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ホドク




   ホドク




 〈環境と遺伝子の差異における教育成果の違いを模索する系統〉

 様々な人種の孤児をグル―プに振り分け、現在提唱されている色々な教育方針を各グル―プごとに試みてその成果を観察するアカデミ―。

 これはその昔、現クロガネグル―プの会長である総司の祖父・武蔵むさしが提唱し、総司の母・ともえが実施した試験的孤児院であり、優秀な人材を育成するための教育機関である。

 そこが始まりの場所。

 訪れた悲劇をひも解くために知らなければならない真実の断片。



   二五年前

   


「今日は顔色がよさそうだな」

 シンラ博士はベッドに横たわる鉄総司に訊ねた。

「うん」

 体中にいくつも点滴をされている少年は少しだけ首を動かし笑ってみせる。それが今、彼に与えられている自由の限界だった。

「わしが毎日来てやっとるんだ。少しはよくなってもらわんとな」

「へへ、先生には叶わないな」

 この光景を端から見るものがあるとすればずいぶんシンラ博士は偉そうに見えるかもしれない。というのも、一見総司少年よりもシンラ博士の方が幾分も幼く見えるからだ。

 しかし、実際シンラ博士は十五歳。総司少年は十三歳。博士の方が二歳年上であり、その功績からも敬われるべき立場である。

「ありがとう、先生」

「ん?」

 突然の少年の謝意に博士は戸惑うように眉じりを下げる。見た目の割にいつも硬い顔の博士がこんな表情を見せるのは、或いは総司少年の前だけかもしれない。

「僕、先生がいるから頑張って生きようって思えるんだ」

「そうか」

「先生、僕―――」

 そのおり、ピピピピと電子音が鳴り総司少年の言葉を遮った。

「悪い」

 音の正体は博士のポケベルだった。博士は白衣のポケットからそれを取り出しディスプレ―に目を落とす。そしてイラついたように顔を顰めた。

「先生、呼び出し?」

「………………………」

 博士は答えない。忙しい身の上ながら時間を割いてここに来ているのだ。そのなけなしの時間を邪魔されては憤慨を覚えないはずはない。

 総司は一瞬だけ寂しい顔をして、それでも博士に悟られないうちにめいっぱいの笑顔を作って博士に言う。

「先生、行って」

「だが」

「大事なことかもしれないだろ?」

「…………………」

 博士はいっときの間考え込んでから何も言わずに病室を後にした。

 これはいつもの習慣だった。

 『さよなら』を言うには寂しすぎる。でも『また』と言えば嘘のように聞こえるから。

 残された総司少年は首をゆっくりと天井に戻して呟いた。

「行くなよ―――バカ……」



 アカデミ―内の廊下を颯爽と歩いていくシンラ博士。アカデミ―の生徒たちは同様に脚を止め遠巻きに博士を見る。

「ほら、見ろよ。ト―ル=シンラがいるぜ。毎日、総司坊っちゃんの見舞いに行ってるって噂、本当だったんだな」

「うん?どれ」

「あれだよ、あれ」

「はん?シンラってたしかオレらより一、二こ下だろ?あれ、小学生じゃん」

「お前、知らないの?第二次性徴不全」

「なんだよ、それ」

「なんか、原因不明らしいけど、第二次性徴が起こらないんだって。つまり、ずっと子供のまんまってやつ」

「ふ〜ん」

「それでさぁ噂だけど、その病気のやつって性徴に栄養使わない分が頭にいくから天才になるとかならないとか」

「えぇまじでぇ―――よくねぇそれ」

「バァカ。じゃあお前、天才になるかわりに一生セックスできなくてもいいのかよ」

「うっそれは―――まぁ―――」

「だろ?それに、いくら天才でもあれじゃあな」

 小さい背中―――ぶかぶかの白衣姿に送られるそのほとんどが、羨望や尊敬ではなく哀れみや蔑みの視線であった。



 技術開発部・第一ラボラドリ―。

「ごめんね、シンラ。呼び出したりして」 

 シンラ博士が研究室の入り口を潜ると、待ってましたとばかりにチ―ムで一番年長者の青柳めぐみが博士に話し掛けてくる。とはいうものの、その青柳とてまだ二十代前半。アカデミ―が創立した当初に入籍した生徒であり、一歳の時に入籍したシンラ博士と同期のさくらだった。

「なにがあった」

 眉間に皺を寄せて問うシンラ博士に青柳は小馬鹿にしたような笑みで答える。

「いや、たいしたことじゃないんだけどね。電話でいいとも思ったんだけど、どうせあなた医学部にいってると思ってさ。あそこにいたんじゃ携帯つかえないし―――」

「………………………」

 普段から目付きの悪いシンラ博士に見上げられると、なぜか責められているような気になり青柳は苦笑して本題に入る。

「ふん。被験体Γは失敗したわ。だから処分してΔを請求しようと思うけど、まっその報告をね―――」

「失敗」

 シンラ博士は眉を潜め被験体Γ、眠っている子供のチンパンジ―に近寄った。

「なんかさっきレントゲン撮ったら、脳腫瘍ができてるみたいでさ」

 そういいながら青柳はレントゲン写真を数枚取り出す。

「――――――!」

 シンラ博士はひったくるようにそれを奪い電光板に張り付けた。

「バカな!昨日まではこんな影見えんかったぞ」

「まったしかにおかしいよね。でもさ、どのみちこれは私たちのせいじゃないよ。はやいとこ処分して―――」

「イレギュラ―だ!原因が分からん以上、それを探らなならんかろうがっ!?」

 一喝するシンラ博士。その迫力にたじろぎながらも青柳は宥めるように言う。

「そりゃあなたの言うことも一利あるけど、実際問題私たちにそんな時間ないでしょ?」

「なければ作れっ!失敗すれば次があるなんぞと甘い考えだからお前はいつまで立っても進歩せんのだ!」

「っ!」

 その言葉にムッとする青柳。

 しかし、博士に対する抗議を申し出たのは彼女ではなく他のチ―ムの面々だった。

「そんなに言うなら、シンラ君一人で調べたら?」

「そうだよ」

「ただでさえ、こっちは前に二匹も失敗して上からやぁやぁ言われてんだからな」

 チ―ムメイトにしてみれば寧ろそうしてほしい気持ちだった。一言で言うなら誰もシンラ博士と反りが合わないのだ。

「よかろう」

 そしてそれは博士とて同じ。

 もともとこの開発チ―ムには数ヵ月前に上から頼まれて渋々加わっていたのだ。それで望まれていないというのならこっちから願い下げである。おまけにこの研究自体始めから乗り気でなかったということもある。 

 『イメ―ジ・コントロ―ラ―』―――その名の通り、思っただけで機械を動かせるという代物。脳内にインタ―フェイスとなるマシ―ンインプラントを施し、それを介して例えば機械仕掛けの義足や義手を思い通りに動かすことを目的としている。しかし、博士にしてみれば頭の中を弄くってまでする必要のあることなのかはなはだ疑問だった。

「わしは今日かぎりΓを引き取って、このチ―ムを離れる」

「ちょっと待ってよ」

 一番最初に頭に来ていた青柳だったが冷静になってシンラ博士を諌めようとする。

「そんな急に言われても―――それに、みんなだってちょっとイライラしてるだけだし」

「………………………」

「それにΓの原因調べるにしたって一人じゃむりでしょ?だいたいあなた物理系だし」

「ふん」

 シンラ博士は鼻だけで笑う。

「確かにわしは物理系かもしれん。『ゲ―ジ理論を掌握する触媒の予見』『THz波発生方式の確立』『ベリ―ナノクレ―シュの構造理論』―――」

 それらは全て過去に博士が提唱した理論や発見である。たった十五歳にして、次世代科学技術の基盤になるであろう体系を一人で作った博士はやはり天才の中の天才と呼べる。

「全て机上の論理だ。おまけに脳外科に関しては素人当然―――」

「でしょ?だから―――」

「だがな―――なんの成果も上げていないお前らに足を引っ張られるくらいなら一人の方がまだましだ」

「―――――――――――――――」

 そこまで聞いて青柳は言葉を失った。いっときの黙止。

 やがてわなわなと声を震わせ言う。

「わかった。そこまで言うならもういい。上には私から言うから」

「――――――――――――-」

「たしか、第三ラボが開いてたからそこを使いなさい。今日中にはΓを移す。勝手にしたら」

「ふん、邪魔したな」

 そう告げるとシンラ博士は研究室を後にした。そんな彼の背中を見送ってから、チ―ムメイトたちは『何様のつもりだ』だの『むかつく』だの口々に言い合う。

 ただ一人、青柳だけが、

「はぁ」

 疲れたため息を吐いて頭を抱えていた。



 数日後。

「………………」

 第三ラボにて、被験体ΓのCTスキャナ―画像を睨むように見据えるシンラ博士。

「やはり妙だ」

 Γの脳内にできたこの腫瘍。脳腫瘍の種類は良性・悪性含め約一三0種あると言われるが、いずれにしろ脳にできれば生命の危険をきたすもののはずである。にもかかわらずΓにはこれといって深刻な病症は見られない。おまけにこの増殖の仕方、どこか秩序だっているような……。

