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阿弥陀仏よ何処に  作者: ソンミン
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第二部第十六章

 そうこうして、建仁元年(千二百一年)のうららかな春も過ぎ……。

 同じ年、五月のある日……。

 源頼朝の死から二年、鎌倉幕府内の内輪もめは相変わらず激しく、政情は安定しなかった。そのせいもあって、都の治安も改善の兆しは一向に見えなかった。

 そんな中……。

 ここ吉水の里、法然の庵では、法然一門の中にあって、法然に近い弟子達が会合を持っていた。

 中心には、今年五十七歳になる信空が座していた。彼は、叡山では法然と同門の弟子であり、最も古参の弟子であったのはすでに述べたとおりである。

 そこで当然ではあるが、彼を中心に会合は進められていた。

何とも重苦しい空気が場に漂っていた…。

 話題は、近日中に執り行なわれる予定となった、法然と慈円の会談についてである。

 慈円から、先日、会談を持ちたいとの手紙があり、法然がこれに応じたのであった。

 慈円は法然の快諾を喜んだが、法然側は、というと、弟子たちが集まったこの会合の重苦しい雰囲気を見る限り、法然自身の思惑はともかく、弟子たちが当惑していることは間違いないと言えた。

 そんな重苦しい雰囲気の中、信空が重い口を開いた。

「上人は何をお考えか。この度の天台よりの申し出に、『ありがたい話、お受けいたします』と、誰にも相談されず、いとも簡単に応じられた。真意を尋ねても、何もお語りになられない。まったく、五年前に大病を患われ、何とか回復をされたものの、お体を大切に、という周囲の進言も果たして耳に届いておられるのかどうか……。そんな進言を無視するかのように、続いては、一日七万遍に渡る念仏の行を連日行われた。それでも、何とか、この荒行を成し遂げ、念仏三昧発得をされて、それはそれで喜ばしい限りではあるが、それ以後というもの、話をされることもめっきり少なくなってしまって、今回の件も、上人の真意がどこにあるのか、とんと図りかねるのだが……」

 一番弟子ともいえる彼の、愚痴とも聞き取れる内容の言葉にその場の多くの者が頷いた。

 すると、信空に続く古参の弟子である湛空が、続いて意見を述べた。

「まこと、大原談義の折は、大原勝林院の顕真様は、浄土信仰厚く、ある意味、我らの味方とも言えましたし、談義中も三日間、我らを始め、多くの念仏者が師の応援に駆けつけることも容易でありました。しかし、この度の会合は……」

 この湛空の発言を受けて続いたのは、五年前に九州より上洛、法然の弟子となっていた弁長である。信空、湛空ら古参の弟子が、どちらかというと戒を厳格に守る保守派であり、目立った行動、発言が少なかったのに対し、弁長を始め、ここ最近に入門したものは、説法を中心に、念仏布教に情熱を燃やす者が多かった。このため、このような会合が持たれると、彼らは活発に意見を述べることが多かった。

 彼は、こう発言した。

「左様でございます。この度は、この会談、青蓮院で執り行なわれるという話。――青蓮院は天台の末寺とはいえ、天台の寺での会談となりまする。しかも、門主は座主の地位を慈円に譲った真性殿。彼は、慈円の一番弟子でごさります。この状況では我ら応援に駆けつけることも叶いますまい。まかり間違えば、叡山の衆徒ども、待ち伏せの上、上人様の命を狙うとも限りませぬ」

 彼らは、会談の成り行きと共に、法然の身をも案じていたのである。

 果たして、生きて青蓮院から出てこられるものかどうか……。

 法然の身の危険に話が及んだためか、再び、重苦しい沈黙がその場を支配した。

 ため息だけが聞こえてくる……。比叡山の衆徒たちの、法然一門への批判は日を追うごとに強まっている。過激な者の中には、法然の身柄を引き渡せと主張するものも多いと言う。

 そんな状況下で、天台の寺で会談を持つことが、ある意味どれほど危険であるか、彼らはそれを案じていたのである。

 そこへ新たに一人が発言を求めた。四年前に法然の弟子となった幸西である。安楽、住蓮らがその一念義の教えの過激さを懸念していた人物である。

 部屋に集まった皆が、巧みな弁舌で知られる彼の発言を注視する中、彼は意見を述べ始めた。

「まこと、叡山の昨今の動き、我らを敵視し、我ら一門を機会あらば根絶せんとするものであること明々白々でありまする。たとえ、上人が何と申されようと、我らは、この度の会合の裏に隠された天台の計略の恐ろしさをあらためて上人に訴えねばなりますまい。そして、会談を中止していただくよう、上人にあらためて申し上げねばなりますまい」

