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阿弥陀仏よ何処に  作者: ソンミン
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第二部第三十一章

 幸い、安楽は直ぐに釈放された……。

 何のお咎めもなしである。

 取り調べは形式だけで、厳しくこそはあったが、拷問などがあったわけでもない。

 彼はすぐに鹿ヶ谷の精舎に戻った。

「よかったな!」

 と喜ぶ住蓮に、

「だから、何の心配もいらぬと言ったであろう」

 と安楽は答えた。

 二人は微笑みあうと、力強く握手を交わした。

 そもそも、今回の召還の理由は、六時礼賛で女犯が行われていると言う噂が広まっていたことに起因する。

 吉水周辺では、多くの高貴な身分の女性が、この六時礼賛興行に参加するようになっていたので、既存の宗派、中でも興福寺が大いにそれを妬んで、巷の噂を頼りに、法然門下の不祥事とばかり、訴えに出たのだろうと、分析していた。

 六時礼賛の影響力は、南都北嶺の僧すら慌てさせる、まことに大きなものとなっていたのである。

 さらに、かって安楽は鎌倉行脚により、少なからぬ坂東武者を念仏に帰依させることに成功していたが、彼の説法の巧みさは門弟らの中でもずば抜けており、そんな彼の処罰を求めることで法然教団に一撃をくらわさんと、興福寺が目論んだのであろう、とも……。

 九条良経もその辺の興福寺の真意は見抜いていた。

 安楽への尋問は厳しかったが、これは興福寺の面子を立てるためであった。数日の取調べの後に彼は釈放された。

 興福寺も、一旦は矛を収めるしかなかった。

 しかし、この一連の動きを通して、興福寺の中に、摂政九条良経を朝廷から追放せよという新たな過激な動きが出てきたことを、良経は敏感に感じ取ってはいなかった……。

こうして、表面上は、都を覆った不穏な空気も消え去ったかに見えた。

 安楽逮捕のほとぼりも冷めて、三月に入ると、吉水の里からは、前にもまして、日夜、念仏の声が響き渡り……。

 その声は、鴨川を渡って、対岸の京極から、さらに都の中まで響き渡った。

 いつものように鴨の河原の警備に繰り出した盛高主従の耳にも、無論その響きは届いていた……。

 彼らは、一通りの巡回を終えて、河原で休息を取っていたところであった。

 一時と比べると、随分死体の数も減った。それでもあちこちに死体が放置されている。

 しかし、それが見慣れた光景となってしまって、何の感慨も抱かなくなっていた。――ふと、そんな自分に気づいて、自分が嫌になるときがある。

 そんな時思い出すのが、故郷馬渕の里での平安に満たされた日々である。

 なぜ今の時代はかくも乱れてしまったのか!――しかし、職業軍人である自分がそんなことを考えたところでいかんともしがたいことである。

 彼は目を瞑った。念仏の読経の声が対岸から聞こえてくる。毎日聞いていて、特別な感慨を抱いたこともない。

 それが今日はどうしたことであろう!――何故か、読経の声を聞いていて涙ぐんでしまった。耳を澄まして聞いていると、実に心に染みるその声は何かこの世のものとは思えなかった。

 主人の異変に気づいた清兵が声をかけた。

「盛高様、いかがなされました?」

 盛高は、ふと我に返った。涙を見られたのだろうか?――そんなことを思うとやや恥ずかしくも感じられた。清兵に感ずかれないように涙を拭うと、彼は清兵に尋ねた。

「清兵」

「はい?」

 突然声をかけられて、清兵は一瞬戸惑った。

「清兵、お主は実は念仏者であると聞いたが本当か?」

 突然の質問に清兵は少し戸惑って、「はあ……」と、やむなく曖昧な返事をした。院の御所に念仏に帰依するものは多くいたのは事実であるが、それを公言することはまだまだ出来ないのが実際であった。

「いや、何、隠すことはない。私の元へ手紙を届けにくる、あのゆきさんも熱心な念仏信者だ。私は何の偏見も持っておらん」

 と、盛高が続けて言うと、清兵は安心したのか「はい、実はその通りでございます」と返事した。

「心配するな、誰にも公言はせぬ。ゆきさんの影響を受けたのか?」

 と、盛高は清兵に微笑みながら言った。清兵は「いえ、決してそういうわけではありませぬが……。いずれにせよご配慮かたじけのう存じます」と言うと、頭を下げた。

 盛高もあえてこの話題にはそれ以上触れなかった。――二人はしばし、鴨川から東山へと広がる景色を見ながら、しばらく物思いに耽った。

 ――どれだけ時間が経過したろうか。

 盛高は背後に人の気配を感じた。

「何奴!」

 反射的に立ち上がり、刀を抜いて振り向くと、そこに一人の僧が立ってこちらを見守っている。

「何用か?」

 僧であると知って安心すると、盛高は刀を鞘に戻した。

 俯き加減に下を向いているその僧は、無言のままだった。

 盛高は、僧が偶然この場を通りかかっただけのことかと思い、彼を無視してまた河原に腰掛けた。

 しかし、その僧はそこに佇んだまま一向に立ち去ろうとはしない。

 盛高は苛立ちを覚えた。

「用が無いならさっさと立ち去ればいいものを…」

 内心そう思いながら座っていること、数分が経過したろうか?

