一、
「ねえ、先生」
野田咲子がそう言って祐介に話しかけてきたのは、六月末の事であった。梅雨が明け、時期を終えた花たちが次々とその花びらを落としていくのを、祐介は掃除中の図書館の窓からいつになくぼんやりと見ていた。まるで惚けて掃除をさぼっているようである。そんな心ここに在らずにぼうっと箒を手にして窓の外ばかり見ている祐介に、野田咲子はそうやって話しかけてきたのであった。
「ねえ、佐々木先生」
二度呼ばれてやっと、祐介は自分を呼ぶ声に気付き振り返った。
「先生ったら、最近ぼうっとしてるわ」
「ああ、すまない。この季節はどうも、ね」
咲子はくすりと笑い、祐介は頭を掻いた。
「それで、何だい。何か用かな」
「ええ。ちょっと相談が。でも今話すことじゃないんです。長くなってしまいそう。掃除も終わるところだし」
言った直後に、掃除終了のチャイムが鳴り響いた。自分がぼうっと外を眺めている間に、いつの間にか清掃の時間が終わってしまったようだ。祐介は肩をすくめた。
「だから、放課後にでもお話を。先生、今日ご予定はありますか?」
予定と言うべき予定は無かった。先日終わったテストの採点をいち早く済ます必要があったが、そんなことよりも、高校三年生の夏になるにもかかわらず、未だ進路を定めかねているこの女生徒の相談なるものを受けることの方が重要であるように思われた。
「大丈夫だよ。進路の事かな?」
「いいえ。あ、でも、少しだけ進路とも関係しています」
「少しだけ?一月にはセンター試験があるんだよ、野田さん。君は成績もまあまあだし、今から頑張れば国公立だって夢じゃない。推薦入試だったら、そこそこの有名大学にも行ける」
「ええ、そうやって未来の事を見据えて先に進むには、まず過去や今の清算が必要不可欠でしょう?つまり今日私が先生にする相談は、近い将来の――つまり一か月後とか、もしかしたら一週間後かもしれないけれど、その時の進路決定にきっと大きく関わってくるわ」
「要するに、進路の事ではないんだね?」
「そうです。でも、この問題を克服しないと、進路の問題なんて考えられないもの」
「わかった。だが四時半までは職員会議なんだ。だからそれ以降に、僕の研究室まで来なさい」
咲子は微笑んで、
「ありがとう先生」
と柔らかく言った。
正直、気が進まなかった。進路の相談で無い相談、考えられるものは、人生相談や恋愛相談なるものだ。家庭の相談かもしれない。そのような繊細な問題を、まだ二十六歳の経験少ない自分が解決することができるのだろうか。間違えた解答を示してしまったらどうしよう。女生徒の相談を受けることも面倒ではあったが、それについて考えることの方がもっと面倒であった。教師という職業は、不特定多数の未だ社会を知らない少年少女たちに対して非常に重大な影響力を持つ。その教師である自分の発した言葉は、どんな些細な言葉であっても、きっとあの女生徒に多大なる力を以て覆いかぶさるに違いない。その所為でもし彼女が道を踏み外したとしたら、きっと自分の所為であるのだ。
考えは自らの意思を無視して膨大に膨れ上がった。職員会議の場に至っても、祐介は女生徒の事ばかりを考えた。十八歳の女生徒の言葉に怯えるあまり、右耳から入った校長の重大なお言葉は一つも残らず綺麗さっぱり左耳から抜け出てしまう。面倒だ。いや、面倒と言うよりは、恐怖に近かった。教師になって五年目、一度として生徒が自分を頼って相談を持ちかけてきたことなどない。祐介は、それだけ生徒たちと表面的な浅い付き合いをしてきた。
そもそも、祐介は教師になりたくてなった訳ではなかった。寧ろ教師と言う職業にだけは絶対になりたくない、そう思って中学、高校、大学と進学したはずであった。他になりたいものもこれといってなかった。しかし教師にだけは絶対にならないでおこうと思っていた。この時代、子供に何かあるとすぐに教師の所為にされる。下手すれば裁判沙汰である。そんな多大なるリスクを持つ職業になど、誰が就きたいものか。
