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澤の蛍  作者: せりもも
14/32

虫愛ずる姫 ― その3

 老婆は、腰が九十度に折れ曲がっているくせに、さっさと歩く。ついていくには、小走りで走らなければならないほどの速度だ。そのあまりに達者な歩みに、半世紀以上は年若い筈の、沙醐の方が息切れがした。


「だらしがないのう」

老婆は鼻でせせら笑った。


 梅林が途切れると、その向こうに、古い、こぢんまりとした屋敷が建っていた。

「ほれ、上がるがよい」

なんだか魔女に魔窟へ案内されたような気がしないでもないが、沙醐は、礼を言って中に入った。


 梅園を見渡せる庇の間に、案内された。


「蛍邸にお世話になっております、沙醐と申します」

改めて、深々と頭を下げた。


「わしは、梅じゃ。当家の留守宅を預かっておる、メイドじゃ」

 沙醐の平伏した頭のてっぺんを満足そうに見下ろしながら、老婆は言った。


 メイド? 冥途?


「で、皆、変わりはないか?」

「はい、皆様、たいそうお元気で」


蛍邸の主人たちに精気を奪われて元気を失いかねないのは、こっちの方である。


「百合根は、生きておるか?」

「おかげさまで」


なんだか変な会話だなと思いながらも、沙醐は返事をする。


「あの女も、自分の見た物に正直になれば、もう少し楽になれるものを。しかし、生霊や部屋いっぱいにはびこる虫や、空中浮遊を見れば、普通の神経の女なら、狂ってしまうかもしれぬな」

