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阿弥陀仏よ何処に  作者: ソンミン
83/110

第三部第一章

 建永元年(千二百六年)3月、摂政九条良経逝去の知らせが都中を駆け巡った。

かねてより病弱という噂も全くなく、そういう意味であまりにも突然の死であった。

 都人たちは噂した。

「いや、殺されたのだ、という専らの噂だ」

「興福寺の僧兵の策略らしいというのは本当か?それは九条殿が念仏者たちの味方をしたからか?」

「興福寺の九条殿への怒りは並々ならぬものとは聞いてはいたがまさか……」

「いや、わしは、九条殿は単に病で倒れられたのだと聞いたが……。朝起きて来られないので様子を見に行ったところ、すでに虫の息であったと聞いたが」

「それが、お休みのところを、離れた場所より矢を放たれたのだと、専らの噂なのだ」

「何というだいそれた!」

「そんなことがあろうものか?」

「しかし仮にそうだとしても、いくら荒くれで有名なあの興福寺の僧兵と言えど、そんな大胆なことが出来ようか?」

 喧しい都人たちの噂は、都中を駆け巡った。

 その噂の真相はともかく、吉水の里にもたらされたこの消息は、法然一門にとっては、まことに重たくのしかかった。

 溜息と共に嘆きの声が囁かれた。

「九条殿が、我らの盾となってくれていたからこそ……」

 これは、確かに事実であった。

 多くの門弟が悲嘆にくれていた。

「これで、興福寺からの圧力はますます厳しいものとなろう」

「ああ!」

 一方、良経死去の消息は、当然、院の御所にももたらされていた。

 朝廷の中心人物の死亡、それも見方によっては変死、という消息の一報に、都の治安の今や要を担う役目の三浦秀能が素早く反応した。

「盛高、参るぞ、準備をいたせ」

 三浦秀能の勇ましい声が御所内に響いた。

「はは!」

 と、応ずる佐々木盛高---先日の怪我もすっかり癒え、今は副長官としてのお勤めの毎日であったが---であったが、その威勢のいい返事とは裏腹に、内心は複雑な思いで満たされていた。

 なぜなら、吉水の里でゆきと交わした約束、すなわち、ゆきと祝言を上げ、近江の地に帰りそこで暮らすこと、またそのためには当然今の職を辞さねばならないが、それらのことをいつ長官に伝えるべきか、と思案の毎日が続いていたからである。

 そこへ追い打ちをかけるようにこの事件の消息である。---しばらく混乱が続くであろうし、そんな時に、職を辞するというのは、いかにも無責任極まりないことであろう。

 また、近江に帰ると言っても、そこでの生活は?住まいは?---解決しなければならない問題は山積みと言えた。

「今はただ日々与えられる仕事をしっかりとこなすのみだな…。ゆきさんにはもう少し辛抱してもらおう」

 そんなことを考えながら、早速身支度を整えると、急いで中庭に出た。馬の準備もできている。傍らには清兵が控えていた。その清兵が盛高に礼をすると、続いてこう言った。

「おそらく、摂政殿の不審死のことでございましょうな。我ら院内におる者の間でも、もっぱらの噂でございますから」

「おそらくな…」

 盛高の耳にも早朝から、その情報は入っていた。

「本来は検非違使の仕事であろうがな…」

 盛高がこう呟くのも無理はなかった。本来、洛内の事件については検非違使庁がその管轄である。しかし、後鳥羽院への権力集中により、朝廷直属の検非違使の権威は今やかなり衰えていた。その結果、都の治安担当の最高責任者は、事実上、後鳥羽院の直属の防鴨河使長官三浦秀能に移っていた。

 摂政良経の死が、変死の疑いがあるというならば、良経の死体の検分に行くというのは当然と言えた。また、長官自らが検分に赴くのも当然のことであったろう。

 そんなことを考えていると、いよいよ秀能が登場した。

 秀能はゆっくりと彼に近づくと、こう言葉を発した。 

「ご苦労である。--今朝に摂政関白殿急死の消息があった。ついては只今より検分に参る」

「はは」

 と返事をした盛高であったが、秀能がいたって平静を保っていることを不審に思った。普段は落ち着きのない態度を取ることが多い彼が、今回は、まるでこうなるのを予期していたかのような冷静な対応をとり続けている。