しかし大学三年生になり、就職を考えたとき、教師という職業は余りに好条件なものであった。教員免許の習得を必須とする大学に通っていたため嫌でも免許を取らざるを得なかった祐介は、大学三年生の夏に母校である中学へ研修に行き、次の年にはこの高校の教員になることが確定した。他の所謂大企業への就職を希望していた祐介の友人たちは、次々と就職浪人なるものへと落ちて行った。今の世の中、普通に就職することの方が難しいに違いない。祐介は、ただ就活地獄から逃れ、且つ安定した地位を手に入れるためだけに教員採用試験を受けたと言っても過言では無かった。
だから雑に仕事をしていい、というものでは無い。勿論祐介は、誰よりも真面目に“教師”に打ち込んだ。授業の計画も、保護者との関係、生徒との関係、そして周りの教師との関係も全て円滑に進めた。此れと言った問題を起すことなく、祐介は今どきの模範的な教師になりつつあった。熱血でもなく冷徹でもない、生徒とある程度真剣に向き合って、お互い深くかかわらないようにする。模範的な教師と言うのはそういうものだ。祐介は典型的なそれであった。
そうやって型にはまってやってきた祐介にとって、今回の女生徒の相談は大きな事件であるように思われてならなかった。此処でぼろを出したら、今までやってきたことが全て台無しになってしまう。初めて担任を受け持った生徒たちの受験が近くなり、ただでさえピリピリしているこの現状に加えて面倒な問題を抱え込みたくは無かった。
かと言ってこの相談を断るわけにはいかない。断る正当な理由もない。
職員会議を終えて自らの研究室に戻った祐介は、貰った書類の束をまとめながら、はあ、と溜息をついた。
「溜息なんてついて」
背後から声がして、祐介は慌てて振り返った。先程祐介に相談を持ちかけてきた野田咲子が、其処に居た。
「相談する側は“私”の筈じゃなくて?」
「研究室に入る時はノックくらいしなさい」
「しましたよ。だけど先生、気付かないんだもの。それとも、気付いてて無視したのかしら」
祐介は頭を掻いた。
「いや、すまない。気付かなかったんだ。それじゃあ、話を聞こう」
それからぱっと辺りを見回して、近くに立てかけてあった錆びたパイプ椅子を広げる。
「これに、座りなさい」
「ありがとう、先生」
咲子がパイプ椅子に腰を下ろす。然程重くもなかろう、寧ろ軽いであろう女生徒の腰の重さで容易に椅子はめしりと軋んだ。
「それで、一体どうしたんだい」
「何処から話そうかしら。そうね、じゃあ夢の話から。最近ね、夢を見るの」
咲子は悪びれる様子もなくそう言った。祐介は眉を顰める。
「夢?」
「そう。妹の夢よ」
「君には、妹が居たっけね」
生徒たちの家族構成はある程度知っているつもりではいたが、彼女に妹が居るというのは初めて聞いたような気がした。
「ええ。居た(、、)わ」
「居た?」
「五年前に失踪したの」
咲子は肩をすくめて微笑しながら言った。
「滝子って言ってね、凄く優しい子だった。私たち、双子だったのよ。近所の皆は全く見分けがつかないって言ってたわ。お父さんとお母さんだけは絶対に私たちを間違えなかったけどね。だけどある日、彼女は消えた。五年前の夏よ」
祐介は半ば唖然として聞いていた。この少女に、こんなにも複雑な家庭事情が覆いかぶさっていたとは、想像すらつかなかった。
「今、彼女は、生きてるか死んでるかさえ分からないの。五年も経っているのだから、少しくらいわかってもいい筈なのに。私は一度だって滝子の事を忘れたことは無いのよ。でもね、そんなに意識しないようにしていたの。意識しないようにっていうか、ほら、あんまり感傷に浸っていたら、お母さんやお父さんが可哀想でしょ。彼らの方が辛いに違いなかったんだから。だからあんまり考えないようにしていたわ。でも最近、彼女が夢に出てくるようになったの。悲しそうな目で私を見つめて。もしかしたら彼女、私に見つけてもらいたがっているんじゃないかって、そう思って」
「…………そうかい。じゃあ、辛いだろうね」
「何が?」
「辛いだろう、君は妹の事が大好きだったんだろう?」
「ええ、そうよ。でも、私は彼女が生きているって信じているから、辛くなんてなかったの。ただ、会えないのが少し寂しいだけ。少なくとも、数日前まではそう思っていたのよ」
「数日前に、夢を見始めたのかい」
「ええ。だから少し怖いの。もしかしたら彼女が死んでいるんじゃないかって、そう考えてしまって。受験勉強をしなさいって、先生もお母さんも言うけれど、でも今私の頭は、それどころじゃないの。妹の事でいっぱいなのよ。それにね、昨日、久しぶりに妹の学習机を見てみたの。そしたら引き出しに、こんな絵が入っていて」
