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白い一滴  作者: ゆき


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白の一滴 前

 赤ワインが注がれていく。グラスの底がバラ色に染まっていった。ボトルの口に残ったワインをナプキンで拭い、灰皿の向こう側に置く。暗いライトに照らされて、『O-S Winery R3』のラベルが鈍い光を放っていた。


「アイちゃんお酒強いほうだっけ?」


「全然ですよ。高沢さんの席じゃなきゃ飲めないです」


「うまいね」


 額に汗を滲ませて、ワインを飲み干した。吸いかけのタバコが細い煙を出している。


「お仕事はうまくいってるんですか?」


「それがさぁ・・・」


 白髪交じりの眉を顰めた。ラメを伸ばした爪をグラスに添える。


「部長が大阪から戻ってきてから、うまく回らなくなっちゃって」


「へぇ」


 底に溜まったワインが赤い円を描く。


「部長さんは厳しい方なんですか?」


「厳しいっつうか、的を得てないっていうか」


「大変なんですね」


 皮の厚い指でタバコを摘む。先月から担当になった編集者のことが浮かんできた。


「アイさん」


 ボーイの太一さんが引き抜きの合図をした。


「え、もう行っちゃうの?」


「すみません、呼ばれちゃって。すぐ戻ってきますね」


「すぐね。すぐ」


「はい」


 名刺をグラスに載せた。水色のドレスが流れる。裾を押さえるようにして席を立った。


「アイちゃん、トイレとか行かなくて大丈夫?」


 店長が後ろから声をかけてきた。細い体に合わせて仕立てられたスーツが、シャンデリアのライトに照らされて一層光沢を帯びていた。


「じゃあ、行ってきます」


「いいお客さんついたね。高沢さん」


「そうですね。今度六本木のフランス料理に連れて行ってくれるって」


 高沢さんの席に三日前に入ったばかりのアリサちゃんが付いていた。薄いカーテン越しに、上機嫌にワインを勧めている高沢さんが見える。


「ちゃんとその後、お店連れて来てよ」


「わかってますよ」


 更衣室のドアを開ける。鏡越しに、アカネちゃんと目が合った。紫のアイシャドウが妖艶な艶を出していた。


「お疲れ」


「お疲れ。今日は九時半入り?」


「そう。同伴流れちゃった」


 じゃらじゃらと付けたストラップを避けて、メールを打っていた。


「アイちゃんは同伴?」


「ううん。今日は指名」


「いいな、高沢さん。優しいもんね」


 首もとのスパンコールが髪に触れる。ポーチを開いて、ティッシュとアナスイの口紅を取り出した。右手の薬指にはめた指輪がきらっと光った。


「この仕事、旦那さん心配しない?」


「多分、全然」


 パレットと筆を持つ哲の表情を思い浮かべた。心配するというよりも、気にしていないようだった。


「頑張っておいでって感じ」


「へぇ、寛大だね」


 ティッシュで唇を拭いて、口紅を引く。小指ではみ出した部分を拭った。


「まぁね」


 タイムカードの時計が九時半を表示していた。そろそろ哲が部屋から出てくる頃だろう。テーブルに昨日の残り物の肉じゃがとご飯を置いておいたが、ちゃんとレンジで温めてから食べただろうか。


「信頼されてるんだね」


 黒く縁取られた目をこちらに向ける。


「そうかな。変わってる人だからね」


 ポーチのポケットに口紅をしまう。奥のほうで、アイライナーとビューラーが引っかかっていた。


「画家だっけ?」


「そ」


 唇を硬く閉じた。黒光りするドレスに触れないようにしながら、逃げるようにドアを開ける。ここで哲の話をするのは気が進まなかった。


 グラスを置いて、背凭れに寄り掛かる。ぞろぞろと団体のお客さんが向かい側の席に座った。前の二人はハナちゃん指名で入ってきたらしく、何度か見たことのある顔だった。


 高沢さんの話に小まめに頷く。六本木近くでダイニングバーの店長と飲んだ時の話をしていたが、お酒が入っているからか、あまり話が読めなかった。頭の中がスポンジみたいになっていた。


 ふと、顔をあげる。若いスーツ姿の男の人が、風船のような体型を小さくするようにして座っていた。私と同じくらいの年齢だろうか。膨れたお腹がベルトに乗っかって、スライムのようにはみ出している。会社の先輩らしき人をちらちらと見ながら、居心地悪そうにネクタイを緩めていた。