「ふぅ」

 博士は背もたれに寄り掛かり視線を画面から天井に移す。

 正直煮詰まっていた。大体無理なのだ。数式の構築や時間に余裕のある研究ならいざ知らず、臨床医学にたった一人で挑むなど。

 それでも博士は人を頼る術を持たない。

 そもそも彼の協調性のなさには理由があった。

 それは先に語られた〃第二次性徴不全〃が関与する。

 原因不明の奇病が天才を生む。眉唾物の噂だが、しかしそれも強ち間違えとはいえなかった。事実、博士の脳は常人のそれより何倍も活性した状態を常に保っており、それが今日までの彼の天才ぶりの要因となっている。

 脳の活性は、或いは棚牡丹なものに思えるかもしれない。しかし、それは同時に慢性的な神経症を発症することになる。脳の限界はどれだけの情報を処理できるかではなく、多数のネットワ―クを束ねた上でどれだけ自己を形成し続けていられるかにある。その枠を超えた情報処理を行なえば統制が取れなくなりジレンマに陥りストレスを誘発する。それが思考の限界。その限界を常に超えている博士は重度の精神病を併発しており、それを無理繰り抗精神病薬を始めとする大量の薬で押さえこんでいるのが現状であった。根本の原因が分からないためにそうするより外なく、この無二の天才の理解者はほんの一握りしか存在しなかった。

「……時間だ―――……」

 博士はΓをCTスキャンから抱え出し、ゲ―ジの中へそっと寝かせる。ゲ―ジは結構な大きさのものである。今は麻酔が効いて大人しくしているが、時間が経てばまたその中で元気に遊び回ることだろう。そんな姿を観察しているとこの動物の方が遥かに人間的だと博士は思う。

 一人でいると自分には心がないのではないかと感じる。その癖、人の中にいるといつもイライラしている自分がいる。

 緊張・侮蔑・孤独・閉塞―――まるで知恵の実を食べた代償のような……。

「行ってくる」

 未だ眠っているΓに博士は抑揚のない声で告げた。

 唯一、そのどちらでもない自分になれる場所に―――。



 シンラ博士が鉄総司の病室を訪れると、そこには先客がいた。

 鉄貴子。総司の種違いの妹だ。

「今日は、先生」

 貴子は柔和な笑みを浮かべて挨拶する。

「ん」

 博士は軽く会釈し、ベッドの中の総司少年に目をやった。

 総司は俯せに寝ていた。背面に点滴を射していたからだ。

「へへ」

 総司は貴子とは異なる笑みを浮かべる。どうやら互いに父親似らしかった。

「痛いか?」

 博士は総司少年に訊ねる。いつものように眉間に皺を寄せたままだが、それでもどこか優しい労わりが伝わってくる。

「平気だよ」

 少年は枕に顔を押しつけて答えた。気に掛けてもらえることがとてもとても嬉しくて、くしゃくしゃになる顔を博士に見られるのが気恥ずかしかったからだ。

「ふふ。じゃあ私、行くね」

 貴子は二人に気を使って席を立つ。まだ十歳にも満たない彼女だったが、こういう嗅覚の働くところは女子特有の早熟のなせる所なのか―――。或いは不遇の兄に対して、女としての譲歩の表れなのかもしれない。

「そういえば先生、大丈夫?」

 貴子は戸の所まで行くと思い出したように博士に訊ねる。

「なんか今、たった一人で何かやってて大変そうだって青柳先生が言ってたけど」

 青柳が?余計なことを……。

 博士は左頬を強ばらせて履き捨てるように言う。

「べつに―――一人の方がかえってやりやすいくらいだ」

「そっか、余計なお世話だったね」

「構わん」

「ふふ、それじゃあ」

 貴子は静かに病室を出ていった。

「ねぇ先生?ホントに大丈夫なの?そう言えば疲れてるような―――」

「ふん」

 心配そうに見上げてくる総司の目を、博士はそっと手で覆い隠した。

「わしの心配など、百年早い」

「へへ」

「ん?」

「先生の手のひら柔らかい」

「なっ」

 博士は素早く手を引っ込めた。総司はつまらなさそうに、

「あ〜あ、もっと触れてたかったのに」

 と口を尖らせた。

「バカ」

 博士は照れ臭そうに外方を向く。

「へへ」

 妹から聞いていた普段の博士。こういう表情をするのはおそらく自分の前だけ。それがとても嬉しい。

 博士は視線を総司に戻す。総司はじっと博士に見下ろされ照れ臭くなった。

「なっ何?」

「…………………」

 博士は答えず総司の頬に手を添えた。

「あっ」

「これで満足か?」

「うっうん」

 博士が恥ずかしがりながらも自分の要望に応えてくれた。嬉しすぎて泣けてくる。

 でも、その手は暖かいけどとてもとても小さくて―――。

「ねぇ先生」

「ん?」

「先生は―――その……病気で辛いと思ったりする?」

「分からんな……わしは生まれたときから変わっとらん。違う自分を想像したところでそれは推測の域を出んからな」

「そっか―――」

 総司は首を動かし博士の手から頬を離して反対側を向く。博士はその手を、向けられた総司の後頭部に置いた。

「僕は辛い。やっぱ想像すると違う自分、健康な自分の方がいいとか思う」

「そうか」

 博士は総司の髪を撫でる。慰めるように。

「でもね、今の自分でよかったと思うこともあるんだよ」

 それは毎日のように博士が自分の所へやってきてくれること。たとえそれが同情でも、可哀相だと思われているだけだとしても、それで博士を繋ぎ止めることができるなら。

「ん?」

「やっぱ教えない、へへ」

「そうか」

 博士は強めに総司の頭をくしゃくしゃ撫で繰り回した。



 更に数日が過ぎた。

 この頃になると、シンラ博士に打つ手はなくΓの飼育をただただしているような日々が続いていた。

「……快活そのものだな……」

 ゲ―ジの中で美味しそうに果物を頬張るΓを眺めながら博士は呟く。

 内心、焦りがないといえば嘘になるだろうが、今の博士はどこか和んでいるようにも見える。

 結局、謎の腫瘍もその原因も全く分からずじまい。それでも当の被験体が元気ならそれはそれでいいのかもとも思う。幸い、上からは何の咎めも催促もないし、なにより人間より動物の相手をしている方がずっと気が楽だった。

「キッキィ」

「まだ欲しいのか?仕方ない奴だ」

 物欲しげに餌をねだるΓに博士はバナナを手渡す。Γはペコリとお辞儀をして丁寧に皮を剥いて食べ始める。

 そんな姿をいつものように眉間に皺を寄せ観察していると、研究室の扉がノックされ、返事をするのも待たずに開かれた。

 白衣を着た子供が入ってくる。背恰好は博士と同じくらいなので十歳前後くらいか?

「誰だ?」

 博士はその子供を睨み付ける様にして訊ねた。はっきり言って柄が悪いことこの上ないが、子供はそんな博士に怯えることなく整った顔立ちを柔和に崩した。

「ボク、関俊彦っていいます」

 そう、この瞬間こそ天才ト―ル=シンラ博士と後にその意志を継いだといわれている関俊彦との初顔合わせであった。

「わ〜」

 俊彦は挨拶もそぞろに、ゲ―ジを見て目を輝かせたかと思うと燥いでΓに駆け寄る。

「可愛い!」

 そしてしゃがみこみ、まるで動物園にでもきたかのように食い入るようにΓを観察し始めた。

「……………………」

 あまりにも無邪気な俊彦の行動に博士の方が幾分気取られてしまう。

「おい」

 しかし、気を取り直し博士は聊か強めの口調で言い放つ。

「名を名乗るだけでわしの問いに答えたと思っとるのか貴様っ!」

 初対面で『誰だ?』と訊ねられた場合、自分の所属するものなり何なりを付随するのが常識である。

「あっごめんなさい。可愛かったからつい」

 臆することなくにこやかに謝罪する俊彦。

「今日づけで医学部より転属してきました。上から先生の補助をするようにって」

「なに?」

「これ先生に渡せって」

 俊彦は立ち上がり、小脇に抱えていたクリップボ―ドを博士に手渡す。転属に関してのもろもろの書類であった。それらをざっと流し見ていた博士は俊彦のプロフィ―ルのところまでいくとその実績に目を見張る。

「関俊彦、十歳。医学部六回生―――」

 この年齢で大学の医学部六年目に相当する学力を持っている。いや、アカデミ―内での進級は他の教育機関より遥かに難しいことを考えるとそれ以上か?

