第二部第七章
一念義とは何か…。
当時、法然一派の存在が日毎大きくなるに連れて、阿弥陀信仰と一口にいっても、その救済のありようについて、様々な説を唱えるものが現れだした。
それも、すべて、法然の教えと称してである。
たとえば、町の拝み屋のような者までが、法然の弟子と称して、怪しげな念仏信仰を広めていたのが実情であった。
法然の教団そのものも、まだまだ新興勢力であり、そんな状況を、教団組織として、すべて管理することが出来ないでいたのである。
そんな中、かねてより法然の弟子であった行空が、建久九年(千百九十八年)に法然の下へ新たに弟子入りした幸西と一緒になって広めだした考えが一念義であった。
安楽が話しを続けた。
「住蓮、貴殿はどう考える。行空、幸西らの、昨今の一念義の教え……」
安楽に、こうして改めて問われるまでも無く、住蓮も安楽と思いは同じであった。
「まこと、けしからんと思うが」
住蓮のこの答えに、満足そうに大きく頷いた安楽は、暫し黙想していたが、徐に口を開くと言った。
「左様、しかし、行空はともかく、あの幸西は、さすが、叡山で修行を積んだだけあって、学識も豊富、浄土の経典も数多読破しており、論争になるととても太刀打ちできん」
住蓮はここで語気を強めて言った。
「わかっておる。だからこそ、師は、誤った阿弥陀信仰を正さねば、との切実な思いから、選択本願念仏集を筆記させたのではないか」
安楽はまたも大きく頷いた。そして言った。
「其の通りだ。だからこそ……」
と、そこまで言うと、安楽もここで語気を強めた。
「だからこそ、その師の思い。我らが伝えねばならぬではないか。師は御年六十七歳じゃ。われらが諸国行脚し、間違った念仏信仰、正さねばなるまい!」
安楽にこう言われて、住蓮は返す言葉が無かった。そして思った。
「確かにその通りだ。地方の民衆に誤った念仏信仰が広まることは阻止せねばならん!」
二人は暫く黙ったままでいた。---何か忍び寄る黒い手の存在を、二人は漠然と感じていたのかもしれない。
住蓮が沈黙を破った。
「それにしても、まこと、一度、南無阿弥陀仏と申せば、それ以上の念仏口称意味なし、とは大胆にも申したものじゃな」
住蓮は、こう言うと、彼が幸西と初めて会った日のことを思い出した。
それは丁度、住蓮が犬神人の里へ説法に行くところだった。
安楽と住蓮の二人は、時子が亡くなった後も、里の首領役の源太から頼まれて、彼らの集落を定期的に訪問していたのだった。
ただ、教団内には、まだまだ彼らに偏見を持つものも多く、法然と高弟らの間で話し合いが行われ、結果「幾代にも渡る因果の結果、白らいを病んだのである。であれば、これは本人に責任のあるところであろうか?彼らの境遇たるや、まこと辛かろう。しかし、この世に弥陀の救いの光が及ばぬところはない。阿弥陀様がその輪廻を断ち切って下さるのではないか。彼らも往生するは必然。ただよくよく一心に念仏申させ給え」という法然の裁断が下されてはいた。
---とはいえ、訪問は控えめにされていた。
住蓮もそれは心得ていた。
ある日、彼らの元へ説法に出かけようと、吉水から祇園社へと道を歩いていたその時だった。---幸西とばったりと出くわしたのである。そして彼はこう住蓮に言ったのであった。
「これはこれは住蓮房。。この道をお急ぎとは、いつもの六時礼賛のお勤めであるか…。それとも例の場所であるかな?---いや失礼致した!詮索は止めるといたそう。それでは!」
そう言うと、意味ありげな笑みを浮かべて立ち去った。---住蓮はひどく不愉快な思いをしたことは言うまでもない。
「比叡山で長く学び、新進気鋭の考えを口にしてはいるが、結局は、彼の頭の中は伝統的仏教感や、穢れなる神祇思想、民間信仰を抜け出せていないのだ」
住蓮は、そのことが分かってしまってからは、もうそれ以来、彼とは口を聞いていない。
そんなことを思い出して少し感慨に浸っていたが、安楽の言葉に現実に戻された。
「彼らがいくら口で立派なことを言っても……」
安楽のこの言葉に、住蓮もただ大きく頷くばかりであった。
安楽が話しを続けた。
「しかし行空は説法が上手であるからな。都人たちの間では人気が高い…」
と、そこまで語ると、どういうわけか黙りこくってしまった。
安楽には苦い経験があったのである。
それは…。安楽も、実は行空、幸西らと親密にしていた時期があったのだ。
