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白い一滴  作者: ゆき


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白の一滴 後

 JRのみどりの窓口の前で、北海道ツアーの広告を眺める。湯の川温泉と海鮮料理が写っていた。函館はもう雪が降る頃だろう。真っ白な冷たい海と、街を包む教会の鐘の音を思い出していた。高校のときに毎朝乗っていた路面電車で、徐々に近くなる函館山を、いつか哲にも見せたいと思っていた。きっと、水面に雫を落とすように感性の波紋が広がっていくのだと思う。  夜に走り出す筆は、ちらちらと輝く雪と重なって見えた。月の光を浴びながら林に降り注ぐダイヤモンドダストのようだった。


 ふと、待合室のほうを眺める。ベビーカーを引いた家族連れが目の前を通り過ぎた。瀬谷さんがお腹を弾ませるようにしてこちらに向かって来るのが見えた。


「ごめん。迷ったわ」


 ストライプの入ったネクタイが横に曲がっている。


「やっぱ東京は苦手や」


「ちょっと太りましたか?」


「もとからやって」


 厚手の上着を腕に掛けている。白い紙袋が二つ見えた。


「いやぁ、暑いわ。十一月には思えんな」


 ハンカチで額を拭っていた。


「そうですか? ちょっと寒いくらいですけど」


「薄着してるんちゃう?」


「瀬谷さんより厚着ですよ」


 マフラーの首元を緩めた。スーツケースを引いた中年の男の人が、駅員に話しかけている。


「太ってると電車では夏より冬の方が汗かくんや。なんでかわかる?」


「ううん」


「夏の電車ってクーラー効いてるやろ。でも、冬の電車の中って暖房だから汗かくん。厚着だし、満員電車なんか乗った日には最悪やで」


 小さな歯をこぼす。釣られるように、楽しい気持ちになる。


「ほら、これ、お土産」


 縁の丸くなった紙袋を差し出した。


「大したもんやないんやけどな。ほら、大阪のめっちゃ美味い肉まんの話したときあったやろ」


「あ、あの餃子みたいなっていう?」


「そ。美味いんやけど、持ってくるのがな。めっちゃニンニクの臭いすんねん」


 首を振りながら斜め掛けの鞄を背中に回した。


「ありがとうございます」


「美味しいから、食べてな」


「はい」


「長時間電車に乗ると周りに迷惑かかるで」


「うん。錦糸町すぐだから・・・」


 細い紙の取手から熱が伝わってくる。


「ごめんな。今日はこれからすぐに会社戻らなあかんねん」


「そうですか・・・」


「ホントは行きたくないんやけどな・・・さっき電話あってシステムの速度が遅くなってる言うねん。そっちでどうにかしてくれ言うたんやけど、こっちのバグらしくて・・・」


「・・・じゃあ・・・また、メールくださいね」


「わざわざ来てもらったのに、ホンマごめんな。また電話するわ」


 雲のようだった。どこまで本気にしていいのだろう。


「じゃあ・・・・」


「すぐ、また会おうな」


「うん」


 瀬谷さんが背を向ける。スーツを着た女の人が目の前を通ると、帰宅する人たちの中に紛れていた。京浜東北線ホームの階段を人が転げ落ちるように降りてくる。大木のような身体は見えなくなっていた。 


 シャンパンをご馳走になった出川さんに、お礼のメールを送信した。フリーのお客さんだったが、ハナちゃんが場内指名されていたので、自分のお客さんにはならないだろうと思った。


 少し飲みすぎただろうか。体が火照っていた。冷えた皮膚の奥のほうで、荒い脈を打っている。目蓋を閉じると、すぐにでも眠りについてしまいそうだった。


 バックから家の鍵を取り出す。早上がりをしたので、まだ十二時半過ぎだった。植月さんはもう帰っただろうか。テディベアを掴んで鍵を回した。


「ただいま」


 悴む指で玄関の電気をつける。肉まんの入った紙袋が靴箱の角に擦れた。植月さんの靴は無くなり、哲の革靴が端のほうに揃えて置いてあった。爪先に乾いた砂の跡が残っているのが見えた。


 部屋のドアがうっすらと開いている。ワックスで固めた髪を押さえつけた。バックを持ち直すと、中で化粧ポーチが篭ったような音を立てた。


「哲・・・・」


 ソファーの背凭れに寄り掛かって、まっさらなキャンバスを眺めていた。


「・・・・・・」


「どうしたの?」


「ん・・・・」


 不自然な空気のひずみを感じた。


「・・・・・」


 目を合わせなかった。素肌を霧雨に晒すようだった。


「・・・植月さん来てたんでしょ?」


「あぁ」


「どうだった?」


 紙袋からニンニクの匂いがした。コートのボタンを外していく。暖房の生暖かい風で、電気に下がった紐が左右に揺れていた。


「・・・・特に・・・・・」


 声が暗闇に消えていくようだった。


「また絵の話? 結構長くいたの?」


「・・・ん・・・・そうかも・・・」


 ふくらはぎに紙袋が当たった。


「そう・・・」


「・・・ねぇ・・・」


 重たい唇がゆっくりと動いた。


「最近、クラブの仕事はどうなの?」


「どうなのって・・・変わらずだよ」


 ファーの毛がふわっと宙を舞った。


「・・・・」


「何かあ・・・」


「お客さんとは?」


 呼吸を詰まらせた。鋭い牙で切り込むようだった。地面がよじれていく。


「・・・・何で・・・?」


「・・・別に・・・・」


 喉が張り付くようだった。額に冷や汗が滲んでいく。


「お客さんはお客さんだよ」


「そ・・・」


 淡白な響きだった。使っていないイーゼルの向こうを見つめていた。 


「・・・植月さんが何か言ってたの?」


「・・・何も・・・・」


「・・・・・」


 ハンガーにコートの袖を通していく。哲の表情を見ることはできなかった。僅かな隙も見逃さず、全てを飲み込んでいるのがわかった。完成されていたパズルのピースが崩れていくようだった。


 手を重ねて指輪に触れる。数時間前、この狭い部屋で何が話されているのかはわからない。植月さんが本当のことを言ったのか、大袈裟に言っていたのか、嘘を付いたのかもわからなかった。でも、いつか哲に伝わる日が来ると思っていた。何を話していても、アパートの一室で絵を描いていた時と違うのは明らかだった。気持ちが離れていることを隠せなくなっていた。  


 心が凍り付いていく。小指の爪が手の甲に食い込んだ。哲は大分前から気づいていたのかもしれない。植月さんの言葉と時間のすれ違いだけで、信頼が解けていったとは思えなかった。


 部屋には暖房の温もりが残っている。テーブルの上にメモは残されていなかった。少し開いたクローゼットからスーツを掛けていたハンガーが飛び出ている。大学の講義に行ったのだろう。本と画材の入った鞄がなくなっていた。


 ソファーの上にはスケッチブックが載っている。何層にも重なった鉛筆の線が、台座に座る思慮深い女性の姿を浮かび上がらせていた。目元には、百合のような優しい深みがあった。近づくと、哲の指紋の痕が残っているのがわかった。


 午後から一ヶ月ぶりに神保町で花木さんと会うことになっていた。本を出す予定は、いつの間にか流れていた。ノートパソコンの入ったバックを肩に掛ける。数週間前、適当に書いた文章がドキュメントに保存されていた。ここ数日はパソコンを開くこともなかった。小説を書くことができなかった。  


 花木さんとは、もう会わなくてもいい気がしていた。時間を削って見てもらっていたが、期待に応えられそうもなかった。大学の恩師である教授への義理があって、無理矢理取り入ってくれているのだろう。力のなくなっていく指摘が、全ての限界を物語っていた。


 横殴りの雨がベランダの手摺を叩いている。窓にはZARAのコートを着た自分の姿が映っていた。小説家になる夢はどうでもよかった。文章を書けなくなって、空虚な生活になることも怖くなかった。本を出すことへの執着は嘘のようになくなっていた。瀬谷さんに想いを寄せているからだろうか。不思議だった。叶わない想いでも、水を注ぐように心の隙間が埋められていた。


 紐を引いて電気を消す。ビルの間から見える薄暗い空が、部屋まで飲み込むようだった。雨音が緩やかに大きくなっていく。肉まんを入れていた袋が新聞紙の下に敷かれていた。


 丸椅子を見つめる。凭れ合うことのない真っ白な時間に包まれていた。哲は私のことを愛していたのだろうか。何で繋がっていたのだろう。何を求めていたのだろう。古いイーゼルに立て掛けられたもみじの絵が、ゆったりとした落ち着きを放っていた。


