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阿弥陀仏よ何処に  作者: ソンミン
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第二部第十八章

 範宴と呼ばれた、その青年僧ーー年のころ三十そこそこであったろうかーーは、弱弱しい声ながらも、「はい」と、返事をすると、体を起こして姿勢を正そうとした。そして地面に正座すると、頭を深く下げた。

「堂主様、まことに申し訳ありません。かように迷惑をかけたこと、深くお詫び申し上げまする!」

 範宴と呼ばれた青年僧は、六角堂の堂主にこうして謝罪の言葉を告げると、しかし、再びそのまま地面にへたりこんでしまった。六角堂内に飲まず食わずの状態で百日間近くも閉じこもっていたので、体力が消耗しきっていたのである。

 堂主は再び範宴に言った。

「範宴殿、もうよい。無理はせずとも」

「申し訳ありませぬ!」

 そのままの姿勢で、重ねて謝罪をした青年であったが、続いてすぐさま、彼はわっと泣き出してしまった。

 応水が、この青年僧と堂主の間に割って入った。

「私は応水と申す者、この近くに草庵を結び、暮らしておりまする。この若者、私がいったん引き取りましょう。体力の消耗もかなり激しい様子でありますし……」

 応水の申し出に、六角堂の堂主は安堵の表情を浮かべた。

「いや、それは助かりまする。まこと、太子様を慕って、来られる方を我らも無碍にはお断りできませぬから……。それでもこのようなことがありますと、責任が持てませぬ。それゆえ、貴殿が、この者預かっていただけるということであれば、これに勝る妙案はありますまい。よろしくお願い申し上げまする」

 そう言うと彼は合掌して立ち去った。

 後には応水と青年僧だけが残された。青年僧は泣き崩れたままである。

「ともかく、わしのぼろ小屋へ行くとするか」

 応水は青年僧を促した。手を貸すと、彼は青年僧を抱きかかえるようにして、六角堂を出た。

 小屋まではそう遠くない……。鴨の河原の手前、東の京極のあたりに彼の草庵はあった。そこへ何とかたどりつくと、彼は、青年を床に寝かした。

「必要な水分は取った。今日の所は、あとは寝ることじゃ。明日から少しずつ粥など食べ始めるといたそう」

 青年僧はようやく泣き止んだ。涙を拭うと、彼は応水に感謝の念を伝えた。

「ありがとうございます。あなたがいなければ私はもはやこの世にはいなかったかもしれませぬ……。いや、それともいっそ……」

 青年僧はそこで口ごもった。

 応水は尋ねた。

「それともいっそ、とは?」

 青年は答えた。

「いっそこのまま死んでしまっても、それはそれで良かったのかもしれません……」

 応水は青年をたしなめた。

「何を馬鹿なことを言うか!」

 応水は、悲嘆に打ちひしがれているこの青年に、それでもどう声をかけていいいものか少し思案したが、「なーに、これも御仏のお導き。そちはまだまだ生きて、この世のために役立たねばならぬ、という仏の命令と考えなされ」と、まずは青年を励ました。