「ねぇ、アイちゃん、聞いてる?」


「はい」


 灰皿を取り替えて、高沢さんの手元に差し出す。グラスが指輪に触れた。


「ちょっと酔ってるね」


「わかりました?」


「珍しいね。アイちゃんが酔うなんて」


「高沢さんと久しぶりに会ったら緊張しちゃって」


 小さく波打つワインを口の中に流す。シャンデリアが何層にも輪を作っているように見えた。


「え、無理しなくていいよ」


「いいえ。飲みたい気分なので」


 ワインクーラーからボトルを持ち上げる。底に当てたナプキンが窪んだ。


「まだ、ちょっと残ってるし」


「大丈夫?」


「はい。今日は気分がいいので」


 うっすらと残った赤ワインを注ぎ足す。お酒が身体中を流れているようだった。お腹から浮いているような心地がする。指先まで熱くなっていた。


 グラスの中にため息をついた。縁が白く曇っていく。帰りはちょっと外で酔いを覚まそうと思った。お酒とタバコの匂いが身体中に染み付いていた。


「ただいま」


 閉め切ったドアの下から光が漏れていた。玄関の電気を付ける。物音ひとつ聞こえなかった。まだ、絵を描いているのだろうか。


 ドアを開ける。フローリングに敷かれた新聞紙が擦り切れる音がした。


「おかえり」


 丸椅子に座ってキャンバスを眺めていた。手の甲には黒い絵の具が飛び散っている。


「どう? 次の展覧会に出す作品は出来上がりそう?」


「う・・ん・・・」


 哲のそばに寄る。絵の具の匂いが鼻を突いた。仕事で絡みついたお酒の匂いも紛れていくようだった。


 雪の中にぼんやりと浮かぶ月が描かれていた。明りは幾重にも広がり、幻想的な雰囲気を出していた。控え目に降り注ぐ雪が月を引き立てる。風に揺れる木は絵に時間を与えているようだった。


「・・・まだかな。なんか足りない」


 眉間に皺を寄せて、腕を組んだ。捲りあげた袖がすっと落ちていく。


「そう?」


「あぁ」


 刃のような目つきを向けていた。この目には、世界がどのように見えているのだろう。哲が創りだす色を眺めていると、甘い香りの染みついた服が異次元の世界のもののように思えた。


 ソファーに座って、肩からバックを降ろす。ドアの隙間から、食卓テーブルの籠に入れていたバナナが一本になっているのが見えた。


「静香はどうなの?」


「今日も相変わらずだよ」


 バックからヘアーブラシを取り出す。


「いや、小説のほう」


 不自然に盛られた髪をとかしていた。安いブラシに絡まる髪の毛が痛かった。


「小説ね」


「そ」


「進まないさ。なかなか」


 髪の毛をティッシュに載せる。


「次の展開?」


 哲が横に座った。爪の間が絵の具で黒くなっていた。


「うん。編集者からも、何回も駄目出しされたっさ。何が悪いんだろ」


「そうなの?」


「もう・・わや」


 蛍光灯に照らされたキャンバスを横目に伸びをした。


「今って、東條と桜が出会うところだよね?」


「そう。いいシーンが浮かぶんだけどな」


 瞼を閉じる。呼吸が静まっていくのを感じた。


「どうゆう展開なの?」


「大学の卒業旅行に北海道の函館に旅行に行って…」


「函館か」


「そう。湯の川温泉に泊まって、帰り道に東條と出会うさ」


 函館は高校の時まで住んでいたので、思い出を辿るようで書きやすかった。


「いいね。海と雪か」


 華奢な肩に頭を凭れる。服に染み付いた油絵の具の匂いが心地良い。


「港町を駆け抜ける潮風、冷たい風に透き通る夜空、波間に揺れる月明かり」


「俺も行ってみたいな」


 髪の毛をとかすように指が流れていく。


「いつかね」


 結婚して三年になる。哲は画家として細々とした収入を得ていて、時折母校で非常勤講師として大学生に絵画を教えていた。収入は安定していなかったので、私が週三回程度、錦糸町のクラブでアルバイトをしていた。


 小説家としての収入はほとんどなかった。一昨年の八月、大学教授の知り合いで、編集者を紹介してもらった。教授は「絶対に売れる」と豪語してくれたが、編集者に出してみると誰もいいとは言わなかった。教授の顔に泥を塗ってしまったようで、顔を合わせることができなかった。いい作品を書こうと一日中書き続けることもあったが、力が入れば入るほど何も思いつかなかった。本当はクラブで働きたくなかったが、自分が普通のОLになれるとも思えなかった。