 自分よりは劣るが―――。

「まさかお前―――」

 クリップボ―ドを持った博士の手が小刻みに震えていた。

「オレと同じ―――」

 『〃第二次性徴不全〃なのか?』そう続く博士の言葉を察し俊彦は答える。

「たぶん違うと思います」

 少し間を置き顔を紅潮させて俊彦は言う。

「えっと―――その、精通現象は半年くらい前に―――その……」

「……………………」

 射精が可能―――つまり第二次性徴はすでに始まっているということだ。となるとこれはアカデミ―の大意である〈優秀な人材の作り方を模索する系統〉が本当の意味で完成に近付いているのかもしれない。

「それにボクそんなに頭良くないですよ」

 頭を掻きながら謙遜する俊彦。

 そんなはずはないが―――俊彦の安穏な雰囲気はいわゆる天才とは程遠い気もする。

「ボクちょっと記憶力がいいだけなんです。だから、計算とか遅くて、へへ」

「…………………」

「あっでも手先はすごく器用なんですよ。ほら―――」

 俊彦は白衣のポケットから輪になったタコ糸を取り出し、素早く綾取りで杯を作って博士に見せた。それから流れるような手つきで杯が蝶に変わり更には富士山になる。

「ねっ」

「……………………」

 確かに自己紹介をするよう促したがよもや特技まで披露されるとは思わず、博士は唖然となる。

「えっとボク、前から博士の下で働きたいって思ってたんです。よろしくおねがいしま〜す」

「わしは助手などいらんっ!帰れっ!!」

 照れ臭そうに言う俊彦に、博士は怒鳴るようにしてクリップボ―ドを押し返す。普通なら憮然となるなり怯むなりしそうだが、やはり俊彦は笑顔を絶やさず、

「ボクにその権限はありません」

 と正論を言ってのけた。

「問題があるんだったら上に言ってくださいね」

「…………………」          

 年下に旨い具合あしらわれ博士は聊か戸惑ってしまう。

 見た目も行いも幼いくて思慮に欠けているのに、なぜか人を圧倒する雰囲気を俊彦は持っている。その起因がなんなのか計りかねるが、明らかにこのアカデミ―の生徒たちの大部分とは一線を引いている。幼い頃から高い水準を求められ、競争することを強いられている彼らのほとんどが皆、傲慢で猜疑心の強いものばかりだ。そんな彼らと比べ、俊彦は優秀さの割にずいぶん幼稚に見えるし、またその幼稚さが逆に人間としてのレベルの高さを思わせる。

「お前、どこからの要請できた」

 博士は俊彦の指摘するように上に直接事情を訊こうと電話の受話器を取る。

「えっと―――たてまえは―――」

 俊彦は押し返された書類に目を落とし、確認しながら答える。

「技術開発部・人事課だけど」

「…………………」

「実際、頼まれたのは総司さんです」

「なにっ!?」

 総司の名を耳にし、博士は電話をプッシュしていた指を止める。

 そして受話器を置き、

「貴様、総司を知ってるのか?」

 驚き訊ねる博士に俊彦は笑顔のまま頷く。

「ええ。前に研修で世話したときに気に入ってもらっちゃって、たまにでいいから話し相手になってって頼まれたからたまに顔を出してます。それで、先日総司さん博士のこと心配してて―――」

「ちっ余計なことを……」

 舌打ちをして外方を向く博士の顔は怒っているが、それは照れを隠しているのだと思わせる。俊彦もそれに気が付き笑みを一層深めた。

「あっでも前にボク、総司さんに博士に興味があること言ってたんでそれで頼みやすかったんだと思いますよ」

「………………」

 博士は逡巡するように床に目を落とす。

 人と関わるのは欝陶しいが、総司の好意を無下にする気にはなれない。

「勝手にしろっ!」

 吐き捨てるように言って博士は乱暴に椅子に腰掛けた。俊彦はまたしゃがみこんでΓとじゃれ始める。

「博士―――この子、名前は?」

「Γだ」

「Γかぁ。じゃあガンちゃんだね。ガンちゃんせっせっせできる?こうやるんだよ」

「キッキィ」

 チンパンジ―相手に遊戯を始めた俊彦を見て、博士はここは幼稚園かと頭を抱えた。

「ランランランランラ〜ンラン」

 と一区切り着くのを待ってから博士は俊彦に訊ねる。

「お前なにしにきた?」

 俊彦はよくできたとΓの頭を撫でながら答える。

「ここにくる前に詳細を青柳博士に聞いてきました」

「なに?」

「レントゲンも見たけど、ガンちゃんのこの様子からもアレは腫瘍じゃないですね。たぶん―――」

「たぶん?」

「あっ、いえ―――とにかく『イメ―ジ・コントロ―ラ』ってのと一緒に摘出してみましょう」

「摘出……わしは手術なんぞできんぞ。お前がやるのか?」

「まさか―――さっき、知り合いの先生に頼んどきました。明後日に時間割いてくれるそうです。優秀な脳外科の先生です。だから安心していいよ、ガンちゃん」

「…………………」

 そういうことか。

 関俊彦。幼稚で思慮に欠けているわけではなかった。自信があるのだ。自分というものに圧倒的な自信が……。だから怒られても平気だし、多少型破りな行動に出ても最後には全てが自分に平伏すと本能的に知っている。

 だが人は完璧ではない。自信とは挫折と表裏である。それでもこのアカデミ―という社会から隔離された世界の中では、恐らく俊彦は完全無欠の専制君主で居続けられる。水中の鮫は決して陸上の獅子とまみえることはないのだから。

「……………………」

 危ういな。コレが〈優秀な人材の作り方を模索する系統〉の目指すものなら、自分と同じように〃進化の指針〃の標的に―――。

「ふん」

 たった数分会話を交わしただけで、博士は俊彦の本質を見極めていた。

 色んなことが分かりすぎる。だから、人といるのは嫌いだった。



「信じられん」

 顕微鏡を覗いていた博士は驚愕する。

 プレパラ―トには先程Γから摘出した腫瘍の一部が挟まれていた。

「ただの有機化合物だったものが核を持ち細胞分裂するなどと―――」

 腫瘍の正体は、『イメ―ジ・コントロ―ラ―』の研究でマシ―ンインプラントとチンパンジ―の脳を繋ぐために使われた人工大脳皮質が増大したものだった。ただの人工物のはずだったそれが生物の細胞と同じように核をもち異状な細胞分裂を行なっているのだ。

「でも、薄々は気付いていたんでしょ?」

 シンラ博士の横で同じように顕微鏡を覗いていた俊彦が言った。博士は顕微鏡から目を離し俊彦を睨み付ける。

「なんだと?」

「だって、この人工皮質って博士が提唱したベリ―ナノクレ―シュってのを使ってるんでしょ?」

 ベリ―ナノクレ―シュ―――ト―ル=シンラ最大の功績とされる代物。

 シンラ博士が物質を結びつける力に、ある画期的な法則性を見いだしたことにより簡単な電圧制御でナノレベルにまでその構造を操作できる有機化合物が生み出された。それがベリ―ナノクレ―シュであり、今後の文明発展に或いは原子力以上の貢献を齎らすであろうと期待されている。

 今回のマシ―ンインプラントには、このナノクレ―シュの実用実験も兼ねており、そのためにシンラ博士は開発チ―ムに参加していたのだった。

「未知の物質ならこういうことだって予想できますよね」

「…………………」

 その通りだ。予想はしていた。

 なのにあれこれと悩んでいたのは、それの意味するものの恐ろしさに対し本能的にその考えを排除しようといたからだ。

「でも、ホントすごいですよっ!」

 俊彦は興奮して言った。

「これがナノクレ―シュをベ―スにした細胞だとしたら電圧制御で遺伝子を簡単に操作できる代物かもしれない。もしそうだとしたら人間は神―――」

「黙れっ!!」

 博士が声を上げ俊彦の言葉を制した。さしもの俊彦もその迫力に体が跳ね上がる。

「博士?」

「………………………」

 博士は答えず目を瞑る。怒りにも似たためらいの形相で―――。

 俊彦の言う通りだ。

 もしそれが本当なら人間は神にも等しき力を手にしたことになる。

 命を掌握する力。そんなものあってはならない。

「処分するぞ」

「なっ!?」

 シンラ博士の出し抜けの発言に俊彦は一瞬理解に苦しんでしまう。

「なんですか?」

「何度も言わせるな!コレを処分する」

「冗談でしょ?」

「冗談のわけなかろうがっ!!」

 身も竦むような怒鳴り声。しかし、ことの重大さに俊彦も怯んでいなかった。

「冗談にしか聞こえません!!コレはもしかしたら人類史始まって以来の快挙かもしれないんですよ!人類の高見を知ること、それこそ科学者の誉れ。コレは僕らを未知なる世界へと導く方舟かもしれないのに」

「そうかもしれん」

 つまりそれは人が進化を超えること。

 定められた進化の終着である〃リプルリバ―ス〃―――それを補正しようとする〃進化の指針〃―――本来なら人の知恵も力も及ばないはずの戦いに参戦することとなる。

 すなわちこれは悲劇の種。

「だが、辿り着く頂が桃源郷とは限らん。或いは―――」

「じゃあ、博士はアインシュタインが人殺しだとでも言うんですか?科学が人を殺すのだと?」

「…………………」

「だったらなんのために科学者はいるんですか?所詮ボクらは真理に触れることに喜びを感じる人種です。そして博士はすでに真理に手を触れた人間だ。なら、遅かれ早かれコレは生まれる運命だった。なら博士の手でコレを指針するべきじゃないんですか?」