咲子は鞄の中から一枚の画用紙を取り出した。折りたたまれたそれは開くとA3ほどの大きな画用紙で、其処にはあまり上手とは言えないタッチで三人の人間が描かれていた。
「一番右が私、それで真ん中が滝子よ。滝子はいつも青いリボンを髪に飾っていたから見分けがつくのだけれどね。でも、一番左のこの子に、私は覚えがないの」
絵の中の人物は、咲子や滝子と比べて背が高く、髪も短い。少年であるように思われた。
「小学校や中学校の頃、仲良かった男の子は何人かいたけれど、私には、この絵の少年が誰なのか、分からないの。もしかしたらこの人が、滝子の失踪に関係しているんじゃないかって、そんな気がしてしまって。そうやって考えたら、もう不安できりがなくなってしまったの」
咲子は少しだけ俯いた。
「だから、先生お願い。私と一緒に、滝子を探して」
「え?」
「先生にしか頼めないわ。お母さんやお父さんに言ったら、きっと苦しむもの。でも先生だったら、私にとっては担任の先生だけれど、滝子にとっては赤の他人でしょう。だから、先生にお願いしたいの」
「だが、そう言うのは警察にお願いするべきだと、先生は思うよ」
「警察には五年前にお願いしたわ。でも現に今、滝子は帰ってきていない。信用できないわ。それにきっと、彼らは昔も今も、滝子の事を探そうとなんてしてくれていないのよ」
祐介は困惑した。しかし咲子は容赦なく、祐介に詰め寄った。
「先生、お願い。先生だって、私に大学に進学してほしいって思っているんでしょう。だってそうすれば、先生の評価も上がって、出世しやすくなるもの。でもそのためには、この問題を解決しなければならないのよ。そうじゃなければどうしても、私は勉強に手を付けることが出来ないわ。妹の悲しそうな顔が、頭から離れないの。だからお願い。滝子を探して」
咲子は祐介の目をじっと見つめた。
先程までは気付かなかったが、咲子の目はいつもより水分を含んで潤んでいた。半ば教師を脅すように挑発的なことを言いながら、しかし辛さと苦しみを胸の内に必死に抑え込もうとしているのだ。そう思うと、祐介は嫌でも頷かざるを得なかった。
「わかった。先生が協力しよう」
「本当に!」
「その代り、夏休みに入る前に志望校を決めて、夏休みに入ったらすぐに受験勉強を始めるんだよ。先生は一生懸命、君の妹さんを探してあげるから」
「ありがとう、先生」
咲子は祐介の手を取って強く握った。祐介は、取り返しのつかないことをしてしまったな、と思いながら、それでも教師らしく力強く頷いて見せた。一昔前に流行った、熱血教師ドラマが頭の中を過る。自分もあの主人公のように、彼女の目には映っているのだろうか。それを思うと、心なしか嬉しく、しかしそう思ってしまう自分に対して気恥ずかしさを覚えた。
この事態を好機ととらえるべきか、其れともピンチと捉えるべきか、現在の祐介では計ることができなかった。悩める少女の心を導き、人助けをするのだと考えるならば、きっとこれは良いドラマに発展するに違いない。しかし、この事件はそれだけではないのだ。少女の失踪という、警察が関与している物なのである。もし自分が調査をすることで、彼女が誘拐犯などへと結びつき危険な目に遭う事になったとしたならば、責任を逃れることは出来ない。いやもしかしたら、そうなって生命の危機にさらされるのは、自分自身であるかもしれないのである。
さまざまな思考を巡らせるうちに、祐介の胸の内から優越感は消え去り、不安ばかりが渦巻いた。此れから自分は一体どうなってしまうのだろうか。そして自分は、野田咲子を救うことが出来るのだろうか。とりあえず、表面だけでも彼女の為に動こう。きっとその行為だけで彼女はある程度救われるに違いない。それでも彼女が救えなかったら、その時はその時で新たな策を考えるしかない。挫けそうになったら、少女の汗ばんだ小さな手が力強く自分の手を握った感触をまた思い出して、教師としての意地で自分の考える最善の行動をとればいいのだ。
祐介は当事者の少女ですら図りきれないほどの不安を抱えつつ、其れを少女に計られないように何度も頷いた。




