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病院での惨劇から、早いものでもう十数週間。私は順調に臨月を迎えて――そして今まさに、陣痛の真っ只中です!
「痛い痛い痛い……っ!」
話には聞いてたけどほんと痛いのね。こう、身体が骨から軋むような。骨盤でしっかり守ってる胎児を出そうっていうんだから当然なんだけど痛いものは痛い! 思わず泣き言も飛び出すくらい。
「痛いのやだぁ怖いいいぃいぃいい!」
「あんた母親でしょうがしっかりしなさい!」
と、すかさず横からどつかれる。下層のおばちゃん、容赦ない。
下層――そう、私は今、下層で出産しようとしてる! 病院のあの混乱の中から抜け出して、ドクターの人脈を活用して、やっと落ち着いた隠れ家で。最下層とまではいかずとも、それなりに治安も悪いし水や食べ物も汚いとこ。でも、それだけに見つかりにくいし、住人も、貴重な医者を連れてるってことも手伝って、馴染めば結構温かい。――でも、だからってあんまり慰めにはなってない。
「第七天で無痛分娩になるはずだったのにぃ……!」
多分、セックス経験なしでいきなり出産、ってのも良くないんだと思う。あそことか諸々こなれてないってことだから。それは最初から分かりきってたことだけど、最新設備に囲まれて最高のドクターに診てもらうんだから大丈夫だろう、って自分に言い聞かせてた。それがこの有り様だよ!
経験者のおばちゃんやお姉さん、ドクター・ニシャールの指導の下、ありとあらゆるマッサージやストレッチを試してはきたけど……全然効いてるように思えないんですけど!?
「マリア、落ち着いて。最善を尽くすから大丈夫」
「まず衛生状況が最善じゃないじゃん!」
主治医は相変わらず第七天で最高の教育を受けたドクター――とはいえ、ここは設備の整った病院じゃない。そりゃ、あの時テロリストの闇医者に堕胎させられそうになったのに比べれば遥かにマシなんだけど。
「絶対大丈夫って言ってよぉおお!」
「……落ち着いて。皆やってることだから。呼吸法を思い出して」
ドクターの呆れた目が突き刺さる。だから処女で代理出産なんて賛成しなかったのに、とでも言いたげ。うん、私が甘かったと思う。予想外のことが色々起こったにしてもこんなに痛いとは思ってなかった。……だからどうにかならない?
えー……色々と聞き苦しい・見苦しいところは割愛します。
何回かもう死ぬかとも思ったけど。何とか無事に出ました! 玉のような男の子です!
ドクターのお陰か、お湯を沸かしたり励ましたり、たまにどついたりしてくれた産婆のおばちゃんのお陰か。母子ともに健康、だそうです。ああ、健康って素晴らしいなあ。私にとって五体満足な身体は資産で売り物だったけど。何ていうか切り売りするんじゃなくて生産的なことのために使えたっていう実感がこうこみ上げて……胸が、一杯になる。
「可愛いわねえ」
「こんな綺麗な赤ちゃん見たことないわ」
「さすが上のお子様は違うのねえ」
ぐったりと横たわる私の枕元では、近所のおばちゃんやババアやお姉さんが入れ替わり立ち代りやって来ては赤ちゃんをつつき回してる。私は、他人の赤ちゃんなんてろくに見たことがなかったけど――経験豊富な方々も褒め称える可愛い赤ちゃんだってことに、ちょっと誇らしさを覚えている。いや、私の子じゃないんだけど。でもお腹を痛めたってやつだからね。
近所の人たちには、代理母に採用されたと思ったら胎児ごと人体実験をされるとこだった、って説明をしてる。同情したドクターが助けて匿ってくれたの、って。隠し事をする時には真実を混ぜろってヤツで、皆信じてくれてるみたい。だから皆、ずっとここで育てれば良いって言うけど――
私は、この子をいずれ本来の両親のところへ返すつもりだ。