 俊彦の言い分は正論である。

 責任と義務を問う上で、全ての人間が生み出したものに対してそれを負うのが妥当。それが偶然の産物なら尚更だ。

 だが―――。

「貴様は結局なにがいいたい?詭弁を振り翳すなら、わしのもとから去れ!」

「やはり博士は迷ってる」

「っ!?」

 俊彦は勝ち誇っているとも相手を労わってるともとれるようなゆるい笑みを浮かべた。

「本当に詭弁なら聞く耳を持たなければいいだけです。その言葉が口からでるのは心のどこかで迷ってるから。コレを研究すればもしかしたら総司さんを救えるかもしれないって思ってるんでしょ?」

「そっ!」

 そんなことはないとは言えなかった。

『ボクは辛い。やっぱ想像すると違う自分、健康な自分の方がいいとか思う』

 顔を背けて呟いた総司の姿が浮かぶ。弱音を吐くことを屈辱と知っているものの弱音。生れ付きという理不尽な運命に対しての苦しみ、憤り、嘆き―――シンラ博士には総司の心がそれらに縛られているのだと安易に想像できた。

「博士は総司さんのことを同情してるんですか?」

「……………………」

 同情―――違う気がする。ただ、自分はベッドの中の世界しか自由のない憐れらしい少年の横に腰を掛け、ときおり語らったり、笑っている彼の顔を眺めたりしていたいだけのように思えた。そう、それは欲なのだろ。

「好きなんでしょ?総司さんのこと」

 そうかもしれない。

 愛だとか、そんな定義もないものは理解できなくても、好きか嫌いかでなら判別はできる。そう、自分は鉄総司とときを共有することを何にも替えがたいと思っている。

「だったらできることをしましょ?大切なものを守るために」

「………………………」

 関俊彦の言葉はやはり詭弁だ。ただ単に己れの知識欲にしたがい、説得を試みているだけ。

 それも最も有効と思われる手段を講じて。

 人の心をかき乱してでも我侭に忠実。

「………………………」

 ト―ル=シンラには全てお見通しだった。

 それでもこの研究所という名の海上にいるかぎり王者の鮫に飲み込まれてしまった。

 ここが数多にある歴史の分岐点であることを認識しつつ―――。



   二二年前



 ト―ル=シンラ博士が開発したベリ―ナノクレ―シュより偶然生まれ出た細胞。これはやはり関俊彦の指摘通り、遺伝子は疎か細胞の形、配列までもを自由に操作できる代物だということが証明された。

 この細胞をシンラ博士は〈キザン〉と命名する。皆はそれを中国の山から取ったものだろうと解釈したが、しかし博士の口からその真意が語られることはなかった。

 そして〈キザン〉誕生より三年―――その有効活用の研究のため、昨年ヒトゲノム研究に大きな成果を上げた研究機関よりユ―ジ―ン=ア―ガイアなる人物がアカデミ―に引き抜かれることとなった。

「はじめまして、ユ―ジ―ン=ア―ガイアです」

 そう流暢な日本語で述べたのは、白人のうら若き女性であった。

 その場にいるのはシンラ博士と俊彦の二人である。博士は例によって、興味なさげに鼻を鳴らすだけである。一方俊彦の方は、

「女性の方だったんですね」

 と驚きを見せる。

 文化的にユ―ジ―ンは男性に付ける名称であるからだ。

「しかも、こんな若くてきれいな人だったなんて」

「そうですか?」

 俊彦の賛辞に彼女は笑みを零すがそこに照れはないように見えた。恐らく彼女にとっては言われ慣れた言葉なのだろう。

 実際、ユ―ジ―ン=ア―ガイアは権威ある研究機関から引き抜かれたにしては驚くほど若いし、その容姿はどこぞの銀幕で華と咲き乱れていてもおかしくないほどである。

「名は祖父が付けてくれたんです。家は代々学者の家系でホントは男の子が欲しかったらしいのですが、せめて名前だけでもということだったらしいです。あっジ―ンって気軽に呼んでください」

「うん」

 俊彦は屈託ない笑みを浮かべた。

 ともすれば俊彦もジ―ンに負けないほど容姿端麗である。賛辞には靡かなくとも、この笑顔にはジ―ンも照れを覚えないではいられなかった。

 思えば、この笑みこそ俊彦の最大の武器であり、また今後の命運を紡ぐ楔だったのかもしれない。

「ウアァ〜」

 子供相手にと恥じらいつつ、ジ―ンは話題を移す。

「ドクタ―シンラ、ご高名はかねがね―――。お会いできて光栄です」

「ふん」

 博士は仏頂面で鼻を鳴らすだけだった。

 だがジ―ンは怯まず続ける。

「ドクタ―の書かれた『軌条進化論』のレポ―トは我々遺伝子学者にとってのバイブルです」

「あんなもの十年も前の稚拙な空論だ」

「確かに当時、ダ―ウィニストからの批判はありましたが、しかしヒトゲノムプロジェクトであのレポ―トが大いなる指針となったのは事実です」

「っ!!」

 博士の顔色がほんの少しだけ変わった。

 しばらく押し黙った後で、博士は圧し殺したような声で言う。

「一つ忠告しとく。深淵に興味を抱くのは勝手だが、足元を掬われんよう気をつけることだ」

 そして博士はその場を去っていった。

 残されたジ―ンは、

「私、何かまずいこと言ったかしら?」

 キョトンとなる。

 俊彦はケラケラと笑いながら言う。

「あんま気にしない方がいいですよ。博士はステロな天才肌だし。それに見かけによらず心配性だから」

「インディ―ド(本当に)?」

 あっけらかんと述べる俊彦に、しかしジ―ンは博士の言葉に聊か真実めいた焦りがあったと納得行きかねていた。



「今日、ラボに新しい人が来たんでしょ?」

 何となく行き場を失った博士は総司の病室へ顔を出した。三年が過ぎても総司の自由の広さは変わってない。ベッドの中、それが彼の世界だ。

「………………………」

 いつもなら喜んで博士を迎え入れる総司だが、しかし今日は開口一番から機嫌が悪かった。なんとなく理由も分からなくはないが。

「気になったから貴子に訊いて、履歴の写真見せてもらったんですよ」

「……………………」

「すごい美人でしたね」

 要は焼餅である。

「好きになっちゃったりなんかして」

 その言葉に主語はない。自分がとも先生がとも取れる。しかし、彼のその態度を見れば後者だということは火を見るより明らかだ。

「バカもんが」

 博士は総司の頭を軽く小突く。

「ふんだ」

 総司は拗ねて目を瞑る。

 博士は困ったようにため息を吐き、

「……………………」

 そして黙って総司の手を握った。総司は外方を向く。

「ねぇ……先生?」

「ん?」

「………………………」

 総司はそれ以上口を開かなかった。代わりに博士の手を強く握り返す。

 博士はほんの少しだけ表情を緩め、総司の髪を優しく撫でた。



   二0年前



「よしっ!新作綾取り、ミクロコスモスって名付けよう」

 正午の休憩時間、俊彦はいつものようにアカデミ―の屋上に上がり一人綾取りに熱中していた。

「アイ・スパイ・トシ(トシ、みっけ)」

 そこにジ―ンがやってくる。

「いつもお昼になると消えちゃうって思ってたけど、こんなところにいたのね」

「へへ―――ここ、めったに人こないから一人で熱中するには最適なんですよ」

「フン?」

 俊彦の言葉を受けジ―ンは不思議そうに辺りを見回す。

「見晴らしよくて、気持ちいのに変ね」

「ああ、それには理由があるんですよ」

 俊彦は立ち上がり、屋上の縁にゆっくりと足を進める。

「ほらあそこ」

「フン?」

 ジ―ンも俊彦に習い、そして彼の指差す方向に目を向ける。

「手前の病棟の右奥―――公園が見渡せるでしょ」

「ええ」

「だからです」

「?」

 ジ―ンには俊彦の言葉が何を指しているか把握できなかった。俊彦はそれに気が付き続ける。

「ここにいるほとんどの人間が小さい頃から勉強に精を出すよう仕向けられています。自由時間も沢山あるし、外出も自由ですからシステム上問題はないんですけど、そういった時間も大抵の子供が勉強してるんです」

「どうして?」

「おちこぼれるからです」

「おち―――」

「べつにおちこぼれたからといって何かペナルティ―があるわけではないんですけど―――でもここには学力が絶対という見えない力場みたいなものがるんです。おちこぼれればきっと惨めになる。普通ならそういった壁にぶつかったとき別の生き方を模索するのかもしれない。でも、ここにいる子供たちはその方法を教えられていない。だから、石に齧り付くように勉強するんです。自分の価値を見いだすために。それでもここに来て自分たちとそう変わらないような子供たちが遊んでいるのを見ると自分たちの存在意義にぶつかり心が揺らぐ……だから―――」

