第三部第三章
祇園社の裏手、犬神人の里に初めて入ったときは、さすが勇猛果敢、百戦錬磨の盛高でも緊張した。
「この臭いは?」
思わず手で鼻を摘んだ。それは、単純に物が腐った、とかいう臭いではない。何とも形容し難いであるー盛高は多くの屍を乗り越えて戦った勇者だけあって、さすがに吐くようなことには至らなかったが、それでも少々気分が悪くなった。
しかし、何度か足を運ぶうちにそれも気にならなくなった。
――無論、目的は時子の墓参りである。
と言っても、立派な墓があるわけではない。それは一般庶民でも同じではあったが、犬神人には死んでも差別、隔離が待っている。即ち、庶民たちの葬祭場である、鳥部野、化野、紫野などへは葬れない、自分たちが隔離されたこの里の一角で荼毘に付し、粗末な墓を作るのである。
以前は適当に屍をそのまま埋葬していただけだったが、住蓮、安楽らが出入りするようになってから、彼らがこの、「荼毘に付す」という葬送の儀式を教えた。---都の内外に屍が無数に放置されていた平安末期ごろから、遺骸を荼毘に付す葬送法が念仏層らによって広められていたのである。---そして、名を善信へと改めた(元久二年)綽空が、この犬神人の里においては、安楽、住蓮よりその送葬の儀式を受け継いで今に至っていたのである。
「時子、来たぞ」
そう墓前に報告したのは住蓮である。---そう、盛高は住蓮と一緒だった。---すでに住蓮と盛高は和解を済ませて、時に連絡を取り合う仲となっていたのである。
「今日はいい報告が出来そうだな、盛高」
住蓮はすでに、馬渕の荘園管理の話を彼から聞いていた。
「うむ」
そして盛高は馬渕の里の視察に近々出かけるつもりであった。今日は妹の墓にその報告に来たのである。
「それにしても、運命のめぐり合わせと言うべきか……」
住蓮のこの言葉に、盛高は大きく頷いた。
「まったく、こんな形で故郷に帰ることになろうとは」
「でも、良かったではないか。どんな形にしろ!」
「それは、分かっているが…… 」
と、そこまで言うと、盛高は口を噤んでしまった。
両親を憤死という形で失った、複雑な盛高の心境を思いやると、住蓮も黙っているしかなかった。
そこへ、源太がやってきた。
「やあ、今日は北面の武士殿もおいでか」
「これは源太殿。いつも妹の墓の墓守を任せてまことに申し訳ない」
盛高は頭を下げて礼をした。
「何を他人行儀な!」
今の源太は目が不自由ではあったが、気配から、その場のすべてを感じ取ることが出来るようになっていた。
「礼など無用。本当におときさんのお陰で、わし等はどれだけ元気付けられたか……。いつも明るく、笑顔を絶やさず、……礼を言わねばならぬのはわしの方じゃ」
盛高は、源太にも、近々視察のため故郷へ立ち寄ることを告げた。今日は時子にその報告に来たのだと。
「そうか……」
源太も感慨深げになって黙ってしまった。――そして少し天を見上げていたが、暫くすると彼は再び口を開いた。
「どんなもんじゃろ、すぐには無理であろうが、……盛高殿、おときさんのお墓を故郷に作ってあげることは出来ぬものか?」
「墓を作る?故郷に?」
「そうじゃ!」
突然の提案に盛高は驚いたが、言われてみれば、さもありなんではあった。
しかし、源太の言わんとすることはさらに深い意味を持ったものだった。
彼は言葉を続けた。
「われら、この里に来たのは、やむを得ぬ事情によるもの。家族、友人から引き裂かれ、あるいは見捨てられ、ここへ連れられて来たのじゃ。当初は皆、故郷の夢を狂おしいほど見る。毎晩、毎晩……。無論、帰ることなど出来ようはずもない。そして結局ここで死ぬ……。おときさんは、いつも笛を吹くと故郷の話をしてくれた。良いところらしいの……。いつも自慢をしておった。美しい山、湖、川、すべてにぎっしり思い出が詰まっていると……」
盛高は源太の真意を、ここまで聞くと、彼の提案の真意をおおむね把握した。---骨を持ち帰ることには、その行為以上の大きい意義があるのだと。
