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阿弥陀仏よ何処に  作者: ソンミン
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第二部第九章

 そんな住蓮の姿を傍らで見続けながら、ため息をつく毎日を送る女性がいた。

 ここは、吉水の救護所……。

 その女性の名は、ゆき、である。

 ゆきの心は複雑に揺れていた。

「ゆきさん、あの坊主も、いい加減、あんたのこと、少しは気にかけてやらんといかんな」

「まあ、なんてこと、また、次郎さんたら、私をからかわないでください」

 次郎に茶化されてゆきはぷっと頬を膨らませた。

 しかし、そう茶化されて、反面嬉しくもあった。

「からかってなどおらん」

「だって、住蓮様はお坊様ですよ……」

 そう、ゆきに言われた次郎は、並んで座っていた三郎を横目で見ると、からからと笑った。

「ゆきさん、この吉水におるお坊さんが皆一人身であると、まさか思っておるまい」

「それは、そうだけど……」

 確かに、そうであった。当時、僧でありながらも妻帯者であることは、そんな珍しいことではなかった。

 特に法然の周辺に集まっていた、いわゆる『市の聖』達の中には妻帯者が多くいた。

 それでもある程度の規範が守られていれば問題はなかった。問題なのは、規範を守らぬ、名ばかりの、にわか”聖”が、紛れ込んできたことである。そういった者たちの中には肉食、飲酒を行うものも当然いて、ひどい者になると『女犯』を平然と行うものすらいた。

 本来、法然を中心としたグループがそういった周囲の人間の管理を徹底させるべきではあったのだが、いかんせん、あまりの人間の多さに、どうしてもすり抜けてしまう者が出て来てしまったのである。

 そして、さらには、こういった戒を犯す行為を、平然と、さらには堂々とする者まで出てきて、そのことが南都北嶺の衆徒たちの怒りの原因の一つともなっていた。

 特に、一念義を良し、と主張する集団にそういう者たちが多くいた。

 無論、法然は、こういった考え、行いを強く戒めてはいたが、全ての市井の念仏者たちを制御することは、実際上出来なかったのである。上述したごとく、吉水に集った念仏者たちは、法然を中心としたゆるやかな結合体にしか過ぎず、法然の命令一下、すべてが彼に従う、というような強い組織力を持ったものではなかった。

 それはさておき……。

 そんな妻帯をしている僧を見るたび、ゆきは、「住蓮様は、どうお考えなのだろうか」と、心で思ったりしていたのであった。

 無論、頭では理解していた。---法然上人は、戒をとても重んじていた。したがって、法然の直属の門下生には妻帯を是とする者は誰もいなかったし、住蓮も無論同じ考えであるに違いない…。

 「しかし、それであっても……」

 彼女は住蓮への思いを募らせるばかりであった。---しかし、募る思いとは裏腹に、時子が死んで後、一層六時礼賛興行に没頭する住蓮の姿を見るたび、ゆきは、結局自分の恋はやはり叶わぬのだ、と諦めの心を抱いたりするのであった。

 ゆきは複雑な思いを胸に秘めつつ、話をはぐらかそうと、こう次郎に言った。

「あの方の頭の中は、六時礼賛興行のことと、亡くなった時子さんのことでもう一杯なのですから…。とにかくもう私をからかわないでください!」

 時子に強い口調でこう言われて、次郎は、降参、とばかりに肩をすくめると、傍らの三郎を見て、照れ笑いをした。

 三郎は、次郎のそんな素振りにつられて、やはり笑いはしたが、「次郎、ゆきさんをいじめるな。俺だって、ゆきさんは可哀想だとは思うが、しかし、これは相手があってのことじゃろ。住蓮様がその気にならぬ限り、いや、還俗でもなさらぬ限りは無理な話ではないか」と、次郎を嗜めた。

「三郎さん、ありがとう」

 ゆきは、三郎が次郎を嗜めてくれたことに感謝はしたものの、やはり複雑な気持ちではあった。

「住蓮様がもう少し、自分の方を向いてくだされさえすれば……。還俗だって決して夢物語ではないかも…」

 そんなことを思う、ゆきの恋心には、しかし完全に無関心かのように、最近の住蓮は、法然上人が三昧発得してからというもの、その師を追いかけるかのように、念仏三昧の毎日を過ごしていた。

「あいつには何かが取り付いたに違いない」

 と周囲の弟子たちから揶揄されながらも、熱心に修行に励む彼は、いつしか、六時礼賛の興行の中心として、安楽、大和入道と共に、なくてはならない存在となっていた。

 そんな住蓮の姿を横で見ながら、ゆきは、彼への思いを密かに募らせるしかなかったのである。

 一旦は引き退った次郎だったが、天性のお節介ぶりは容易には抑えられないようであった。

「ゆきさん。一度思い切って、告白してはどうじゃ」

 次郎は、三郎からの嗜めも無視して、またもやゆきを揶揄した。

 ゆきは、いよいよ大きい声で「何を言ってるの。私、そんなんじゃありませんって、さっきから言ってるでしょ!と、怒って否定はするのだが、内心、そんな励ましをやはり嬉しくも思ったりするのであった。

 ゆきは、これ以上彼らに関わっていては、どんなひどい目に会わされるか、思ったのであろう。

「もう、私、引導寺へ行きますわ」

 と、言って、傍らの包みを手にして立ち上がった。

 ゆきは、毎日、引導寺の住蓮、安楽らに、差し入れを持参していたのである。

「そうじゃな、明るいうちに行くのが良かろう」

 三郎が、ゆきに言った。---これに次郎も同意した。

「ほんに、三郎の言う通りじゃ。日が暮れてからの女子の一人歩きは絶対にせんようにな。わしら、放免の者でも、昨今は怖い思いをすることがあるぐらいじゃ」

 ゆきも、そのことは感じていた。

「わかっています」

 そう言い残して、ゆきは吉水の救護所を後にした。

「それでも、住蓮様、いつか私に目を向けてくれるときが来るかも…」

 ゆきは、淡い期待を心に抱きながら、引導寺への道を急いだ。

 日はすぐ暮れる。

「急がねば……」と思いつつ、ふと右手を見ると、はるか西山にかかる夕陽がまぶしかった。

「西方浄土もあのように美しく輝いた光に照らされているに違いない」

 そんなことを考えながら、ゆきは歩みを早めた。---そんなゆき自身が夕日に照らされて、その歩く姿は、遠目からも美しく輝いて見えた。

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