「…………………」

 ジ―ンは息を呑んだ。外部の人間だった彼女が初めて聞かされた地獄。そう、ここは子供の未来を踏み躙る地獄だ。

 表向きは巨大企業が設立した孤児院。

 だがその実体は人生の実験場。

 偉い人たちがどういうつもりでここを作ったか計りかねるがなんと残酷なことだろう。

「トシはどうなの?」

 いつも明るく前向きな俊彦。ジ―ンには彼がそんな苦況を抱えて生きているとは思えなかった。

「ボクは……よく分かりません」

 俊彦は公園に向けている目を眩しそうに細めた。ジ―ンも釣られてその方を向くと、公園の広場で数人の男の子たちがサッカ―をやっていた。

「彼らがボクより幸せかは分からないし」

「…………………」

 すごい発言だと思う。聞き様によっては、他人をとことん蔑んでいるようにも、対等の立場だと尊厳を推し量っているようにも聞こえる。

 俊彦は笑っている。そのどちらと取るにも似付かわしくない表情で―――。

「それに、シンラ博士曰くボクは恵まれてるらしいし」

「そう」

 ジ―ンはどう答えていいのか分からず曖昧に返事をする。だが、同時にシンラ博士の言う通りかもしれないと思う。

 俊彦はアカデミ―内の人間の中で特に秀でているものはもってない。しかし全体として全てにおいて勝っているのだという印象を受ける。

 自信―――根底にあるこの言葉が彼をそうさせているのだろう。

「そうそう、ここの人たちってもう一つ理由があって祝祭日外出したがらないんですよ」

「もう一つの理由?」

「ええ。休みの日ともなると家族連れが多いでしょ……みんな孤児だから、辛いんですよね―――そういうの見るの」

「…………………」

 母親がいて父親がいる。彼らがどういうものを背負って日々生きているのかは分からない。

 でも、それすらないものにとっては心が引き裂かれるほど羨ましく映る光景。

「でも、ボクなんか思うんですよ。今、家族がないんなら自分で作ればいいって」

「作る?」

「そう、結婚して子供を授かって幸せな家庭を築く―――それが当面のボクの目標かな」

 蒼天を仰ぎながら語る俊彦を見て、ジ―ンは思わず彼をぎゅっと抱き締めたくなる衝動に駆られる。

 その代わりに彼女は、

「いい人が見つかるといいね」

 そうそっと囁いた。

 俊彦は何も答えず静かに微笑んでいた。



「ねぇ先生―――」

 その日、珍しく貴子がシンラ博士の研究室を訪れた。

「子供っていうのはさ、やっぱ親のいうこと聞かなきゃなんないのかな?」

 どうやら彼女は何か悩みがあるらしい。これも珍しい気がした。

 シンラ博士は黙って貴子にコ―ヒ―の入ったカップを手渡す。

「ありがとう」

 貴子はテ―ブルに置いてあったミルクを入れスティックシュガ―で掻き混ぜる。

「ほら、なんだかんだ言っても大人ってのは子供より長く生きてる分、色々悟ってるわけじゃない?」

 そんなことを口にする貴子の方がずいぶん悟っているように見える。

 彼女はまだ十四歳。いささか落ち着き過ぎているというか、かなり自分を押し込めた悩み方をするものだ。

「でもね、私はどうしてもお母さんの考え方には付いていけないのよね。これって若さ故の理解力のなさっての?てか、ぶっちゃけ私が間違ってんのとか思うわけ」

「ふん」

 それまで黙って聞いていたシンラ博士が鼻を鳴らし、そして貴子に言葉を叩きつける。

「ガキが物分かりいい振りするなっ!」

 突然の叱咤に、しかし貴子は驚くでもなく怒るでもなく、真剣な眼差しで博士の言葉を受けとめる。

「大人がガキを保護する義務はあっても、ガキが大人の言いなりになる義務なんぞない」

「うん」

「ガキは所詮ガキだ!バカのくせして生意気で、間違ってばっかりで他人に尻拭いさせるクズ。だが、そんなガキが明日の社会を築いていく貴重な人材であることもまた事実。だからこそ大人がガキを守り、育んでいかなならんが、正論をぶつけて理解するようならガキはガキではない。故に全ての大人はガキが憧れを抱き、その目標にするような人物になる義務がある」

「なるほどね」

 即ち、子供が自ら大人の指示に従いたいと思わなければ、それだけで大人の責任になるということ。

 それは極論ではあるが一つの結論である。

「先生は今年で二十歳よね?先生はそんな大人になれると思う?」

「なれんな」

 きっぱりと言う。

 恐らくそれは人間としての強さの究極。その域に達するものなどそうそういるものではない。

 そして〃第二次性徴不全〃という大人になれない体を持つ博士にとって、とてもそんな極致に辿り着けるとは思えなかった。

「私もそんな大人にはなれそうにないわね」

 苦笑いを浮かべる貴子。

 博士はそんな彼女を厳しく見据えて言う。

「だが、匙を投げるわけにもいくまい」

「そうね」

「全力を尽くす。守るべき者のために―――」

「………………………」

 貴子は少しだけ肩の荷が下りたような気がした。と、同時にほんの少し寂しい気持ちになる。

 博士の『守るべき者』は決して自分ではありえないと。



「どうしてあなたはお母さんの言うことが聞けないの!」

 響く鉄巴の怒鳴り声。それに負けじと彼女と対峙する貴子も声を張り上げる。

「私にだって自分で考える権利があるわ!行きたい高校ぐらい自分で決めたっていいじゃない!?」

「あなたは将来、クロガネを背負って立つ人間です。そのための英才教育が必要だといってるのが分からないの!?」

「なによそれ―――じゃあ私は会社のために生まれてきたの?それじゃあ単なる道具じゃない!?」

「そうよ、あなたはクロガネのために生を受けクロガネのためにここまで育てられた。そのことをもっと自覚しなさい!」

 薄々は気付いていた。気付いていたが―――実際に面と向かって実の母親からそんな言葉を浴びせられ、貴子はショックを覚えずにはいられなかった。

 やがてその衝撃はどす黒いもやもやとしたものに変わっていく。

「おかしいよ……お母さん―――。お兄ちゃんが駄目だったから、健康な精子買って……私のこと操り人形にしたてて……」

 貴子は所謂試験官ベイビ―だったのだ。総司が健康体でないことが分かり、跡取りとしての価値を押しつけられる形で彼女は生まれた。

 だからこそ兄には自分の大切な気持ちさえ譲ったのだ。

「人を人だと思わない。家族でさえ道具と言う―――そんなんだから、お父さんはお母さんに絶望して出ていったんじゃない!」

「っの!」

 バシンっ

 巴の平手打ちが貴子を襲う。強烈な一撃だったがそれでも貴子は怯まず、牙を剥いたような視線を巴に向けた。

「くっ」

「あなたは何なの?」

 不快さに巴の顔が歪んでいく。

「…………………」

「あなたは何様のつもりなの?今日まであなたを育ててきたのは誰?この私でしょ?」

「…………………」

「そんなに私の言うことが聞けないなら……私が気に食わないなら、この家から出ていきなさい!そしてあの男のように何の価値もない人間に成り下がればいいわ!?」

 全てをぶちまけ巴は踵を返して貴子の前から去っていった。

「価値が―――価値がないのはあなたよ、お母さん」



 鉄貴子が勘当されたというニュ―スは立ち所にアカデミ―内に広まった。

「先生、私これでよかったと思う」

「そうか」

 旅立ちの見送り。結局、貴子は父に―――厳密に言うなら総司の父親に引き取られることとなった。

「お父さんは優しい人だったから、血の繋がってない私のことも本当の娘として接してくれてたし」

「ああ」

 総司の父のことはシンラ博士もよく知っていた。確かにあの人は総司も貴子も別け隔てなく可愛がっていたし、半ば巴から追い出されるように家を出ていった今でも総司のことを気に掛け博士に便りを求めている。

「でも気掛かりなことがあって」

 貴子は俯く。

「私、ずっと思ってた。私はお兄ちゃんの体が健康じゃなかったから生まれることが出来て、だからお兄ちゃんには一生頭が上がらないって。お兄ちゃんのために出来ることはなんでもしようって」

「……………………」

「それなのに今更自分だけ自由を手にしようとしてる。逃げ出してる。本当は先生のことだって欲しくて―――ずっと好きだったのに自分の心圧し殺して  先生の心、独り占めしてるお兄ちゃんのことが憎くて憎くてたまらなかった。  いっそ消えてくれればいいのにって何度も何度も―――最低な、浅ましい女なんです。私」