「そっか・・・じゃあ、小説はもういいの?」


「はい。今は一度筆を置こうかと思います」


 組んでいた手を解いた。お手拭きの袋が水滴に張り付いている。


「そっか、大変だもんね。小説書くって・・・・」


「そうですね」


 ホットコーヒーにミルクが溶けていく。ノートパソコンの画面を閉じた。


「残念だけどね」


 眉毛が垂れ下がった。安堵の表情を浮かべているようにも見えた。


「すみません。ここまで協力してもらったのに」


「いやいや、僕も勉強になったし」


 カップに口を付ける。サラリーマンが鞄を頭に載せて、雨の中を駆け抜けていくのが見えた。


「東寺教授と花木さんって、まだ連絡取ったりしてるんですか?」


「まぁね。未だに教授には色々お世話になってるよ。この前も執筆頼んだし」


「そうですか・・・・」


「・・・・教授は古河さんの小説いいって言ってたけどね・・・・・・・・」


 口をつぐんだ。熱いコーヒーの苦味が喉に付く。


「・・・最近は良い新人出てきてますか?」


「そうだな。今は本が売れない時代だからね。正直、新人はほしいけど、会社もなかなかそこまで賭けられないよね」


「そうなんですか・・・・」


「よほどすごい新人が出なきゃ、こっちも動けないのが現状だよ」


 アイスコーヒーの氷に罅が入った。


「古河さんも新人賞の下読みとかやってみたら? 古河さんだったら読む力はあると思うし、勉強になると思うよ」


 眼鏡の奥の小さな目を輝かせた。


「いえ、今は小説から離れたいので・・・」


「そっか。いいと思ったんだけど・・・」


 外に目を向ける。雨脚が少し弱くなったようだった。


「旦那さんとはどう?」


 カップを置く。コーヒーの付いたスプーンが震えた。


「そうですね、うまくやってますよ」


「そう。すっかり有名になったね、古河哲さん」


「そうですか? あれから紙には載ってないと思いますが・・・」


「いや、色んなところで耳にするよ」


 細いストローを回した。うつろな心に、何の感情も沸き起こらなかった。


「今度特集で取り上げたいと思ってたんだよね。若手画家ってことで」


「そうですか」


「まぁ、具体的に話が上がってきたら連絡するよ。今度は旦那さんのほうでね」


「はい」


「上の人たちに、僕からも一押ししておくから」


 目尻が下を向いた。親切心で言っているのだろうか。


「・・・・・ありがとうございます」


「こちらこそ、その時は宜しくね」


 パソコンの画面に頬を緩ませた花木さんの表情が映る。軽く首を縦に振った。店員が向かい側の席のオーダーを取っている。哲はいつも通りの講義をしているのだろうか。花木さんの話が他人事のように聞こえていた。触れることもなく通り抜けた風のようだった。


 黒いストッキングに水溜りが跳ねた。手首が雨で濡れていく。ビニール傘越しの信号が点滅して流れていった。


「高沢さん、お久しぶりです」


『アイちゃん? 久しぶり。急にびっくりしたよ』


「今ってお仕事中ですか?」


『いや、ちょうど外出たところ。どうしたの?』


 花木さんが小走りで地下鉄の階段を下りていくのが見えた。古本屋の屋根から水が滴り落ちる。


「今日の夜って空いてますか?」


『今日か・・・・ちょっと難しいかな・・・・。お客さん呼べないの?』


「ううん。美味しいフランス料理のお店連れて行ってほしくて」


『あら、営業じゃないの?』


 しゃがれた声の向こうで、ファミリーマートの音楽が聞こえた。


「たまにはね。高沢さんにはよくお店来てもらってるし」


『それなら無理してでも行かなきゃいけないな』


「ほら、前に六本木のフランス料理連れて行ってくれましたよね。また、そこ行きたいな」


『んー・・・あそこ予約制なんだよね。今からだとちょっと難しいかもな・・・・』


「そうなんですか。残念です」


 あまり行きたくなかったが、帰りたくなかった。昼休みが終わったのか、ビルの電気が点いていくのが見える。


『そこじゃなきゃ駄目?』


「ん・・・・そこに行きたかったかな」


『他にも美味しいところあるけど・・・イタリアンとか・・・』


「・・・・」


 ブーツの爪先が水溜りに触れた。荒い波が起こる。


「ごめんなさい・・・じゃあ、また今度誘いますね」


『え?』


「急だと、高沢さん忙しいですもんね。ゆっくりできるときにしようかなって」


『そっか・・・。アイちゃんとデートしたかったな。せっかく誘ってくれたのにごめんね』


「いいえ」


『次はちゃんと予約しておくよ。一週間前くらいに誘ってね』


「急にごめんなさい。じゃあ・・・」


 携帯を切ってポケットの中に入れる。定期入れのチェーンが引っ掛かった。


 喫茶店の窓に映る自分の姿を眺める。窓にもみじの葉が貼りついていた。川を流れていく、燃えるように赤い葉を思い出していた。息が白く濁っていく。雨水に滲む憂いが美しかった。


 玄関には見慣れた革靴が並んで置いてあった。濡れた傘を立て掛ける。


 ドアは開いていたが、声が聞こえなかった。マフラーを外して、バックの中に入れる。部屋が近づくと、スケッチブックを破る音が聞こえてきた。


 フローリングから部屋を見渡す。哲の鉛筆がキャンバスに向かっていた。破られた紙がイーゼルの下に何枚も重なっている。こちらを振り向かず、手も口も絵から離れなかった。爪先に力を入れる。玄関のドアが開いたことにも気づいていないようだった。


 植月さんはソファーに座っていた。筋の通った鼻に手をあてて、背凭れに寄り掛かりながらキャンバスを眺めている。しばらくして、目が合った。壁から手を離す。無表情のまま軽く頭を下げてきた。霧に浮かぶ一艘の船を見つめるようだった。唇を噛む。視線を逸らすようにして、背を向けた。




 寝室は真冬が降りてきたように冷え切っていた。静かにドアを閉めて、ベッドに倒れこむ。コートのファーが顎を撫でた。


 植月さんはいつまでいるのだろう。飯田橋への終電の時刻は大分前に過ぎていた。コンクリートの壁に遮られているようだった。植月さんがいなくなるまで、キャンバスを覗くことさえできない。バックから携帯が出ていた。布団に小さな窪みを作ったまま沈黙していた。


 瞬きをすると、目頭が冷たくなった。寂しいのだろうか。シーツを握り締める。心が絞られるように細くなっていった。深い闇に飲み込まれる。喉の奥が息を震わせていた。


 悲しいのは居場所がなくなったからなのだろうか。哲が離れていくのを感じたからだろうか。重ねてきたものが洪水のように流れていくのがわかった。心の一部を砕いて、混沌とした渦の中に巻き込まれていく。もう、言葉は出てこなかった。


 携帯に指を伸ばす。瀬谷さんのことを思い浮かべると、幾分か心が柔らかくなった。浮ついた気持ちであっても、精神のバランスが保つにはなくてはならなかった。哲には醜く映ったのだろうか。瀬谷さんがいなければ、いつ崩れてもおかしくなかった。


 哲の全ては芸術で埋め尽くされていた。入り込む僅かな隙間も見当たらなかった。殺した息が夜の中に溶けていく。欠けていく心を埋められないのは、強くないからだろうか。押し潰されそうな感情を理性で抑えきれないのは、哲を愛していなかったことになるのだろうか。


 伝えたいことはたくさんあった。でも、もう何を言っても心を通わせることはできないだろうと思った。哲の後ろにあるソファーは植月さんのものになっていた。哲が必要としていたのは植月さんだったのかもしれない。お互いの感性を磨きあって、きっと洗練されたものを創り上げるのだろう。私がそばにいるときよりも芸術性が満たされていくような気がした。


 ただ指輪だけで繋がっていたようだった。最後に哲の体温を感じたのはいつだっただろう。いつから何も言えなくなってしまったのだろう。瞼が落ちてくると、水の中に溺れていった。手のひらに触れた枕が紫陽花のように濡れていた。


 目覚まし時計の針が二時を過ぎていた。薄めのリップグロスを引いてバックのポケットに入れる。目の淵が少し赤くなっていた。椅子に掛けたコートに袖を通していく。


 植月さんは早朝帰ったようだった。木曜日だったので会社に行ったのだろう。夢うつつに植月さんの声と玄関のドアが閉まる音を聞いていた。弾けるような哲の声も聞こえた気がしたが、記憶が曖昧だった。夢だったのかもしれない。


 バックを肩に掛けて、寝室のドアを引く。廊下に午後の日差しが分厚く敷かれていた。


 部屋の前で足を止める。ソファーからはみ出した哲の足が動いた。描きかけの絵が色彩を持たないまま粛然としていた。シルクのような柔らかい服を身に纏った女性だった。椅子に載っているスケッチブックが、鉛筆の膨らみをもっていた。


 そろそろと近づいていく。哲は毛布に包まるようにして、深い眠りについていた。唇が微かに動く。ゆったりとした時間に身を預けていた。ソファーの背凭れに腕を載せる。革が擦れる音がした。無垢な目蓋を静けさの中に埋めていた。


 絵はそんなに大切なことなのだろうか。野心のない哲にとって、絵を描くことがどんな意味を持つのかわからなかった。自分が小説を書くことで求めていたものは、哲が絵で得ているものだった。でも、哲は何か違うものを探して彷徨っていた。


