二、
蝉の鳴き声をバックミュージックに、祐介と咲子は草木が生い茂る山道を歩いていた。少年時代、祐介はこの森だらけの町を嫌悪していた。早く高校を卒業して、早く東京に行きたい、長い間それだけを目標に勉学に励んでいたような気がする。しかし大学生になって実際に訪れた東京は、想像していたような夢の国、楽園では無かった。街はゴミと異臭で溢れかえり、すれ違う人は皆よそよそしい。道端には痰や吸い殻、食べ残したハンバーガーが散乱し、至る所で虫が湧いている。公園にはホームレスが段ボールで宿を作って、街をゆく人々とは異なるテリトリーを作り上げている。何よりも至る所、何処も彼処も溢れる程の人間がうじゃうじゃと街を侵している。祐介には東京は機械的で単にごみごみした虫箱にしか見えなかった。それでも上京したての頃は、その都会ゆえの貧しさを楽しみ、原宿の人混みを分け入って服を探したり、御茶ノ水の楽器屋で買いもしないギターなんかを試奏して遊びまわったりしていた。しかし時間が経つにつれ、そんなことをしている余裕も、金も無くなった。
住めば都とよくいうが、その言葉とは裏腹に、東京で時を過ごすうち、祐介は故郷の田舎を恋しく思った。自然に囲まれた閉鎖的な空間の中で静かにしている方が自分に合っているのだ。大学二年にもなる頃、祐介はもう金を使って遊ぶことも、友人や恋人を作ることもやめて、部屋や図書館に閉じこもってただ只管に勉強をするようになっていた。そうなったことに此れと言った切欠はなく、きっと他人との些細なトラブルや不快感が積み重なった結果だったのだろう。また、それは決して東京が悪環境だったからと必ずしも言い切れない。祐介とは違って、東京の方が合っているという人もいるし、現に未だに東京などの都会に進出する人々が増え続け、それによって過疎化する田舎も少なくない。ただ、祐介に東京は合わなかった。それだけの事なのだ。そのおかげで、祐介は優秀な成績で大学を卒業し、見事こうして教師になることが出来たのである。
教師になって初めて担任を受け持ったクラスの生徒である、野田咲子に「失踪した妹を探して欲しい」という相談を受けたのは、つい昨日の事である。昨日の今日で、早速祐介は咲子と共に行動を起こしていた。能動的にと言うよりは、咲子の強引な誘導に乗せられ“連れてこられてしまった”と言うのがどちらかというと真実である。
咲子の話によると、咲子の妹“滝子”が失踪した日、失踪する直前まで咲子は滝子と一緒に遊んでいたのだという。その現場が、これから向かう“石上神社”なのである。
石上神社への道のりは、殆ど山道にアスファルトを付け加えたようなものであった。へんてこに盛り上がるアスファルトによる足元の不安定さゆえに、下手すれば足を滑らせて斜面を滑落しかねない、危険極まりない道のりである。
石上神社はこの町では多少有名な神社であった。かの「天神様」を祀っているのだそうで、毎年多くの町民が合格祈願やら何やらで訪れる。祐介自身も、学生時代は何度か参拝に行ったものである。この道を通ったかどうかはあまり覚えていないが、なんだか懐かしい気分に陥りながら、祐介は先を歩く咲子の背中を追った。
「ねえ、先生」
咲子は少しだけ振り返って言った。
「先生って、恋人居るの?」
「そりゃあ、居るに決まっているよ」
祐介は見栄を張った。実際は恋人はおろか、母親以外の女性と仲良くなったことすらなかった。
「先生ってモテそうだものね」
「そりゃあね」
咲子の言葉に、少しだけいい気になって祐介は答えた。
「恋愛の事なら何でも相談しなさい」
「そうね、困ったことがあったら相談するわ。でも今は、そんなことはないのよ。上手くいっているもの」
「野田さんは、恋人がいるのかい?」
咲子が少しだけスピードを緩めて、振り返った。
「ええ、いるわ」
光が差し込んで森の道は終わりを告げた。祐介はすうと汗をぬぐい、そのまま真直ぐに続く長い石段を見上げた。どうやら、石上神社に到着したようである。
石段を見上げながら、咲子は無表情に言った。
「私と滝子は、此処で遊んでいたのよ、あの日」
「何か、思い出せるかい?」
祐介が顔を覗き込むと、咲子は残念そうに首を振った。
「いいえ、何も思い出せないの。どんな遊びをしたのか―――いいえ、本当にここに来たのかさえも、覚えていない」