病院での惨劇は、沢山の人、沢山の家庭を巻き込んだ。私の前にあの部屋に連れて行かれた代理母の中にも結局亡くなってしまった娘もいるし、恐怖からくるストレスで悲しいことになった赤ちゃんもいる。
でも、ホルツバウアー夫妻はある意味一番悲惨な被害者だったかもしれない。だって、彼らの赤ちゃんは私ごと消えてしまったんだから。テロリストに攫われて、生きているのか死んでいるのか分からなくて、でも諦めることもできなくて。
『どんな姿でも良い、あの子を私たちのところへ返して!』
ニュースで何度も流れた映像が頭に蘇る。涙ながらに訴えるイーファさんも、それを支える憔悴しきったアロイスさんも。綺麗な人たちだけにそれは痛々しい姿だった。
『マリアは何も悪くないのに!』
私を忘れないでいてくれたことも。少し嬉しくて、それ以上にとても申し訳なかった。本当の誘拐犯は、私自身な訳だから。
二人の悲嘆が演技でないように見えたのは気のせいではないと思いたい。実験体、あるいは丹精込めた人造の「神」が失われてしまった嘆きではなくて、我が子を奪われた心からの悲しみだったら良い。それなら、赤ちゃん――下層の女たちがこぞって見蕩れる綺麗な子、肉体的にも頭脳的にもきっと秀でた完璧な子、でも優れているだけのただの人の子――を返しても、ひどいことにはならないと思うから。
私は、この子を育てるために子宮を貸してただけだから。病院のテロで、誘拐されてレイプされて死んだと思われて、市民IDを失くしてしまった身だから。この子は本当の親のところで育った方が良いんだろう。
テロリストが持て余して捨てたのを、下層の住人が保護した、ってストーリーにするつもり。そりゃ、私が名乗り出ればちょっとしたヒロインになれるだろうけど――
――マリア、お疲れ様。
精神感応が頭の中に優しく響いて、私は泣き喚いて疲れきった顔面の筋肉を緩めた。軽い足音に、私の子が来てくれたのが分かる。
ありがと。何とか産んであげられたよ。
頭の中での会話も、もうすっかりお馴染みになった。最初は、私の妄想なのかって疑ったもんだったけど。
――みんな帰ったよ。私にも赤ちゃんを見せて。
言いながらひょい、と私の顔を覗き込んだのは――子供の姿のアンドロイド、にしか見えない者だった。
『子供たちを助けて!』
あの日のあの訴えに、ドクターは即断で応えてくれた。つまりは、第七天で得た地位を捨てて、誘拐犯の片棒を担いで欲しいってことに。今まで築いたものを全て捨てる決断をその場でしてくれたこと――感謝してもしきれない。というかちょっと引いた。
信じられないくらいのお花畑な理想論。手際よくテロリストを射殺してった冷静さ。それと、他人のために人生捨てられる潔さ?その全てが一人の人間に同居してるなんて、世の中分からないことで一杯だ。
とにかく、それで子供たちは本当に助かった。下層の廃棄場からかき集めた素材や部品で造った身体は「神の子」の魂の受け皿になった。これがほんとの機械仕掛けの神、ってとこかしら。
魂のダウンロードと、新しい器へのインストール。神の子が羊水に浮かびながら考えた理論は見事に成功したらしい。それはつまり魂をデータとして解析しちゃったってこと? すごい大事な気もするけど、怖いからあまり考えないようにしてる。うん、私に分かるはずもないし。
――赤ちゃん、可愛いね。……私がこの子の中にいたと思うと不思議だけど。
樹脂の指先がそっと赤ちゃんの頬を撫でた。そうだね、私にとってはあんたの存在も不思議だけどね。実験とか、「神の子」だからとかじゃなくて、自分と同じくらいだぢじな存在ができたってことが。
――この子の命名は本当の親に任せるのでしょう? 私にも名前をつけてよ。私がマリアの子供なんだから。
恥ずかしそうな、それでいて思い切った申し出から、温かい感情が流れ込んでくる。声を合成する機能も搭載しているのに使わないのは、疲れてる私を気遣ってくれてるらしい。ああ、何て良い子!