 こう、幸西が言い終わると、部屋のあちこちから「左様じゃ、左様じゃ」という声がもれ出てきた。

 弁長も幸西も共に、法然上人より、あの門外不出の選択本願念仏集を付与されていたことは周知の事実であった。即ち、法然よりそれなりの信頼を勝ち得ていたと思われていた弟子の発言でもあり、他の者もそのことをよく理解していたので、あえて彼らの発言に異を唱えるものはいなかったのである。

 もっとも、幸西に念仏集を付与した法然の真の意図は、彼への信頼の結果というよりは、彼の過激な一念義の考えを正そうとしようというものであったのであるが……。

 すると、部屋の隅の暗がりでそれまで黙っていた一人の僧が、

「よろしいか」

 と、発言の許可を求めた。

「申されよ、ここは自由闊達に議論をする場。集まられた人々の意見を率直に聞きたい」

 信空から促されて、その僧が前に進み出た。ろうそくの灯火に照らされて、僧の顔がはっきりと確認出来た。小柄で、細面の顔である。このため暗がりでは全く目立たなかったのである。しかし、今や、その僧が誰であるか分かると、一同はざわめいた。

 信空も、その僧の顔を見て、思わず居住まいを正した。

「おお、これは隆寛殿……。ここへおいででありましたか」

 そう、彼こそ、あの慈円をして、『長楽寺に彼を派遣したことは、失敗であった』と言わしめた、長楽寺門主、天台律師の隆寛である。

 すでに述べたが、彼は、もともと、慈円から、法然一門の情報収集のために、長楽寺に派遣されたのだが、その結果は、法然の教えに心酔し、いつしか彼の弟子となってしまったのである。

「天台に僧籍を置いたままの身分で、信空様始め、上人の直々のお弟子様たちに、このように意見を申すこと、まことに心苦しい限りではありますがお許しください」

 左様、彼がこう述べたとおり、彼は未だに天台の僧籍を離れずにいた。即ち、法然の弟子たちの中にあっては外様の弟子であると言えた。ーそいて外様の弟子であるがゆえに、遠慮して、場の中心から離れた片隅に座っていたのである。

 しかし反面、自らの地位、才能、見識を決して鼻にかけることなく、むしろ常に控えめな態度を取り続ける、このような謙遜さもあって、彼は多くの者から好意を持たれていた。無論、法然の弟子となってからの勉学熱心さも人一倍で、浄土経典の緻密な研究など、法然も、彼には一目置いていた。

 しかし、一方で「彼は裏では今も天台と通じている。信用ならぬ」として、彼とは距離を持つものいた。

 ー暗がりで囁く声がした。

「あの方が、天台僧であるにも関わらず、上人が著された、門外不出の『選択本願念仏集』の写本を、近々許されるであろうというお方であるか」

「まことに、上人の信頼も厚く、また、その博学さは、一番弟子の信空様をも上回ると言う、専らの噂じゃ」

「しかし、妻帯されているということじゃが……」

「だからこそ、天台では、律師以上の出世がなかなか叶わぬのじゃ」

「なるほど」

 そんな、囁き声を遮るかのように、細面のその顔からは想像できないような、隆寛の太く低い声が、室内に響いた。

「私が思いますに、この度のこと、慈円様の、この国を憂う一途な御心から計画されたものと考えます」

 一同がどよめいた。

 慈円の今回の会談の申し込み……その背後にある天台の悪意は何か、ということを糾明せんと、皆はここに集まっていたからである。

 信空が、そんな皆の気持ちを代弁するかのように、早速反論した。

「隆寛殿、いかにそのように仰せとはいえ、今までの、天台の我らに対する誹謗中傷の数々を見る限り、このたびの申し出、そのように慈円殿の善意から出たものとはとても思えませぬが……」

 弁長がこれに同調した。

「まったく、朝廷への度重なる彼らの訴状を見れば、彼らに悪意しか無いことは明々白々であろう。確かに我ら一門の中に過ぎた言動をするものがいるのは事実であろうが、それは、我らの内部の問題。天台内部にもそのような過ぎた言動をいたす者はあろうというもの。ならば、わざわざ、我らが師と会って話しをしようなどとは、何かよからぬ魂胆があるとしか言い様がない」

 このような反論を、隆寛は黙って聞いていたが、彼らが反論し終わると、再び落ち着いた口調で話し始めた。

「確かに、ここにお集まりの皆様の危惧、十分に理解出来まする。されど、私、比叡山にて慈円様の教えを受けた身、あの方の心の内も、よく理解している者と自負しております」

 堂々とした物言いぶりに、一同が再び静まり返る中、彼の弁舌は続いた。

「あのお方の理想、目指しているものは、究極のところ調和であります。調和を重んじられるお方なのです、あの方は。曼荼羅を中心に、仏の教えを中心とした調和の世界を理想とされておられます。無論、すでに評判をお聞きの通り、確かに一流の策略家でもありますが……。それでも、何か、暴力に訴えるとか、あるいは、法然上人以下、ここ吉水に集う念仏者たちを弾圧しようなどとは決して考えてはおられますまい」

