第二部第十五章
安楽の諸国行脚の計画は、法然教団のもろもろの事情により宙に浮いたままだった。
「今は教団の結束と、都での布教活動にまずは専念すべし」
という意見が多かったのである。
一念義問題以来、教団の結束をいかに維持していくか、そのことが優先されるのは無理もないことと言えた。
「まあ、仕方あるまい!今は今のお勤めを果たすのみだ!」
安楽は落胆しつつも、そう気持ちを切り替えて、日夜、住蓮らと六時礼賛に明け暮れる毎日であった。
ここ引導寺では、安楽と住蓮が六時礼賛の合間の暫しの休憩を取っていた。今は興業は大和入道が取り仕切っているところである。
「なあ、安楽。最近とんと、ゆきさんが差し入れを持ってはこんようになったな……」
住蓮が、安楽に話し掛けた。---彼も当然、ゆきのことを案じていたからの発言だが、実は寂しさもあったのである。
「ああ、でも、よいではないか。ゆきさんにも、やっと春が訪れたということではないか。みんなで祝ってやらねば」
三郎がゆきと盛高の間を取り持ったこと、そして、その取り持ちが成功して、その後、二人は河原で、よく散歩するようになったということ、二人はとても仲が良さそうであると言うことなどは、二人の耳にすでに入っていた。
住蓮は、かって自分に恋心を抱いていたゆきに、結果的にはあえて冷たい態度を取らざるを得なかったことへの自責の念もあったので、この度のことは、嬉しい思いでも受け止めていたのであった。
「ところで、その武者の名は何と言うのか?」
住蓮は、実はまだ名前を一回も聞いたことが無かったのである。
「さて、私も一度聞いたが忘れてしまった。三郎に聞いてくれ」
「そうか……」
しかし、次郎、三郎も、最近は都の治安悪化に伴い、放免としての勤めが多くなり、彼らの前に姿を表すことが少なくなっていた。
「では、また今度彼らに聞くとしよう」
そう言う、住蓮だが、まさかゆきが思いを寄せる男性が、時子の兄、佐々木盛高であるとは夢にも思っていなかったことは言うまでもない。
件のゆきはというと、盛高ら巡検の一同が鴨の河原に視察に来る日時を、三郎、次郎からあらかじめ聞きだしておいた。そして、その日が来ると、鴨の河原に差し入れを持っていくというわけである。無論、今や、お目当ては佐々木盛高である。ーーかっては住蓮会いたさに、引導寺へ弁当を持っての日参であったのだが嘘のような生活の激変ぶりではあった。
もっとも、露骨に盛高に弁当を手渡すなどという、そんな大胆なことも出来ないので、名目は三郎始め、放免たちへの差し入れのためと称し、盛高のもとへ参じていたのである。
そんなある日、河原での出来事である。
三郎が差し入れを持参したゆきに愚痴をこぼした。
「ゆきさん、わしらの弁当と、盛高様の弁当はなぜこんなにも大きさが違うのじゃ」
そう言われると、ゆきは、顔を赤らめると、「それは、だって、だって……」と、ただ口篭もるばかりであった。
すると、盛高は「これ、三郎。ゆきさんをいじめるな」と、ゆきに助け舟を出すのであった。
ゆきは、そんな盛高の優しさに、ますます惹かれていった。
盛高は盛高で、ゆきの純情な性格を好いていた。かって慈円に仕えた、比叡山、またその後の西山では、周囲に女性の姿はほとんど無かった。また、自身も、仇を求める毎日に、精神が研ぎ澄まされ、女性を見ても、惹かれるものを感じたことは無かった。
しかし、慈円に佐々木家の再興を促されて、時実への敵討ちにかける思いからも吹っ切れた今、ゆきの純情可憐さはまことに魅力的に思えて、彼もまたその虜になっていたのである。
あるいは、彼は、ゆきに、湖に身を投げた、妹、時子の面影を見ていたのかもしれない……。
ーーこのようにして、二人はいつしか、お互いに相手に恋心を抱くようになっていた。
そんなある日、いつものようにゆきは差し入れを持って、盛高のもとへ来た。
盛高を探して、やっと見つけると、彼はその日は、放免をお共にはせず、従者の六郎と二人で巡検をしていた。
ゆきを見ると、盛高は六郎に言った。
「六郎、ここで分かれて見回るとしよう。そちは北側を頼む」
と言って、六郎と別れた。
彼も、ゆきと二人きりになりたかったのである。六郎もすでに事情を周知していたので、
「わかりました」
と言うと、盛高と別れて別行動を取った。
こうして一人になったのを確認すると、彼は「ゆきさん!」と、大声で呼ぶと、ゆきを手招きした。
北面の武士と、かっての白拍子の組み合わせは、身分的には、なんとも不釣合いではあった。盛高は衣装も立派で、いかにも上皇に仕える北面の武士らしく威風堂々としていた。
一方、ゆきは、かっては白拍子として、後白河法皇の傍で、舞を演じたこともあったが、今は、すっかり河原の生活が定着して、衣服も粗末で、盛高の身なりに比べ、あまりにもみすぼらしく見えた。
しかも、都人からは今や『河原者』と蔑まれる下賤の身分である……。
しかし、盛高はそんなことには全く無頓着であった。
後鳥羽上皇の院所にも、多くの女性がいる。特に院の側室に迎えられた女性達は、きれいに着飾って、化粧も施し、上皇の寵愛を我が物にしようと必死に競い合っている。その周囲に仕える女性達も同様であった。 盛高はそんな彼女達を見て、可愛そうにこそ思いはするものの、恋心を抱くようなことは決して無かった。