すると沙醐は、普通の神経の女ではないのか。


 いやいや、最初は随分驚いた。しかし、あまりに異常なことが続くので、神経の方で、驚くのをやめてしまったのだ。

 いちいち驚いていたら、身がもたぬ。


 「ときに、そなたは、和歌はさっぱりダメじゃが、漢文の素養があると聞いたが?」

不意に、妙な気配を漂わせて、梅が尋ねた。

この年でなければ、色気と間違いかねない、危うい気配である。


「素養と申しますか……」


母亡き家庭では、普通の女子の教育は困難だが、せめて自分にできることは、と、父が教えてくれた知識が、漢文だった。

 それと、武術。

 しかし、漢文に関しては、沙醐は良い生徒ではなかった。

 武術と違って、じっと座っている漢文の講義が始まると、ころりと眠ってしまっていたのだ。


「ええい、漢文が、読めるのか、読めぬのか」

「か、簡単なものの、意味を取るくらいでしたら、きっと、なんとか……」


沙醐は言いよどんだ。

はっきりと、わからない、と表明するのは、教えてくれた父が気の毒すぎる。


「読める、というのだな。そうかそうか」


梅は、そそくさと立ち上がった。まさか、さっそく漢籍を持ち込んでくるのではあるまいなと身構えていると、盆の上に、小さな碗を乗せて戻ってきた。


 「まずは、くつろがれい」


差し出された碗を恐縮して受け取る。

 漆塗りの黒い碗には、透明な液体が入っていた。


「ささ、遠慮のう」


言われて口に近づけると、えも言われぬ芳香が鼻先に漂う。

高貴な、それでいて瑞々しい若さを充分に含んだ、ふくよかな香りである。


「これは……」


幽かに甘く、柔らかな香気に満ちた液体が、馥郁と口の中に満ちる。

途中で止めることなどできず、一気に飲み干してしまいそうな、そんな飲み物だ。


 「梅の乳じゃ」


危うく噴き出すところだった。沙醐は、激しく咳き込んだ。


「誰の……誰の、お乳ですって?」


苦しい息の下から、やっとのことで質問を搾り出す。

もうすでに、大部分を飲み込んでしまったのだから、是非、聞いておかねばならなかった。


 「ああ、汚いのう」


梅は、人のことは到底言えないような汚れた雑巾で、あちこちを拭きながら、文句を言った。


「お乳ではない、そういう意味ならば。これは、梅の露じゃよ」

「梅の露?」

「そう。青梅の頃に摘み取ってな、甘い氷と一緒にしておくと、露が出てくる。それじゃ」


 それならそうと言ってくれればいいじゃないか。

梅の乳などと言うから、てっきり、梅婆さんの垂れた皺だらけの乳から染み出た何かだと思ったじゃないか。

 再び変な想像をして、沙醐は、胸を叩き、やっとのことで、平静を取り戻した。


 「そそっかしい女じゃのう。がつがつせんと、もっとゆっくり、飲まれよ」


幸い、沙醐の頭の中まではわからない梅は、優越感に満ちた様子で、そう忠告した。


「実はな、当家のご主人さまは、大変、学識の高い方ゆえ、漢文で便りを寄越すのじゃ。これが、なかなか意味がわかりかねてのう……」

そこで、沙醐に読んでくれというのか。


 それにしても、ご主人さまといった、その声音が、妙に高く、心なしかそれを口にした時、年老いた体が、微妙にくねったような気がした。


 「こちらのご主人さまというのは?」


それほどの学識者であるというのなら、音に聞こえた貴族であるはずである。

蛍邸との繋がりなども、是非、聞いてみたかった。


「口に出すのも、はばかられるお方じゃよ」


梅は、うっとりとした目をして言った。


「蛍邸とは、ゆかりの方なのでいらっしゃいますか?」

「もとは、全然無関係だったのじゃがな。身罷(みまか)りし後、縁ができたのじゃ。迦具夜とは一緒に入京なされ、もちろん、あちも、同行させて下さった。あのお方は、あちのことを、とてもとても大事にして下さっていたからのう。一時たりとも離れて暮らしたくはなかったのじゃ。カワは、もうずっと前から都で待っておった。一睡は、殆ど青草人なのじゃが……」

「身罷りし後」を「身篭(みごも)りし後」と聞き間違え、じゃ、ここの主人は女か、と思っていた沙醐だが、後半は、殆ど聞いていなかった。


 空がにわかに掻き曇り、怪しい光が、鈍色の雲をかぎ裂いたからである。


「キャア!」

沙醐は耳を抑えてつっぷした。

 「ああ、ご主人さま!」

梅の干からびた声が、殆ど喜悦の声と聞こえたのは、聞き違い?


 その時、どーん、と、ものすごい音がして、閉じた目の裏でさえ赤く燃えるほどの炎が上がった。


 「か、カミナリ!」


こんなに大きな音と光は、初めてである。きっとすぐ近く……もしかしたらこの邸……に落ちたのに違いない。


 恐怖のあまり、息も絶え絶えになりながら、沙醐は覚悟した。

 こうしていないで、逃げなければ。

 顔を上げた沙醐は、今度は本当に、腰が抜けた。

 庭には、巨大な火柱が立ち、その根元に、青い肌、盛り上がった筋肉、そして、大きな角と牙……青鬼が立っていたからである。


「ひっ!」


もはや、声も出ない。


「ご主人さま……」


沙醐の脇の辺りをかいくぐって、何かが庭にまろび出た。

 子犬のように、一直線に、青鬼めがけて走っていく。

 梅だ。


 「危ない!」


誓って言うが、体が自由に動くのなら、絶対、止めた。

 しかし、沙醐の体は、金縛りにあったように、ぴくとも動かない。


 「ご主人さま、おかえりなさいませー! 梅屋敷にお帰り下さいまして、ありがとうございまぁす!」


老婆の声とはとても思えぬ、華やいだ鼻声を上げて、青鬼の手から、棍棒などを受け取っている。


「お先にお食事になさいますかぁ? それとも、お風呂になさいますかぁ?」


 見ると、梅の白かった髪の毛が、雷電に染まり、金色に輝いている。肌も張りつやを取り戻し、老婆には変わりはないけれど、生き生きと若々しく見える。


 何なんだ。

 何が起きたというのだ。


 沙醐は激しく混乱した。


 「食事も風呂も後でいい。梅、化粧が崩れておるぞ。先に風呂に入って、着替えておくといい。あとで、参ろう」

「またぁ」


梅は、不気味に身をくねらせた。

「エッチなんだからぁ」


これが、どう見ても、八十歳を過ぎた老婆である。

 沙醐は、貧血を起こして、倒れそうな気がした。


 身をくねくねさせながら、梅が邸の奥に消えると、青鬼は、庇の間に上がり、胡坐をかいた。

 「沙醐だな」


梅の嬌態にすっかり毒気を抜かれ、ついでに恐怖心と、最低限度の防御心さえ失い、沙醐は、呆然として頷いた。


 「蛍邸での勤め、ご苦労だな」

思いもかけず、優しい言葉が、青鬼の口から滑り出た。

 「わしは、蛍邸の奴らとは、じっこんの間柄じゃが、みな、癖のある奴らばかりだからな。仕えるのは、並大抵のことではあるまい。だが、そなたは頑張っておる。期待しているぞ」