「明日は大学だっけ?」


「あぁ、三限目からだけど」


「したら、朝ゆっくりできるっけね」


 繊細な手に指を添える。若葉のようにひんやりとしていた。


「でも、植月さんとの待ち合わせ六時だけど間に合うの?」


「ちょっと遅れるかも。先飲んでて」


「何食べたいとかある?」


「焼き鳥とか、おいしいとこ」


「また?」


「なんか無性に食べたい」


 哲から離れて立ち上がった。右肩に流れていた熱が冷めていく。


「お風呂入ってくる」


「あ、俺寝てるかもしれないから」


 ソファーからちょこんと顔を出す。


「入らないの?」


「もう入った」


 あくびをしながらソファーに寝転がった。疲れたのだろう。絵を描き終わった後は、張り巡らせている糸が切れたようにぐったりしていた。私も小説を書いた後は同じようになった。徹夜でパソコンに向かっていた時は、次の日は一日中布団から出られなかった。違うところは、哲には自分の絵を求めてくれる人がいることだった。


 携帯を握り締めて横断歩道を渡る。帰宅する人と時間がかぶってしまったせいか、渋谷の駅前には人だかりができていた。マツモトキヨシの前では、テンションの高い店員が新しいファンデーションの宣伝をしていた。


 シャンプーとコンディショナーのコーナーで立ち止まる。普段クラブのヘアメイクでアイロンやコテを使っているので、痛んだ髪用と書いてあるとどうしても目が行ってしまう。香りのテスターに触れた。


「静香さん。久しぶり」


 植月さんが肩を叩いた。右腕にスーツのジャケットがかかっている。


「久しぶりです」


「あれ? 哲は?」


「今日は大学に行くらしいから、少し遅れます。先に初めてって」


 携帯をスカートのポケットに入れた。ストラップの糸が指に絡まった。


「相変わらずだな」


「すみません」


「いやいや」


 角張ったビジネスバックを後ろにやる。取手の皮が少し擦り切れていた。


「で、何食べたいって言ってた?」


「焼き鳥とかって」


「じゃあ、いつものところにしよっか」


 哲と植月さんは高校時代からの親友だった。二人とも同じ絵画教室に通っていて、学校のない日は、自転車で神社や寺を巡っていたらしい。予備校も同じだったが、哲は植月さんよりも断然成績が低く、それをバスケ部に所属していたからだと言い訳していた。どちらかというと、植月さんのほうがお兄さんという感じだった。


 哲のことを知っている分、二十七歳の時、五歳年下の私と籍を入れること告げられると、普段出さない大声を張り上げて猛反対したらしい。あまりにも煩いので、カフェの店員に注意されたと言っていた。結婚してからも一年間音信普通になっていたと、今になって笑いながら話していた。植月さんも大学のときまで油絵を描いていたので、芸術家として危ない橋を渡りながら学生の私と結婚することがなかなか理解できなかったのだろう。


 結婚してからはよく三人で飲みに行くようになった。最初は近寄りがたい雰囲気だったが、芸術や小説の話をすると、昔ながらの仲間であるかのようにすぐに溶け込んだ。今は都内で銀行員として勤めているが、度々哲の部屋を覗きに来ていた。