 幅の広い額に触れる。細い髪の毛が指の間を流れていった。前よりも少し痩せた気がした。


 足ることを知らないことは、芸術家にとっては幸福なことなのだろうか。キャンバスに目を向ける。初めての人物画とは思えないほど、表情や身体に動きがあった。


 目が覚めたらまた絵のことを考えるのだろう。安らかな寝顔を見ると、何もかも嘘だったように思えた。哲が有名になったことも、小説家を諦めてしまったことも、気持ちが移ろいでしまったことも、夢であるように思えた。ソファーから手を離していく。左手にはめた指輪が深い日差しを刻んでいた。


「ねぇ、貝塚さんはこうゆう店よく来るんですか?」


「たまにね」


「お若いんでしょ? おいくつですか?」


 加えた煙草に火をつける。磨かれた灰皿にウイスキーのラベルが映っていた。


「何歳に見える?」


「二十代後半かな・・・?」


 組んだ足がテーブルの脚に当たっていた。


「まぁ、近いかな。三十一歳」


「そうなんですか? もっと若く見えますよ」


「よく言われるよ」


 笑い声で煙草の煙が右に靡いた。胸元につけた薔薇のコサージュを直す。


「どれくらいこの仕事してるの?」


「もう一年以上になるのかな」


「へぇ、長いんだ。可愛いもんね。人気者でしょ?」


「ううん。全然ですよ」


 煙草を押し潰す。灰が砕けた。


「おじさんなんて相手にしないよね?」


「貝塚さんなら格好いいから考えちゃうかな」


「またまた・・・」


 ボーイの上野さんがカーテンを開ける。小春ちゃんがディオールのポーチを持ってテーブルの前に立った。


「ご紹介します。小春さんです」


「小春です。よろしくお願いします」


 短いドレスのレースを押さえつけて貝塚さんの隣に座る。


「アイさん」


 手を前に出して、引き抜きの合図をした。


「あ、あとで場内するね」


「本当? ありがとうございます」


 小春ちゃんが猫のような目を吊り上げた。名刺をグラスの下に置く。


「じゃあ、ちょっと失礼します」


 ライターをポーチのポケットに入れた。縁が少し熱を持っていた。


「アイちゃん、さっき場内入ったから」


「今のところじゃなく?」


「いや、いつもアカネちゃん指名してる人」


「ん・・・誰だろ?」 


 オレンジのドレスがカウンターの棚に触れた。グラスを倒さないように手を添える。


「あの人、見たことある?」


 段差を上がってすぐ横にあるソファーを指した。


「・・・あ・・・」


 息を詰まらせる。瀬谷さんの上司がウイスキーを飲んでいた。一人で来たようだった。


「・・・アカネちゃん指名しなかったの?」


「アカネちゃんいないからね。今日はアイちゃんにするって」


「そう」


 瀬谷さんが来ると言っていたのは今日だったのだろうか。ドレスの肩紐を持ち上げる。


「ご指名ありがとうございます。アイさんです」


「アイです。お久しぶりです」


 上着を鞄に被せていた。ポケットから銀色のボールペンが出ているのが見える。


「・・・よく覚えててくれましたね?」


「もちろん。一度見た顔は忘れないからね」


「アカネちゃんがいなくて残念ですか?」


「ん・・・アカネにはこの前会ったからね。ティファニーのネックレスがほしいとかで、また遣い込んじゃったよ。あの子、おねだり上手なんだよね」


 マドラーで崩れた氷を掻き回す。


「今日はお一人なんですか?」


「あぁ、瀬谷たちはまだ残ってるよ。俺も少ししたら行かなきゃいけないんだどね」


「そうなんですか。お仕事大変そうですもんね」


「数日前にシステムの不具合が見つかっちゃってさ。今を乗り越えればなんとかなりそうだけどね」


 ウイスキーが氷を伝って落ちていく。蓋を回すと、きゅっと音がした。


「それより、今日来たのは別に理由があってさ」


 グラスの水滴がアナスイのハンカチに染み込んでいく。コースターを寄せた。


「瀬谷のことなんだけどさ・・・」


「あぁ・・・・はい・・・」


「あいつとはどうゆう関係なの?」


 ハンカチを膝の上に置いた。指先でラインストーンを弄る。


「仲良くさせてもらってますよ」


「そっか・・・」


 水を注いでいく。色が薄くなっていった。


「ごめん。プライベートなことに口出しはしたくないんだけど・・・」


「・・・・・・」


「あいつ来年の三月に結婚するんだよね」


 グラスの水が波動する。心臓が落ちるような音がした。


「・・・そうですか・・・・」


「そう・・・で・・・わかってるよね?」


 足を組み直してこちらを向いた。くすんだ視線が圧し掛かる。


「何がですか?」


「あんまり遊ばないでね。ほら、あいつそうゆうの慣れてないからさ」


「・・・・・・」


 向かい側でミキちゃんが中年のお客さんに寄り掛かっている。溶けるような表情でシャンパンを飲み干していた。手の甲をちぎれるほど抓った。


「仕事にまで影響しちゃうんだよね」


「・・・そうなんですか」


「上司としては心配でさ。早く家庭作って落ち着いてもらわないと・・・・。あいつは才能あるし、これからどんどん伸びていくと思うしさ」


「・・・・・・」


「あ、いや、アイさんが悪いとかじゃなくてね。こんなところでふらふらしてるあいつが悪いんだけど・・・」


「・・・はい・・・」


 青いドレスの肌蹴た膝を見つめる。胸元からディオールの香水の匂いがした。グレーに覆われていくようだった。私は汚いのだろうか。


「ただいま」


「遅かったじゃん。待ちくたびれたよ」


 貝塚さんが鞄をずらして横の席を広くした。小春ちゃんの名刺がコースターの横に置いてある。


「早く戻ってきたかった」


 自分の声がわざとらしかった。


「何か飲んでいいよ」


「ありがとうございます」


 ボーイの上野さんがインカムでメニューを持ってくるよう指示していた。グラスにウイスキーを注ぎ足していく。背中が生温かくなった。貝塚さんが、腕を後ろのソファーに回してきた。


「ねぇ、アイちゃんって店外でもデートとかしてくれるの?」


「え?」


 潰れたマイルドセブンの箱から煙草を取り出す。手に持ったライターを近づけた。


「普段はあんまりしないんだけど・・・貝塚さんってすごくタイプだからな・・・」


「本当?」


「うん。また、あたしのこと指名してくれますか?」


 唇から煙草の煙が漏れる。ニキビの多い肌を包みこんでいた。


「いいよ。じゃあメアド交換しよ」


「平日にもメールしていいですか?」


「いつでも。俺、独り身だからね。えっと、とりあえず・・・赤外線ね」 


「うん。お願いします」 


 ワイシャツの胸ポケットから真新しいアイフォンを出していた。プロフィール画面を辿っていく。


 薬指が引っ掛かると、ストラップのテディベアがこちらを向いた。ウエディングドレスの糸は解れて、ベールは純白ではなくなっていた。携帯に爪を立てる。いつから汚れてしまったのだろう。洗っても、もう白くはならないような気がした。


 人が花を美しいと思うのは、純粋な色彩を放つからなのだと思う。昔、哲がインフルエンザにかかって三十九度の熱を出したときに、氷水で頭を冷やしながら「フルーツゼリーとひまわりを買ってきて」と言い出したことがあった。熱で頭がおかしくなったのかと思ったが、「絵を描けない代わりにひまわりの色彩を見ていたい」と言って譲らなかった。狭い窓枠に飾られたひまわりは、哲の熱が下がると同時に枯れていった。役目を終えたのだと伝えているようだった。


 腰の高さほどもない台に、海を溶かしたような色の花瓶が置かれていた。画材の匂いに混ざって、ほのかに花の香りがする。一輪の百合の花が飾られていた。壁際から澄んだ空気を流している。咲きかけの百合は閉め切ったカーテンを見つめていた。哲が大きな花びらを見ながら、女性の肌に色を付けていた。 


 しんしんと夜が更けていく。暖房の風が濡れた髪に当たった。温度を一℃下げて、加湿器の電源を入れる。


 壁に寄り掛かった。肩に掛けたタオルをするすると下ろしていく。息を潜めて、ペインティングナイフがキャンバスに触れる様子を眺めていた。哲は一言も発さないまま、感性を深くまで掘り込んでいた。痩せたチューブが新聞紙の上に散らばっていた。


 あまり食べていないのだろうか。パーカーの袖から覗く手首が細くなっていた。冷蔵庫に煮物と野菜炒めを入れていたが、サランラップが掛かったまま減っている様子はなかった。聞きたかったが、刺すような空気が怖くて声を出せなかった。


 筆を押し付けるようにして色を伸ばしていく。命を焦がしているようにも見えた。キャンバスの繊維に色が入り込むたびに、哲が地面に足をつけていないような心地がした。赤く、赤く燃え上がっていく。百合の花が柔らかい光で哲を支えているように見えた。


