五、
滝子と咲子、そして顕一。事件は解決されるばかりか、謎が深まるばかりで先が見えない。咲子は、滝子を探して欲しいと言っておきながら、実際はその生死を知りたいという事のみにとどまっている。一瞬協力的になったように思われた顕一も、あの絵を見て突然顔色を変えた。そう言えば、あの絵の所為で全てが始まり、事は複雑化した。
やはり鍵は、絵の中に在るに違いない。絵の中にいる少年の正体さえ分かれば、きっと事件は解決されるのだ。
しかし、あの絵に関して、そして咲子と滝子に関しての知識が少なすぎる。滝子と咲子に関係していそうな“少年”と言えば、やはり顕一しか思い浮かばなかった。顕一があの少年ではないとするならば、最早今の自分の中に手掛かりは無い。
祐介はベッドに横たわり、溜息をついた。ここ数日、ろくに寝ていないような気がする。そろそろ脳味噌が悲鳴を上げ始めているころだ。受け持ちの生徒たちの最初の受験が迫っているというのに、こんなことでいいのだろうか。いや、少なくとも祐介は今、その内の一人の為に行動しているのである。
ゆっくりと目を閉じた。暗闇が世界を覆う。祐介はほっとした。やっと何もない世界に落ちることが出来る――――。
気付くと辺りは澄んだ緑色であった。目の前には石段があり、しかし虫の声一つしなかった。静止画の様な無音の空間に祐介は居た。その石段に足を掛けようとして、祐介はやっとこれが夢であるという事に気付いた。
少女の無邪気な声が無音を破った。
『ひとおつ、ふたあつ』
見上げると石段の中腹で、二人の少女が戯れていた。二人とも髪型が同じで、顔はよく見えないがとても似ているように思えた。片方が此方を向いて、両手で目を塞いでいる。もう片方はそれより少しばかり後ろにいて、その少女を見下ろしている。二人とも、幼いとも成熟しているとも言い難い、中間の容姿と雰囲気を持っていた。しかしどちらかと言えば、下の少女の方が色気有り気に祐介には見えた。
ああ、彼女が滝子だ。目を瞑っている方が、滝子なのだ。
祐介は直感した。単に直感であった。雑念も何もなかった。ただ祐介は、昔から彼女を知っていたかのような感覚に襲われた。
その滝子を見下ろす、あの少女は咲子なのだ。そして咲子は、如何にも普通でない形相をしていた。憎悪とも、嫉妬とも言える、しかしそれは余りに子供じみていて、無邪気な感情の一部のように思われた。
無音に激痛が走り、咲子は言った。
『あなたばかり、あなたばかり』
耳が痛くなる。その声は、祐介の鼓膜を突き破る勢いで容赦なく響き続けた。
『あなたばかり、あなたばかり』
咲子の声は、滝子には聞こえていない様であった。きっとその所為で、咲子の怒りは増幅した。
『私だって、私だって好きだわ』
滝子は気付かず、数を数え続けた。
『私だって、私だって、私だって、――の事が好きだわ』
『いつつ、むっつ、ななあつ』
咲子の瞳孔が開いた。小さな鬼が其処には居た。
『あなたばかり、あなたばかり、ずるい。私だって、好きなのに』
――全部あなたの所為!
咲子は腕を突き出した。
祐介は最悪の目覚めと共にベッドから跳ね起きた。夏であるというのに体は冷え切っていて、額には冷や汗が滲んでいた。今の夢はなんだったのか―――。しかし考えがまとまる前に、祐介の体はベッドから飛び出していた。
行かなくてはいけない。
あの場所に。
祐介は寝起きそのままの恰好で家を飛び出していた。辺りは少し明るい。もう朝だろうかとよく確認すると、薄明りの原因は太陽ではなく異常な程大きな満月であった。祐介はまだ上手く靴を履けないまま、あの神社へ続く道を駆けのぼっていた。絶対神に呼ばれた信者のように、祐介は瞬きすらできない。それが、本当に神であるのか、それとも異様な悪魔なのか、今の祐介にはわからない。
山道を駆け上がる。真夜中に蠢く獣たちも、祐介の異常なほど荒い息遣いに怯え姿を隠す。夜目を効かせた梟も今夜だけは黙っている。螽斯も鳴かない。ただ静かな何もない闇を駆け上がり、それが晴れた瞬間、祐介の前に広がっていたのはあの石段であった。
そこに少女が居た。
咲子だ、いや――――――――。
祐介は目を凝らしてそれから確信した。
あそこにいるのは、滝子だ。
滝子は石段の中腹から、茂みの方をずっと見つめていた。その瞳はどうしてか悲しげで、今にも泣き出してしまうのではないかとさえ思われた。
