第二部第二十章
しかし時代の奔流は、平安に満たされた彼ら二人の笑い声を完全に流し去ってしまおうとしていた。
朝廷、宗教界、鎌倉幕府、彼ら支配者階級に属する者達は、敵対、憎悪、策略の中に生きていた。そんな彼らは平安、平和を希求する民の心を決して良しとはしなかったのは当然のことである。
支配に必要なものは恐怖であった。そして実際、恐怖が貧困、飢餓に苦しむ民達を完全に支配していたのである。
京の都の治安は相変わらず最悪だった。貴族たちは私兵を雇い、己が身を守るのに必死で、民の生活への関心などこれっぽちもなかったのである。
そんな流れの中で……。
建仁元年(千二百一年)の師走のことであった。
秘密裏に行われた、慈円と法然の会談は、結局物別れに終わってしまった。
それはこういう時代背景の中、ある意味、当然の帰結であったのかもしれないが……。
会談の詳しい経緯はどの歴史書を紐解いても記載はされていない。従って会談が決裂した理由は今となってはまったく分からない……。
また、それを詮索したところでどうなるものでもないのかもしれない……。
ともあれ……。
そして年は明けて、建仁二年(千二百二年)二月、場所は京の東山、青蓮院……。
「まったく、あの頑固者め!」
慈円は愚痴をこぼす毎日を送っていた。
慈円にしてみれば、座主就任後、天台衆徒たちに秘密にしてまで、執り行った法然との会談であった。当然そこには彼なりの覚悟があった。
そして、それなりの覚悟を持って臨むからこそ、法然も折れて来るであろう、との思いがあったのも事実である。
予想は裏切られた。
「浄土宗なるものの立宗宣言を撤回しさえすれば、天台内部の不満については、このわしがすべてうまく収める!」
法然にこう迫ったが、法然は頑として譲歩しなかった。
「浄土の宗を立てること、これは凡夫のためなり。また兼ねては聖人のためなり」
法然は、こう言って、立宗宣言の撤回を求める慈円の要求を、拒否したのである。
立宗宣言ーーそれは法然が著述した選択本願念仏集に記されていた。
法然が著した選択本願念仏集の写本は、門外不出とされていたにも拘らず、いつしか南都北嶺の僧達の手にも入っていた。
その冒頭に浄土宗立宗の宣言があった。
即ち…。
−ー問うて曰く、それ宗の名を立つることは、もと華厳・天台等の八宗・九宗にあり。いまだ浄土の家において、その宗の名を立つることを聞かず。しかるを今、浄土宗と号すること何の証拠かあるや。
この質問に答えたものが、上に記した法然の言葉である。
浄土の立宗を高らかに宣言したこの本が、叡山や興福寺の衆徒を激怒せしめたのは言うまでも無い。
そして、慈円にとっても、他のことは多少譲歩できても、法然一門を天台の影響力の下に留めて置くためには、この立宗宣言の撤回は必須であった。
「慈円様の申し出、これを断れば、自らの一門への風当たりがますます強くなろうことは自明。それにもかかわらず、法然が拒否したのは、全く解せませぬな」
慈円の弟子達も、自殺行為に等しい法然の態度に一様に首をかしげていた。
いずれにせよ、この会談の決裂の結果、法然一門と天台との関係は、両者の真の思惑がどうであったにせよ、結果的には完全に敵対化してしまった。
しかも、かろうじて、法然に対して欺瞞的なやりかたではあったが、それでも多少の好意を持って接した慈円が、この会談の失敗の責任を取った形で、座主の地位を退いてしまった。
いや、むしろそれは、匙を投げた、という表現のほうがより適切であるかもしれない。
吉水の側も、反応は複雑だった。
「天台からの弾圧はもはや避けられまい」
会談決裂という結果を受けて、法然門下の多くの弟子達はただただため息をつくばかりであった。
ただ一方では、一部過激な弟子たちが、この決裂をむしろ歓迎していたのも事実であった。
「天台、何するものぞ!」
そう言って、辻説法でも、既存の宗派に対する非難をますます強めていた。
応水が”誤りである”と悟った、怒りの念仏が、辻辻で行われた。これが、民衆の怒りを増幅させたのは言うまでもない。
怒りの連鎖……。
いつ爆発するのか?
都人たちは戦々恐々とした思いで、日一日を過ごしていた。
一方、匙を投げた形で、座主を退いた慈円は「かねてからの願いであった歴史書の著述に専念したい」と言って、青蓮院に篭ってしまったのである。
丁度、一月には兄の九条兼実も、妻の七十七回忌に、法然を戒師として出家してしまった。
「わしもそろそろ潮時か?」
と、思ったのも事実であった。
思えば長い権力闘争の人生であった。
彼はしかし、冨と名誉を手に入れんがために、この闘争に参加したのではない。ーー少なくとも彼自身はそう思っていた。
彼には、彼なりの自負心があった。
それは、自分こそが、天台を建て直し、そして、その天台を中心に、この日ノ本の国の混乱を収めるのだ、という決意である。
天台と法然一門との対立問題……。
慈円の鋭い時代分析は、この対立問題が、ただの宗派の争いという問題に留まらない、ということを見抜いていた。
法然が率いる念仏者集団の力は、今や無視できぬほどに巨大化していた。
しかも、民衆ばかりではない。――朝廷内にも、鎌倉幕府内にも、その帰依者は日毎に増えていた。
即ち、法然一門を敵にまわすということは、彼らを支持する、これら無数の民衆を敵に回すということである。――それだけは避けたかった。
「あとは、天狗の目論見が失敗することを祈るのみじゃ……」
そう願う、慈円の耳に、吉水の方向から念仏の声が聞こえてきた。
いつものことであった……。
しかし、その日は、その声が天狗の高笑いのように、慈円には聞こえてならなかった。
「わしに出来るのは、あとは天狗退散のための加持祈祷ぐらいであるな……」
そう呟くと、慈円は勤めのため、講堂へと足を向けた。
講堂へ向かう廊下の冷たさが、今日はいつにもまして厳しく感じられた。
講堂へ着いた……。
「さて…」
彼はそう呟くと、堂内に一人座した。そして黙想を開始した。
左様、天狗の大合唱を撥ね付けるために、慈円の選んだ行は皮肉にも念仏であった。
もっとも、それは、法然一門らが主導する口唱念仏ではないことは言うまでもない。
---かねてより天台で行われていた観想の念仏である。
渾身の力を込めて、無限に広がる浄土世界、そしてそこに住まわれる諸仏を、ただひたすら想うのである。
果てしなく無限に広がる宇宙を想いながら、慈円は阿弥陀仏を思い描くために、懇親の力を込めて念仏を続けた。