 ソファーの背凭れには毛布が折畳まれて置いてあった。哲の畳み方ではなかった。何時までいたのだろう。なぜ、哲に執着するのだろう。植月さんが何を求めているのかわからなかった。


 ドアを引くと、金具が鈍い音を立てた。哲のほうを振り返る。筆がキャンバスに薄い赤色を引いていた。絵だけが時を刻み続けていた。


 早朝に瀬谷さんからメールが来ていた。通勤電車の中でメールをしたのだろう。マキアージュのアイシャドウを瞼に引いていく。指で馴染ませていくと、瞼が桜色になった。ラメをティッシュで拭って、化粧ポーチのファスナーを閉める。


 瀬谷さんの上司の言っていた言葉が頭を過ぎる。お店で話していたことは、何も伝えていないのだろう。昨日も今日も、いつもと変わらないメールと絵文字だった。文章の語尾に付いた笑顔に、鏡餅のような表情が重なるようだった。


 足を床から離すと、椅子の車輪が後ろに動いた。雲に糸を掛けるような心地がした。瀬谷さんが結婚してしまうのは分かっていたことだった。どんな風に彼女のことを愛するのだろう。愛されるというのはどうゆう気持ちなのだろう。


 結婚してしまったら、私の存在は泡のように消えてしまうのだと思う。消えなければいけないと思う。十字架のネックレスを外して、アクセサリーボックスの中に入れた。オルゴールのネジが回る前に、素早く蓋を閉じる。ハート型の鏡に手元が映った。シルバーリングが少し黒くなってきたように見えた。


 チャイムが鳴り響く。ポーチをバックの中に放り込むと、レースが右によれた。足早に玄関へ向かう。手前にあったサンダルを踏んでドアを開けた。


「静香さん」


「・・・・・・・」


「こんにちは」


 肺が凍りつく。薄手のジャンパーとニット帽を被った植月さんが立っていた。


「何か・・・・・?」


「いつもごめんね」


「・・・いえ・・・・」


 踵を玄関の床につけた。足の裏に小石があたった。


「哲は?」


「・・・朝早く出て行ったと思いますが・・・」


「あぁ、そういや今日は美術商とサイト運営について話すって言ってたか・・・」


 切れ長の目を上に持ち上げていた。知らない話だった。心の中が濁っていく。


「携帯通じないんだけど、携帯持って行ってるの?」


「多分・・・家にはないので、持ってると思います」


「そっか。後で連絡してみるか・・・」


「何か用事ですか?」


「うん・・・・まぁ・・・・近くまで来たからちょっと寄ってみただけ」


 紺色のマフラーが揺れている。銀色の日差しが眩しかった。


「じゃあ、また・・・・。急に来てごめんね」


 玄関からすっと身を引いた。


「あ」


「・・・?」


 閉じかけたドアを押さえる。


「コーヒーでも飲んでいきますか?」


「え?」


 驚いたような表情でこちらを見下ろした。足が冷えていく。


「・・・・・・・」


 空気が張り詰めていく。噛み合わないパズルが浮き上がってしまったようだった。靴ベラへ視線を逸らす。


「・・・哲の友人ですから・・・・・」


 風に押されるようにしてドアが閉まった。背を向ける。後ろから靴が擦れる音がした。


 コーヒーをカップに注いでいく。やんわりと湯気が立ち込めた。テーブルにカップを置いて、植月さんのほうへ差し出す。


「どうも」


「いえ」


 ポッドに蓋をして、台所の布巾へ置く。コーヒーが目盛の下を何回か波打った。


「絵の調子はどうですか?」


「まぁ、紆余曲折あるけど・・・・・順調だよ」


「そうですか」


 カーディガンの掛かった椅子を引く。


「風景画ですか?」


「ん・・・りんごの絵。昔から好きなんだよね」


「へぇ・・・・」


「火の色って赤でしょ? 果実なのに燃えているようでさ」


「昼間仕事やってるのに、大変ですね」


 砂糖がさらさらと流れていく。湯気の中にスプーンを入れた。


「絵は息抜きだよ。好きなことだからね」


「コンクールに向けて描いてるんですか?」


「・・・・あぁ。とりあえずは、小さなコンクールに出そうと思ってる」


「そうですか」


「静香さんは?」


 カップを唇から放す。舌の先がひりひりした。


「小説ですか?」


「うん」


「・・・・もう書くのを辞めました」


 熱い息を吐く。こちらに視線を向けた。


「辞めたって?」


「元々そんなにうまくなかったんです。小説も最近は読んでませんし。編集者の人と話し合って、本を出す話は白紙になりました」


「それ、哲知ってるの?」


「いえ・・・・・」


 心に影が落ちていく。感情のうねりが押し寄せた。


「そう」


 瞼を落とした。外からバイクの走る音が聞こえる。


「植月さんは、哲の絵はうまいと思いますか?」


「もちろんだよ」


「嫉妬心はないんですか?」


 長い指で押さえたソーサーが、微かに振動した。


「ないと言ったら嘘になるよ」


「・・・・・」


「あいつは絵の才能もあるし、それを発表する運にも恵まれてる。俺はどんなに努力しても、運には恵まれないみたいだしね」


 瞬間的な妬みを感じた。沼地に手を突っ込んでいるようだった。この泥を掴むような感覚が嫌いだった。自分と似通った部分を感じるからなのだろうか。


「俺も静香さんに聞きたいことがあるんだけど・・・・」


「何ですか?」


「静香さん、浮気してるの?」


 カーテンに映る洗濯物の影が揺らいでいた。息が声にならなかった。


「最近は取引先が品川だから、京浜東北線に乗るんだけど・・・・夜の十一時くらいに三回も静香さんを見かけてさ。若い男の人といたから、お客さんじゃないような気がして・・・・」


「・・・・・・」


「哲に聞いてみたら、その日は仕事だったはずだって」


 折り曲げた砂糖の袋が植月さんのほうを向いていた。


「そうですか」


「夫婦の間に亀裂を入れるつもりはなかったけどね・・・・・・・」


 コーヒーがたぷんと揺れる。


「浮気はしてませんよ」


 言葉が止まった。上目遣いにこちらを見る。


「・・・・本当?」


「あの人は今年の三月に結婚する人ですから。ただのお客さんです」


「そう・・・・」


 違和感のある自分の言葉が痛々しい。嘘が積もっていった。冷めたカップに口をつける。


「静香さんにとってさ、どこからが浮気なんだろうね」


「え・・・」


「ま、いいけど」


 植月さんの視線が心を抉り出すようだった。取り繕うことでしか自分を守れなかった。


『今週の土曜日、ドライブ行かへん?』


「え?」


 肩で携帯を抑えて、台所のタオルで手を拭う。カップを逆さに置くと、取手から水滴が膨らんでいった。


「ドライブ?」


『そ。俺江ノ島行ってみたいん。めっちゃ綺麗なんやろ?』


「あたしも行ったことないんで、わからないんですけど」


『じゃあ、ちょうどええやん』


 ボールの跳ね返ったような声だった。


『夏やったらもっとよかったんやけどな。今の時期じゃ海には入れんし』


「瀬谷さんなら大丈夫そうですけどね」


『アホか。さすがにこの時期は無理やわ』


 楽しくなっていく。心が引き上げられるようだった。


『んで、土曜日空いとるん?』


「・・・・空いてますけど・・・」


『なら、決まりやな』


 携帯を持ち替える。


「・・・仕事は大丈夫なんですか?」


『ま、大丈夫やないけど。残業時間のこともあって、今週の土日は休め言われてるん。久々の休日やから、ゆっくり羽伸ばしたいわ』


「よかったですね」


 結露でカーテンが貼り付いていた。夕焼けがマンションの壁に滲んでいく。ビルから飛び出るように東京スカイツリーが聳え立っていた。 


『どこに迎えにいけばいい? 錦糸町?』


「迎えに来てくれるんですか?」


『そりゃそうや。ドライブなんやから。家、錦糸町やったよな?』


「うん・・・・・・でも、待ち合わせは有楽町でいいですか?」


『ん・・・・・』


 言葉に少しの間があった。


『・・・・あぁ。別にいいけど・・・・もしかしてなんか用事あるん?』


「うん。ちょっと編集者の人と会わなきゃいけなくて・・・」


『そっか。大丈夫なん?』


「うん・・・・」 


 カーテンを閉める。か細い声しか出なかった。


「あたしも行きたいし・・・・」


『そか』 


 屈託のない声が耳に響く。若い人たちの話し声が聞こえた。


『あ、ちょっと仕事用の携帯に着信入ったから。またメールするわ』


「うん」


『じゃあ・・・』


 携帯をテーブルの上に置く。植月さんの座っていた椅子が、少し窓のほうを向いていた。


 上司が話していたことは、瀬谷さんの言葉に掻き消されてしまいそうだった。空白の時間が埋められていく。綿雪のような幸せだった。目が曇って、愛情を錯覚してしまいそうになる。