「この世のために……」

 青年僧は、てっきりひどく叱られるものと思い込んでいたので、この応水の激励の言葉に戸惑った。

 応水は、そんな青年の戸惑いをよそに、さらに言葉を続けた。

「左様、聞けばまことに青年らしい悩みごとではないか。恥じることではない。今の時代、恋事に命を懸けるほど悩みぬくことも大切ではないか。そうしてこそ……」

「そうしてこそ……」

 青年僧は応水の説教に聞き入っていた。

「左様じゃ。そうしてこそ、今の時代の民の苦しみも理解できようというものじゃ、真剣にな」

「民の苦しみ……」

「そうじゃ。自分のあり方すら真剣に悩めぬ者が、どうして他人のことで悩み抜くことなど出来よう!違うかな?」

 青年僧は応水の説教に心動かされるものを感じたらしい。彼の話の続きを聞こうと、体を起こしたその瞬間であった。

「あっ」

 と言うと、彼は気が遠のき、再び蹲ってしまった。激しいめまいに襲われたのだ。

「無理はするな!」

 応水はすぐに駆け寄って、介抱した。幸い、一時的なめまいで、青年僧はすぐに意識を取り戻した。

「ともかく今日はまずゆっくり寝ることじゃ。話はまた明日に!---お主とはいろいろと楽しい話が出来そうじゃ。ははは」

 そう言い放つ応水の快活さに、青年僧は安堵感を覚えた。

「では、お言葉に甘えさせていただきます」

「そうしなさい……。ところで名前は何と言ったかな?」

 青年僧はしっかりとした声で答えた。

「範宴と申します」

「そうか、範宴……よい名じゃ」

「はい、この名前、慈円様につけていただいたものでございます」

 応水は驚いた。

「何と、貴殿はあの慈円の弟子であったか」

「はい、青蓮院にて、慈円様の下で得度いたしました」

「何と!」

「はい、そして、慈円様が座主となり、比叡山に登られたとき、私もお供し、その後叡山で修行していたのであります」

「左様であったか……」

 皇室にゆかりの青蓮院で、あの慈円から得度を受けたということは、即ち、この青年の出自が、それなりの身分の家の生まれであったということを物語る。

「叡山において、それなりに出世することも出来たであろうに……」

 応水は何とも言えないやるせない思いであった。---噂には聞いていた、この青年の恋の悩みは、叡山での出世の道を諦めさせるほどのものであったということである。

「この青年の苦悩を何としても救ってやらねば」

 応水はそう固く心に決意すると「さあ、まずはともかくお休みなされ」と、優しく彼に言った。

「はい!」

 青年の元気な返事に安堵すると、応水は彼を置いて、外へ出た。

 ――夕暮れであった。

 西の方角にきれいな夕焼けが見える。---道行く人の中には西の方角に手を合わせて合唱する者もいた。当時は、多くの人が西方のはるか彼方に浄土があると素朴に信じていたのである。

「西方浄土か……」

 応水は一人呟いた。

「さてさて、阿弥陀仏様は何処におわすか……。西方浄土におわすか、はたまた……。お忙しいことではあろうが、是非とも、この青年の下へお出でいただきたいものじゃ。この応水の願い、聞いてくだされ。あの住蓮を救ってくださったように。なにとぞお願い申し上げまする!」

 応水も目を瞑って合掌した。

 夕日がまことに美しかった。すると、何か心が洗われるようで、いつも心のどこかに殺伐とした感情を抱えている自分が何か非常に惨めに思えてきた。

 先ほどの青年僧との出会いも影響した。――恋に関する純粋な悩みは、この世の凄惨さからは程遠いところにある、ある意味勝手な我侭とも言えた。

 しかし、その青年の魂の純粋さは、宝石のごとく煌いている……。

 こんな感情は久しぶりであった。

 いつもと同じ光景であるのだが、何故か時がゆっくりと流れているように感じた。ともすれば憐憫の対象ともなりがちな、あるいは自分の説法をなかなか受け入れない時などは、怒りと嘆きの対象とすらなってしまうこともある、そんな貧しい民衆の姿も、どういうことだろう、快活で明るく生き生きと楽しげにすら見える。

「阿弥陀様があの西方浄土におられる……」

 ふと、そんなことを思うと、彼は一心不乱に念仏を唱え出した。

 念仏を唱えつつ、心の中では『阿弥陀様よ、来てくだされ!そしてこの民を苦しみから救ってくだされ!』と、叫び続けた。

 京極に近いここは、普段から雑踏ひしめくところである。夕方なので人の往来は特に激しい。目を瞑りながらも、人々が脇をすり抜けていくのが感じられる。

 どこを向いても貧しい民ばかりである……。

 あちこちで叫び声すら聞こえる……。

 応水はそんな喧騒の中、一心不乱に念仏を唱え続けた。

 念仏を唱えるのはいつものことではあった。

 しかし、今日は何故か心の安らぎを覚えた。それは、この美しい夕暮れの光景を、その中で暮らす民を、自分の念仏で何とかせねばならないという、焦燥感から解き放たれたためであったろうか?

 この美しい光景に、こののどかな時の流れに身を委ねている自分……。不思議な安心感で心は満たされた。

 まるで母の子宮に戻ったような感覚……。

 時を忘れて一心不乱に念仏を唱えた、すべてをあるがままの今に任せて、己を忘れて、いや、打ち捨てて!