「ではどうして、君と滝子さんが此処で遊んでいたという事がわかるんだい?」
その時、頭上から声がした。
「僕が見ていたからです」
男性の声であった。低く、なんとも愛想の感じられない声だ。祐介と咲子は同時に顔を上げた。石段の中腹のあそびに、白い袴姿の青年が立っていた。二十歳くらいだろうか、多分祐介よりは年下なのであろうが、高校生と言うには随分大人びていた。
「僕は二人の最後の目撃者なんです」
「顕一」
咲子が呟く。それから祐介の方に向き直って、間が悪そうに首をすくめた。
「この神社の神官さんの息子の、平田顕一です。そして」
咲子はもう一度青年の方を振り返って、
「私の恋人です」
と言った。
「そうかい。僕は……」
「あの日」
平田顕一は自らを名乗ろうとする祐介にくって話し始めた。
「僕は神社の掃除をしながら、石段の方で遊んでいる二人の女の子を見ていました。よくここに来る女の子たちだったので、またか、と思いながら。急な石段だから、転んだり落ちたりして怪我でもしなければいいと思って、ちらちら見てたんです。一度親たちにお茶に呼ばれて、僕は家の中に入りました。それから何分かしてもう一度外に出たら、咲子が一人で泣いていました」
「私はその時の記憶がないの。だけどこうやって目撃してくれてた人がいたから、それが手掛かりになっているのよ」
「咲子、この人は?」
顕一は無愛想なまま祐介を示しながら言った。もしかしたら祐介の事を、咲子の浮気相手だとでも思ったのかもしれない。
「この人は、私の担任の先生よ」
「先生?」
「佐々木と言います」
祐介は頭を下げた。顕一は返礼もしない。
「へえ、随分若い先生なこった。で、先生が一体どうしてここへ」
礼儀のない子だ、と祐介は少しだけ気分を害しながら、負けじと自分の持っている正当且つ正義感に溢れる事情を述べた。
「実は、野田さんに妹さんの失踪について調べてほしいと頼まれまして」
「ほう、今どきの教師はそんなこともするんですか、一人の生徒の為に」
「生徒は例外なく皆大事ですから。それで」
祐介はなんとか話を元に戻そうと努めた。これ以上彼といがみ合っていると、いつか自分が教師であるという事を忘れて失言しかねない。
「君は、以前からこの姉妹とは親交が?」
「はい?」
「失踪する前から、咲子さんと滝子さんとは親交があったのかな?」
「いいえ」
答えたのは咲子であった。
「顕一と出会ったのは、その、滝子が消えた日なんです」
「どういうことだい?」
祐介は顕一の方を見た。顕一はため息をついた。
「それ以前から、俺は一方的にこの姉妹のことは知っていましたが、いや、知っていたと言っても顔くらいのものでした。名前も知りませんでしたし、それに、咲子たちは俺の事を全く知りませんでした。本当に、咲子の妹が失踪した、多分直後に、俺と咲子は出会ったんです。あの日、俺は泣いている咲子が心配になって、一緒に遊んであげたんです。もう一人の女の子が帰ってくるまで、と思っていましたが、結局来たのは顔を真っ青にした彼女の両親と、警察だけでした」
「そうですか………。じゃあ、滝子さんが失踪した時の事を、全く知らないんだね?」
顕一は少しだけ間を置いた。それから、
「ただ、この神社には妙な伝承があるんです」
と、先程とは打って変わって神妙な面持ちで言った。
「妙な伝承?」
「ええ。盆に子供だけでこの神社に遊びに来ると天神様の祟りに遭う、という伝承です」
「祟り?」
「神隠しに遭うんです」
「そうかい。でも伝承は伝承。単なる迷信だろう」
「どうかな」
顕一は言うと、すっと袴を翻して祐介に背を向けた。
「咲子の妹が消えた日は、八月の盆でした」
顕一が去った後、祐介と咲子は神社の石段の丁度日陰になっているところに腰を掛けて、暑さと疲れを凌いでいた。日陰に覆われた石段は、ひんやりとして心地がいい。どうせなら太陽が陰ってしまうまでこうやって涼んでいようか。祐介はそんなことを考えた。
「先生ごめんなさい」
不意に咲子は言った。
「顕一、本当はあんな人じゃないんです。無愛想で、つかみどころがない人だけど。なんだか今日は機嫌が悪かったみたい」
「そうだね…………。そうだ、彼は幾つなんだい?」
「多分今年で二十歳だと思います。私より二つ上なんです」
「じゃあ妹さんが失踪した時、彼も同じ中学に居たんだね」
「ええ。でも彼、高校には進学しなくて。家を継ぐからって言っていました」