そんな、彼女達に比べ、ゆきは……。
盛高は、彼女の作らない美しさに惹かれていた。真の女性の美しさは内面からくるものだ……。彼女の内面、即ち、心の美しさは生来のもの。――盛高はそう確信していた。
内面の美しさは、外見にも現れる。
ゆきの見せる笑顔……。盛高はそれを見ているだけで、心満ち足りている自分にときおり、はっと気がついて狼狽することがある。そんな時は、わざと、「さあ。お勤めに出ねば!」と、大声で自分に言い聞かせると、心の動揺を隠すために、わざとゆきから離れるのだ。
そして、「では、ゆきさん。またお会いするといたそう」と、わざと勿体ぶっ言いはするものの、内心は、出来ればもっと二人きりで時を過ごしたい、と思っていたりするのである。
そして、この日は、二人きりになる機会が、、ようやく訪れたというわけであった。
河原に腰掛けると、二人はまずは、取り留めの無い話を始めた。
それだけでも、楽しかった。
しかし……。
付き合えば付き合うほど、相手のことが知りたくなってくるのは人間の常である。
この日、盛高は、かねてから一度ゆきに尋ねてみたい、と思っていたことを、思い切って聞いてみることにした。
「ゆきさん」
「はい!」
改まって、自分の名前を呼ばれて、ゆきは気が動転して大声で返事してしまった。あこがれの人と、二人きりになったことだけで、もう既に気分が舞い上がってしまっていたのである。
盛高はそんなゆきの返事に、思わず声を出して笑ってしまった。
「いや、失礼。ゆきさん。そんな硬くならなくても……。いや、前から一度聞いてみたいと思っていたのだが……。ゆきさんは、どうして……、どうして、ここで暮らすようになったのか。――いや、答えたくないなら、答えなくともよい。単なる好奇心だ。不躾な質問であろう。ーー済まぬ、いらんことを聞いてしまったのかもしれぬ……」
盛高は独り言のように、そう呟くと、黙ってしまった。
ゆきは、というと、ようやく緊張が取れて、心の動揺も収まって、いつもの自分を取り戻していた。そこで、大きく息を吸って気持ちをさらに落ち着かせると、盛高に言った。
「いいえ。聞いてください。私のような身分の低いものの話、本当につまらないでしょうけど、それでも、聞いてください。――いや、聞いてほしいんです!」
ゆきが、こうして真剣に話し始めたので、盛高も戸惑った。しかし、ゆきの真剣な表情を見ると、自らも居住まいを正した。
「では、お聞きするとしよう」
そう言って、盛高も真剣な表情でゆきを見据えた。
「はい……」
こうして、ゆきは、自らの不幸な境遇を、生い立ちから始まり、ここ河原で仲間達と共に生活をするようになった今に至るまで、盛高に話し始めた。
「自分のすべてを知っていてほしい」
思いはただそれだけであった。――それで、嫌われたって構わない、とまで思った。
ゆきの話は続いた。時折、涙ながらに……。
そんな二人の背中を遠くから、橋の袂で、見守る一人の僧衣姿の男がいた。
住蓮である。
ゆきが心配で、見に来たのであった。また「この恋、果たして実るものであるのか?」と心配でもあったのだ。
そもそも北面の武士と、河原者では、あまりにも身分が不相応だ。
また、最近は、市中の男が、時にはやんごとなきお方達までもが、色恋事を求めて、河原者の女性を探しに来るとの噂もあった。一度は、上皇様がお忍びで河原に来られた、などという話が、嘘かまことか真偽のほどがつきかねるような噂として飛び交ったこともあった。
時代の荒廃がなせる業であった。
デカダンスというのであろうか……。ここ平安の都もすでに”平安”ではなくなっていたのである。
住蓮の心にも、そういう一抹の不安があった。
「その北面の武士とかいうもの、本当のところは、ゆきさんのこと、単に遊び心で……」
そのようなことを考えると、いても立ってもいられなくなって、今日はゆきのあとをつけて来たのである。
しかし、こうして見る限り、身分の不相応は止むを得ないとして、件の男は、ゆきに手を出すことも無く、居住まいを正して、座っている。
「大丈夫のようだ。ただの取り越し苦労か!」
そう、言い聞かせながらも、住蓮は、二人を見守り続けた。
夕陽が鴨川の水面を照らして、実にまぶしかった。
そのきらめきの中、一瞬、武士が、住蓮の方を向いたように思えた。――少なくとも、住蓮にはそう感じられた。しかし、強いまぶしさに目が眩まされて、武士の顔ははっきりと見えなかった。
ゆきの話がようやく終わったようである……。手を顔に当てている。泣いているのだろうか…。
続いて、武士が、ゆきの肩にそっと手を置くのが見えた。やさしく抱き寄せているようにも見えた。
「そっとしておこう」
そう思いつつ住蓮は立ち去った。
盛高に優しく肩を抱かれながら、ゆきの目からは、幾度も幾度も涙が零れ落ちていた。――喜びと、悲しみの感情が交錯した結果の涙ではあった。
二人は、夕陽に見守られながら、時を忘れて、鴨の河原にいつまでもいつまでも座り続けた。




