第二部第十四章
さて、その話題の主のゆきであるが、実際のところ、先日の佐々木盛高との出会い以来、すっかり彼のとりこになってしまっていた。
「あの方に会いたい……」
と、思うと、居ても立ってもいられなくなり、気が付くと、鴨の河原を、彼を探して徘徊している、という有様であった。
勿論、盛高が運良く鴨の河原に巡回に来ていることもあった。
そんな時には、しかし、遠目で彼の河原での巡回警備ぶりを眺めては、ただ溜息をつくばかりであった。
「身分が違いすぎる…」
そうは分かっていても、あの日、自分を救ってくれた後、彼と共に引導寺へ歩いた、あの時の記憶が脳裏に蘇る……。
そんなある日、やはり彼が巡回に来ていないかどうか、確認のため、ゆきがいつものように河原を散策していたときのことである。
向こうから、盛高が幾人かの放免を連れて、河原の巡検をしつつ、こちらへ近づいてくるのが見えた。
すると、どうだろう!その放免の中に三郎の姿があるではないか…。
「まあ、三郎さんだわ!」
ゆきは、三郎の代わりに盛高の巡検にお供したいものだ、と思った。
「あら、いやだ。男の人にやきもちを焼いて……。私って馬鹿みたい」
と、そんなことを内心思っていると、ふと三郎と目が合った。三郎は、ゆきに気がつくと手を振っている。
「いやだ、三郎さんったら!まったく、人の気も知らないで」と、ゆきが背を向けて、その場を逃げ出そうとしたときである。
「ゆきさん!ちょっと待って!」
と、三郎の大声がした。振り向くと、三郎が、盛高に何か話している。
「三郎さんたら、何か余計なことを……」
と、ゆきが内心思ったその次の瞬間であった。
三郎がこちらへ、猛然と駆けて来た。
「あっ」
と、気が付いた時には、もう三郎が、ゆきの手を握って引っ張っている。
「ゆきさん、こっちだ!」
突然の事に、ゆきは戸惑いつつ、「いや!何するの、三郎さん、手を離して!」と抵抗したが、いかんせん三郎の力に敵うはずがない。
「いいから、来なさいって!」
いやがるゆきを、三郎は盛高の元に引っ張っていった。
気が付くと、ゆきは、盛高の前に引き出されていた。
三郎が、興奮気味に盛高に報告をはじめた。
「盛高様、この者が、以前よりお話しています、ゆきと申しまして、この界隈の、若い女子の世話人役をしておる者でございます。一度、お目通りさせておこうかと思いまして……。この者、この界隈の事情に明るく、また、皆から信頼されております。これから先、何かと盛高様のお勤めの役に立つかと存じましたので」
と、ゆきの手を握りながら、勝手にゆきの紹介を始めた。
ゆきは、顔を真っ赤にしながら、穴があったら入りたい心境で、何とか、三郎の手を振り解いて、その場から逃げようとしたが、三郎はますます強く手を握り締めて、それを許さなかった。
見かねた盛高が、三郎を戒めた。
「三郎、もうよい、手を離してやりなさい」
盛高に命令されてやむなく、三郎は手を離した。
ゆきは、恥ずかしさと、三郎への怒りと、その両方から顔を真っ赤にして、俯いたままその場に立ちすくんでいた。
すると、盛高が徐に口を開いて、言った。
「ゆきさん、と申されますか。お久しぶりでござるな」
と、微笑みながらゆきに声をかけた。
三郎は驚いて、「えっ、ご存知であられましたか!」と言うと、ゆきと盛高とを代わる代わる眺めた。---無論すべて三郎の演技であったことは言うまでも無い。彼なりの知恵で、何とか二人の仲を取り持とうとしたのであった。
ゆきは、一層恥ずかしさが募り、ただ、黙って俯いているばかりであったが、それでも盛高が自分のことを覚えていてくれたことが嬉しくて、心に喜びがあふれて来た。
「ゆきさんと、盛高様と、何と、お知り合いであられましたか!」
再び、大げさに三郎が言うのを、盛高は制して言った。
「もうよい、三郎、少し黙っておれ」
と、こう戒めると、次にはゆきに向かって、優しく告げた。
「再びお会いできて、たいへんうれしく思う…。三郎から話は聞いておる。また、私や、ほかの者より声をかけることもあるかも知れん。その折は、何卒協力をお願いしたい」
そう言うと、再びゆきに対して、にこりと微笑んだ。
ゆきは、あこがれの人からの呼びかけに、もうすっかり気分が宙に舞ってしまって、何も言うことが出来ず、ただ立ち尽くすのみであった。
そんなゆきの心情を知ってか知らずか、盛高は「では、また、いずれ、ゆるりとお話することも出来よう。それではお元気で」と、言うと、また最後にもう一度、ゆきに対して微笑むと、そのまま立ち去った。
ゆきは、一人残されて、河原に立ったまま彼らを見送った。
すると、三郎が、こちらを振り返ってまた手を振ってきた。『やりましたね!』と言わんばかりの得意満面の笑みを浮かべながら…。
「まあ、三郎さんたら」
ゆきも、三郎に向かって手を振って、感謝の念を伝えた。「余計なことをしてくれた」と最初は思ったものの、結果的には盛高と話が出来た。こんな嬉しいことはない。
「三郎さんのおせっかいのおかげで話が出来たのだから…」
ゆきは、河原の仲間たちの、温かい思いやりに感謝しつつ、彼らの後姿をいつまでも見送っていた。




