虫愛ずる姫 ― その1
蛍邸に仕えて、沙醐がまっさきにしたことは、カワ姫に謝ることだった。
なんといっても、大事な虫たちを逃がしてしまったのだから。
「もう、よい」
カワ姫は、扇を顔の前で打ち振りながら、けしけしと笑った。
「確かに、皆の言うことには、正しい面もあるな。幼虫が、ちょっと、増えすぎた。それに、長くは生きられないものだもの、おとなになった虫は、外の世界へ出してやらなければかわいそうじゃ」
「しかし、お部屋を滅茶苦茶にしてしまって」
「それは気にせんでいい」
カワ姫は、大鷹に頷いた。
「それより、見よ」
別の扇の先を、沙醐の前に突き出す。
何やら大切そうなので、沙醐は身を乗り出して覗き込んだ。
「前みたいな目に遭いたくなければ、触れない方が良いと思うぞ」
カワ姫が、何心なさそうに、つぶやいた。
差し出された繭型のそれには、そよそよと白い毛がそよいでいる。今しも、その一部が裂けて、中から畳まれた羽のようなものが出ようとしている。
悲鳴をあげそうになった。
なんと、扇の先には、孵りかけた繭が取り付いていて、中から、今にも、羽の生えた虫が出てこようとしていたのだ。
「ひ、姫さま、こ、これは」
「茶毒蛾じゃな」
「ガ、で、ございますか」
せめて蝶であって欲しかった。
「人の肌をかぶれさせる。これは、沙醐の方が詳しいな。沙醐は幼虫にやられたが、繭であっても、成虫になっても、一生を通じて、アンタッチャブルな虫じゃな。しかし、なんともかわいらしい」
かわいらしいとは、実際に、毛虫の被害に遭った身としては、認めかねる言い草ではないか。
なんでそのようなものを、室内で飼っているのか。
細かい毛が飛んできたら、どうするつもりか。
思いつく限りをまくしたてようと思ったその時、姫が、唇に指を当てた。
「しっ」
繭から出た、湿ったように皺くちゃに丸まっていた羽が、ふるふると震えた。
新しい体に慣れぬせいか、虫は、時折羽を動かす。正常に動くか、試しているようにも見えた。
透明に近い白の体に、少しずつ、色味が表れてくる。
思わず見惚れてしまうような、神秘があった。
とうとう、畳まれていた羽が、大きく広げられた。何か、大仕事を見届けたような気がして、沙醐と姫は、顔を見合わせた。
気がつくと、姫と沙醐は、随分長い間、顔を寄せ合って、一つの扇の上を眺めていた。
「こ、これは、失礼をば致しました」
あまりに、顔が接近しているのに気づいて、沙醐は飛びのいた。
相手は、貴族の女性である。同じ女性であっても、こんなにも顔を近づけるのは、無礼と思われた。
「どうじゃ、かわいいじゃろう」
姫は、上機嫌で、沙醐を見た。
ああ、この方は、なんて優しい目をしていらっしゃる。
ふさふさした、およそ考えられない眉の下の、黒目がちのぎょろりとした目は、情味を湛え、ほんわりした優しい光を宿していた。
「ええ、かわいらしく、ございます」
沙醐は言った。
「人は、どうして、蝶はかわいがるのに、蛾はいやがるのかの。蚕などは、幼虫のうちは、桑の葉を食べさせるなどして、一生懸命世話をして、成虫になると、のけものにしてしまう」
「繭を煮て、絹糸を取るのでしたね」
いつぞや、父から聞いたことがある。
「そうじゃ、そなた、よく、知っておるな。煮殺してしまうのじゃ。そうして得た絹で、女は、身を飾り、親から授かった眉を抜いて、化粧をする」
沙醐は絶句した。美しい衣の大元が、蚕の大量殺戮とは、今まで、考えたことがなかった。
「人が、身をつくろおうとするのは、不自然じゃと、妾は考えておる」
カワ姫が、ぽつりと付け加えた。
沙醐は、改めて、カワ姫の顔を見た。なんだか、姫の言うことが、道理に叶っているように思われたのである。
「しかし、周囲の評判というものもございましょう」
「人の噂が、ナンボのもんじゃ」
吐き捨てるように、姫が言い放った。
「妾は妾じゃ。それだけで、充分」
姫は、ぎろりと沙醐を見回した。
「どうじゃ、そなたも、化粧をやめてみては」
「いや、それは……」
決して濃くはないが、沙醐は百合根に倣って、薄くおしろいを施し、眉毛も抜いている。唇にはほんのりと紅を差し、髪をきちんと梳いている。
沙醐は、自分のことを、決して、美しい女だとは思っていない。むしろ、個性の強すぎる、あまり美しくない女だと認識している。
その分、傍から見て、せめて見苦しくないようにと、心がけているのだ。
