第二部第六章
さて、場所はまた京の東山へと戻る。
時は、正治二年(千百二十年)。その年もいよいよ暮れようとしていた。
師走の京の都……。
場所を洛外へと移して、祇園社と清水寺の間、そのほぼ半ばに位置する、ここ引導寺周辺の昨今の賑わいはなかなかのもので、都人たちの噂の的でもあった。
多くの人がひしめき合っている。――無論、彼らの目的が、引導寺で行われる六時礼賛興行であったのは、都人であったなら、知らない者は無かったであろう。
境内からは、「押すな!押すな!」と、そんな叫び声すら時に聞こえてくる。
ぼろを身に纏った民衆ばかりではない。境内の周りには、牛車も垣間見える。いわゆる高貴な人々もこの興行に参加せん、見物せんと、先を争って道を急いでいるのであった。
元々、ここ引導寺のある雲居寺(うんごじ…現高台寺付近)周辺は、安居院と並び、都での念仏聖たちの拠点と言える場所であった。熱心な念仏者であった、少納言信西入道(藤原通憲)が、彼の弟子たちを住まわせたのが始まりと言われている。
そんな事情から、この六時礼賛興行の行われる以前から、その周辺へは、連日多くの都人が老若男女を問わず、念仏聖たちの説教を聴こうと、押しかけていたのである。
しかし安楽らがここで六時礼賛を始めてからというもの、人の流れは、完全に引導寺一点に集中していた。安楽、住蓮、そして大和入道の名前は、当時の都人であれば一度は耳にしたであろう。彼らはすっかり有名人となっていた。
安楽、住蓮についてはすでに物語に登場している。
大和入道も、安楽同様、かって後白河の北面の武士であったのが、出家して法然の弟子となったのであった。彼も、後白河のもとで今様を学び、安楽ともども、その美声と、さらには美貌で、都の女子にはたいそうな人気であった。
都人たちは噂する…。
「おまえは行ったことがあるのか」
「いや、まだだが」
「それなら一度は行くがよい。たいへんなご利益があるということだ」
「ただ、坊主が唄うだけだと聞いたが」
「その唱がなかなかのものじゃ。堅苦しい説教などなしに、唱を聴いてそれで極楽へ行けると言うんじゃから。――まあ騙されたと思うて一度訪ねてみい」
このようにして評判は評判を呼び、さらには興行主催のこの三名がそろって美男子でもあり、さらには美声の持ち主であったことから、女性の姿もまこと多く、寺内に入りきれぬ人の行列が鴨の河原まで及ぶという事態であった。
ところが……。
そんなにぎやかな興行の続くここ引導寺で、興行主たる安楽は、実は最近苦悩の日々を送っていた。
というのも、彼は、六時礼賛興行を当初より主催してきた一人であるが、そろそろ、この興行から手を引くべきではないか、と頭を悩ませていたのである。
「のう、住蓮」
「何だ、安楽」
「うむ実は…」
いつだったか、その件について、相談を受けた住蓮は友人の唐突な発言に耳を疑った。
住蓮は当然、猛然と反発した。
「安楽、どうして、この六時礼賛を止めようかなどと……。今になってそんなことを、どうして…。そもそも貴殿が発案したことではなかったか」
安楽は、友からの反撃を当然予期していた。
「うむ、それはそうだが、私には、今一つ、新たにやりたいことがあるのだ」
「やりたいこと……」
「そうだ」
住蓮には見当がついていた。
「諸国行脚か?」
言い当てられた安楽は頭を掻いた。
「貴殿には隠し事は通じんのう」
安楽の願いは、安楽なりに理屈の通った願いではあった。
すなわち、六時礼賛は、今や住蓮が中心となっている。
きっかけは、時子が犬神人としての勤めの最中に肺病で倒れたことであった。
住蓮の脳裏にはあの時の光景が今でもしっかりと焼きついている。
時子急変の知らせを受けて、安楽とすぐさま駆けつけた住蓮であったが、時子はもうすでに大量の血を吐いてぐったりとしていた。傍らで介抱する彼女の仲間らは、駆けつけた二人を見ると、首を横に振るのみであった。
源太が二人に告げた。
「そっと見守ってあげるがよかろう。ついていてあげなされ」
多くの仲間の同様の最期を見てきた彼は、もう、手の施しようがないことを百も承知していたのである。
住蓮もいつかこの日がやってくることは覚悟していた。
しかし……。
いざ現実が目の前にあると、簡単にそれを受け入れるのはやはり困難であった。
「時子!必ず助けてやるからな!ー安楽、薬をすぐに持ってきてくれ!頼む」
狼狽する彼の背中をさすり、慰めながら、皆が共に涙した。
住蓮に抱かれながら、薄れ行く意識の中で、時子が最期の力を振り絞ってこう住蓮に告げた。
「ありがとうございました…。本当に、今まで…。たとえ往生出来ずとも、こんなによくしていただいて、本当、時子はもう、十分に満足しております。だから、もう私のことを気にはやまないでくださいね……」
こうして、彼女は息を引き取った。
悲しい別れであった。
葬儀は犬神人仲間の手によりしめやかに行われた。無論住蓮も参加した。