 壁に寄り掛かってキャンバスを眺める。描かれた女性が繊細な瞼を下に向けていた。やんわりと包み込むように微かな笑みを浮かべている。自分とは正反対の女性になるのだろう。百合の花びらと混じり合う清らかな空気を纏っていた。


 全体に色が付き、絵が完成に向かっていた。イーゼルの下にはチューブと筆が散乱している。パレットは色を残したまま、スケッチブックの上に載っていた。家を出てから数時間経つのに、哲が座っているかのような形を保っていた。部屋の一部だけが切り取られてしまったようだった。


 ソファーのほうに吸い寄せられていく。今日はどこで何をしているのだろう。何時くらいに戻ってくるのだろう。大学で何を講義しているのかも、美術商と何を話し合っているのかも、今後哲が何をしようとしているのかもわからなかった。唯一わかっているのは、キャンバスに描かれた絵のことだけだった。目の前に立つと、凛とした感性が哲の精神にのめり込んでいるのが伝わってきた。


 植月さんが憎らしいと思う。哲との仲を壊したかったのだろうか。賢い植月さんが間違って口を滑らせたとは思えなかった。哲がすぐに植月さんのことを信じてしまったのも悲しかった。心が水の中に沈んでいくようだった。


 左手の薬指を握り締める。ネイルのラメがきらきらと輝いた。哲は妻として見ていてくれたのだろうか。着飾った自分の身体に、哲の愛情は流れなかった。描かれた女性のほうが恋慕の情に満ちているような気がした。


 哲の名前をインターネットで検索すると一番上に出てきた。ネットで絵を販売できるようにしたらしい。佐野さんと話し合って決めたのだろう。サイトにはシンプルに経歴や絵の内容などが綴られていた。哲の芸術性を引き立たせるようなものだったが、あまり賛成はできなかった。不特定多数の人に踏み荒らされていくような不安があったからなのかもしれない。


 トップ画面には数年前に描いた藤棚の絵が使われていた。薄紫の花が浮かび上がるようにして、青空へ溶け込んでいく絵だった。マウスを下に動かす。哲の世界観がパソコンの画面上で表現されるのには違和感があった。でも、哲は純粋に自分の絵をいろんな人に見てもらいたいのだと思う。


 パソコンを終了して画面を閉じる。赤いコートを羽織ると、マフラーがセーターに貼りついた。指輪を外してポケットに入れる。薬指に赤い跡が残った。


 廊下からキャンバスを眺める。ガラス玉のような瞳が絵の色彩を映していた。キャンバスの横に置かれた百合の花が、固くなった心を溶かしているように見えた。哲と絵が隔たりなく繋がっているのがわかった。 


 植月さんがソファーから筆先を眺めていた。お腹の上で手を組んで、スーツのジャケットを脇に置いている。一瞬、座っているのが自分ではないかと思ってしまう。居場所が摩り替わってしまったようだった。手袋を握って、煮えたぎるような感情を堪える。


 植月さんも哲の絵が好きなのだと思う。だから、しょうがないと思った。


「もしもし、貝塚さん」


 哲にとってどこからが浮気に入るのだろう。今、仕事でしていることは、浮気の内に入るのだろうか。ふと、植月さんの言葉が頭の中を過っていった。


「今日はお店来てくれないんですか?」


 ストラップの紐を指に絡める。毛皮のコートを着た女の人が小走りで横断歩道を渡って行くのが見えた。ブーツのヒールが磨り減って折れてしまいそうだった。


『アイちゃんはいつ出勤なの?』


「平日は大体出勤してますよ」


 有楽町駅の日比谷改札口を出る。頭上から電車の通る音が聞こえてきた。


『来週の水曜日とかは大丈夫?』


「うん」


『じゃあ仕事が終わったら行くわ』


「無理言っちゃってごめんなさい。でも、貝塚さんに会いたくなっちゃって。なるべく早く仕事終わらせてくださいね」


 道路の間のビックカメラに人だかりができている。横断歩道の前に立つと、信号が点滅した。


『もちろんだよ。またメールしてね』


「うん。貝塚さんメールって絵文字がたくさんあって可愛らしいですよね」


『そう?』 


「すごく真面目そうなのに。絵文字なんて使わなそうに見えます」


『俺、結構不真面目よ』


 掠れた声が車の音に掻き消されていく。


「じゃあ、また連絡しますね。もうバス来ちゃった」


『アイちゃんなら、いつでもオッケーだよ。待ってるね』


「うん。じゃあね」


 携帯閉じて腕を下ろす。吐く息が白く濁った。有楽町ビルディングの横にウィンカーを点けた車が停まっているのが見える。


 車のドアを開けると、ダウニーの洗剤のような匂いがした。家の匂いなのだろうか。瀬谷さんが屈むようにしてこちらを見上げた。 


「ごめんな。遅くなっちゃって」


「いいえ。何か用事があったんですか?」


「まぁ、昨日までのシステムにバグが出ちゃって。もう復旧したけどね」


「そうですか」


 ミラーに下がった交通安全のお守りが揺れた。シートベルトを引っ張る。


「もう三時か・・・・。今から行ったらちょうど夕日は見られるやろな」


「江ノ島って、誰かのお勧めなんですか?」


「会社の後輩のね。まぁ、正直あんま当てにならん奴やけど」


 シートベルトがお腹に食い込んでいる。スーツのボタンが三つ外されていた。後ろを見ながらハンドルを切る。


「ドライブはよく行くん?」


「ううん。免許持ってないので」


「そか。まぁ、都会に住んでたらそんな必要ないしな。あ、ミスチルかけていい?」


「あたしもミスチル好きですよ。『HANABI』とか『シーソーゲーム』とか・・・・・・」


「ホンマか。気い合うわ」


 小指で突いたように頬を凹ませた。Mr.Childrenの『フェイク』が流れる。


「でも・・・今日、来てもよかったん?」


「何で・・・?」


 バックのベルトを握る。COACHの柄が拠れていた。


「ほら・・・・編集者と約束あったんやろ?」


「うん。でも、すぐ終わったから」


 口の中が嘘で渇いた。


「そか」


 瀬谷さんの左手の薬指には真新しい指輪がはめられていた。日差しに反射して、車内に短い光を落としている。心が靄の中に押し込まれていく。


「瀬谷さんは、彼女とドライブよく行くんですか?」


「ん・・・・あぁ」


 ブレーキを踏んで、横断歩道を渡る自転車を通す。


「でも、車酔いする言うからな」


「そうですか」


「俺だけやな。色んなところ行きたがるの」


 何もなかったように答える。ミラー越しに、ドーナッツ型のクッションが見えた。上にアザラシのぬいぐるみが載っている。潰れた瞳が可愛らしかった。


「あ、途中ケツメイシも流れるから」


「・・・ケツメイシもいいですよね」


「アイポッド、曲ごちゃまぜに入れとんねん。何かかるか冷や冷やするわ」


「聞かれてまずいものもあるんですか?」


「んなもんあるわけないやろ・・・・・・・多分やけどな」


 一緒にいると嬉しい気持ちになった。哲と出会う前に瀬谷さんと出会っていて、瀬谷さんが彼女と出会う前に私と出会っていたら何か変わっていたのだろうか。形になることはなかった。合わない糸が理性に負けて緩やかに結ばれているだけなのだと思う。どんな時間も痕を残さずに流れ落ちていった。


 窓ガラスの景色が移り変わっていく。膝の上に載せた携帯が、貝塚さんの名前を表示して何回も振動していた。押さえ込むようにして握り締める。ケツメイシの話になると、徐々に大きくなっていく関西弁に消えていった。


 夕焼けが海の中に溶けていく。空と海との境界線がたぷたぷと揺れていた。薄い雲が明けていく。月がぽうっと浮かんで、周りの星が水を張っているように潤んでいた。哲はどう描くのだろう。遠くを見据える瞳が目に浮かぶようだった。キャンバスに描く哲の色彩を見てみたくなる。


 浜風が身体に突き刺さる。歩くたびにコートの裾を捲れた。


「いい景色やな」


「そうですね」


「都会の雑踏が嘘みたいやわ」


 夕日を背に、若い男の人が自転車にサーフボードを乗せているのが見えた。ハンドルに濡れたタオルが下がっている。


「こんな時期でもサーフィンするんですね」


「冬用のウェットスーツって温かいらしいで。それでも冬の海なんか入ろうとは思わんけどな」


「瀬谷さんサーフィンするんですか?」


「大学のとき一度だけやったことあるんやけど。泳げないから、浅瀬で死にかけたわ」


 手摺に身を乗り出す。短い前髪が浮き上がっていた。


「海ってやっぱり綺麗やな」


「あたしは地元が港町なので・・・こうゆう景色が懐かしいです」


「函館やったっけ?」


「そう」


「釧路か小樽なら行ったことあるんやけどな」


「前もその話しましたよ」


「そだっけ?」


 ミニチュアダックスを連れた老夫婦が後ろを通った。角を曲がろうとするバイクに吠えていた。


「そういや、静香さんは方言とかないんやな」


「いえ、そんなことないですよ。家では函館弁しか使わないです」


「そうなん・・・・・・・・・」


 口を噤む。。瀬谷さんのほうを見上げる。


「瀬谷さん」


「ん?」


「結婚するんですよね?」


「・・・・・」


 潮の香りが通り過ぎた。


「・・・・うん・・・・」


 浜辺に響き渡る。打ち寄せる波の音が聞こえなくなった。


「そう」


 肉付きのいい腕に身体を寄せる。ダウンコートの中から熱が伝わってきた。背伸びをするようにしてお腹に手を置く。瀬谷さんは動かなかった。風に靡く髪を避ける。目を閉じて、唇を重ねた。手が滑り落ちるようにして腰に触れた。