「是非とも、骨だけでも連れて帰ってやりなされ。普通ならそんなことすら叶わぬ我々の身分だが、貴殿なら出来るであろう。我々には死んですら、なお差別が待っておる。遺灰ですら、故郷へ持ち帰ることすら許されんのじゃ!おときさんを、あれほど帰りたがっていた故郷へ連れて帰ってやりなされ」
住蓮もこの源太の提案を聞いて大きく頷いた。
「そうだ、まことに源太さんの言う通り。本来なら私がその役目をするのが筋かもしれないが、この通り、連日のお勤めがありそんな余裕は無い。ここは是非とも、貴殿がその役目果たされるが良かろう」
盛高も頷いた。
「わかった、すぐには無理だろうが……。それでも、必ずそのようにいたすとしよう」
三人が墓標に手を合わせ終わったところに、ゆきが遅れてやってきた。
「すいません、遅れて……」
ゆきも持参した花を墓標に手向けた。四人は暫し、墓の前で佇んだ。――長い沈黙の時が続いた。四人の思い、それぞれに時子を偲んでの供養となった。
盛高がその沈黙を破った。
「ゆきさん……」
と、ゆきに語りかけると、盛高は、続けて、時子の遺骨を故郷の地に持ち帰ってそこで埋葬しようと言う計画を、ゆきに伝えた。
「とても、素晴らしいことですわ!」
と、ゆきも賛同の意を表した。
盛高は、そこで顔を少し曇らせると、さらに言葉を続けた。
「此度の馬渕の里の視察、ゆきさんにも来てもらいたかったが……」
二位法印様からの依頼である。心ははやったが、実際に冷静に考えてみると、その視察に、軽々しく、恋人を同伴させることは出来ない……。
その釈明をするつもりの盛高であった。
しかし、いざとなると、口ごもって、なかなかうまく言えない……。見かねて、住蓮が助け舟を出した。
「また、いずれ、我ら三人で行こうではないか!」
すると、ゆきが快活に応じた。
「そうよ、その時は、源太さんも一緒に行こう!」
源太は自分の名前が出たので驚いたが、
「こんな、目の見えぬ老いぼれがどうやって……」
と、言うと、つられて、彼も快活に大声で笑い始めた。
この里の外へ出られるのは、役目の時のみだ。どうして旅になど出れよう。――そんな暗い話題になるのを避けようと、わざわざ大声で笑ったのだ。
しかし、ゆきは真顔になった。
「私は本気よ。源太さん!」
ゆきの真剣な口調に、場は一転、緊張した。
ゆきは構わず話し続けた。
「だって、おかしいわ。どうして、他の皆のように自由にどこへでも行けないの?どうして、皆は源太さんたちを、ここへ閉じ込めるの?どうして……どうして?……源太さんだって故郷に帰りたいはずだわ!」
と、ここまで言うと、ゆきはわっと泣き崩れた。そしてさらに叫び続けた。
「こんなことって、絶対におかしいわ!おかしいわ!」
男三人はただ黙っているしかなかった。---ゆきの思いに誰が反論できようか?
盛高がゆきの手を取って慰めた。源太も目から涙が溢れてきた。
「ありがとう、ゆきさん、――その思いやり、本当にありがとう」
故郷……。
盛高は自分だけが不幸な故郷の思い出に、心を痛めているのだと長らく思っていた。
しかし、同じように不幸な思い出に、心を痛めながら苦悶の日々を送っている人々がここにいる。――かっては親しかった故郷の人々、そんな彼らから忌み嫌われ、故郷を追い出され、そして、この隔離された里で望郷の念に日々涙する毎日。
死んでもなお待ち受ける差別!
「時子の遺骨を故郷へ持ち帰ることは、そんな彼らのためにも成し遂げねば!これは自分の使命だ!」
盛高はそう固く心に念じた。---すると、いつしか、あの時、次郎三郎らとの格闘の末、意識をなくした自分の夢に現れた阿弥陀仏の言葉が思い起こされた。
「そちには、まだすべきことがある…」
盛高はその言葉を何度も口ずさんでいる内に、心にある確信が芽生えて来るのを感じた。
「彼らのためになすべきことをする…。これこそが、私の使命なのだ!」
そう確信すると心は高揚感で満たされ、目の前は明るく照らされて、自分に今新しい命が吹き込まれて来るような、そんな限り無い心地よさを感じた。---蘇りともいうべき感覚であった。
「やるぞ!」
こうして彼は決意を固く胸に秘めたまま、犬神人の里を後にした。