鳥辺野へと続く、装束を纏った犬神人の隊列は、見るものを驚かせたことは言うまでもない。
時子の死後、住蓮はしばらくは、何も手につかない放心状態であった。無理もない。ー周囲もそっとそんな彼を見守っていた。
しかし徐々に、本来の自分を取り戻してくると、彼はますます念仏修行僧として、勤めに取り組むことに励んだ。
「それこそが、一番の時子への供養ではないか!」
彼はそう信じて疑わなかったのである。
結果、時子が死んで後、住蓮の六時礼賛にかける取り組みは、まこと常軌を逸した、と言っても過言ではない、そんな熱の入れようとなった。
「極楽往生の願いは一人時子だけのことではない。老若男女、貴賤上下分け隔てなく、いや、犬神人にいたるまで、一人でも多くの民が往生叶うように、我らが頑張らねばならぬこと、必然の理!」
そんな強い意思に支えられ、彼は六時礼賛興行だけに限らず、浄土経典の読破を始め、何よりも何人にも負けないであろう、念仏三昧の日々を送った。勉学にかける情熱は凄まじかった。そして……。
まさに不眠不休の毎日……。
気がつくと、今や、弟子達の中でも一二を争う熱心さで、法然からも目をかけられていた。
だから、たとえ安楽がこの興行から身を引いたとしても、この興行そのものは十分に今後も成り立ったであろう。
まして、住蓮を支える法然の門下生は、今や安楽だけではない。新進気鋭の若手がここ引導寺には多く集まっている。そろそろ、後輩に道を譲ることがあっても、むしろ、それは法然の教団にとって益となろう。
しかし……。と住蓮は思う。
「貴殿が抜けたのでは寂しいかぎりだ…。安楽、是非思い直してくれ」
住蓮は安楽に率直に頼んだ。
「うむ……」
実は、安楽は、すでに昨年、正治元年(千百九十九年)、東国を行脚していた。
無論、法然に命じられての、鎌倉での布教活動がその中心である。
――手応えはなかなかであった。
もともと、東国からは、建久四年(千百九十三年)に熊谷直実が法然の下へ弟子入りしたことを契機に、多くの武士、御家人などが法然に帰依していた。
血なまぐさい戦がある程度終わって、気が付けば、無数の人を殺めてきた過去に、百戦錬磨の武士といえど、やはり、このままではたして極楽往生が叶うのか、不安に思ったのはむしろ至極当然のことであった。
彼らの関心が、ただひたすら弥陀の本願に預かり、また念仏を一心に唱えることで、極楽往生可能という、法然の教えに集中したのも、またむしろ当然の帰結といえた。
無論、法然の考えは、武士だけではない、さらに、多くの東国の民衆に阿弥陀信仰を述べ伝えよう、というものであったのは言うまでもない。
白羽の矢が立ったのは説法上手の安楽であった。
「安楽、これを持って鎌倉へ向かえ」
ある日、師より、選択本願念仏集の写本を持たされ、命を受けた安楽は、これは自分が信頼されている証である、と内心思うと、嬉しさがこみ上げてきた。
実は、この東国行脚よりさらにさかのぼること一年、今より二年前に法然は、選択本願念仏集を、弟子に口述筆記、完成させていたのである。
しかし、法然はこの本を筆記させたものの、一部の弟子達にしか、まだそれを公開していなかった。
少し余談になるが、最初にこの本の筆記を命じられたのはそもそも安楽であった。しかし、それが途中で、交代させられたのである。なぜかと言うと、筆記を命じられたことで、つい有頂天になって、教団内でややもすると高慢な態度を見せ始めた彼を法然が戒めたのであった。
そんないきさつがあったので、東国での布教を命じられた安楽の喜びもひとしおであったのである。
「これこそ、師からの信頼回復の絶好の機会!」
そして、結果は大成功を収めた……。
彼は、説法、大衆布教に関しては大いに自信を深めたのである。
そして、このあと、安楽は諸国行脚を夢見るようになったのであった。
「でも、勘違いしないでくれ」
安楽からこう言われた、住蓮は、友が何を言おうとしているのかすぐに察しが着いた。
「わかっているとも。そちのその願い、決して、説法で衆目を浴びることなどではない、ということであろう」
「うむ……」
すべてお見通しの友人の言葉に安楽は照れた。
虚栄心を満足させたいのではない。そんなかっての高慢さはすでに捨て去っていた。
安楽は、実は大きい危惧を抱いていたのである。――いや、正確に言うと、それは安楽だけではない。法然自身は勿論、法然一門の行く末を案じる者なら誰でもが抱いていた危惧であったと言える。
「師の本当の願い、教え、これを一言の誤りも無く、伝えていくのは我らの義務ではないか」
安楽の熱の入った言葉に住蓮も大きく頷いた。
大きい危惧、それは……。
「安楽、そちも気になるのであるな、一念義の動き……」
「その通りだ」
さて、彼らが、彼ら法然門下に突き刺さった棘として、問題とし、また今話題にしていた一念義とは……。