「あたしもね、結婚してるんですよ」


「・・・・・・」


「もう少し一緒にいたいけど・・・・・・・」


 声が上ずった。目を逸らしながら、腕に力が走ったのがわかった。


「・・・・・・」


「今日だけ。最後だから」


「ぁ・・・・」


 幻想の中に包まれていく。寂しさを埋めるためだったとしても、瀬谷さんに対する想いは確かに感じられた。ぽかぽかと覆っていく体温が、心の冷えた部分を温めていた。


 いけないのだと思う。軋んだ心に我を忘れてしまいそうだった。引き摺り込むように、人の幸せを奪おうとしてしまう。


 鏡台の上に時計と指輪が置いてある。湿った唇から喘ぎ声が漏れた。足元にベッドのシーツが溜まっている。暗くなった窓が海を撫でる風に震えていた。


 とろけるような舌を絡める。赤くなった表情がスタンドライトに照らされていた。熱い息の中で、太ももが硬いものに触れた。ブラジャーのホックが外されて、流されるようにベッドに倒れていく。


 言葉はなかった。強引な腕に身を委ねる。肉体を寄せ合っても満たされないのは、どこかで罪悪感があるからなのだろうか。背中に手を回す。綿飴のように掴みどころのなかったものが形を成していた。不思議な感じがした。


 首筋に汗が滲んでいく。肉厚のある手のひらが乳首に触れた。


「ん・・・・・」


 塞ぐように唇を押し付ける。布団が床に落ちていった。指が太股を伝うようにして下へ伸びていく。


 巻きついた腕から動悸が伝わってきた。真新しい蛍光灯が歪んで見える。夜が刻々と深くなっていった。唇が胸に触れる。瞬間の高鳴りが理性を破っていった。


 指の腹が吸い付く。私のそこを弄るようにして、徐々に奥のほうまで入り込んでいった。目を閉じて、夜の音に耳を澄ませる。


「・・・入れていい?」


 手の中で動いた。首を縦に振る。


 シーツを握り締めた。ベッドライトが乳房を赤く焼き付ける。男の人の身体が自分の中に入ってきた。熱くなった。


「・・タッ・・・・・」


「あ、ごめん」


 はっとして抜いた。脈がどくどくと流れていた。


「ううん」


 突っ張った腕に手を添える。


「・・・・・・」


「して・・・・・」


 声が溶けていく。ベッドのバネが鈍い音を立てていた。全身に痛みが走る。肉体が瀬谷さんの重みを受け止めていた。やり切れない想いが交錯する。痛みがいつの間にか気持ちよさに変わっていた。


 抱かれているにも関わらず、じわじわと寂しさが込み上げていた。何かがずれて噛み合っていた。なぜだろう。形になった瞬間から崩れていくものを感じていた。 




 ドアから差し込む光が、玄関に細長い影を伸ばした。ブーツを揃えて玄関に上がる。ショーツの中にじんじんとした違和感があった。身体には、まだ揉まれた感覚が残っている。


 ホテルを離れた後は、時間が遅く流れているようだった。ぎこちない話し声を聞きながら、朝日のこぼれた海を見つめていた。窓越しに見る瀬谷さんは、低い鼻を赤くしたままこちらを向くことはなかった。


 指輪をはめて部屋の前に立つ。水を被るように血の気が引いていった。ずっと起きていたのだろうか。哲がソファーに座ってキャンバスを眺めていた。肩からバックがずり落ちる。


 壁に手を当てた。部屋の温もりに包まれていく。


 暗い背景に浮かび上がる女性が、静寂の中に明るさを灯していた。白い衣装を身に纏って台座に腰を下ろしている。雪のような美しさだった。絵の中にいて触ることのできない神聖さを感じた。 


「おかえり」


「・・・あ・・・・・ただいま」


 最後に言葉を交わしたのはいつだっただろう。久しぶりに哲の声を聞いた気がした。


「遅かったね」


「うん・・・・」


 目を逸らす。哲に何か勘付かれるのが怖かった。


「絵・・・・」


「そう、完成したんだ」


「そう」


 今まで描いたどんな作品よりも尊いものを感じられた。研ぎ澄まされた空間に立ち尽くす。コップから水か溢れ出すように、キャンバスから感性が漏れ出していた。鐘を鳴らすように心を震わせる。哲の目には何が見えているのだろう。足元がぐらつくような心地がした。


「・・・すごいね・・・」


「ありがとう」


 バックを手から下ろした。哲がちらっとこちらを見る。


「これをサイトのトップ画像にしようと思ってるんだ」


「え?」


「・・・・絵のサイト作ってもらったから・・・・」


 顔を背けた。


「・・・・これを?」


「うん」


「・・・・そう・・・・・」


 パソコンの画面から見てこの絵の良さが伝わるのかわからなかった。哲の持つ優美な曲線はキャンバスからしか伝わらない気がした。


 踵を引き摺るようにして一歩下がった。間近で見たかったが、できなかった。朝帰りにも関わらず、タバコの匂いがしないコートが不自然だった。髪は肩にさらさらと垂れて、胸元からはローズの香りがした。全身が罪で覆われているような気がした。


「百合の花、綺麗でしょ」


 ほっそりした指を百合に向ける。


「ん・・・・うん」


「翔が絵のイメージに合うって買ってきてくれたんだ」


「そうなの」


「早く完成した絵を見せたいよ」


 目を細める。哲は私のことを何とも思わないのだろうか。水商売をしていることも、浮気をしていることも、朝帰りしたことも、何も思わないのだろうか。なぜ、激情のままに問い詰めないのだろう。裏切られたって怒らないのだろう。感情に触れることができないなら、愛されていないのと同じだった。 


 キャンバスの後ろに隠れた百合が、花瓶に凭れているように見える。鬱々とした死の淵を眺めているようだった。時間の流れに逆らえない憂色が滲み出ていた。


 残った野菜炒めにサランラップを掛ける。マーガリンを避けて皿を入れた。冷蔵庫の食料が少なくなっていた。明日、卵とベーコンを買い足しておこうと思った。絵を描き終えて安心したのだろうか。最近は哲も作り置きしたものを食べているようだった。


 カーテンを開ける。どんよりした雲から、雪がちらついていているのが見えた。弱々しく舞い上がり、ベランダの手摺にあたって消えていく。マフラーに帽子を被った学生が出て行くのが見えた。自転車の籠に入った紙袋が破れかけていた。哲は早朝からどこかへ出掛けたようだった。マフラーを巻いて行っただろうか。外が寒そうだった。


 瀬谷さんからメールが来ることはなかった。ベランダに出したゴミ袋から肉まんの入っていた袋が見える。濡れていた心が乾いていくのを感じていた。身体の奥のほうに棘が刺さったような痛みが残っている。


 明日はミルナイトの出勤日だった。クリーニングに出していたドレスを取りに行かなければいけない。何かが変わったようで、何も変わっていなかった。いつ辞めてもいいと思っていたが、瀬谷さんとの関係が切れた今になっても、言い出せないままずるずると出勤していた。


 窓に付いた指紋を拭う。カーテンの裾が足の甲に掛かった。


 哲は何も触れなかった。距離を置くわけでもなく、縮めるわけでもない。絵が描き終わっても、変わらずソファーで寝ていた。瀬谷さんの身体の感覚が、全身に纏わりついていた。ベッドに横になるたびに、どす黒い感情の波が押し寄せた。


 廊下からキャンバスを眺める。花瓶に付いた水滴が潤んでいるように見えた。スリッパを脱いで新聞紙の上に上がる。携帯の着信音が鳴った。固定器からの番号が表示されていた。


