第二部第十九章
翌日、青年僧の元気な声に、応水は目を覚ました。徹夜の念仏で、いつしか眠りに落ちたらしい。座ったままであった。
目の前の床には、しかし、その青年僧――即ち、範宴はいなかった。
彼の声は外から聞こえてくる。---しかし何を叫んでいるのかははっきりしない。
応水は目を擦りながら、外へ出た。
見ると、範宴が「感謝です!阿弥陀如来様!」と叫びながら嬉しそうに飛び跳ねている。
「どうしたのじゃ?」
応水の問いかけに、彼は満面に笑みを浮かべると、こう答えた。
「夢に、阿弥陀如来様が現れたのです!」
応水は腰を抜かさんばかりに驚いた。
「何と!」
範宴は話を続けた。
「昨夕、応水様に勧められるまま、早くに床について、すこしうとうととし始めた時でした」
「ふむ」
応水も彼の話に聞き入った。
「何と、阿弥陀如来様が私の枕元に現れたのです!」
「何?」
応水は、自分の昨夕の不思議な体験を思い出した。
「この青年もかような不思議な幻を見たのであろうか?」
そんな応水の心の動揺をよそに範宴は話を続けた。
「すると、如来様がこう私にお話になるのです」
「ふむ」
応水はさらに聞き耳をそばだてた。
「『範宴、そちの悩み、確かに私は聞いた。しかし、今は休みなさい。あとで、私は観世菩薩をそちのところに遣わそう。無量の知恵をもって、菩薩は、そちの魂を苦悩から解き放ってくれるであろう』……そうお話になるのです!」
応水は驚愕のあまり絶句した。
「二人の人間が相前後して、かように不思議な体験をしたのは、単なる偶然か?」
そんなことを思いつつも、応水は、ともかくも興奮しているこの青年僧を宥めようとした。
「範宴殿、ともかく中に入りなされ」
「はい!」
範宴は、応水にそう促されると、嬉々とした表情のまま草庵へ戻った。
「ともかくも、まずは体力を回復させんとな」
応水はそう言うと、棚から、何か薬草を取り出した。そして、それを煎じ始めた。
「数日、ここで過ごしていかれよ。なーに、すぐに元気になるわい。その後、そちをある人物に会わせるとしよう。わしの昔からの友人じゃ。――と言うても、年はずっと若いがのう」
応水は、彼を住蓮に引き合わせようとしたのである。
「同じように自分の生き方を悩みぬいた住蓮なら、この青年を立ち直らせることが出来よう」
そう、彼は判断したのだ。
「はい?」
突然の提案に範宴は戸惑いを見せた。応水は彼の不安感を取り除こうと、住蓮と自分との関係について語り始めた。
近江の国、馬渕の里での出会いに始まり、今に至るまで……。
時子とのことも、すべて……。
範宴は興味深そうに彼の話に耳を傾けた。
「若者は若者同士、悩みを語り合うのが一番じゃ。――そうしているうちに、観世菩薩様が、そちの悩み、確かに解決に来てくださるであろう!」
応水の励ましの言葉に、範宴はいたく感動したのか、突然泣き始めた。
「ありがとうございます!私のような者に、かように心を砕いていただいて、……本当に、本当に有難うございます!」
ひとしきり泣き終えると、彼はようやく冷静さを取り戻したようだった。
「吉水の上人様のことは聞いておりました。一度、教えを請いに行こうかとも考えておりました。しかし、私の悩み、あまりにも身勝手なことであります。そんな身勝手な悩みで、高名な上人様を煩わせることなど出来ましょうか?そんな思いで悲しみにくれておりました。まこと、その上人様のお弟子様と引き合わせていただけるのであれば幸い至極。喜んでお会いいたします。本当にかたじけのうございます」
彼は再び深々と頭を下げた。
応水はどこまでも純粋な彼の志に改めて感動した。そしてこう彼に告げた。
「なーに、大したことではない。面白い人物じゃ。六時礼賛に全身全霊を打ち込んでおる。――それと、もう一つ、犬神人の里での説法、布教にもな……」
「犬神人の里で?」
範宴は"犬神人"と聞いて、一瞬驚いた表情を見せた。しかし、彼の見せたこの反応は、差別偏見から来る拒否反応ではなかった。――応水にはすぐにそれが感じ取れた。
自分の知らないことを、ありのままに知りたい、そんな純粋な探究心がなせる業であった。この青年の思いは、彼の表情から応水に瞬時に伝わっていた。
「左様、犬神人の里でじゃ……」
と、言うと、応水はそのまま続けて、住蓮が、かっての恋人との縁で、その里へ出入りするようになったこと、そして、そこで説法をするようになったこと。そして、さらには、安楽をはじめ、それを支援する友人たちのことをざっと彼に伝えた。
「吉水の上人様はかように懐の深い人であられましたか……」
白らいが”仏罰”として考えられていた当時の常識で、範宴が深い感慨を持ってこの話を受け止めたのは当然のことではあった。
応水は彼の反応を確かめると、さらにこう続けた。
「もっとも、上人様門下の弟子の中にも、彼らとの交わりについては距離を保つ者も多いのが事実、いや悲しい話じゃが、それが現実なのじゃ……」
説明を聞いた範宴は悲しげな表情となった。その表情が彼の純粋な心を表していると言えた。
「そうでございましたか」
純粋な心……。それは正義、公正、弱者への労わり、といった言葉で表現出来ようか。
応水はこの青年が希求しているそれらのものを、彼の目から直感的に感じ取った。
一見弱弱しく見える彼の目が、今や真理追求の炎を燃やしていることを、応水は決して見逃してはいなかった。
「そうじゃ。吉水に集う念仏聖達にして、まだ、深い旧い偏見から逃れられておれん。情けないことじゃ」
応水はこれらのことをすべて話し終えると深いため息をついた。
暫し沈黙の時が続いたが、その沈黙は、竈から聞こえてくる、ぐつぐつという、湯が湧き始めた音で破られた。
「おお、煎じ終えたようじゃ……」
応水は範宴に薬を勧めた。
「まことにかたじけのうございます」
範宴は、ぐっと一息に、煎じられた薬を飲み干した。
「これはまことに苦い!」
そう言って、範宴は少し顔を歪めたので、応水は笑ってしまった。
「笑わないでください!」
そう言う範宴も笑い出した。
「笑い、笑い…」---応水は思った。
「そうだ、笑うことすら忘れていた…」
腹の底から笑っている自分に気がつき、応水は何とも不思議な気分だった。
実際、笑いながら、応水は、この青年の純粋さに、忘れかけていた何かを思い出さされたようで、何とも表現しがたい魂の平安を感じていた。
「この青年の純粋さから学べ、という阿弥陀様のお叱りであろうか?---真理への探究、そうだ、絶対他力の念仏を唱えるためにも、さらに阿弥陀経の勉学に励まねばなるまい!」
そう思いを新たにすると、自身の若かりし頃の叡山での厳しい修行の日々が思い起こされた。
「わしも若返らねばなるまいて!わはは!」
応水はまた、そこで腹の底から笑い始めた。
二人の談笑はその日、いつまでも続いた。




