良いであろう」と、この宗論の終了を告げた。
「善信と申したか、貴殿の弁舌まことに見事であった。またこのような場を設けるとしよう。今日はこれまでと致す」
最後には尊長がそう締めくくって、この論戦はとりあえず幕を閉じたのである。
善信らは意気揚々と帰路に着いたが、これが、この怪僧の陰謀の一端であると気付くには彼らは若すぎたと言えようか……。
住蓮がその宗論についての自分の考えを述べた。
「あの論戦はそもそも御上自らが公に主催されたものではない。法印殿が気まぐれで催したものと聞いておる。それゆえ、興福寺を熱弁で打ち負かしたところで、御上が専修念仏を認めたことになるわけではないのだから何の意味も無いのだが……」
それを聞いた安楽は「まことに……」と呟くのみである。
二人は溜息をついた。
――沈黙が続いた。
「いずれにせよ信空様は師を説得出来まい」
安楽が沈黙を破って住蓮に言った。
「そうとも、出来るはずがないし、師が受け入れるはずもない」
住蓮も力強く安楽に同意すると、さらに言葉を続けた。
「我らが依って立つところは、以前にも話したことがあろうー民の思いではないか!そして民の思いはただ専修念仏にある。真に教団の存続を願うのであれば、中途半端な妥協をしてはいけない。それは自殺行為だ!」
安楽も頷いた、とはいうものの……。
「しかし厳しい試練の時だな……」
と、ぽつりと言葉を漏らすしかない…。
それが彼らを取り巻く現実であった。
順風満帆な時は過ぎ去っていた。二人にはそのこともよく分かっていた。
「だからこそ乗り越えなければ…。民の上にしっかりと立ってな」
二人は手を握りあった。
この、絶望が支配する時代を生きる、民の思いを考えればどのような試練も乗り越えられようというもの---そんな決意が二人を奮い立たせた。二人は力強い足取りで、残暑の厳しい中、都大路を進んでいった。