 しかしどこかぎこちなく感じる……。

 ここ一週間ほど御所の中に張り詰めた空気が漂っていたこと関係しているのであろうか?長厳、尊長、秀能が連日のごとく密会を重ねていたことも気にはなっていた。

「それと六郎はどこへ…」

 ここのところ、六郎の姿をまったく見なくなったことも気になっていたのである。

「まさか今回のことに何らかの関与をしてはいまいな…」

 このように盛高が不安な気持ちで、いろいろと考えを廻らしていると、突然、「盛高!急ごうぞ!」と、秀能から呼ばれた。彼はすでに馬上である。

「はい!」

 と、返事をすると、盛高も直ぐに馬上の人となった。

「気を引き締めねば」

 盛高は頭をぶるぶると振るわせ、自分に言い聞かせた。

「自分は一体何を考えているのだ!六郎が関与してまいかなどと、ありもしないことを!---」

 盛高は改めてそう言い聞かせると、秀能に従った。

 秀能はいつもと違う盛高の様子に気づき、彼に問うた。

「どうした?大丈夫か」

「はは、少し考え事を……」

 盛高がそう返答すると、秀能は、半ば自分にも言い聞かせるかのように、やや緊張した声でこう言った。

「何、すぐに終わるであろう。――変死などとは、ただの噂であろうぞ」

「はい……」

 都大路を進む巡検の隊列…。

 摂政邸には間も無く到着した。そして検分は直ぐに始まった。

 九条良経の屋敷の検分は、こうして始まったが、秀能の言った通り、すぐに終わった。それは全くの形式的なものだった。

 屋敷内での秀能の振る舞いが全てを物語っていた。

 彼は、現場の視察を軽く済ませると、その後、屋敷の数人から簡単な事情聴取を行った。それも、すべて、秀能が自ら一人で済ませた。盛高の出番は全く無かった。

「自分を含め、供の者たち全てはただの飾り、利用されただけのようだ…」

 盛高はすぐに悟った。いくら形式的な検分とはいえ、一人ではまずい。そこで副長官の自分を同行させたということであろう。

 二人は帰途に着いた。

 その日のうちに、秀能自らの手で、後鳥羽院に検分の報告がなされた。

「良経殿逝去は病死によるもので間違いございません」

 これにて表面上は一件落着となった。 

 しかし……。

 その夜、御所で、秀能がぽつりと漏らした次の言葉が、盛高の心を騒がせていた。

「これにて、面倒な興福寺の連中も、暫くは我らに頭が上がるまい。――まあ、恩を売ってやったというところかな。そもそも坊主が政に口を挟むから、いらぬ疑いをかけられることになるのだ。奴らは、寺でお経だけ唱えていればいいのだ、のう、盛高!」

 盛高は黙って聞いているしか無かった。

 しかし真相は分からずじまいだ、このままでは…。

「いや分からずともいい。しかし…」

 盛高は一人になると、不安を募らせた。---何か、自分の力の及ばない、とてつもなく大きい何かが、この御所を、いや都全体を覆っているように感じたのである。

 心の重苦しさを払わんと、彼は部屋から外へ出た。

 庭に出ると、梅の花が蕾を膨らませて、今にも咲かんばかりである。

「春が待ち遠しい……。今少し我慢して職を辞すれば良かろう。近江での新しい生活はもう直ぐだ…」

 そんな感慨に浸っていると、背後から声がした。

「盛高様、秀能様がお呼びでございます」

「そうか」

「はは、尊長様のお部屋まで来るように、とのお達しです」

「法印殿の?」

 盛高は、こんな夜更けに何事か、と不審に思いつつ、言われるままに二位法印尊長の控える部屋まで急いだ。すると、

 ――ヒュー

 と、突然、何とも不快な生暖かい風が盛高の頬に吹き付けた。

 それは春の心地よい東風とは明らかに異質なものであった。

「この風は?」

 盛高の心は騒いだ。そして何故か直ぐに確信した。---この院の御所全体に張り詰める異様な空気が、風となって院内で渦巻いているのだと。

「不吉なことよ…」

 彼はそう心で感じつつ、尊長の待つ所、御所の奥へさらに進んでいった。

 その不快な風の中心に招き入れられるかのように……。

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