つまり…。
行空は、いつも自分の説法の巧みさを周囲に自慢していた。ところが安楽も説法好きであったので、一時期、彼は行空に近づき、この行空の影響を多大に受けたのである。
法然は日々の念仏をおろそかにし、それよりは説法の仕方の研鑽に時間を費やす、安楽、行空を見て、ある時、二人に注意を促した。
「説法よりも何よりも大事なのは、念仏三昧の日々の生活ではあるまいか」
安楽は、師のこの言葉に、すぐに反省し、心を新たにした。
そして、法然からその高慢さをたしなめれて後は、行空や幸西らとは距離を保っていたのであった。
住蓮は、そんな事情も知っていたので、半ば安楽を宥めるような調子で言った。
「彼らは、師の度重なる注意には、耳を貸すそぶりをしながら、反面、その巧みな弁舌で、師の考えからはかけ離れた、一念義を民に説いている---まことに曲者としか言いようがない…」
安楽は大きく頷いた。そして言った。
「法然上人の念仏は、多念相続、念仏しつつ俗業に励め、であろう」
住蓮は答えた。
「その通り、一念義は、民には受け入れやすいが、多念相続を否定するもの……。民を惑わすものじゃ」
安楽は、そう答えて、少し間をおくと、続けて言った。
「一念義が危険なのは、実は民を惑わすことだけではない」
住蓮が、今度は大きく頷いた。
左様、一念義が民衆に広まるのを喜ぶものが民衆以外にもいたということである…。
それは誰あろう、南都北嶺の伝統僧たちである。---決して矛盾ではない。彼らは、それを口実に法然一派を糾弾することが出来たから当然であった。
住蓮は深い溜息をつきつつ、こう言った。
「一念義こそ結局は法然上人の教えと称して、叡山の堂衆らは連日、山で我らを糾弾する集会を開いておるらしい」
そう言って、彼は遠く比叡山の方を見やった。
明日にでも、叡山の衆徒たちが襲ってくるかもしれない。毎日が緊張の連続であった。
戒を破ることすら問題ないのだ、という行空らの一念義の主張は、叡山にとってはまさに絶好の標的であった。
安楽が共に比叡山を見ながら言った。
「だからこそ、今、立ち上がらないと……。一念義をこれ以上広まらないようにしなければ……。そのために諸国行脚を誰かがせねば!」
安楽の決意を聞きながらも、住蓮は、友がそばを離れる寂しさを感じて、心が塞いだ。
「まあ、貴殿がどうしても、というなら、それは致し方のないことだが……」
と言うと、住蓮はしばらく俯いて黙ったままでいたが、何かを思い出したように、はっと、頭を上げると、安楽に向かってこう問いかけた。
「ところで、その選択本願念仏集なる、師の著されたもの、一体、どういう内容なのだ」
法然は、この著作を実際は、まだ一部の門弟にしか見せていなかったのである。住蓮も噂でしか聞いていない。限られた門弟にしか見せていない理由は良く分からない。噂によれば、軽々しく人にその内容を伝えてはいけないと、見せたものには固く戒めているという。
その内容がかなり刺激的で、南都北嶺の目に触れさせないようにしているのだ、とか言うものもいた。
「住蓮、それは言えんのだ。すまぬ」
安楽にそう言われると、住蓮もそれ以上は敢えて尋ねなかった。
安楽は、不服そうな友の顔を見ると、済まぬ、と思ったのか、こう述べた。
「これだけは、言える。あの本、南都北嶺の手に入らば、大変な騒動になろうことは間違いない……」
「そうか……」
「左様、その本の最後で、師はこう述べておられる。これは言っても良かろう」
「ほう、是非、聞かせてくれ」
住蓮から促され、安楽は目を瞑ると、記憶を辿りながら、その文章の朗読を始めた。
「こいねがわくは、一度高覧を経て後に、壁の底に埋めて窓の前に残すこと無かれ。恐らくは破法の人をして、悪道に堕とせしめざらむがためなり……」
聞いた、住蓮は驚いた。
「そこまでの覚悟で、師が書かれた本であるか」
住蓮は、何か嵐の前触れのようなものを感じた。
と、その時である…。びゅう、と強く又するどい音を立てて、一陣の風が境内を吹き抜けて行った。
安楽はその音が鳴り止むと、最後にぽつりと、こう言葉を漏らした。
「厳しい寒さはまだまだ続くであろうな…」
この年、千百二十年も、もう終わろうとしている…。
迫り来る時代の荒波を感じながらも、二人はお互いの顔を見合わせると、どちらからと言うこともなく、自然と微笑を交わした。そして力強く、握手を交わした。