『阿弥陀様よ来てくだされ!』

 心の中の叫び声は益々大きくなっていった。

 ーーどれだけ時間が経過したであろうか。

 一心不乱にこれほど念仏を唱えるのは久しぶりであった。それも、道のど真ん中で……。

 ――いつしか周囲の喧騒も耳に入らなくなった。

 思えば、民衆を前に説法に明け暮れる毎日であった。なじられることがあると、つい、説法の声も大きくなった。何とか説得しよう、説得しようと思えば思うほど、声と苛立ちは大きくなり、あとには虚しさだけが残った……。

 それがどうしたことだ?

 この安らぎはなんだ?

 体の芯を突き抜けるような心地よさに、いつしか体が支配されていた……。

 すると、突然、応水の左の頬の横を冷たい風が吹き抜けた。前から後ろに……。正確に表現すれば、それは冷たい風、というようなものではなかった。風ならば、体全体が感じるはずである。それは、頬だけで感じられた。丁度、頬を川の水に浸した時のような、そんな冷たさだった。ーー限りなく心地よい感触であった。

「これはどうしたことか?」

 と、考える間もなく、今度は同じ感触を右の頬に感じた。後ろから前に……。続いて左の頬を前から後ろ、また続けて、右の頬を後ろから前に、……そう、応水の顔の周りをその風らしきものはぐるぐると回りだした。

 そして次には、体全体、すっぽりと包むように、体の周りを回り続けるのであった!

 すると、体がますます恍惚感で満ち溢れてきた。周囲の喧騒は全く聞こえなくなった。−−限りない静寂の世界……。

 こんな体験は初めてであった。

 応水は念仏を中断した……。

 そして、一体自分の身に何が起こっているのか、この感触の原因を確かめるべく、恐る恐る目を開けた。

 するとその瞬間、閃光とも言える強烈な光に照らされた。一瞬目が眩んだ。−−ようやく明るさに眼が馴染んで、周囲の光景が目に飛び込んできた。

「何と!」

 応水は自分の目を疑った。

 目の前に広がっていたのは時間の止まった世界だった。全てのものが停止していた。道を歩いている人の中には片足を宙に上げたままの人もいた。ーー空を飛ぶ鳥も翼を広げたまま宙に止まっている。

「何と言うことか!」

 そして、気が付くと、応水自身も身動きが取れないでいた。

 何とか体を動かそうともがいてみるものの、全く金縛りの状態であった。

「これは一体!」

 とは思うものの、無論声は出ない。−−心の中で「助けてくれ!」と叫んだその瞬間であった。

「応水、そちの願い確かに聞いた。安心めされよ……」

 美しい、そして限りなく優しい女性の声が耳元で響いた。

「あっ!」

 と叫び声を上げると、応水はその場に崩れ落ちて、倒れこんだ。

 激しい頭痛と眩暈に襲われた。意識が遠のくのを感じた。

 −−蹲ったまま暫く時が過ぎた。

 どれだけの時間が過ぎただろう---。

「大丈夫か!」

 見知らぬ男の声に、応水は我に返った。まだ頭痛がしたが、何とかその声の主の男に支えられて立ち上がった。

 −−見ると周囲の光景は活気に溢て、いつもの通りであった。

 すべては生き生きと活動している。−−当たり前のことではあるが、応水はそれを確認するため、周囲の物の動きを自らの目で追った。  

「大丈夫か!」

 再び男の声がした。通りがかりの者らしい。応水は彼に支えられて身を起こした。

 ようやく応水は我に帰った。

「かたじけのうござる。なーに、もう大丈夫じゃ。少し眩暈がしただけのことゆえ……」

 応水は男に、何とかそう礼を言った。男が去ると、彼はもう一度周囲を見回した。

 すべてはいつもの夕暮れの光景であった……。

 何ら疑問の点はない……。

 すると、彼は自分の目を何度も擦り始めた。そして、続いて自らの手で自らの頭をこつこつと叩いた。−−先ほどの不思議な体験が、現実だったのか、幻だったのか、自分でもまだ測りかねていたのである。

 夕日が西山にかかって、その姿を隠し始めると共に、次第に日差しは弱まっていった。

 先ほどの眩しい光は、夕日の光に一瞬目が眩んだだけのことだったのか?

 先ほどの女性の声は、念仏に没頭するあまり、自らが作り出した幻の声であったのか?