「……………………」

 博士はいつものように眉間に皺を寄せて貴子を見上げる。思えば疾くに身長を追い抜かされていた。

「安心しろ」

「っ!?」

「わしはどんなことがあろうと、お前より総司のことを第一にする。総司のためならどんな犠牲も厭わない。そんな最低で浅ましい男だからな、わしは」

 氷解する。貴子の瞳からはらりと涙が零れ落ちた。

 突放され、きっぱりと振られたのに不思議と心は軽かった。

 きっとそこに優しさが見えるから……痛いほどの思いやりが。

「先生―――ありがと。お兄ちゃんをよろしくお願いします」

 引きつった笑みを作り、そして貴子は背を向ける。

 別れの挨拶はない。『さよなら』を言えば寂しく、『また』を言えば嘘のように聞こえるから。

 やがてエントランスを抜け、彼女の姿は見えなくなる。それでも博士は彼女の進む道を射るような目付きで見続けた。

「アレ、シンラじゃない?」

 端から見れば茫然と立ち尽くしているように見える博士の背中に同期の青柳めぐみが声を掛ける。

「どうしたの?こんなとこで―――」

「……………………」

「あっそっかお嬢さんが―――」

「……………………」

 博士は彼女の存在自体を無視してその場を後にした。

「そんなに―――」

 青柳は奥歯を噛み締める。

「そんなにあの兄妹がいいの!?」

 それの顔は絶望にも似た憎しみに歪んでいた。



 数日後、シンラ博士はクロガネグル―プ会長であり、アカデミ―の代表取締役である鉄巴に呼び出される。博士がそれに応じ応接間に顔を出すと、そこには巴の他に俊彦とジ―ンの顔触れがあった。

「患者の場合、生れ付き―――つまり、遺伝的或いは原因不明による腎不全の傾向にあり、合併症として再生不良貧血や多発性筋炎症候群などの―――」                           

俊彦が総司の病状を読み上げる。    

 話は単純であった。巴の後を継ぐはずであった貴子が去ったために空いた穴を総司で埋めるべく、彼をある程度動かせるようになるまでに回復させよとのこと。そして博士が呼ばれたことを考えればおよその流れは定まってくる。

「抜本的な治療として骨髄移植、腎移植を提案しますが、患者は過去二回の腎移植が失敗に終わったという経緯があります」

 二回の腎移植、その内最初の一回目は父親からの提供だったのだが失敗に終わってしまった。生体腎移植に高い成功率を誇る現代においては異例のことではあった。

「原因は不明ですがHLAになんらかの要因が見られること、患者の現在の容体を考えますと同種同系移植が好ましいわけです」

 同種同系移植―――同一の遺伝子を持つ他人つまり一卵性双生児からの移植をいう。だが残念ながら総司には双子の兄弟などいない。

 俊彦からジ―ンに話が引き継がれる。

「そこでまず、患者の強化クロ―ンを制作することを私は提案します」

「………………………」

「患者の遺伝子をデ―タ化し、スパコン上で補正した遺伝子を再現する」

「その遺伝子デ―タを使ってキザンで強化クロ―ンの受精卵を作り出すか」

 全てはシンラ博士が前々から用意していたシナリオ。キザンを世に解き放つよう俊彦に唆された日から描いていた。

「それで、わしが開発しとるキザン培養槽がいるか」

 キザン培養槽こそ後に人造人間の母体となったAU(人工子宮)の原型となるものである。

「はい。アレは生物単位での培養を視野に入れられていたもののようでしたから、人工的な子宮としての役割も担うことが出来ると踏みました。開発はどの程度まで進んでらっしゃいますか?」

「すでに動物実験は哺乳類の段階まで成功しとる―――だがその強化クロ―ン、幹細胞による部分精製というわけにはいかんのか?」

 クロ―ン人間制作など完全なる国際公約違反だ。

 博士の提案に、しかしジ―ンは首を横に振る。

「部分クロ―ンに関してはまだ実用段階に至っていません。仮に博士の培養槽によって成功できたとしても、それを患者に移植するのは早計ですし―――」

 依頼人から急かされていることも要因であった。その当人である鉄巴が口を開く。

「倫理だかなんだか知らないけど構うことはないわ。ここで身元不明人が一人や二人出てきたところで問題ないでしょ?ここはそういう場所なんだし」

 巴はいささか嘲笑めいて唇を歪ませる。

 孤児を集めることに対して、利害以外のなんの感情も存在しないと物語っていた。

 そして一行は総司の病室を訪れ彼にことの次第を掻い摘んで説明した。

「えっ?」

 総司の表情になんらかの喪失が色濃く現われる。

「総司、よかったわね。健康になれるのよ、あなた」

 巴のその祝福は柔らかく優美なさまを見受けられるが、しかし誰一人としてそれからいたわりという愛を感じ受けるものはいなかった。

 当然である。これまで彼女が総司のもとを訪れることなど殆どなかったのだから。

「僕は―――」

 健康な体になる。それは確かに総司の願いではあった。だが実際にその実現を目の前に突き付けられたとき、彼の中に様々な不安が込み上げてきた。

 そして、その不安の中でも大きく心を占拠しているものは―――。

「先生……」

 総司は巴の後ろに立っているシンラ博士の顔を見る。博士は相変わらずの表情で、総司の顔を見つめている。

「僕は―――」

 恐らく不幸な身の上だ。自分がそうなのだと思い込めば、世界一不幸であるといえるだろう。それは同時に万人の同情を得るための力ともいえる。

 先生だって……。

「いやだ」

「なんですって?」

「いい……僕、健康なんてならなくていい。このままで十分だ!」

 総司は堅く目を閉じて叫んだ。

「あなた、何言ってるの!?」

 それまで曲がりなりにも穏やかだった巴の態度が180度引っ繰り返った。これでもかと思うほどヒステリックに総司に迫る。

「世界の最高峰の先生方があなたのために知恵を絞ってくださってるのよ!一生使いものにならないはずだった自分が、立直るチャンスを与えられていることに―――」

「――――――――――――-」

 総司は母親からの罵倒を心を閉じるようにして歯を食いしばって甘んじている。なぜならそんな侮辱よりももっと恐ろしいことがあるから。

「自分がどれほどの人間かこれまで生かされてきて―――」

「黙れっ!?」

 母親の癇癪を止めたのはシンラ博士の雷であった。巴は驚き後ろを振り向く。

「総司と二人きりで話がある。皆出ていけ」

「………………」

 憤怒か侮蔑か、巴の視線が醜く歪む。それを博士は睨み上げきっぱりと断言する。

「貴様、何か勘違いしとらんか!?」

「なんですって?」

「キザンはわしのものだ。クロガネのものでも、まして貴様のものでも毛頭ない」

 『キザン』はそのまま『総司』と置き換えできるような感も含んでいた。

「………………………」

 巴は激しい歯軋りをする。

 馬鹿にされた話だと感じつつも、経営者よりも一才能のある人員の方が会社にとっての価値は高いことを彼女は重々承知していた。

 故に、腸の加減はさておき巴は黙って病室を後にした。俊彦とジ―ンも『失礼します』とだけ付け加え彼女に倣った。

「先生、怒ってる?」

 総司は消え入るような声で訊ねる。

「怒っとらん」

 博士はいつものように、少しだけ怒っているような語気で答えた。総司は外方を向く。博士は近くにあったパイプ椅子に腰掛ける。

「………………」

 そのまま沈黙が数十分続いた。

 やがて博士はぼそりと零す。

「初めて会ったときのことを思い出すな」

 それを聞き総司は博士の方に顔を戻す。縋るような表情で。

 最初の出会いは十一年前―――シンラ博士が十一歳、総司が九歳のときだった。

 その頃から病床に伏せていた総司を不憫に思っていた父親から息子の友達になってくれるよう、博士が頼まれたことが切っ掛けである。総司の父と懇意な間柄だった博士は煩わしく思いつつもそれを承諾した。

 そして総司の病室を訪れるも生来の人間付き合いの不器用さから、ただただ今のように仏頂面で黙りこくるに止まってしまっのだった。数十分間黙り通した挙げ句暇も告げずに立ち去ろうとした博士。

 しかし、その背中に総司から思いもよらぬ言葉が掛けられる。

『また、訪ねてきて欲しい』

 自分の何がどうして、また会いたい気持ちが起こったのか博士には理解できなかった。それからというもの、それを知りたいという好奇心から博士は度々総司のもとを訪れるようになっていった。

 そうしていく内に総司とは徐々に親しくなっていくものの、疑問に対する答えは見つからず、しかし博士の中に和む気持ちだとか楽しむ喜びだとか、他では得難い尊いものを育むときとなっていったのだ。

「先生―――」

 総司の瞳にじわりと滲む涙。

「先生は僕のこと同情してるだけ?」

「…………………」

「僕、先生を失うくらいならいっそ―――」

「馬鹿野郎」

 総司の口が塞がれる。

「っ!?」

 博士の小さな唇で―――。

 それが博士の出した総司への精一杯の答えだった。



「シンラ博士は幸せものですよね」

 ジ―ンと共に研究室に戻ってきていた俊彦はぼやくように呟いた。

「どうして?」

「だってさ、こういっちゃあなんだけど、博士は性愛も持てない体で、心も頑ななのに、唯一の人から掛け替えもなく愛されているんだもん。まぁそれは総司さんも似たようなもんだけど」

