第5章 呼び声【4】
「そう、全体に行き渡るようにね」
レイシーの手解きを受け、イテルは庭園の花壇にじょうろで水をやる。本館を訪ねてから数日、イテルはいつも通りの日常を送っていた。レイシーは普段、あまりイテルのそばにはいない。神官としての仕事が多くあるのだろう。それでも、時間があればこうして顔を出してくれるのだ。
「ごきげんよう」
不意に聞こえた穏やかで綺麗な声に四人は振り向く。美しい仕草で軽く手を振るのは、フロル・フラール公爵夫人だった。
「奥方様、ごきげんよう」
レイシーが辞儀をするので、イテルも真似して辞儀をした。ぎこちない動きになってしまったが、公爵夫人は深い慈しみを湛えた瞳で微笑む。
この庭園は神官以外、立ち入り禁止となっているが、公爵夫妻は別なのだとレイシーから聞いた。公爵家と神殿は深い関係にあるからだとか。
「ご体調はいかがですか?」
「今日は随分と楽だからお散歩に来たのよ」
公爵夫人は穏やかに微笑み、視線をイテルに移した。それから、また美しく微笑む。
「ごきげんよう、イテルさん。また会えて嬉しいわ」
「ご、ごきげ、よう……」
上手く言葉の出ないイテルを咎める様子はまったくなく、イテルのそばで腰を屈めた。その手がイテルの頭に伸びると、イテルはまた首を竦めて肩を震わせてしまった。公爵夫人は一瞬だけ手を止めるが、そのままイテルの頭を優しく撫でた。
「ごめんなさいね。私の手が、あなたの頭を撫でたくて堪らないみたい」
「…………」
イテルは恐る恐る公爵夫人を見上げる。怯えてしまったイテルを咎めるような色はまったくなく、優しい微笑みを浮かべていた。
「ここに、あなたに乱暴なことをする者はいないわ。安心してちょうだい」
イテルは首を竦めたまま小さく頷く。ふふ、と柔らかく笑い、公爵夫人はまたイテルの頭を撫でた。そうしていると、イテルの体から余分な力が抜けていった。
「ここでの暮らしはどう? 不自由していない?」
「だ、大丈夫、です……」
「お喋りも上手になってきたわね」
イテルにはそうは思えなかったが、フロントの発声練習のおかげで以前よりは声が出るようになってきたと自負している。それが「お喋りが上手になった」と言えるかどうかはイテルにはわからないのだが。
「フロントから聞いたわ。イテルさんは優秀だと褒めていたわ」
「あ、ありがとう……ございます……」
「きっとこの子の良いお手本になるでしょう。この子のお兄様になってくれたら嬉しいわ」
公爵夫人は優しくお腹を撫でる。公爵夫人のお腹には赤ちゃんがいて、産まれるまでまだ数ヶ月かかるとレイシーが言っていた。その実、イテルはお腹に赤ちゃんがいるということがよくわかっていない。数ヶ月が経ったら公爵夫妻に子どもができるという曖昧な理解しかしていなかった。
「もうお名前はお決めになられたのですか?」
興味津々、といった様子で、嬉しそうにしながらデラが問いかける。公爵夫人は幸福感を湛えた表情で微笑む。
「いま夫と考えているところなの。イテルさんのように賢い子になってほしいわ」
「きっとすべての民が楽しみにしていますよ」
自分もそのうちのひとりだ、というように明るく笑ってエイカーが言う。公爵夫妻に子どもができたことは公国民の喜びだと、レイシーから聞いたことがある。公爵夫妻は子どもが欲しかったが、なかなか授かることができなかった、とも言っていた。これについてはイテルにはまったく意味がわからなかったのだが。
「産まれたらみんなで会いに来てちょうだい」
公爵夫人は美しく微笑む。お腹に添えられた手は、とても優しく、愛情に満ちたものであった。