『古河さん? 花木だけど』


「あ・・・・お久しぶりです」


『急にごめんね』


 花木さんからだった。グラスと皿を食器棚に入れる。


「どうしたんですか?」


『突然でごめんね・・・旦那さんのことなんだけど』


「あぁ・・・・前言ってた雑誌の話ですか?」


『いや・・・・・』


 社内にいるのだろうか。後ろから男性の話し声が聞こえていた。


『知らないの? まぁそうだよね』


「え?」


『今日から旦那さん、サイトのトップ画像に女性の絵を上げたでしょ?』


「はい。今、ちょうどその絵の前にいますよ」


 絵の女性が落ち着いた時間の中で、片付いていない筆とパレットを見つめていた。


『その絵、盗作だって』


「ん・・・・・」


 濁った空気が喉に引っ掛かった。食器の角に爪が触れる。


「何のことですか?」


『その絵、ちょっと前に都内のK美術館のアマチュアスペースに展示されていたものなんだって。全く無名の画家だけどね』


「何かの間違いですよ。この絵は」


『言いにくいけど、それはないよ』


「・・・・・・・・・・・」


 携帯を頬に押さえつける。嫌な予感が過った。


「そんなはずはないです」


『いや・・・・』


「これは哲の絵ですよ。私は絵ができていく様子をずっと見てたんですよ」


『信じたい気持はわかるけどさ。偶然あんなにそっくりになるなんてないよ』


「だって・・・・・」


『形も色使いそのまんまだよ。まぁ、展示されていた絵のほうが少しはっきりした色だったかな。もうネット上ではニュースに上がってるし、旦那さんのホームページは閉鎖しちゃったみたいだけどね』


「そんな・・・・・」


 血が逆流しそうだった。何かの間違いでも許せなかった。


「絶対にあり得ないです」


『とりあえず、旦那さん、家にいるの? ちょっと話聞きたいんだけど』


「今日はもう出掛けました」


『そう』


 息を落とした。ペンをカチカチ鳴らす音が聞こえた。


『じゃあ、なんかあったら』


「なんて言う名前の画家ですか?」


『ん?』


「・・・・・・その似ている絵を描いた画家・・・・・」


 ソファーに掛かった毛布の毛玉を毟る。SHIPSのパーカーが畳んで脇に置いてあった。


『植月翔だったかな』


 心が消えていく。闇が唸るのを感じた。


 パソコンを閉じて、埃に塗れた電源を抜いた。悪い夢を見ているようだった。少し検索しただけでも、哲の絵が矢のごとく中傷されていた。日の目を見ることなく落ちぶれていった人の感情も巻き付いているのだろう。顔の見えない人の増大な言葉が、入道雲のように膨らんで恐ろしいものに見えていた。


 今まで人物画を描いたことがなかったことも疑われる要因になったらしい。頭がぐらぐらした。絵を描いただけなのに、なぜこんなにも批判を買うのだろう。哲がどんな悪いことをしたのだろう。心の置き場が見つからなかった。


 カーディガンに袖を通す。足を引きずるようにして廊下を歩いた。


「・・・哲・・」


 ソファーに背を凭れていた。抜け殻のようだった。


「ん・・・」


 夕焼けがカーテンの下から滑り込む。ペインティングナイフがぎらりと輝いた。


 床を踏みしめる。新聞紙の破れる音が聞こえた。どんな言葉をかけたらいいのかわからなかった。生気をなくした横顔を見つめる。雨に濡れるような心地がした。


「・・・・・・あ・・・」


「何も言わないで」


「・・・・・」


 仄かな哀愁に包まれていた。気を抜いたら、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。


「佐野さんから聞いてるから」


「・・・・・・」


「もう、サイトも閉鎖してもらった」


「・・・植月さんは?」


「・・・・・連絡取れなくなった。音信不通だよ」


 百合の花が飾られていた花瓶は、透明なまま台の上に置かれている。絵の女性が変わらない表情で固められていた。腕の皮膚を抓る。怒りで美しささえわからなくなった。


「夢、見てるみたいだよ」


「・・・・・・・・」


「この絵、そのまま真似できるって言ったら、翔しかいないんだよな」


「・・・・・・・・・」 


 植月さんが哲のことを妬んでいるのは知っていた。でも、この絵だけは奪ってはいけなかった。精神の全てを捧げて描いたものだった。植月さんもわかっているはずだった。哲のことを親友だとは思っていなかったのだろうか。最初から裏切るつもりで見ていたのだろうか。


「怒らないの?」


 感情が高ぶった。


「怒ってるよ」


「じゃあ、もっと・・・・・・」


 吸い込んだ息を言葉にできなかった。爪の痕を摩る。


「・・・・何でだろうな。まだ信じられないんだ」


「・・・・・」


 長い瞬きをする。指先がスケッチブックの角に触れていた。


「いつからなんだろう」


 声が細く切れそうだった。


「何かの間違いだって思いたいよ」


「・・・こんなの、ひどいよ・・・・・。花木さんに本当のことを言えば何とかして」


「もう・・・いいんだ」


「だって・・・」


「あいつが俺のこと妬んでるのは知ってたんだよ」


 花が落ちていくようだった。汚れた自分には支える力もなかった。


「だから、もういいんだ」


 イーゼルの下にスケッチブックの紙が揃えて置いてある。女性のデッサン画が何枚も重なっていた。


 涙が頬を伝っていく。溢れ出して止まらなかった。哲の背中がぼやけていく。声を漏らさないようにしながら、手で目元を押さえた。指輪を包み込むように濡れていった。 


 世の中に神様はいないと思う。もしいるなら、純粋な想いで描いてきた絵をこんな形で世に出すことはしなかっただろう。美しいものに心を映して表現することが、人の裏切りを経験するような罪に値するものだったのだろうか。絵を出す場所を奪われるほどのことだったのだろうか。哲のことを思うと、胸が打ち付けられるようだった。心に刃を突き刺すなら、なぜ自分ではなく、哲を選ぶのだろう。


 花木さんから何回か着信があった。お客さんからもミルナイトからもメールもあったが、返信する気にはなれなかった。閉鎖された空間の中から一歩も動きたくないと思う。何もできなかったが、哲のそばを離れたくなかった。


 盗作の疑惑を掛けられてから三日経っていた。縁をぼかしているような、霞んだ時間が流れていく。哲の携帯も何度か鳴っていたが、ただテーブルの上で音を立てていただけだった。もしかしたら植月さんからの着信もあったのかもしれないが、誰とも連絡を取っていないように見えた。


 窓の縁に付いた結露を拭う。壁に立て掛けているキャンバスに、小さな影ができていた。哲は凝然と目を開けたまま、一日中絵の前から離れなかった。近くに居てもどこか遠くにいるようで、落ち着かなかった。


「哲、たまには外の空気吸ってきたら?」


「あぁ・・・・・・・・」


 ソファーに座って、スケッチブックを捲っていた。


「今日は天気いいし」


「・・・・・・・・」


「しばらく外に出てないでしょ?」


 カーテンのベルトを握る。窓に指紋の跡が付いた。


「いいや・・・・・あまり体調良くないから」


「そっか」


「静香は? 小説書かないの」


「・・・・後で書こうかな」


「書いたら読ませてね」


「・・・・うん」


「静香の小説は、感性を穏やかにする」


 心が潤っていくのを感じた。


「そう・・・・・・最近・・・・全然小説のこと話してなかったね」


「あぁ」


「今度まとめて話すよ」


 こちらに背を向けたまま頷いた。いつも通り振舞おうとする姿が、パズルのピースが浮き上がっていくように不自然だった。


 窓越しに哲の腕を見つめる。小説を全く書いていないことを伝えることができなかった。今は、哲の前で取り繕える程度の文章さえ書ければいいと思う。


「花瓶、片付けといて。もう使わないから」


「・・・・・うん・・・・・」


 植月さんは、本当に絵を盗作したのだろうか。まだ信じられずにいた。せめて、別の人のことだと信じたかった。夢と現実の境目が移ろうようにゆらゆらしていて、事実を上手く受け止められなかった。


 ベッドの上で携帯が光っている。視線を落とした。


「はい」


 胃の奥が熱くなる。噛んだ唇から微かに血の味がした。


『植月だけど・・・・・』


「・・・・・・・・・・・・・・」


『静香さん?』


「うん・・・・・」


 ドアを閉めて、声を落とす。狼狽した。


「・・・・植月さんなんですか?」


『うん』


「ううん、哲の絵を盗作したのが・・・・」


 部屋の暗がりがとぐろを巻いているようだった。角から闇が流れ落ちていく。


『・・・・あぁ・・・』


「・・・・・・」


 会話の間が長く感じられた。息を吐くのも痛かった。


「どうして、今まで何してたんですか?」 


『・・・話したいことがあるんだけど、今から錦糸町の駅前のカフェに来れる?』


「・・・・・な」


『静香さんには一応、本当のことを言っておこうと思って』


 言葉を遮った。声が乾ききっているように聞こえた。


「・・・・・・・・」


『俺、もう家に行かないから』 


 荒波に飲まれていく。携帯をバックの底に入れた。毒を飲んだように、胃がぎりぎりと疼いていた。自分の心の奥にある汚い感情まで引き摺り出されそうになるからだろうか。コートのくるみボタンを閉めていく。震える指を押さえつけた。




