Prologue
このままじゃダメだ……急がないと……っ
内心の焦燥を吐き出すかのように思わず喘ぐ。肌に感じる春の穏やかな陽の温もりすら今この瞬間は恨めしい。
不意に船体のバランスがこちら側へ大きく傾くのを感じ,慌てて左舷から右舷に飛び移る。ジブシートを掴んでフットベルトに足をかけると,上体を寝かせ船外に身を乗り出した。首筋にかかる波飛沫の冷たさに,何とか重心を右舷側に引き戻せたことを確かめ胸を撫で下ろす。
スタート直後から感じていたが,やはりいつもよりバランスを取るのが難しい。様子が気にかかり船尾方向を振り返ると,大海はメインセールを緩め風を受け流そうとしていた。
彼も,いつもより重心が安定しないことに気付いているのだろうか。心なしか普段の練習時と比べメインセールを緩める回数が多いように感じる。加速よりも転覆によるタイムロスのリスク回避を優先しているのだろう。
……今の調子だと僕らのベストタイムを更新することは難しいだろうけれど。
大海の背後,艇の向こうの海上に揺蕩う黄色のブイが麗らかなはずの日差しを不気味に反射している。首を前方に向け直すと同じように鈍く輝くゴールラインのブイと,既に計測を終えた2組に加えタイムを計る吉田先生が乗るヨットが見える。
目測するに僕らが今位置しているのはスタートとゴールのちょうど中間地点あたりだろう。体感ではスタートしてから10分前後が過ぎたくらいだ。スピードを重視していないとはいえ部内でトップの実績を誇る僕らなら,このまま順調に進めば先行2組のタイムを上回ることができるだろう。そういった意味でも欲をかいたベストタイム更新を早々に諦め,今日の環境に合わせタイムロス回避に戦略を切り替えた大海はやはり我が部のエースに相応しい冷静さを持っている。
……でも,それじゃダメなんだ。
単に部内選考を突破し国体やインターハイに出場することが目的ならそれで構わないだろう。だけど,僕が狙っているのはそうした大会に出場することではない。
早く……早く……頼むから間に合ってくれ……っ!
はやる気持ちを堪えながら上体を起こす。艇の傾きは水平に近い角度まで戻せたようだ。状況が落ち着いたのを確認し,何気なく海面に目を向ける。
今日の波は穏やかで風も時たまそよそよと頬を撫でるくらいだ。ほとんど凪と言っていい。
だからこそ今一つスピードが出し切れないのだけれど,これだけ波風が安定しているなら本来であればそこまでバランスを崩すこともないはずなのだ。波に乗れていないことを差っ引いても明らかにいつもよりペースが遅くなってしまっている。
大海はその原因に気付いているのだろうか……いずれにしても,何とかして間に合わせないといけない。
焦燥に駆られながらも冷静に風を読む。
「やや追い風有り! 加速するチャンスだ!」
「オッケー,メインを思い切り張る! バランスに気を配りつつジブとスピンネーカーの微調整頼む!」
大海の指示を受け,ジブセイルの角度を調整しようと手を伸ばした時だ。不意に艇の重心が右舷側へ一気に偏ったかと思うや否や海上に身が投げ出された。
――転覆だ。
そう認識した瞬間僕は海中にいた。
4月の未だ肌寒さを覚える水温に,本能的に酸素を浪費しないよう口を固く結んだ刹那左腕に激痛が駆け巡る。思わず目を向けるもメインセールが引き起こした真っ白な泡のせいで視界がままならない。
あまりの痛みに途切れそうな意識を繋ぎ止めながら,僕は海上と思しき方向へ必死に右腕を伸ばした。




