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社畜の俺、伝説の元スパイと「深夜0時の退職代行」始めます。~ブラック企業からヤクザの組まで、物理と法律で「円満退社」させます~  作者: 伊達ジン
【第3章】 過去からの亡霊

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第37話 炎上の狼煙とメディア・スクラム

 深夜0時を回った東京。いや、世界中のネットワークが、未曾有の熱量を帯びて沸騰していた。

 アストリッドが放った一撃――神宮寺局長をはじめとする腐敗した官僚や政治家たちと、巨大コンサルタント会社「クロノス」の癒着、そして「プロジェクト・オーバーライト」の非道な全貌を暴き出した、あの決定的な告発動画の強制配信。

 スマート端末やデジタルサイネージのOSのゼロデイ脆弱性を突いたそのハッキングは、どんな検閲アルゴリズムをもすり抜け、数億人の眼球に「真実」を焼き付けた。


 ミッドナイト・エグジットの地下サーバールームは、歓喜と興奮のるつぼと化していた。


「ウヒョーッ! サトル先輩、見てこれ! トレンドの1位から50位まで、全部ウチらが仕掛けたワードで埋め尽くされてるし!」


 潜入担当の冬美ちゃんが、五台並べたタブレット端末の画面をスワイプしながら金切り声を上げる。彼女の目の前では、SNSのタイムラインが滝のような、いや、もはや視認不可能な濁流となってスクロールし続けていた。


「マジで草も生えない大炎上! 『#国家の歯車はお断り』『#クロノス解体しろ』『#神宮寺局長を逮捕せよ』……一秒間に何万件ポストされてんのこれ!」

「当然だよん! 私が世界中のルーターに仕掛けたバックドアは、まだ半分も塞がれてないもん。国内のショボい検閲AIが火消しに回ったところで、こんなの焼け石に水だね!」


 コックピット型デスクに座るアストリッドが、得意げにブイサインを作りながら夜食のカレーうどんのスープを啜る。

 俺は、異常な速度ではね上がる世界中のトラフィックデータを見つめながら、背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。

 これが、世論という名の「暴力」か。

 ブラック企業で上司の理不尽な命令に耐え、ただ黙ってすり減っていくだけだったかつての俺たちのような名もなき労働者たち。彼らの中に鬱積していたルサンチマンが、この動画を起爆剤にして、一気に爆発したのだ。


「お待たせ。海外の仕込みも完了したわよ」


 サーバールームの防音ドアが開き、別室で工作を行っていた三浦陽子さんが姿を現した。彼女はシルクのガウンを羽織り、片手にワイングラスを揺らしながら、極上の笑みを浮かべている。


「陽子さん、海外メディアの反応はどうですか?」

「最高よ。動画が配信された瞬間に、私が懇意にしているアメリカの巨大ゴシップサイトの編集長に『日本政府の最高機密ドキュメンタリー』って銘打って直電してやったの。さらに、フォロワー数千万人の暴露系インフルエンサーたちにも、裏アカ経由で暗号資産と一緒にネタをばら撒いたわ」


 陽子さんはグラスを傾け、モニターに映る海外のニュースサイトを指差した。


「見ての通り、すでにトップニュース扱いよ。見出しは『JAPANESE SLAVE SYSTEM(日本の奴隷制度)』。英語、スペイン語、中国語、アラビア語……あらゆる言語に翻訳された動画が、一瞬にして世界中のプラットフォームを駆け巡ってる」

「素晴らしい手際ですね、陽子さん」


 金庫番のくるみさんが、眼鏡の奥の目を細めて拍手をした。


「これで、日本の当局が強引に国内のネットを遮断したとしても、もう手遅れです。世界中から『報道規制を敷いた独裁国家』というレッテルを貼られ、国際的な非難を浴びることになる。彼らは完全にチェックメイトですね」

「法廷という密室なら揉み消せても、地球全体を法廷にされたら、もう逃げ場はないわね」


 顧問弁護士の由希さんも、朝までの絶望が嘘のように、晴れやかな顔で頷いた。


「ミャァーン」


 緊迫と熱狂が交差するサーバールームの床で、のんきな声が響いた。

 視線を落とすと、黒猫のチビが、俺の足にスリスリと体を擦り付けていた。ささみを完食して満足したのか、口の周りを前足で丁寧に洗っている。


「チビ、こんな機械だらけの部屋に入ってきちゃダメだぞ。毛がサーバーに入ったら大変だからな」


 俺がしゃがみ込んで抱き上げると、チビは「ニャルル……」と喉の奥で鳴きながら、俺の腕の中でクルリと丸くなった。柔らかな黒い毛並みと、湯たんぽのような温かい体温が伝わってくる。

 チビは俺の胸元に顔を埋め、ピンク色の小さな鼻をヒクヒクと動かすと、そのまま安心しきったように目を閉じてしまった。


「フフッ、サトル先輩は世界中が燃えてる時でも、猫の世話が最優先なんやね」


 冬美ちゃんが可笑しそうに笑う。


「仕方ないだろ。こいつには国家権力も大炎上も関係ないからな」


 俺は苦笑いしながらチビの背中を撫でた。どんなに外の世界が混沌の渦に呑まれようと、腕の中で無防備に眠るこの小さな命だけは、俺が絶対に守り抜かなければならない。その温もりが、張り詰めていた俺の心を優しく解きほぐしてくれた。