 部屋の前に立つと、天井が高く思えた。イーゼルの位置が少し離れたからなのだろうか。空気が澄んでいるからだろうか。


「哲、ちょっと出掛けてくるね」


 痩せこけた頬に影ができていた。組んでいた手を膝に載せる。重たい身体を起こすようにして、ゆっくりとこちらに顔を向けた。 


「・・・・どこ行くの?」


 絵の中の女性にカーテンから漏れた光が差し込んでいた。たおやかな衣服を揺らして、哲の影を包み込んでいるようだった。


「ちょっと・・・・買い物に」


「そっか」


 片膝を曲げて、ソファーの背凭れにしがみ付いた。よろめいたようだった。


「大丈夫?」


「うん。ここ数日あんまり食べてないから・・・」


「・・・・・・・冷蔵庫にゼリーとかあるから、ちゃんと食べてね。七時くらいまでには帰ってくるから」


「・・・・・・・・・あぁ・・・・」


 冷気が立ち込める雰囲気に、近寄ることができなかった。ドアの取手に指を置く。


「何か食べたいものある?」


「特に・・・・」


「そっか。じゃあ、適当に買ってくるさね」


「うん」


 マフラーを緩めて、ドアを押した。


「あ・・・・・静香」


 背中から声が聞こえた。


「ありがとう」


「・・・え・・・・・」


「・・・・・・・・」


 逆光が首筋を滑り降りていく。目尻に透き通った線が伸びていった。久しぶりに笑った顔を見た気がした。息を呑む。綺麗だと思った。光に溶けるようにして、このまま消えてしまいそうだった。 


 車の通りが多くなる。スーパーから魚の生臭い匂いがした。買い物袋を下げた年配の女性が袋に入った鮭を注文している。部活帰りの高校生がマクドナルドの前の電信柱に自転車を停めていた。カフェと書かれた看板の角を曲がって階段を上っていく。懐かしいと思う。昔、三人でここに寄ったときは、哲が財布を忘れて植月さんが二人分奢ってくれた。


「いらっしゃいませ」


「・・・もう先に来てると思うんですけど」


 手袋を脱いで、コートのポケットに入れた。


「お待ち合わせですね。あちらになります」


 窓際の席に植月さんが座っていた。動悸で胸が押しつぶされそうだった。


「あ・・・・・」


「どうぞ」


「植月さん」


 顔を上げて目線を逸らす。


「どうして・・・本当なんですか?」


「・・・・・とりあえず、何か頼む?」


「・・・アイスティーで・・・・」


 植月さんが店員を呼んでいた。漏れそうな息を殺して、コートを畳んでバックの上に載せる。店内には穏やかなピアノの音が流れていた。


「話したいことって何ですか?」


「・・・・絵のことを話そうと思って・・・・」


 コーヒーを一口飲んだ。


「どうゆうことなんですか?」


「・・・・・・・・・」


 メニューを閉じて端に置く。叫びたい気持ちが込み上げていた。


「哲の絵を描いて、K美術館に展示してもらったのは事実だよ。哲が発表する前に出さなきゃいけなかったから、そっくりそのままってわけにはいかなかったけど」


「どうしてそんなことを」


「単純だよ。哲の絵が羨ましかったんだ」


「うちに来たのも、最初から盗作するつもりだったんですか?」


「いや、最初は純粋に絵を見たかっただけだよ」


 窓に映った表情が霞んでいくようだった。空ろな目つきが徐々に鋭くなっていく。


「じゃあ、いつから」


「哲と俺は昔から一緒に絵を描いてきた。静香さんと出会うずっと前から。最初俺は哲が評価されても、たまたまだろうと思ってた。でも、次々に新しい作品を出して、その度に注目する人が現れるようになった」


「でも、哲は植月さんのこともすごいって・・・・・」


「哲以外の人は何も思わなかったよ。個性がないって」


 店員が目の前にアイスティーを置いた。


「何を描いても注目されることはなかった。一年かけて構想を練った連作の絵も二週間大学で飾られただけ。だから、普通に就職する道しかなかった」


 思い出話をする哲の表情が浮かんでいた。ずっと、すれ違っていたのだろうか。


「羨ましくて仕方がなかったよ。何を描いても素晴らしいものを作り上げる、尽きることない感性が・・・・」


「・・・・・・・・・・・・」


「哲が絵を描くよう誘ってくる度に、恨みにも似た嫉妬心が込み上げるようになっていたんだ。自分でも抑えが利かないほどね」


「だからって・・・・・」


「・・・・もちろん、親友だと思ってる。矛盾してるっていうのはわかってるよ、俺があいつにしたことも・・・・・・」


 自嘲するようだった。グラスに口を付ける。


「ちゃんと話せば、哲だって植月さんの気持ちを理解したと思います」


「言えると思う? 哲の前でこんな醜い感情を」


「それは・・・・・・」


「言ったところでどうにもならないよ。あいつは俺と違って同じ感情を持ったことがないんだから」


「・・・・・」


 俯いて、ガムシロップの蓋を見つめた。


「あの絵を見ているうちに、衝動を抑えられなくなった。哲の作品を自分のものにしたくなってしまったんだよ」


「何であたしにそんなこと話すんですか・・・・・・?」


 爪が手の甲に食い込んだ。


「・・・・・・」


「このまま聞かないほうがよかった・・・・・聞かなければ、間違いかもしれないって・・・」


「静香さんならわかるでしょ? 俺の気持ち」


 ソーサーに手を載せる。顔が熱くなっていった。


「・・・・」


 細々とした息を絞りだす。


「・・・・三人で飲みに行ったときも・・・・哲のこと恨んでたんですか?」


「・・・・」


「あのときも本当は・・・・」


 テーブルの上で手を組む。腕の血管が浮き出ていた。


「あぁ・・・ずっと、妬んでたよ。自分もあの才能と名声が欲しかった」


 目から魂が消えていく。


「正直、後悔はしていないよ。やっぱり哲はすごいね。この数日間でオファーも入ってくるようになったよ。美術商の人からは、前自分が描いた絵もいいって言われたんだ」


 屈折した光に心の内を晒し出していた。ストローを潰した。


「哲が絵を描く場所を与えてくれたんだよ」


 ガムシロップが氷の表面を伝っていく。コースターをずらした。


 手に入っていた力が抜けていく。植月さんが、欲望に引きずり込まれているのを感じていた。奥歯を噛みしめる。心を取り残して、虚無の底を漂っているようだった。


「運は掴み取るもんなんだなって思う。どんな手を使っても」


「・・・・・・」


「哲には悪いけどね。俺だって芸術で認められたいんだ」


「でも、あの絵は大事なものだったんです」 


 植月さんが目を背けるようにして頷く。


「何でよりによってあの絵を」


「あの絵からだよ」


「まだ、哲は絵の前に座っているんですよ・・・・」


 グラスに両手を添える。植月さんの口が小さく動いた。


「あの絵・・・・本当は・・・・・・・・・・・・・・・」


「・・・・・・・」


 テーブルの木目を見つめていた。植月さんの声が遠ざかっていく。血走った眼付で自分を正当化しようとする植月さんを、哲の目に晒すことはできない。真実を伝えることはできないと思った。 


 深くまで刺さってしまった槍を、どうすれば抜くことができるのだろう。流れ出していく血を留める方法が見つからなかった。哲の痛みを分け合うことさえできない。目の前にいる植月さんに怒りをぶつけても、空しくなるばかりだった。


 哲は何を考えているのだろう。どんなに時間が経っても、絵を描くことができないような気がした。潰れた筆と染みついたイーゼルに囲まれて、どうやって過ごせば痛みが引いていくのだろう。




 廊下の電気をつける。寝ているのだろうか。フローリングが薄暗い夕日で濡れている。SEIYUのビニール袋を置いて、哲の部屋のドアを開けた。


「ただいま」


 マフラーを解いてバックの中に入れる。


「今日休日だから、SEIYUすごく混んでて・・・・・遅くなっちゃった」


 ドアの金具の音が響く。コートの袖を掴む。


「・・・・一応、焼肉弁当買ってきたけど食べ・・・・・」


 オレンジの光が途切れていく。バックを落とした。防腐剤の瓶がイーゼルの下に転がっていた。


「・・・・・哲・・・・?」


 目を閉じて、ソファーの端に凭れていた。口から一筋の血が流れている。


 床を確認しながら、ソファーへ近づいていく。膝を落とした。体温はなく、彫刻のように冷たくなっていた。描き疲れて、寝ているような表情だった。キャンバスの女性が安らかな笑みを浮かべたまま沈黙している。哲を見つめているようだった。


 凍えた空気が身体に入っていく。混沌とした色がパレットに広がっていた。身体を起こすと、溶き油のビンが傾いた。蓋が外れて、油が掌を伝っていく。




 ソファーに座って、哲の身体を抱き寄せる。肉のない足がソファーから落ちた。羽を掴むように軽くなっていた。額を撫でても、瞼も口も動かなくなっていた。


 心が水になって哲の頬を流れていく。夕日が身体を覆っていった。荒れた手を下ろして、静けさに時間を委ねていた。

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― 新着の感想 ―
静香と植木さんは似ているんだろうなと感じて拝読していました。 一方で、静香と哲はそれぞれの孤独を持ちながら作品に臨んでいるんだなと思って拝読していました。 哲は稼ぎの面で静香に苦労かけているからと…
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