「植月さん、また日に焼けましたか?」


「そう? 最近外回り多かったからかな」


 若い女の人が短い髪を掻き揚げながら、シャンプーを選んでいた。ほんのりとせっけんの香りがした。


「大変ですね」


「まぁ、仕事だからね」


「暑くなってきましたし」


「あ、北海道の人だもんね。夏きついでしょう」


「今にも倒れそうです」


 天井に掛かっているチラシを避けるのに首を屈ませていた。シャツの袖にアイロンの跡が残っている。


「静香さんは最近どう?」


「何がですか?」


「ほら、小説とか」


 もわっとした湿気に包まれる。交差点の真上に浮かぶ雲が、今にも雨を降らせそうだった。


「半年後に新刊出せそうなの?」


「ううん」


「え?」


「スランプ中です。その話も流れそうなくらいです」


「・・・そっか」


 短い髭の生えた顎を摩る。空気を吸い込んだまま、言葉を選んでいるようだった。


「まぁ・・・」


「それは、お店入ったらゆっくり話しますよ」


 信号が赤になる。HMVの電光掲示板で、AKB48の「ポニーテールとシュシュ」が流れていた。


「植月さんはどうですか?」


「そうだな。俺は特に何にもないかな」


 太い眉を持ち上げて、信号を見つめていた。


「そうなんですか?」


「毎日同じような仕事してるからね。資料作成して、上司に怒られて」


「そういえば、植月さんの仕事って詳しく聞いたことないですね」


「俺はいいよ。それより、哲はどうしてる?」


 車の音が激しくなる。カーブを曲がるトラックのタイヤが小石を吹き飛ばした。


「相変わらずというか。特別変わりなく・・・」


 頬に掛かった髪を耳にかける。手元でピアスが揺れていた。


「そっか。絵はどう? 軌道に乗ってるの?」


「そうですね。最近やっと仕事も安定してきまして」


「よかったね」


「絵なんて人の感性だから、いつどうなるかわからないんですけどね」


 居酒屋の呼び込みの人が話しかけてきた。植月さんが手を上げて断っていた。


「まぁ、哲も静香さんと結婚してちょっとは落ち着いたのかもね」


「そうですか?」


「そうだよ。だって、あの哲が大学の講師だなんて・・・」


 夜の近づく空を仰ぎ見ていた。繁華街を抜けて、坂を上っていく。チラシのような紙切れが、舞い上がっていくのが見えた。昼間の風が強かったのだろうか。電信柱の横に置かれた自転車が、ドミノのように倒れていた。


「はい、ビールお持ちしました」


「ありがとうございます」


 薄暗い店内を、黒い三角巾をした店員が忙しなく歩き回っている。壁には本日お勧めのメニューが貼られていた。宴会があるらしく、ネクタイをはずしたサラリーマンがぞろぞろと座敷席に入っていくのが見えた。


「静香さんそんなに飲めたっけ?」


「仕事やってから、飲めるようになっちゃって」


「だって、今俺より飲むもん」


 グレープサワーに口をつける。クラブのお酒とは比べ物にならないくらい美味しかった。


「お客さんとか誘われたりしないの?」


「誘われますよ」


「どう断るの?」


「同伴だったら行きます」


「え?」


 植月さんが目を見開いて、哲の表情を伺った。


「いいの? 哲」


「まぁ、仕事だからいいんじゃない?」


 ビールの泡を口の周りにつけたまま、焼き鳥に手をつけていた。レジ横の水槽で、三匹の魚が狭そうに泳いでいるのが見える。


「それに、色んな人を見たほうが小説書けるでしょ」


 お絞りで水滴の残ったテーブルを拭いた。ビニール袋を押さえるようにして端に寄せる。


「へぇ、哲なりに考えてるんだ。静香さんのこと」


「もちろん」


「じゃあ、絵を描いた後の床掃除もお願いしたいくらいですけど」


 植月さんが腹を抱えて笑った。焼酎の氷が溶けて、からんと回った。


「いいじゃん。あのままで」


「そんなわけにいかないでしょ」


「確かに、油絵の具って取れないもんね」


 飲み物のメニューを手に取る。


「飲み物頼みますか?」


「あぁ、じゃあ同じのにしよっかな」


「哲は?」


「まだあるからいいや」


 手を上げて、歩いている店員を呼び止める。柱の横にいた黒縁メガネの男の人が、ぎこちなくハンディを取り出した。胸のネームプレートには『新人』という文字が書かれていた。 