 しかし、その平穏は長くは続かなかった。


 深夜0時の動画配信から、わずか数時間が経過した未明――午前三時過ぎのことだった。


「……ボス。敵さんの動きが変わったよ」


 突然、アストリッドの声が一段と低くなった。

 モニターの一つを凝視し、キーボードを叩く彼女の指先が、先ほどまでの余裕を失い、目にも留まらぬ速さで踊り始める。


「どうしたの、アストリッド」


 壁際で腕を組んでいた青木裕里子が、鋭い声で尋ねた。


「霞が関と、クロノスの中枢サーバー間の暗号通信を傍受してるんだけど……奴ら、パニックになって火消しをしようとするのを諦めたみたい。通信のトラフィックが一気に『物理的制圧』のフェーズに移行してる」

「諦めた?」


 由希さんが怪訝な顔をする。


「これだけ世界的に延焼してしまえば、論理的な弁明や情報統制は不可能だと悟ったんでしょう」


 白衣姿のグレタが冷静に分析する。


「ええ。だから奴らは、一番原始的で、一番確実な方法に切り替えた」


 アストリッドがバンッとエンターキーを叩くと、メインモニターに一つの文書ファイルが表示された。

 それは、警察庁と公安調査庁、そしてクロノスの私兵部隊の間で交わされた『極秘指令書』だった。


「……『国家転覆を企図する極左テロリストグループの殲滅作戦』?」


 由希さんが、画面の文字を読み上げて息を呑んだ。


「奴ら、私たちを『テロリスト』にでっち上げたのよ。動画の内容はテロリストによるディープフェイクの捏造だと強弁し、首謀者である私たちを問答無用で物理的に排除する気だわ」

「なりふり構わなくなってきたわね。自らの失態を隠すために、私たちを悪の標的に仕立て上げるなんて」


 陽子さんが冷ややかな声で言う。


「サトル先輩! これ見て!」


 冬美ちゃんが血相を変えてタブレットを突き出してきた。

 そこには、たった今配信されたばかりの緊急ニュース速報が映っていた。


『――臨時ニュースです。先ほどからネット上で拡散されている悪質なフェイク動画について、政府は国家転覆を狙うテロ組織によるサイバー攻撃であると断定しました。現在、警察および関係機関が、首謀者グループの潜伏先を特定し、制圧に向けた大規模な作戦を展開中とのことです――』

「……潜伏先の特定?」


 俺の背筋に、氷のような悪寒が走った。


「アストリッド! 俺たちのアジトの場所はバレてるのか!?」

「ハッキングの逆探知は完璧に防いでる。でも、昨日の霞が関へのカチコミで、物理的な痕跡を辿られたら……」


 アストリッドが複数の監視カメラ映像をモニターに呼び出した。


 その映像を見て、全員が息を呑んだ。

 俺たちの洋館アジトに通じる、深夜のひっそりとした並木道。

 そこに、ヘッドライトを消した黒塗りの装甲車両が、次々と音もなく滑り込んでくるのが見えた。

 車両から降り立ってくるのは、完全武装した特殊部隊員たち。そしてその背後には、かつて俺たちを苦しめたクロノスの「処理班」――常人離れした巨体をパワードスーツで覆った強化兵士たちの姿があった。

 その数は、ざっと五十人以上。敵は数時間前からすでに部隊を待機させ、俺たちの居場所を特定した瞬間に全戦力を投下してきたのだ。

 完全にアジトは包囲されていた。


「……なるほどね。小賢しい理屈が通用しなくなったから、今度は暴力で黙らせに来たってわけ」


 裕里子が、壁に立てかけてあったダマスカス鋼の退職届を手に取った。

 チャキン、と冷たい金属音がサーバールームに響く。

 彼女の目には、恐れなど微塵もなかった。あるのは、自分を殺人兵器として育て上げた古巣「クロノス」に対する、底知れぬ怒りと闘志だけだ。


「由希、くるみ。ここにある重要データと資金のバックアップを急ぎなさい。冬美と陽子は脱出ルートの確保。グレタは劇薬の準備。アストリッドは防衛システムを最大出力で稼働させて」


 ボスの的確な指示が飛ぶ。

 そして、裕里子は俺の方を振り返った。


「サトル」

「はい。俺も戦いますよ。フライパンでも熱湯でも、武器になるものは何でもあります」


 俺が覚悟を決めて言うと、裕里子はフッと不敵な笑みをこぼした。


「あんたはチビと、由希たちがまとめた重要データの入ったメインストレージ、それから大事な鍋を抱えて、一番安全な地下ルートを先行して確保しなさい。……追手が来たら、あんたの得意な『家事トラップ』で足止めを頼むわよ」

「裕里子さんは……?」

「決まってるでしょ」


 裕里子は、ダマスカス鋼の刃をギラリと光らせ、狂暴で、最高に美しい笑みを浮かべた。


「私たちの家に土足で踏み込んできた不法侵入者どもに、きっちり『退職金』を支払ってやるのよ。……サトル、私たちが追いつくまで絶対に死ぬんじゃないわよ。生きて美味い朝飯を作ることが、あんたの最大のミッションなんだからね」

「……了解です、ボス!」


 世論を味方につけた俺たちへの、国家権力とクロノスからの容赦ない逆襲。

 温かいカレーうどんの匂いが残る俺たちの居場所は、今まさに、血を洗う戦場へと変わろうとしていた。

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