「そうかい」
祐介は口を閉じて、腕を組んだ。昨日咲子に見せられた絵が脳裏を過る。顕一があの絵画の少年であるという可能性も考えられた。しかし、だとしたら彼と咲子は、滝子が失踪する以前に面識があったはずである。いや、咲子はあの絵の少年に覚えがないと言っているのだ。つまり、顕一があの絵の少年で、咲子は記憶を無くしていて……。
「先生?」
突然黙った祐介を不安に思ったのか、咲子は祐介の顔を覗き込んだ。
「先生、もしかして、顕一を疑ってます?」
「え?いや、別にそう言うわけでは」
「顔に書いてありますよ。先生わかりやすいんだから」
祐介は頭を掻いた。
「先生の考えていることは大体わかります。あの絵の中の少年が顕一なんじゃないか、まずはそう考えているんでしょう。そして顕一が、滝子の行方を知っているんじゃないかって。でも顕一は本当に無関係なんです。一緒にいてわかるもの。彼は嘘は吐かないわ」
「そうだね」
祐介は苦笑いを浮かべた。咲子からしてみれば、恋人に疑いの目が向くのだけは避けたいのだろう。しかし、咲子の言った言葉は、顕一の無実を証明するにしては余りに力不足であった。
「先生、まだ疑ってます?」
祐介は下を向いた。
「まずは、その、顕一君が言っていた“伝承”について調べてみることにするよ」
咲子が首を傾げた。
「先生、さっき迷信だって言っていたじゃないですか」
「ああ。先生はそういうものはとことん信じないんだ。だからそれが本当かどうかを確かめて」
顕一が嘘を付いているのかもしれないという事をはっきりさせる、なんてことは言えなかった。祐介はいったん息を吐いて、
「手掛かりを掴まなきゃ」
と言い替えた。しかし、咲子は表情を曇らせた。
「先生、」
何かを言いかけて、口を噤む。祐介が聞き返すと、咲子は首を振って、
「なんでもない」
と笑った。
日が暮れてきて少し涼しくなったところで、祐介と咲子はやっと立ち上がった。長い一日だったような気がする。
「さて、先生が家まで送ろう。今の世の中、物騒だからね」
「私は大丈夫よ。此処から近いの。先生は街の方でしょう。暗くなると、あの山道は辛いわよ。熊だってイノシシだって出るんだから」
祐介は肩をすくめた。
「まだ死にたくないな」
咲子は笑う。
「冗談よ。あんな見通しのいい林道に、ケモノなんていないわよ。居てもウサギとか、犬とかでしょう」
「犬だって、野良犬だったら十分怖いさ」
「先生って気が弱いのね」
石段を下り終わった。振り返ってもう一度、この長い石段を見上げてみる。オレンジ色の夕焼けに照らされて怪物と化した神社が祐介たちの頭上に重く聳え建っていた。その頂点に、夕日を受けて映える小さな何かが見える。……顕一だ。顕一は腕を組んでどっしりと構え、まるで祐介と咲子を監視するかのように見下ろしていた。しかし祐介の視線に気付くと、彼は静かに腕を開放し、そのまま奥の暗がりの中へ姿を消してしまった。
やはり、彼は怪しい。
「先生」
険しく眉間に皺を寄せる祐介に気付かないまま、咲子は鞄の中に手を突っ込んでごそごそしながら言った。
「なんだい」
「これ」
咲子は鞄から画用紙を取り出した。
「先生が持っていてくれないかしら」
「え、でも、良いのかい?」
「先生が持っていた方が、きっと役に立つわ。お願い」
祐介は画用紙を受け取った。
「この男の子が誰なのか、其れが滝子の失踪と関係があるのかは分からないけれど、でもきっと、それを調べれば一歩前に進めるに違いないわ」
「そうだね」
祐介はもう一度石段を見上げた。もうそこに、オレンジ色の仁王像は居なかった。
「それと、顕一を許してあげて」
咲子は言った。
「本当は、良い子だから」
妹を失った咲子にとって、顕一の存在はきっと重大なものであるのに違いない。もし顕一が事件に何かしら関わっているとしても、それを暴くことが彼女の幸せにつながるとは考えにくい。
迷いはあった。しかしそれでも、祐介は調査を進めることを決めていた。この事件、なんだか他人事には思えないのである。
不安げに咲子が見上げる。祐介はそれに気付いて、慌てて言った。
「大丈夫」
それから、出来るだけ咲子を安心させようと微笑んだ。
「先生に任せなさい」
咲子の肩に手を置く。咲子が柔らかに微笑んで、祐介はようやく、自分はこの少女の教師であるのだ、と回帰した。