「よく、化粧をせぬと、女を捨てたも同然とか言う輩がおるが、感心せぬな。真の女らしさとは、内側から輝く性質のことだと思うておる。飾り立てても、夜には剥げるわ。ま、妾は、女らしくなくても、ちっとも困りはせぬが」
それは、困らないだろう。
「そなたも、身を飾らぬ方が、そなたらしくて、よいぞよ」
「私は、あまり、私のことが好きではございません」
カワ姫は、不思議そうな顔をした。
「虫は、な。人の内臓に巣くって、人を操ることができるのじゃ。化粧などより、ずっと深い……」
カワ姫が続きを言いかけた時、
「姫、姫!」
几帳の向こうで呼ぶ声がした。
「なんじゃ」
姫は立ち上がって、階のてっぺんの、廂の間まで出て行った。
「あ、こら!」
階段の一番下の段の所に、薄汚れた子どもたちの一群を見て、沙醐は叫んだ。
「ダメじゃないの、こんな所まで入り込んだら」
子どもたちは、揃って不満そうな顔をした。
この子たちは、近在の子どもらだが、いくら言っても、貴族の姫らの居所であるこの寝殿に、平気で出入りする。
カワ姫が、虫取りをさせるからだ。
「いいんじゃ、いいんじゃ。で、メメ、今日の収穫は?」
カワ姫は、リーダー格の少年に尋ねた。
メメという名は、ミミズから来ている。ミミズ、メメズ、メメ、という風に進化したらしい。カワ姫がつけたあだ名である。メメだけではなく、ここにいる少年たち全てが、虫にちなんだあだ名を持っていた。
カワ姫は、階を、どすどす降りて行った。
「はよ見せてたも」
「これ」
差し出された扇の上に、メメが、籠の中身を空ける。
「げっ」
沙醐は引いた。今度は、青虫である。ただし、大人の親指二本分ほどの太さがある。
「ふうむ、大きいことは大きいがのう。普通の青虫ではないか」
あろうことか、人差し指の爪の先で、青虫をちょんちょんと突付きながら、カワ姫が断じた。
「ちぇ、だから姫さまは、ダメなんだ。ひっくり返してごらんよ」
イナゴマロと名付けられた比較的年嵩の少年が口を尖らす。
「こら! 姫に向かって何ですか、その物言いは!」
沙醐は気色ばんだが、カワ姫は、頓着しない。懐から、箸を取り出し、青虫をつまんで、ひょい、とひっくり返した。
「素手で摑んだら、虫が弱るからの」
言い訳のように、つぶやく。
「腹のところ。足があるとして、その付け根辺りを、見てご覧よ」
子どもらを代表して、メメが言った。
青虫に足はない。無いものの辺りを見よとは、変な指示である。
しかし、子どもらと姫との間には相通ずるものがあるらしく、いささか近眼気味の姫は、巨大青虫の上に、覆いかぶさるように顔を近づけた。
「姫さま、カブレる……」
いくら、なりを構わないと言ったって、妙齢の姫君である。顔がかぶれたら、目も当てられないではないか。
沙醐は気が気ではない。
「大丈夫だよ、この虫は」
メメが、訳知り顔で言った。この少年は、沙醐が茶毒蛾でかぶれたことを知っている。沙醐は、メメを睨みつけた。
「おお!」
カワ姫が、奇声を張り上げた。
「銀じゃ。銀色に輝いておる!」
「え?」
姫があまりに夢中になるので、思わず、沙醐も覗き込んだ。
「ほれ、ここじゃ、ここを見よ。一列に、ほら」
「あ、ほんとだ!」
青虫の、横腹辺り、確かに、ムカデごときでは足が生えていそうな所に、点々と、銀色の点が規則正しく飛んでいる。黄緑の腹に、いやにメタリックな色合いの点である。
「なんだか、天然の色ではございませぬようですね」
思わず、沙醐は感想を述べた。
「そち、良いことを言う」
虫の腹から目を離さず、カワ姫が言った。
「なんじゃ、この点々は。まるで自然界のものではないような……」
後は口の中で何やらつぶやいている。
「ほら、凄いだろ!」
得意げにメメが割り込んだ。
「おらが見つけたんだ!」
「最初はおらだ!」
「山椒の葉の裏にいるって、おらが言った!」
子どもらが口々にどよめく。
「うるさい!」
メメが一括した。
「ふうむ」
カワ姫がうなる。
「凄いぞ。収穫じゃ!」
「で、……」
子ども達全員に、期待の色が走った。
「うむ」
姫は頷くと、奥に消え、すぐに小さな包みを持って現れた。
「これでよかったのかな? 白檀じゃ」
無造作に、メメに与えようとする。
「姫さま、そのように高価なものを……」
思わず口を挟んだ沙醐を、カワ姫は制した。
「いいんじゃ、いいんじゃ。メメ、よくやった」
「うん!」
メメは素早く包みを、薄汚れた着物の懐に押し込んだ。
子どもらは、騒がなかった。
分配については後で、ということで話がついていると思われる。