青鬼は、なおも、優しい言葉をかける。沙醐は、思わず心を許しそうになった。

 「あやつらも、悪い奴らではないのだがの、ただ、人の情けというものが、すこうし……。あ、いや、悪口を言っているわけではないぞ」


 「あの……もしかして……。あなたさまが、当家の、ご主人?」

沙醐は、恐る恐る尋ねた。


「おう、菅原道真、本官右大臣、正二位、とはわしのことじゃ。しかし、これらは、怨霊と化してから得た位じゃが、の……」

最後は、いくらか淋しそうに、青鬼は、言った。


 菅公、菅原道真。


 漢詩に通じ、代々文章博士(もんじょうはかせ)に任じられるほど、博学多才の人。時の宇多天皇に重く用いられ、右大臣、従二位にまで上り詰める。が、次の醍醐天皇の御代に、讒言(ざんげん)され、九州大宰府に左遷される。

 ついに都へ返り咲くことなく、その地で逝去。


 って、つまり、菅原道真は、既に死んでいるのだ。それも、百年も前に。


 しかも、菅公死後の騒ぎは、今なお、都の人々の記憶に、恐怖とともに焼きついて離れない。

 記録的な凶作、疫病の流行、皇太子や皇太孫の、早すぎる死。

 さらに、あの、清涼殿への落雷。

……多くの貴人たちが死んだ。

 そして、醍醐天皇の譲位、そして崩御。


 「お、お、怨霊……」

沙醐の声が震えたのも、無理からぬことである。


 「おお、祟ってやったぞ。わしを陥れた奴らや、無関心を装っていたやつらを。あれは、小気味がよかったのう」

菅公の怨霊は、思い出し笑いでもするように、楽しそうに笑った。

「しかし、あの、藤の木の、図太い根元を断ち切れなかったのは、残念であった。まあ、今後の楽しみとしよう。わしは、常に前向きに物事を考えるタチなんでな」

そう言って、また、からからと笑った。


 「あの、梅は、の。わしが、大宰府へ左遷された時、わしを慕って、京から飛んできたウい奴じゃが、怨霊となって京へ舞い戻る時に、また、くっついてきたのじゃ」


 その時、混乱した沙醐の頭の中に、一条の思いがさっと過ぎった。

 「怨霊のあなた様とごじっこんということは、蛍邸の皆さまも、怨霊なので?」


生霊を追って、空を飛ぶ一睡。迦具夜も空を飛ぶ。虫を愛ずる変な姫。

 怨霊と考えれば、全て、辻褄が合う。


「うーむ」

道真の怨霊は、しばし、考え込んだ。


「まあ、世間一般の、フツーの人間から見れば、怨霊とあまり変わらぬかもしれぬ。しかし、奴らは死んだことがないからのう。まあ、わしなら、本人達の前で、ヌシらは怨霊でござろう、などとは言わぬぞよ」


沙醐だって、本人達を前にして、そんなことは、怖くて言えない。


 「ところで、沙醐、」

菅公は、改まった物腰で、膝を乗り出した。


「この頃わしは、羅城門を定宿としておる。ここには、本来ならあまり帰ってきたくはなかったのだが……」

そう言いつつ、邸の奥を気にする素振りをする。


「なにせ、あの梅婆さんがうるさくてかなわぬ。わしは、マニアではござらぬ。本当は、若い娘の方が好みなのじゃ。若ければ若いほどよい。しかし、生きていた頃からの腐れ縁だから、仕方がない」

梅が聞いたら憤死しそうなことを、さらりと言ってのけた。


 ウい奴じゃ、なかったのか。


「そのわしが、わざわざ参ったのは、ほれ、これの為じゃ」

虎縞の腰巻の辺りを、ごそごそさぐっている。怨霊とはいえ、沙醐は思わず目をそらせた。


「何を勘違いしておる。お前は、わしの好みにしては、トウが立ち過ぎておるわ。……鬼の衣裳というのは、腰巻しかないのだから、しようがないではないか。ここしか、隠し所がなかったのじゃから。ほれ、見よ」