 一同は黙って聞きいっている。場が冷静になったのを確認すると、彼は安心したのか、少し間を置くと声の調子を落として、冷静にさらに話を続けた。

「もっとも、あの方のことですから、おそらく上人を何とか自らの影響下に置けぬものか、というお考えをお持ちなのでしょう。しかし、それが受け入れられないと知ったとしても、それで暴力的な手を使うなどということを考えられるようなお方ではありません」

 隆寛の落ち着いた口調ではあったが、しかし熱のこもった話に、一同はただ頷くしかなかった。

 彼の話が終わると、先程までの熱気が冷めた反動か、再び重苦しい雰囲気がその場を支配した。

「まあ、上人が承知されたものを、今さら我らが覆すことも出来まい」

 信空が沈黙を破って発言した。

 もう、十分に議論はし尽くしたであろう、という意味が言外にこめられていたのは言うまでもない。

「二年前に我が子のように可愛がっていた感西を病で失い、昨年には親しくされていた式子内親王を失われた。それからというもの、何かしら上人は元気を失われているように私には思えてならない。あまり外へ出ようともなさらないし。御年七十であられる。無理もない。その上人が、自ら会談を承知されたのだ。深いお考えがあってのことであろう。我らは事の成り行きをしっかりと見据えていくしかあるまい……。ともかくも、今日はこれにて解散することといたそう」

 最古参の弟子の発言に、これ以上意見を言うものはもはや誰もいなかった。

 皆は次々と部屋を後にした。

 その中に、安楽、住蓮の姿もあった。当然彼らもこの会合には参加していたのである。

「安楽、貴殿はどう考える」

 住蓮の問いに、安楽は答えた。

「うむ、確かに、選択本願念仏集を口述筆記させられたのは、その前に大病を患われたことがきっかけではあろう。いつまた病に倒れるやもしれん。人間、そう思えば、自らの考えを正しく後世に残すための方策を考えて当然というものであろう。であれば、今回の慈円殿との会談、やはり天台との和解を最終的には考えておられるのかもしれぬな…」

 安楽の返答に住蓮も頷いたが、少し思案顔になると、こう安楽に問うた。

「しかし、天台との和解は、そもそも可能なのか」

 安楽は言った。

「彼ら、特に堂衆が、幸西、行空らの処罰を要求している限り、難しいであろうな……」

 安楽はそう返答すると思わず溜息をついた。

 比叡山側の非難の最大の矛先が、幸西、行空らの一念儀の主張であることは周知の事実であった。

 法然は、しかし、そんな彼らを戒めはするものの、破門するようなことはなかった。それは法然の温和な性格のせいでもあったが、そもそも彼が教団の指導者であるという自覚を全く持っていなかったことがその最大の理由であったろう。

 弥陀の本願を信じる者に、身分の貴賎、地位の上下の区別なし……。これが彼の持論であった。自分もただの一介の僧に過ぎない。ただの”愚痴の法然房”なのだ。

 むしろ、幸西には正しい念仏のあり方を示さんと、選択本願念仏集を付与したぐらいである。法然は、彼の布教にかける情熱を高く評価していたのだ。ーー皆が驚いたのは言うまでもないが。

 しかし、幸西が法然の真意をしっかりと受け止めていたかどうかはわからない……。

 さらには、教団内部での、幸西、行空らの一念儀を支持する活発な動きは、むしろ一部では過激化すらしていた……。

 その中には、法然が慈円と会談すること自体、天台への屈服だとして、これを実力でも阻止すべし、というものさえいたのである。

 行空がその中心であるとの噂も流れていた。

「行空ならやりかねん。であろう、安楽」

 住蓮がぽつりと漏らした。安楽も頷いた。ー漠然とした不安が彼らの心を覆った。

 そんな、不安を吹き飛ばすように、努めて明るい声で、安楽はこう言った。

「くよくよ考えてどうなろうか!今は、我らに課せられた勤めを淡々と果たすしかあるまい!であろう住蓮!」

 友の励ましに、住蓮も笑顔で答えた。

「確かにその通り。人の力は所詮は人の力、われらは御仏の力にすがるのみだ!」

 二人は引導寺へ向かった。

「行こう!」

「行こうとも!」

 元気な掛け声が響いた。二人は歩む。

 今日もまた……。

 いつもの六時礼賛興行のために……。

 いつもの人々のために……。

 そう、極楽浄土往生を願うすべての者のために……。

 そして、何よりも"救い"を求めるすべての人たちのために……。

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