「滝子…………」
「先生、祐介先生。私ね、あそこに埋まっているのよ」
今にも消えてしまいそうな繊細な声で、滝子は言った。祐介は石段の真下まで行って、しかしそれ以上近づくことが出来ないままでいた。
「なぜそんなところに…………」
呟くような祐介の問いに、滝子は一瞬だけ口を閉ざした。それから大きく息を吸うと、
「五年前のあの日、私、死んだのよ」
と言った。
「夏休みに入って、何日か暇な日を過ごして、部活も何もしてない私は、家で一人絵を描いていたわ。そうしたら咲子が突然、一緒に遊ぼうって誘ってきたの。その時はなんだか久しぶりに咲子がそんな風に言ってくれたような気がして嬉しくて、それで私は咲子について、この神社まで来たわ。彼女、かくれんぼをしようって言ったの。じゃんけんで負けて最初に鬼になったのは、咲子だったわ。私、御神木の後ろに隠れたの。けれど咲子、数えるのが凄く早いんだもの。それで五分としない内に見つかってしまって、次は私が鬼になった」
滝子はふっと笑った。
「中学生にもなって、しかも二人でかくれんぼなんて、可笑しいと思うでしょう?けれどね、私たちにとっては普通の事なのよ。だって友達は、お互いにお互いしか居なかったんですもの。生まれたときからそうやって生きてきたの、私たちは」
夜風が吹いて、一瞬だけ雲が月を隠した。滝子の顔が再び悲壮感に包まれた。
「鬼になった私は、階段の一番上からそっちを見て目を閉じて数を数えたわ。一つ、二つ、三つ…………五つまで数えたとき、背中に気配を感じたの。…………咲子だったわ。双子の私が気付かない筈がないというのに、あの子、抜けてるから。最初は、わっ、て脅かされるだけかと思っていたのよ。けれど、すぐに違うって気づいたわ。彼女の手が、凄く殺気立っていたもの。彼女の手のひらが振りかざされる音が分かったわ。そのまま私の背中は強く押されて、私はあそこから此処まで」
滝子は石段の頂上から自らが経つ中腹までを目で追って見せた。祐介は黙っていた。というよりも、言葉を発することが出来なかったというのが正しいかもしれない。しかしついに意を決して、口を開いた。
「滝子、君は、咲子を恨んでいるのかい?」
雲に隠れた満月が、一瞬だけ滝子を照らして再び影を落とした。それから滝子は祐介の方に目を落とし、寂しげに微笑んだ。
「先生、私、咲子を恨んでなんかいないわ。咲子の事をわかってあげられなかった私が悪いのよ。私、本当にダメな子ね。双子の咲子よりも、先生の方を好きになってしまったの。咲子は私と違って繊細な子だから、私と先生の事できっとすごく悩んでいたんだわ。だってずっと、私には咲子しか居なくて、咲子には私しかいなかったんだもの。大好きなものが自分の手から零れ落ちて行く苦しみを、彼女は抱えていたのよ。悪いのは、私なの」
悲壮感に満ちた笑顔は、時々の月の光に照らされて、白く瞬いた。
「それにね、私の体は死んだけれど、ずっと生きていたのよ。咲子の中で、ずっと。咲子と同じ景色を見て、同じ夢を見て、また、あなたと出会って」
風がさっと吹いて雲が
消え、月光は滝子を照らし出した。
「それで、十分なの、先生」
言い終えた直後、滝子はふっと力なくその場に崩れ落ちた。慌てて駆け寄ってみると、少女の顔は滝子ではなく、咲子のものに戻っていた。祐介は滝子の面影を残す色白い頬に手を当てて、「滝子」と呟いた。しかし、それに応える声は最早何処にもなかった。
*
五年前の六月、祐介は大学の教育実習のため、母校の中学校を訪れていた。二年ぶりに都会から解放された祐介は、久しぶりの田舎に未だ馴染むことが出来ないまま、ぎこちない実習生として日々を送っていた。他の教師たちや近所の大人たちの、田舎特有の馴れ馴れしさが偶に鬱陶しい。しかし、だからといって東京が恋しいと感じることはなかった。やはりここが自分のいるべき場所なのだ。そんな思いが胸の中で日々増幅していった。
実習に来て一週間経過した日の放課後、受け持ったクラスの女生徒に声を掛けられた。色白で儚げな、中学一年生にしては妙に大人びた雰囲気を持つ彼女は、名前を滝子と言った。
「先生は社会科の先生なのよね?」
初めて会話するというのに、彼女は馴れ馴れしかった。まだ学校に慣れていない祐介は突然の事にぎこちなく頷いた。
「ああ、そうだよ」
「歴史が好きなの?」
