虫愛ずる姫 ― その2
カワ姫は、青虫に目をやったまま、階段を上ろうとする。あまりにあぶなっかしいので、沙醐が手を貸した。
「姫さま、一緒に虫取りに行く約束は?」
背後から、メメが呼びかけた。
「ああ、うん」
姫は、手元の青虫に夢中である。
「これから行くんでしょ?」
「今日は、行かん」
「え?」
もう、青虫以外、眼中にない。自分の足元さえ見ていない。
「今日は、この虫を見て過ごす」
「珍しい虫がたくさんいる、ヒミツのハナゾノへ連れて行ってやるって、約束したじゃないか」
「そうだった。でも……」
「この虫も、そこで捕まえたんだ」
「え! それは……。しかし……。そうじゃ、沙醐が行く!」
「は?」
姫の裳裾を払っていた沙醐は、いきなりふられて、思わずよろめいた。
悪い予感がする。
「妾の代わりに、虫取りには沙醐が行く。妾は一日、この青虫を観察していないといけないからな。沙醐、頼んだぞ」
「はあ」
「さ、ほら、妾のことはもういい。珍しい虫をたくさん捕まえてきておくれ。期待しておるぞ」
ああ、あ……。
童の頃ならいざ知らず、この年になって、虫取り……。
沙醐は目の前が暗くなる思いだった。
なぜこの季節に、満開の梅の花?
子どもらに案内されたのは、赤や白、薄桃色の花を重たくつけた、梅園だった。
「本当は、教えたくなかったんだ。でも、あの姫さまは、いい人だから」
言いながらも、メメは不満げだった。沙醐ではなく、カワ姫を連れてきたかったのだ。
それは、沙醐も同じだったのだが。
「ひとつ、約束しておくれ。静かに、静かに虫取りをしておくれね」
子どもらはそれだけ言うと、足手まといとばかりに、沙醐を一人残して、梅園のどこかに散り散りに走り去ってしまった。
静まり返ったその先は、幾重にも重なった梅の花に覆われて、見通すことができない。
枝は、花の重みでゆらゆら揺れて、視界を遮る。
紅、白。桃色。
あるいは、混色。
匂いが、まるでしないわけではない。意識下に、そっと忍び込むように、梅の香りは忍び込んでくる。
まるで叶わぬ恋の始まりのように。
満開の梅の花にたった一人囲まれて、沙醐は眩暈がした。
ぶーん。
耳元で羽音がする。
ばし!
反射的に叩き潰す。蚊だ。終わりが近いとはいえ、今は、まだ、夏なのだ。
そうだ、虫取りだった。カワ姫の虫集めだ。
気を取り直して、梅の葉の裏をのぞいてみる。細かな赤い点がびっしりついていた。
なんだろうと良く見ると、点々ひとつひとつが、小さな虫だった。
げ。
慌てて手を離す。
カワ姫の好みの虫ではなかったと、心の中で言い訳をする。姫は、毛虫青虫系が、お好みだ。
別の葉を裏返すと、例の茶毒蛾の幼虫が、二、三匹、固まってにらみ返してきた。
こいつらもおよびじゃない。なにせ、邸には、ありとあらゆる成長過程の茶毒蛾が、うようよいるんだから。
梅は、虫のつきやすい木である。
まして、夏に花を咲かせたりしたら……。
なんて気のきかない梅たちであろうと、沙醐は忌々しく思った。
遠くで、子どもらの歓声が聞こえた。
あいつら、人に静かにしろと命令しておいて、自分らが騒いでいる。
全く、子どもというのは、度し難い。人間も、蝶も蛾も。
子どもの声とは違う、しわがれた怒鳴り声が聞こえた。
わーっ、と、子どもらのはやし立てる声。
ぱたぱたという走り回る音。
「ちょっと、どうしたの?」
沙醐は、目の前に走ってきた子どもの襟首を捕まえて聞いた。オケラというあだ名の、一番小さな子だ。
「放せ! 放せ!」
オケラは、手足をばたつかせて暴れる。
「イタッ! 蹴らないでよ。何がどうなったっていうの?」
「ウメババだよ。ウメババが襲ってきたんだ!」
ウメババ? 梅、ババ?
沙醐の頭が情報を処理している隙に、オケラは身を振り切って、あっという間に走り去っていった。
ゆさゆさと、紅梅の大枝が揺れた。
「こらぁー! いい年をして、お前も仲間かぁ!」
満開の梅の花の向こうから、鬼婆が現れた。
まさしくそうとしか言いようのない、それは、登場の仕方であった。
「私はまだ、『いい年』といわれるほどの年齢ではありません!」
反射的に、沙醐は言い返していた。
こんな婆さんに、なぜ、年のことを言われなければならないのか。
「ふん、口答えを」
婆は、鼻で笑った。
「女は、十五を過ぎたら年増、十八を過ぎたら大年増、二十を過ぎたらネコマタ以外の何者でもない!」
仁王立ちになって断言する。
自分こそいい年をして、この婆は、なんと、紅梅襲の女房装束をしている。黒くあるべき髪が、白く細り、長さも肩の辺りでザンバラになっているのが、いっそのこと不気味である。
人のことを年増のバケモノ扱いをする、この婆は何歳であろう。六十、七十、いや、八十歳は軽く過ぎているようであった。そもそも、生きているのが不思議なくらい、年老いている。
「ここが、梅屋敷の梅園と知っての狼藉か?」
「梅屋敷?」
「そうじゃ。お前、あの子どもらの仲間じゃないのか?」
「仲間、というか、一緒に来た、というか、いやいや、単に連れられて来ただけ、と言うべきか……」
正面切って仲間と認めるのは、抵抗があった。
老婆は顔をしかめた。
「何を言っているのか、さっぱりわからん。あいつらは、この頃しょっちゅう来ては、梅の枝を折ったりするけしからん奴らだが、はて、お前は、見かけない顔だね。どこの邸の者だ?」
「あの、蛍邸から来ました……」
形成不利と見て、途端に沙醐は従順になった。他人の敷地内に無断で入り込んだとあっては、おとなしくならざるをえない。
それにしても、あの子どもたち……。とんだところへ連れて来てくれたものだ。
蛍邸と聞いた途端、老婆の顔に、薄笑いのようなゆるんだ表情が浮かんだ。
「すると、新しく入った女房かえ? カワ・迦具夜・一睡のお世話係として」
どうやら、沙醐のことを知っているらしい。
迦具夜姫や一睡はもちろん、按察使の姫君をカワ(毛虫)というからには、この老婆は、蛍邸の内情によほど通じているとみてよかろう。
「はい……」
主人を知った人ならば、どのような災難が後日身に降りかからぬともかぎらない。沙醐は素直に応じた。
「こちらに来るがよい」
老婆は、沙醐を従えて歩き始めた。