うん、考えなきゃね。いつまでもあんたなんて呼んでたら可哀想。ドクターにも相談して良い名前をつけてあげよう。あんまり派手なのはヤだけど、ちゃんとした意味とか由来を込めてあげて――
――それだとドクターがパパみたいだよ。
……たまに変なことを言うのは相変わらずだなあ。私がドクターにしたことって言ったら……あそこもばっちり見られてるし、ゲロ吐きかけたし、陣痛の間も色々言っちゃいけないことを言ったような……あまりよく覚えてないけど。まあとにかく、そこから何かあるにはあまりに酷いというか情けない関係だ。
――でも、一緒に暮らすでしょう?
そりゃ、私にはあんたのメンテナンスができないもん。身体が回復して、仕事を見つけるまではお世話にならなきゃだろうし……。
この子の身体を組み立てたのはドクターだ。私は、精神感応で伝えられる単語を訳も分からず鸚鵡みたいに繰り返しただけ。鸚鵡とか見たことないけど。それでちゃんとした「魂の器」ができちゃった辺り、あの人もやっぱりすごいんだ。
だから、近所の人や患者さんからは、この子はドクターが作った何かすごいロボットだと思われてるし、それで通した方が良いんだろう。あれ、ということは私もドクターから離れられないのか。この子を放っとくなんてできないしなあ。
――まるで聖家族みたいじゃない?
あは、マリア様とイエス様、それからヨゼフ様ってこと? まるで第七天の人たちみたいな強気な喩えね!
――だって、普通じゃない家族だから。
家族って……うーん、私だけじゃなくてパパも欲しいお年頃なのかな? 難しい時期だなあ。
ま、あんたのパパのことは追々考えるとして。マリア様とか聖家族とか、そんな喩えは止めよっか。
――気に入らない? 畏れ多い? マリアがそんなこと言うなんて意外。
ふふ、自称神の子ほど傲慢にはなれないかな。でも、それだけじゃなくて――
私は不思議そうに首を傾げる我が子の頬をそっと撫でた。作り物の皮膚の感触。でも、その中にはちゃんと魂が宿ってる。とっても賢いけど、まだまだ子供の魂。だから、私がちゃんとママをやってあげなきゃ。
私に伝えられるか分からないけど――私の子宮に新しい命を受け入れてから、今日までの間に学んだことを、触れた指先から伝えたいと強く思う。
地上は人間のものだってこと。
神様に頼りたくもなるような悲惨な世界ではあるけど、でも、それでも生きていくのは私たちだから。
代理母になることを選んで、「神の子」を名乗る胎児の声に耳を傾けた。第七天は思った通りの楽園ではなかったし、ドクターの理想論にも、テロリストのふざけた理屈にも腹が立った。その時その時の私の選択、私の思いを、偉い神様なんかにあっさり解決なんてしてもらいたくない。
――マリア……親孝行、させてくれないの……?
ありがと、でもその前に私があんたを守ってあげる。
人工筋肉で器用に寂しそうな表情を浮かべた子の、今度は髪を撫でてあげる。この子の存在が世間に知られたら、利用されたり狙われたりするんだろう。神の恩恵に与ろうってだけじゃなく、あのテロリストどもみたいに存在自体が許せないっていう連中もいるだろう。
そんな世界からこの子を守るには――神なんていらない世の中にすれば良い。
世界を変えるだなんて大事、この子一人が背負うことじゃない。子供のためにより良い世界を創るのは、親のやるべきことだと思う。
だから、私は聖母様なんかじゃない。ただの人間で、ただの女――ただの一人の母親だ。でも、愛しい我が子のためだったら。この汚い世界でも生き抜いてやるし、何なら変えてみせたって良い。
自分さえ良ければ良いと思ってた私が、随分と変わったもんだと思う。でも、悪い気分じゃない。この子と会って、親になって、すごく強くなれたと思うから。お金目当てで始まって、全て私の意思でこうなったことではないけど――
あんたに会えて良かった。私のところに来てくれてありがとう。
腕を伸ばして、子供を抱きしめると、ぎゅっと抱き返してきた。金属や樹脂の硬くて冷たい身体だけど、私にとってはこんなに愛しい。
この愛しさと幸せ。胸の底から湧き出す温かい想い。これ想いとこの子がいれば、この先何があっても前に進めるような気がした。