「……!」

言われたとおり目を上げて、沙醐は驚いた。


 あのトラトラの腰巻の、どこかから出てきたのだと思うと、限りなく不気味であったが、そんな思いを吹き飛ばすような、儚げな少女が、鬼の足元に、はべっていた。

 だれか貴人のお付きの少女ででもあるのだろうか、身なりは高級なものをきちんと着込んでいたが、うつむき、小さくうち震えていた。

 美しいことは美しいのだが、一度目をそらせたら、再びその表情を思い描くのは難しいのではと思えるほど、印象の薄い目鼻立ちである。

 とにかく、生命力に乏しい、全体として、白っぽい少女であった。

 それが、淋しげに、身を投げ出すようにして、そこにいた。


 「この方は……」

「お前、自分で話すか?」


菅公は、促すように、少女の背中を太い指先でつつく。

 少女は、いやいやをするように、首を横に振った。

長い髪が、こぼれるように、その横顔を覆う。


 沙醐は思わず、抱き寄せるようにして、そっと引き寄せた。


「大皇太后のもとに出仕している女だ」

太い声で、菅公が言う。

「ゆうべ、わしが、糺の森の沢で涼んでいたら、飛んでおったのじゃ」

「飛んでおったって? じゃあ、この方も、生霊!」


頭がすっかり蛍邸モードになっている沙醐には、迷わず叫んでいた。


「でも、人の形をしているわ!」


一睡の捕らえた師直(もろなお)の生霊は、白い球形だった。

しかし、ここにいるのは、生気に乏しいとはいえ、紛れもなく、少女の姿形をしている。


「それは、生霊の思いの深さによる。あと、捕らえた者の技量にもな。拙い者が捕らえようとすれば、魂の一部を掠め取るばかりで、筒や珠の形に過ぎぬ。しかし、わしのように、上位の者が捕らえれば、このように、人型を留める」


虫取り網を振り回して、生霊ハンターをきどる一睡は、所詮、「拙い者」に過ぎぬのであろう。


 沙醐はしげしげ、引き寄せた少女を眺めた。少女の生霊は、恥ずかしげに目を伏せた。

 「あなたも何か、辛いことがあるのね?」


……生霊は、自分ではどうすることもできない辛い思いに惑って、生でもない死でもない、宙有の闇にさ迷い出す……。

一睡はそう言っていた。


 「私は、誰からも愛されない定めにございます」

細い声が、腕の中から聞こえた。


「私は、親さまから、捨てられました……」

それだけ言うと、少女の姿はいっそう白く、透明に近いまでに白くにじんでいった。


「親というのは、今は亡き花山院のことじゃ」

「すると、この方が、(ひょう)の君!」

先帝の子でありながら、女御に仕える身となった皇女。


 まさしく、師直の思い人、漂の君ではないか。


「誰からも愛されないなんて、そんなこと……」


沙醐が言いかけたその時、ばたんと激しい音がして、几帳が倒れた。

 倒れた調度の向こうに、鬼のような憤怒の表情を浮かべた梅が立っていた。


「何の為の人払いか! いつになく優しいと思ったら、女を連れ込んで! それも、こんなに若い、若い……」


ぎりぎりと歯軋りをする音。


「うわ、まずい、沙醐、とりあえず、漂の君を連れて逃げるんだ」

「逃げるって。え?」


逃げるような悪いことはしていない。


「梅、落ち着け。お前はわしの、最後の宿りではないか」

「ええい、うるさい! たまさか帰ってきたかと思えば、このざまかい! 許さぬ。ゆるさぬぞー」

「待て。けしからぬ話ではない。話せばわかる……」

「何度その手をくらったことか! この度は、だまされまいぞー」

「沙醐、急げ。急いで逃げろ」


青鬼菅公に背中を押されるようにして、沙醐は、漂の君の手を握ったまま、外へ押し出された。

 何が何だかわからぬままに、少女の手を引いて夢中で走る沙醐の目の端に、鬼婆と化した梅が、青鬼に飛び掛るのが見えた。

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