 視線を背後に感じながら、盛高の苛立ちもいよいよ限界に達した。「立ち去れ!」と、その僧に注意を促すため、後ろを振り向いたその瞬間だった。

 今まで俯いていたその僧は顔を上げると、口を開いた。

「盛高、久しぶりだ」

 その声を聞いた盛高は、一瞬何のことか分からず戸惑った。

 比叡山にいた折に、知り合った僧であろうか?などと思いを廻らしながら。彼の顔を眺めているうち、過去の記憶が鮮明に蘇った。

 明らかだった……。探し求めていたあの仇が、今彼の目の前に立ちすくんでいるのであった…。

「お前は、時実!」

 盛高はそう叫ぶと立ち上がり、反射的に太刀を抜いた。

 暫く両者は沈黙したまま、睨みあっていた。共に厳しい目つきだった。

 当然である。

 二人のそれぞれの脳裏の中を、近江での様々の出来事が駆け巡っていた。喜び、悲しみ、怒り、絶望、それらの感情が幾重にも重なり合い、縺れ合い、渾沌としていた。

 睨みあったままでどれだけの時間が経過したろうか?

 最初に口を開いたのは住蓮であった。

 彼は、ふー、っと溜息をつくと、盛高に伝えた。

「左様、その名前懐かしい。確かに、私は時実。もっとも今は出家して、住蓮という名前をいただいている。法然様の下で修行に励む身だ」

 と、そう言うと、冷静さを保たんと、再び呼吸を整えてこう続けた。

「盛高、いや、今は盛高殿と呼ぶべきか。---大いに出世されたらしいから。ともかく、今はゆっくりと時子殿の身の上に起こったこと、近江佐々木家に起こったこと、これを私の口から説明させてくれまいか…」

 こう嘆願する住蓮であったが、盛高は、そんなことは無用とばかり、彼を睨みつけると、じりじりと彼に対して間合いを詰めていった。

 無論、彼を切るためである!

 それを承知でも、逃げることなく住蓮は言葉を続けた。

「私を佐々木家の仇として追っているということは知っていた。私を斬って気が済むなら、私を斬ればよい。ただその前に冷静に私の話を聞いて欲しいのだ!真実を知って欲しいのだ!」

 と、そこまで言うと、彼はそこに跪いて、盛高に土下座した。

「どうか、頼む!---誤解を解きたいのだ。---切って捨てようがあとは好きにすればよい!」

 住蓮にしてみれば、自分の命と引き換えでも、近江佐々木家に起こったことの真実を、そして時子の最後がどうであったかを、しっかりと彼に伝えたかったのだ。

 しかし、住蓮のこの誠意は激高している盛高には所詮通じなかった。

「黙れ、黙れ!時実、時子を死に追い詰め、さらにはわが父母までも憤死させた張本人はお前であろうが!他にどんな真実があるというのだ!」

 と、叫ぶや、彼は太刀を振りかざすと住蓮に飛び掛った。そして彼をめがけて、思いっきり太刀を振り下ろそうとしたその瞬間だった。

「どさっ」と、鈍い音と共に盛高はその場に倒れた。

 いや、倒された……。正確に言えば……。

 いやもっと正確に言うと、その場にねじ伏せられたのであった。

 そして、彼をねじ伏せたのは、誰あろう、あの放免次郎と三郎の二人であった。

「放せ!」

 盛高は必死に叫ぶが、 二人に抑えられて身動きが取れない。それでも何とか二人の手を振り解くと、今度はもみ合いとなった。

「盛高様!」

 と、突然の出来事に、それまでなす術なく様子を見ているだけであった清兵も、そのもみ合いに飛び込んだ。――素手と素手の喧嘩となった。こうなると、力自慢の放免に敵う者などいようか?彼らの腕力にはさすがの盛高も敵うはずもなかった。

 次郎が盛高を、三郎が清兵を、最後には思い切り投げ飛ばした。しかも運の悪いことに、盛高は投げ飛ばされたはずみで、河原にあった大きい石にしこたま頭を打ちつけた。

「ううっ」

 目の前が真っ白になった。

「俺は死ぬのか?」

 彼は遠のく意識の中で、敵を討てぬままこのまま死んでいくのか?と自分の運命を呪った。

「盛高様!」

 薄れていく意識の中、ゆきの声を聞いたような気がした。それともあれは天女の声か?

 心地よかった……。

「死ぬにしても、それでも死ぬ前に、ゆきの声を聞けたなら、俺は幸せだ」

 そう思うと心が軽やかになった。

「盛高様!」

 遠のく意識の中で、夢心地に、ゆきの声がいつまでもいつまでも盛高の頭の中で反響していた。

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