 そう言って俊彦はジ―ンに笑顔を向ける。

 彼ほど自然な笑顔を作れるものを彼女は知らなかった。

「…………………」

 ジ―ンはいっときの間考え込んでから、

「トシだって愛されてるわ」

 と照れ臭そうに言った。



   一九年前



 この年、俊彦が一八歳の誕生日を以てジ―ンは彼のもとへと入籍をした。式は上げなかったが、その日より幸せを約束した結婚生活が始まりを迎えるはずだった。

 そして、その年の末にキザンを用いた総司の強化クロ―ン人間が誕生する。

 キザンの培養はその分裂の速ささえ、ある程度の操作が可能であり、二年程で健康な成人体を精製することに成功した。

 頃合を見計らい、総司の移植手術が行なわれる。手術は見事成功しその経過もまずまずであった。

 程なくして総司のリハビリテ―ションが始まる。想像絶する苦痛が総司を襲う。何しろ人生のその殆どをベッドの中で過ごしていたのだ。そのツケを払うには、並みの精神力では及ばぬものであった。

 シンラ博士はそんな総司を特別大げさに励ますでもなく、いつものように眉間に皺を寄せ傍らから見守るだけだった。それでもその眼差しは総司の闘病魂に消えることのない炎を灯らせる。

 それから半年の月日が流れた。

「うわっ」

 両腕に金属性の杖を填めて歩行の訓練をしていた総司。その途中で杖を滑らせ思いっきり転んでしまった。

「総司。あまり根を詰めるな。休憩しろ」

 端から見守っていたシンラ博士は総司の体調を考慮し休息を進める。しかし総司は俄然張り切り声を上げ、

「まだまだぁ!僕、先生をお姫さま抱っこしてあげられるようになるまで絶対挫けないもん!」

 訓練を再開させる。

 総司の発言を聞いた周りの看護師などは失笑していた。

 さすがの博士も恥ずかしさを覚え、蟀谷をポリポリ掻く。

 その折り博士のポケベルが鳴る。見るとジ―ンから研究室に来て欲しいとのことだ。

 ジ―ンは今日、俊彦共々休みだったはずだが。

「総司、用ができた」

「え〜!」

 博士の言葉に総司は口を尖らせる。

 思えば総司も昔に比べてずいぶんと自分の我を見せるようになった。心身共に健全に向かっている証拠であろう。

「埋合わせはする。我慢しろ」

 そして博士は総司に耳打ちをする。

「今度、また口でしてやるから」

「うっ」

 総司は耳の先まで真っ赤にしてすっころんだ。

 シンラ博士が研究室に到着するとジ―ンが待ってましたと寄ってくる。

「どうした?」

「博士……」

 注視するとジ―ンの顔は酷いものだった。いつもの大人びた美しさは形を潜め、打ち拉がれた疲れがその割合を締めている。

「私―――」

 彼女のその声もその体も絶望に震えきっていた。

「私、子供が産めない体―――」

「なんだとっ!?」

「この一年間、普通に性生活を送って来たのに子供が出来なかったから―――自分で調べてみて―――」

 通常、避妊をしない場合一年以内に85%は妊娠するといわれており、その期間を過ぎても妊娠しないのであれば不妊症の疑いがでてくる。

「卵―――異常が―――」

 とうとうジ―ンは泣き崩れる。

「俊彦は―――俊彦には相談したのか?」

「言ってない―――言えません!」

「……………………」

「あの人―――私との子供切望してるのに。あの人の愛を疑うわけじゃないけど、トシはもともと家族が欲しいって―――それで……私のせいで子供ができないなんて―――言えない……恐い」

 女性が愛する人の子を授かることが出来ないと分かったときの恐怖、屈辱、  愛する人との営みを共に感じることの出来ない博士にとって、ジ―ンの絶望は或いは共感に値するものだった。

「博士―――キザンを使わせてください!?」

「……………………」

 このとき、全力で止めるべきだったのかもしれない。

 それでも総司を救うために禁忌を犯していた博士にとって、その資格は存在しないように思えた。



 ス―パ―コンピュ―タ―上でジ―ンと俊彦の遺伝子をハイブリッドし、キザンで受精卵を作る。

 ジ―ンは二つの受精卵を自らの子宮に入れ妊娠する。この事実を知っているのは当人とシンラ博士のみであった。

 そして俗に言う十月十日が過ぎた。

「ほら、元気な双子の男の子だよ!頑張ったね、ありがとうジ―ン」

 俊彦は自分の血肉を受け継いでいると信じて止まない子供たちの誕生に感涙し、ジ―ンに猛烈な感謝を示した。

「名前、お兄ちゃんの方が樹東で弟が光冴だったね」

「ええ」

「ふふ、遺伝子学者のキミらしいというか、ちょっと変わった名前だけど」

 光冴とは=交叉である。英語でクロシングオ―バ―といい、細胞の減数分裂の際に起こる遺伝子の組み替えのことであり、それが発生する部位をキアズマというのだ。

「この子たちは人類に到来する新しい風。世界に組み替えを起こすクロシングオ―バ―」

「そっかぁ。なんか壮大だね」

 俊彦は眠っている樹東の頬をそっと優しく撫でた。

「………………………」

 そのいとおしい光景はジ―ンの瞳に冷たく映る。

 幸せの絶頂にある俊彦は気付くこともなかった。

 このときには既に、家族という宝玉に無数の亀裂が生じていたことを。

 ジ―ンの心の奥底を中心に―――。



   一五年前


「ごめんなさいね。最近忙しくて、子供たち任せっきりで」

 関家の食卓に久しぶりに家族四人がそろった。

 帰宅時間がまちまちで中々育児や家事に助力できないジ―ンは俊彦に謝罪する。

「いいんだよ。子供たちと一緒にいたいって言って休業取ったのはボクなんだから」

 俊彦は甲斐甲斐しく樹東と光冴、交互にご飯を食べさせながら答えた。

「子供たちといると毎日楽しいよ」

 もともと動物の世話などが好きだった俊彦にとって育児は遊戯にも同じで、医学に精通しこの上なく器用な彼にとってそれに伴う苦労はどこ吹く風であった。

「遺伝子的にはまったく同じなのに二人ともちょっとずつ個性があるんだよ。光冴の方が感受性が強いみたいでよく言葉を覚えてね。樹東は大人しいけど聞き分けがよく、しっかりしてるんだ」

「パァ」

 樹東にスプ―ンで食べさせていると、光冴が俊彦の手を自分の方に持ってこようと手を出した。その拍子にスプ―ンが跳ねて樹東の顔に当たってしまう。それに驚いた樹東は泣き始めた。

「あらら」

 俊彦は苦笑いを浮かべ、泣いている樹東を抱っこした。それを見て嫉妬した光冴まで泣きだしてしまう。仕方なく俊彦は子供たちを両腕に抱えた。

「子供は泣くのが仕事だけどね、笑ってるほうが楽しいよ」

 そういって俊彦は歌を歌いだす。

「『愛してる』って言うけれど

 愛のカタチを

 知ってる人はいない

 『信じよう』って言うけれど

 でも心、弱いから

 伝えきれないね

 だけどあなたがいつも

 キラキラ笑うことができたなら

 それがきっと愛―――」

 歌の途中で二人とも泣き止み、『だぁ〜』だの『ぶぅ』だの言いながら俊彦と一緒に歌いだす。

「雪降る日はうれしくて

 心、はしゃぐけど

 せつないこともあって

 まどの霜にうつるボクは

 あの日のように泣いていた

 雪がとけだして

 だからあなたと二人

 暖炉の前でこごえたその手を

 かさね暖めよう―――」

 子供たちはたった今、泣いていたことなど忘れたように父親の顔をうっとりと見上げている。

 それを見ていたジ―ンはまるで魔法のようだと思った。

「エクセレント!」

「まぁ、歌がストレスを緩和するのはとっくに実証されていることだからね」

 それにしても、何か特別な力が働いているのだと思えた。

 暫らくたってジ―ンは俊彦に相談を持ち掛ける。

「少しの間、樹東を入院させたいんだけど」

「えっ!?何で?」

「前にあなたにも話したと思うけど、不妊のために結構無理したでしょ。それで子供になんらかの悪影響がなかったか、検査したほうがいいと思って」

「そうか―――早めに調べて、何かあるようなら早急に対処をするべきかもね」

 俊彦は樹東の検査入院を快諾する。

 それが悲劇へのゴ―サインだと知る由もなく。



   一二年前



 俊彦がいつものように夕食の準備をしていたときのこと。光冴はお昼寝をしていて、樹東はテレビを見ていた。

 俊彦は樹東がなんの番組を見ているのか気になり作業を中断させる。

 最近、樹東の様子に微妙な違和感を覚えるようになっていた俊彦は少し神経質になっていた。というのも、やたらと利発になり、同い年の兄弟とは思えないほど光冴の面倒を自分から見るようになっていたのだ。