「特に世界史がね」
「中国?」
「先生はヨーロッパが一番好きかな」
「あら、奇遇ね。私も中世ヨーロッパが一番得意なのよ。フランス革命とか」
滝子はふふふ、と笑った。
「お母さんから漫画を借りたの」
「ベルサイユのバラかい?」
「ええ」
「先生も読んだよ」
「あれは少女マンガよ?」
「そうなのかい?しかし歴史的事実に沿って書かれていて、先生もあのマンガがきっかけで世界史が好きになったんだ」
会話は思ったよりも長く続いた。窓から夕焼けがのぞく教室には、祐介と彼女しか居ない。
「先生のお家はどこ?」
「石上神社の向こう側の、ちょっと街のほうだよ」
「石上神社のほうを通る?」
「通るよ」
「あら奇遇。私、石上神社の近くの家に住んでいるの」
彼女が微笑み、青色の髪飾りが揺れた。
「送って下さらない?先生。歩道橋の影でこっそり待っているから」
職員会議が終わり、祐介は他の教師よりも一足早く学校を出た。初心者マークの軽自動車を少し走らせると、学校横の歩道橋の下で、滝子が本を読んでいるのを見つけた。近くに車を止める。アイドリングの音で祐介に気付いた滝子は、視線を上げて微笑んだ。
「あら、本当に乗せて行ってくれるのね、良い先生だわ」
「都合のいいことを言うねえ君は。ほら、他の先生に見つかるとあれだから、早く早く」
滝子は助手席に乗り込んだ。ドアが閉まるのとほぼ同時に、祐介はアクセルを踏んだ。
数分国道を走って、それから横道に入った。人影少ない石上神社への道筋である。
「ねえ先生、これから暇かしら?」
突然滝子が言った。
「神社に行かない?」
断る理由もないな、と祐介は思った。此処は田舎だ。生徒と神社を訪れたくらいでとやかく言われることはないだろう。
「先生も子供のころよく行ったよ。この季節は特に、涼しいからね」
車を路肩に寄せて、二人は山道を登った。
「この神社の神様を知ってる?」
「いいや。祖母が昔此処で巫女さんをしていたらしいんだけど、知らないなあ」
山道を過ぎ、二人は石段に足を掛ける。
「あら、先生にもなったくらいだから知っているかと思ったわ。だって、学問の神様よ?」
「天神様かい?」
「ええ」
「じゃあ天神様が誰か知っている?」
「誰って、神様でしょう?」
「ああ。でも昔は人間だったんだ。死んで、祟り神になって、それから神様になったんだよ。ほら、有名な人さ」
「教えてよ」
「明日授業でやるから、よく聞いていなさい」
「先生ったらケチだわ」
いつの間にか階段を上り終わった二人は、振り返って大きく伸びをした。
「見て、夕日がきれい」
滝子が言った。
「見せたかったの、先生に」
「どうして?」
「だって先生、いつもいつも“自分は皆とは違うんだ”って顔してるんですもの。だから、そうではないのよっていう事を見せたくて。だって、何処にだって同じように日が昇って、日が沈むんですもの。どの街だって、どの国だって、変わらない。何処だって同じなのよ。だから先生だけ違うなんてこと、ありえないのよ。先生だけひとりだなんてありえないわ」
滝子は祐介を見上げて微笑んだ。
「もっと笑えばいいのよ、先生は」
その日から、滝子と祐介は頻繁に神社に通うようになった。毎日のようにくだらないことを語り合い、二人の距離はいつの間にか生徒と教師のそれよりもはるかに近づいたものになっていた。
真夏の太陽が照りつけるようになった頃には、祐介の想いは最早取り返しのつかないものになっていた。しかし教育実習生と実習先の生徒との恋愛など、許されるはずがない。
だから祐介は、滝子に想いを伝えることが出来なかった。
祐介が東京に帰るとすぐ、滝子から手紙が届いた。
―――先生、絵を描いたの。私と先生と姉の絵。まだ未完成だから、今度送るね。
祐介はその手紙に返信しなかった。返信したらきっと、恋心が本物になってしまう。祐介はそれが怖かった。今思うと、きっとそれがあの絵だったのだろう。
それにしても、最初に咲子を見たときに、何故気付かなかったのだろうか。咲子が自分に相談を持ちかけてきたときに、何故思い出さなかったのか。あの神社の石段を二人で上った時、何故デジャブすら感じなかったのだろうか。
きっと、自分は滝子の事を忘れたかったのだ。禁断の過去として、隠蔽してしまいたかったのだ。
悪いのは自分なのだ。
滝子を本当に殺したのは、自分なのだ。