 ---答えは出ない。

 狐に抓まれた気分で、応水は、答えを見出せぬまま、まずは自分の小屋へと戻った。

「安心めされい……」

 という、あの女性の声が頭の中で木霊していた。

「阿弥陀様が……」

 と、そこまで呟くと彼は大きく頭を横に振った。

『まさか、そんな!』 

 そう心の中で叫びつつ、彼は振り向くと西山に沈む夕日をもう一度見やった。

 真っ赤な夕日を眺めて立ち尽くしていると、彼の心に何かしら感動が沸き起こるのを彼は感じた。それは、この世の凄惨な現状に常に怒りを燃やし続けてきた彼にとって、そして、その凄惨な現状を改善すべく、ありとあらゆる権威と戦ってきた彼にとって、は、ある意味まことに新鮮なものであった。

 そう、今までの彼の生きる力の根源は、『怒り』であった。ーー常に怒りと共に生きてきた。民を弾圧する力に対する怒り……。

 しかし、ここで説法をするうち、いつしか説法を受け入れぬ民にもその怒りがややもすると向くようになっていた。

 そして、絶望感、失望感に明け暮れる……。

 自らの力で何とかしよう、しようと思えば思うほど何ともできない苛立ちに襲われる。---それが、今は、心に湧き上がる感動で満たされている。

 それは、民が自分の怒りの説法を聞き入れて、念仏信者となることを受け入れる決心をしたのを見るのとは、また違った異質の感動であった。

 怒りの感情とは対極にあると言える……。

 怒りが怒りを取り込んでいくことを否定する……。

 そう、それは、何とも表現しがたい安らぎの感情であった。ようやくにして魂が救済されたのだ、と言うような心の平安をもたらすものであった。

 彼は自らに問うた。 

「自分は念仏布教と言いながら、その実、自らの怒りの力を、人々に振りまいていた、発散していただけのことに実は過ぎなかったのか?」

「人々が求めているのは魂の平安であり、怒りではない」

「そもそもがちっぽけな人の力で何が出来よう!――それなのに、自分はあまりにひとりよがりではなかったか?」

「念仏を唱えていても、実は怒りをぶちまけているだけではなかったか?――念仏を唱えていても形式的にしか過ぎなかったのではないか?心がこもっていたか?」

「人々に念仏を勧めながら、自分はどれだけの時間を念仏に費やしていただろう?」

「自分は真に阿弥陀様にすべてを委ねたことがあったろうか?全身全霊を込めて、力の限りすべてを?」

「阿弥陀様の力こそ無量無限であり、それに絶対的に頼ることこそ肝要なのだ……。これっぽちも人の力があってはならないのだ!」

 様々な思いが心を駆け巡った。

 応水は、悔い改めるべきは我が身である、とここに悟った。彼ははっと我に帰ると思わず叫んだ。

「阿弥陀様よ来て下さったのですか!」

 突然の叫び声に、道行く人が不審な顔で振り返った。

 応水の心はしかし、喜びで満たされていた。

「阿弥陀様よ、来て下さったのですね!」

 今や彼は確信した。

「そう、まさか?ではない。絶対的に全ての事柄を委ねる時、阿弥陀様は来て下さるのだ。その人の心の中に来て下さるのだ。そして事実、来てくださったのだ!」

 応水は目から鱗が取れた感覚であった。

「絶対他力……。絶対他力……。己が力を捨て去りすべてをゆだねる……。そうだ!絶対他力こそが、阿弥陀信仰の真髄なのだ!」

 そう喜びの声を上げながら、彼は草庵へ足を向けた。

 何ともすがすがしい気持であった。

「そのことを阿弥陀様はわざわざ教えに来て下さったのか?---今までそんな分かりきったことに気がつかなかったとは!」

 そう呟かきながら草庵へ帰ると、彼は念仏を再び唱え始めた。 

 聞く人が聞けば、その念仏は今までの彼の念仏とは違ったものであることが分かったであろう。

 それはひとりよがりの、怒りを爆発させるための念仏ではない。絶対他力の、魂の平安を求める念仏であった。

 彼の念仏の声は、夜更けまで続いた……。

「どうしたのだ、応水の念仏の声が、今日は人が違うようじゃ」

「まこと、今までは、怒るような怖い念仏であったが……」

「なんと、あの坊主がこんな美しい声を出すことができたのか?」

 人々は噂し合った。

 左様、生まれ変わった彼の、その絶対他力の念仏は、素晴らしく美しい音楽となって、その夜多くの人の心を魅了したのであった……。

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