「何を見てるんだい?」

 樹東は公共放送の高校生講座を見ていた。

「ふふ、こんなの見てもわけ分からなくて面白くないんじゃない?」

「ううん。そんなことないよ。だいたい分かったし」

「本当かい?」

「うん。つまり、いっぱい死んじゃうような災害とかと、へんてこなのが生まれることを繰り返したことで、動物とかいっぱいいるってことでしょ?」

「えっ!?」

 俊彦は我が耳を疑った。

 特殊な教育を施していない普通の四歳の子供が『種の起源』のおよその内容を理解したことにも驚いたのだが―――。

「でも、ボク思うんだけどこれだけじゃヒトが生まれるのは無理なんじゃないかなぁ。海で最初の命が生まれて、哺乳類が生まれるまで三十四億年かかってるんでしょ?それから二億年で人に進化。恐竜は同じ期間過ごしてもほとんど恐竜。新生代の進化はそれまでのものに比べて明らかに早すぎるよね。もしかしたら恐竜の絶滅のときに人の種みたいのがばらまかれたんじゃないのかなぁ。ほら、ウイルスなんか宇宙から来たりするじゃない?それに似たものがあるんじゃないかって」

 だからこそ、ヒトの進化にはある種の方向性があるのではないか。いや、人は進化して生まれたのではなく先祖返りして誕生したのだ。

 これはまさしくシンラ博士が子供の頃に提唱した『軌条進化論』そのままである。

「どうして―――」



 総司の強化クロ―ン―――名をコピペといった。

 これは総司との人権の差を明確にするために鉄巴が名付けた記号である。

「センセ、センセ」

 シンラ博士がコピペのもとを訪れると、彼は赤ん坊のようにハイハイしながら博士に駆け寄る。

 コピペは誕生から数えれば六歳になっていた。しかし、その見た目はほぼ成人のそれであり、逆に知能は三歳児並みにしか成長を遂げていない。

「センセ、センセ」

 コピペは親にするように、博士の体に『キャッキャ、キャッキャ』とまとわり付く。博士は自分の体よりもずっと大きな彼をよしよしとあやすのだった。

「やはり知能の遅れは顕著ですね」

 コピペの乳母が博士に言った。博士はコピペと玩具で遊びながら頷く。

 原因ははっきりしていた。

 人間の脳の成長率は成人と子供のそれとでは比べものにならない程の差がある。幼児期を素っ飛ばして成人として成形されたコピペにとって、基本知識を身につけるピ―クは訪れる間もなく今に至っているのだ。

 暫らくコピペと遊んでいると博士の携帯電話が鳴りだす。出ると相手は俊彦だった。

「久しぶりだな。子連れでもいいからたまにはこっちに顔を出せ」

 博士の挨拶に俊彦は沈黙する。

「どうした?」

 博士の催促に俊彦の震える声が耳に届く。

「なんだと!?」

 博士は目を剥き、引き止めようとするコピペを宥めてから急いで研究室に向かう。

 数名の研究員たちの中にジ―ンの姿があった。

「あら、博士。お久しぶりです」

 シンラ博士はこの数年、総司とコピペの世話と別の研究に時間を割いていて彼女の研究にタッチしていなかった。

「貴様っ!自分の息子に何をした!?」

 博士はジ―ンに詰め寄る。彼女は冷笑を浮かべ、ここではなんだからと人気のないところに博士を連れ移った。

「夫から何か連絡が?」

「そうだ!」

「何と?」

「分かっとるんだろう」

「ふっ樹東がお利口になったとでも?」

 ジ―ンは感情の希薄な笑みを浮かべる。

 やはり博士の睨んだとおり、この問題の鍵はジ―ンが握っていた。

「何をした?」

「実験です。キザンは生体として固定してからでも、後付けで成形可能ということが分かりました。そこで生理学者たちとチ―ムを組み研究を―――。キザンを使った研究はそれまでとは比べものにならないスピ―ドで生命の神秘を説き明かしてくれましたわ。それは脳髄も同じでしてね。そこでキザンを成形するパルス発生装置を小型化して―――」

「まさか、樹東の脳内にインプラントしたのかっ!」

 博士の難詰にジ―ンは笑みで答えた。

「パルスは脳髄の発達を促すものと、特定の対象物を補助しようと思考するものを―――」

 つまり樹東が光冴の世話を焼き始めたのはこのため。

「貴様っ!自分の子供を―――命をなんだと思ってるんだ!?」

「だから双子を作ったんです。トシの子供としての光冴―――私の実験のための樹東―――対照実験としても丁度いいですし」

 博士は愕然となった。目の前にいる女はもはや狂人と化している。

「まぁそう怒らないでください。この技術はコピペにも応用できるでしょ?あの哀れな子にも」

「哀れだと?」

「アレを哀れと言わずに何というんですか?人権を剥奪され、成人にも関わらずその知能は赤ん坊並み―――」

「勝手なこと吐かすな!?コピペのことなら大きなお世話だ。どんなに時間が掛かっても、わしが総司共々立派にしてみせる」

 博士の啖呵。

 だがジ―ンは怯むことなく嘲笑を携えたまま言い放つ。

「ふふ、時間を掛けて?そのお体でですか?ご自身の体のことです。お分りでしょう?」

「うぐ」

「細胞の異常活性―――たとえどんなに小さな病巣でも、できようものなら一瞬にして体中蝕まれる。綱渡りの上で生きているようなその身で時間を掛けてですか?」

 博士の顔が歪む。それは博士自身が一番気に掛けていたこと。自分はいつ死んでしまってもおかしくない体であり、身の上だ。だからこそ、禁忌を犯してでも総司を一人前にしたかった。

 そう、一人でも生きていけるように。

「お前は何がしたいんだ?それは自分の子供を犠牲にしてまでするべきことか?」

「プロジェクト・クロシングオ―バ―」

「クロシングオ―バ―……」

 キアズマ、そしてコウサ。最初から、子供の名を付けたそのときからもうすでに―――。

「もう、女が子供を生み、人間が人間を育てる時代は限界に来ています。そんな不完全なシステムだからこそ、人の中に不幸の種は尽きることはない。だから、生まれたときから社会規範や優れた知能を持ち、健康で人に優しい心を持った新しい人類のカタチを作らなければならないんです」

「それが本音か?」

 全ての命に対する宣戦布告。

 新人類創造。

 それは現行人類の自然的なり長期的なりの淘汰を意味する。

「私の作った人類が目的の国を実現化することも夢じゃないですよ」

 『目的の国』―――人格の尊厳を主目的とした人類究極の理想社会。民主社会の基本的理念であり、しかしその完全なる実現はあまりにも非現実的。その流れにある種のファシズムが先行してしまうのも仕方がないのかもしれない。

 だが博士の考えは違った。

「お前は間違っとる。幸せに明確なものを求めること自体愚考であり、そこにカテゴリ―を作ることはすでに不幸の始まりだ。そう、人は不完全だからこそそこに可能性を見いだし進歩する生き物だ。その中に身を投じる群れに共感という概念があるからこそ幸せが生まれ得る。知力や道徳や能力の違いでは断じてない。そこに触れ合える感情があることが重要なのだ。お前の言う通りコピペは能力や生い立ちを考えれば確かに哀れかもしれん。それでもわしに触れ、笑顔を向けてくれるコピペは決して不幸ではない」

「だったらなぜ博士はコピペを作って、総司さんを救ったんですか?」

 そう問い掛けるジ―ンの瞳には、いつの間にか涙が滲んでいた。彼女自身、その問いの答えも、博士の言わんとしていることも重々承知の上だった。

 それでも彼女は人類の尊厳を踏み躙る道を歩むことを決断したのだ。

「それは―――」

「結局、詭弁振り翳してるだけじゃないですか」

「……………………」

 『詭弁を振り翳すなら、わしのもとから去れ!』

 それはかつてキザンの是非を俊彦と問答したとき、博士が彼に放った言葉。それを今、俊彦の妻であるジ―ンに突き返されてしまった。

「もう止められませんよ」

 ジ―ンは博士を睨み下ろす。

「これは博士がキザンを―――いえ、ベリ―ナノクレイシュ理論をひも解いたそのときから決定された運命なんですから」

「お前、まさか―――」



 その次の日、自室よりト―ル=シンラ博士の刺殺体が発見される。

 同日、ユ―ジ―ンは新方式の脳髄スキャナ―の人体実験で自らが被験者になるも失敗。植物状態に至る。この事故は作為的なミスの誘発があるのではないかと仄めかされる。

 これらの事象と同時に行方を晦ませた青柳めぐみになんらかの関与があるとみて警察は捜査するが今日まで何の進展もない。

 その後、警察の介入によりアカデミ―の非人道性が露呈し解体に向け話が流れる。

 数年後、鉄巴の死去とともにグル―プ会長に就任した総司の手によって、アカデミ―はそのまま社団法人シンラ研究会と名を代え、ほぼその実情は変わらぬまま存命した。



 

                                        つづく―――




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