美酒と美女
実家で甘味にありつけることなどほとんど無かったレベッカは、幸福な気持ちでデザートを食べた。
ほろほろと口の中で広がっていく。
公爵夫人になってから、こんな贅沢な思いもするようになった。
慣れないけれど、ありがたいと思う。
そして、この贅沢に完全に慣れてしまってはいけないとも。
シャルルが戻ってきたら、ありがとうございますと言おうとレベッカは思った。
こんなにすてきな時間を過ごさせてくれるシャルルは魔法のようだ。
のけ者にされてきた実家での辛い過去を、シャルルとの優しい時間が洗い流してくれるようだった。
「あら?」
そのとき、ふっとレベッカは気が付いた。
「ここに何か……紙が挟まっているわ」
デザートと一緒に出てきた珈琲のソーサの下。
小さな封筒がある。
レベッカはそっと手に取った。
中から小さなカードが出てきた。
「えっと……『目の前の女性を思いきり褒めろ』?」
といっても、目の前には空席しかない。
「シャルル様は女性だったのかしら?」
いや、そんなはずはない。
顔は美女に見まごうかというほどの美貌でも、彼は男性だ。
レベッカは華奢に見えて案外にがっしりしていたシャルルの腕を想い出した。
そして、一人赤面した。
「お水のおかわりはいかがでしょうか」
と、緑の瞳のウエイトレスがレベッカの元にやってきた。
髪は栗色だから、きっと染めているのだろう。
「……お連れ様は」
「今、外に出ております」
「そうですか」
ウエイトレスは水をそそごうと、透明な瓶を傾けた。
水に浮いたシトロンが見える。
少し黄色みがかった水が注がれるのを見ながら、レベッカは気付いた。
(この方のことだわ!)
「ええと……緑の瞳がすてきですね」
「はい?」
ウエイトレスはレベッカを凝視した。
(えっ? この方、すごく私を見ているけど、これであっているの?)
レベッカは手元のカードをもう一度見た。
目の前の女性を思いきり褒めろ、と流麗な字で書いてある。
実のところこれはジャンがシャルルのために用意した、デートのための秘策だった。
しかし、シャルルのところに来るはずだったので、これは間違いである。
しかし、レベッカはそんなことを知るよしは無かった。
純粋な彼女はこう思った。
(あっているわ。褒めろって書いてあるもの)
「この辺りではあまり見ませんわ。異国の情緒が漂っていてとても、ミステリアスな感じがします。そして、」
初対面の女性を褒めろというのはかなり難しい。
レベッカは何とか言葉をひねりだそうと試みた。
「瓶から水を注ぐ指先も優雅ですわね。普通なら透明な水も、どことなく黄色みがかって、特別なもののようにさえ感じられますわ」
(あっ、だめだわ。女性のことを褒めなきゃいけないのに、水を褒めてしまった!)
レベッカは少し落ち込んだ。
言葉は難しい。
しかし、そう易々と次の単語が思いつくはずも無く、レベッカは蜂蜜色の目をぱちぱちまばたきさせて、みじめに目の前の若い女性を見つめるしかなかった。
しかし、そのとき、レベッカが考えてもみなかったことが起こった。
「なぜ……なぜ分かった?」
血相を変えたウエイトレスが、瓶を取り落とした。
紅い絨毯に水が染みこんでいく。
レベッカは不思議に思った。
水のことだろうか。
黄色みがかっているのはよく見れば分かる。
普通の貴族は美酒を好むし、食事のときにシトロン水なんてあまり飲まないかもしれない。
だが、レベッカは違う。
お酒どころか、嗜好品一般に縁の無かったレベッカの公爵邸に来てからの唯一の贅沢は、シトロン水だった。
誰よりもシトロン水を見て、味わっている貴族である。
シトロンを溶かしたからって、普通あんな色にはならない。
それは常人が見ても分からない微妙な差異だった。
が、レベッカの貧乏性――いや、審美眼はそれを見逃さなかった。
「あなたはなぜ、とおっしゃいましたけれど」
レベッカは不思議そうに首を傾げた。
「見れば分かりますわ」
「魔女だ……」
ウエイトレスは呆然と呟いた。
「あら」
レベッカは少し心外だった。
なぜシトロン水について言及しただけで、そんなことを言われるのだろう。
しかし、気を取り直して言った。
まだ彼女を十分に褒めていない。リベンジだ。
レベッカはエレーヌが最近ごり押しで勧めてきた恋愛小説の台詞を思いだした。
あれはなんだったか、ちょうどこんな緑の目の王女を口説くくだりがあったはずだった。
レベッカは小説の台詞を想い出しながら言葉を紡いだ。
「ええと。栗色の髪もすてきですが、あなたの瞳の方がもっと綺麗ですね。まるで、そう、『夏の葡萄畑』のような……ご存じですか? 収穫前の葡萄の葉は、ちょうどあなたの瞳のように、緑に一滴の葡萄酒を垂らしたような、赤みがかった特別な色をするのです」
ウエイトレスは舌打ちをした。
(お気に召さなかったかしら!?)
レベッカは焦った。
付け焼き刃の台詞ではだめだったのかもしれない。
だが、このイベントはいったい何なんだろう?
シャルルの用意した余興だろうか。
レベッカはだんだん、異変に気付いてきた。
これは、おそらく、たぶん――
一般的なデートなるものの、イベントではないような気がする。
同じ場所には数組の食事客がいたが、全員が今やレベッカと騒ぎ始めたウエイトレスを注視していた。
空席の夫。
若い女。
(修羅場だと思われているわ……)
ふと窓の外を見たレベッカは、街灯りにぼんやり意識をとられた。
いわゆる現実逃避である。
異変を察知した給仕長が駆けつけてきた。
「失礼をいたしました、何事です!」
「この女、何者だ!?」
「失礼な! ヴァレリアン公爵夫人だ」
「違う、ただの貴族に分かるわけがない! 微弱な薬の色など」
「おい!」
ウエイトレス――暗殺者は懐から瓶を出して一気に煽ろうとした。
「やめろ!」
必死に止める給仕長の周りに、若い給仕が駆けつけてくる。
周囲は騒然となった。
(えっ!? 薬!? じゃあこの水は……)
レベッカは蒼白になった。
(シャルル様はまだかしら)
早くこの大事件を共有しなければならない。
レベッカは窓越しに外を見た。
こんな時でも月は美しい。
辺りに広がる街灯り。
この灯りのひとつひとつに人が暮らしているのだ。
でも、少し今日は明る過ぎる気がする。
こんなに燃えるような色だったろうか。
高台から見る景色は普段とちがって、特別なものに感じられる。
そのとき、シャルルが駆け込んできた。
レベッカのテーブルに来て手をとる。
「レベッカ! すぐに出るぞ」
その後からジャンが走り出てきた。
「レベッカ様。デートは中止です。異民とマルーニが手を組みました。襲撃です」
「あの、ウエイトレスの方が……」
ジャンは給仕長とウエイトレスを見て全てを察したようだった。
手短に何か指示を出している。
レベッカはシャルルに手を取られながら外に出た。
馬車の荷台が無残に燃やされていた。
火は消し止められていたが、車輪が破壊されている。
「馬は無事だ! 乗れ、レベッカ」
「なぜ……」
「貴族同士の戦争は起きない。貴族社会を敵にまわせないからな。こういうときの相手の狙いは、身代金と決まっている」
レベッカを馬の上に引き上げながら、シャルルが言った。
「つまり、俺たちだ」