「はい」


「焼酎ロックと・・・」


「なぁ哲・・・」


 喉の奥から絞り出すような低い声を出した。


「絵のほうはどうなの?」


「あぁ、今回は雪をテーマに描いてるよ」


「雪か・・・」


 店員が注文を繰り返して、ハンディをしまった。揚げ出し豆腐の皿と、鳥のから揚げの皿を重ねていく。グレープフルーツサワーを飲み干して、空いた皿の横に置いた。


「雪と月」


「幻想的だね」


「あぁ。いつもとちょっと視点を変えてみた」


 得意げに頭を掻いていた。


「今度見に来る?」


「じゃあ、休みの日に寄ろうかな。どれくらいで仕上がりそうなの?」


「もう仕上がりに入ったよ」


「コンクールに出すの?」


「ううん。これは学校関係の人に頼まれたやつ。教授のギャラリーに一点だけ展示してもらうんだ」


 頬杖をついて、植月さんの表情を眺める。がさがさの唇が微かに開いて、すぐに閉じた。


「コンクールは・・・・・どうしようかな・・・・」


「小磯良平大賞展とか? 今年あるよね?」 


「うん。でも、どのコンクールとかはまだ全然考えてない」


 小皿に醤油を足して、わさびを混ぜていた。


「そうか」


 大きく仰け反って、哲の手を眺めていた。箸が刺身の載った小皿の上を転がる。


「いいな、哲は」


「何が?」


「なんだかんだ言って、好きなことが職になってるじゃん」


「そうだな」 


 泡の少なくなったビールを流し込んだ。


「翔も描けばいいのに」


「俺にはそんな才能ないよ」


「描いてたじゃん」


「まぁ・・・」


 目を逸らすようにして、焼酎の入っていたグラスを見つめた。


「昔の話だよ」


 カバーが剥がれかかった携帯を、メニューの横にずらした。襖の間から宴会の声が漏れている。新入社員がガチガチになりながら乾杯の音頭をとっているのが見えた。


「そうそう。静香さんの小説はどうなの?」


「それが、全然うまくいってなくて・・・」


 一瞬、隣で哲の目が鋭くなったのを感じていた。だらんとした手でジョッキを持っている。怒っているのだろうか、悔しい思いなのだろうか、それとも優越感に浸っているのだろうか。


 哲には触れてはいけないような狂気的な部分がある。植月さんは上手くかわしているようにも見えた。テーブルの下で、手の甲を抓る。赤くなった部分から、じんじんとした痛みが広がっていった。


 哲の視線がこちらを向く。自分の小説の話をしながら、隣から滲み出る得体の知れない雰囲気に飲まれてしまいそうになった。




 夜が深くなっていた。カーテンが膨らみ、涼しい風が頬を撫でた。部屋は静まり返り、壁に掛けた時計の針の音が響いている。一秒一秒が時間を噛み締めるように流れていった。


 ノートパソコンの画面には、書きかけの小説が映っている。カーソルが一行目を指したまま、長い間点滅していた。キーボードから手を離す。二章目の書き出しが思いつかない。明後日に編集者の花木さんと打ち合わせがあるにも関わらず、先々週の作品とほとんど変わっていなかった。コーヒーに砂糖を入れて、スプーンを回す。想像が凍結してしまったかのように、焦れば焦るほど思いつかなかった。


 小説家として生きていきたいと思う。自分には小説しかなかった。中学高校とほとんど勉強をせず、推薦で大学に入ってしまい、大学ではろくに就職活動もせず、図書館と美術展を往復していた。小説を書くことしか誇れるものがない気がした。


 でも、縋るように書くほど惨めな気持ちにもなった。躍起になって図書館の本を読み漁ると、自分の創造力のなさを感じずにはいられなくなった。溢れ出る情熱を小説に注いでも空を切るばかりで、書けば書いただけ虚しくなっていった。


 哲も部屋に篭って絵を描いている。数分前に覗いたときは、スケッチブックにデッサンをしていた。人物画を描いているようだった。哲が人を描くのは珍しいので、もう少し見ていたかったが、今日はそばにいてはいけないような気がした。きっと、朝まで描いているのだろう。少し描いては消して、描いては消していた。消しゴムの粕を何度も小指で払っているのが見えた。


 カーテンに手をかけて、窓から顔を出す。肩にかけたタオルが捲れた。マンションの下にバイクが停まっているのが見える。上の階に住んでいる大学生のものだ。つい二日前に、彼女と二人乗りしている姿を見かけた。じゃれ合いながら駐輪場を出て行く姿が初々しかった。


 月が雲に隠れていく。闇はどうしてこんなに空気が柔らかいのだろう。無に委ねることは楽なことだと思う。何かの本で『人間にとって一番よいのは生まれてこないこと、次によいのは早く死ぬこと』というのを見たことがあった。生きていくことは辛いことなのだと思う。小説への執着が呪縛のように付き纏っていた。うまく書きたいと思う欲は、肉体と精神を締め付ける縄のようにも感じられた。


 哲には欲がないようだった。ありのままの感性で色を引き出し、思うままに筆を動かしていた。有名になることや周囲に認められることには関心を抱かず、ただひたすらに好きで描いているようだった。自分と同じようで、全く別だった。正直に言うと、目を伏せた植月さんの気持ちはわからないでもなかった。哲といると、自分の欲を照らし出されるような心地がした。


 携帯を手に取る。しばらく放置していたので、お客さんからのメールが溜まっていた。中でも四十代後半の相島さんからは、毎日三件ずつ来ていた。絵文字や顔文字を使って、返信メールを打っていく。明日は同伴できるだろうか。にこにこした絵文字が力なく動いていた。


「哲、朝食食べるよ」


「・・・あぁ」


 テレビでは朝のニュースが終わり、クッキング番組の特集をやっていた。アボガドを使ったパスタを作っている。女性アナウンサーが仕上げの刻みのりをかけていた。


 テーブルにマーガリンとイチゴジャムを並べていく。トーストに塗ったチーズが溶け出している。目玉焼きの下に引いたベーコンが少し焦げていた。 


 まだ描いているのだろうか。返事は聞こえたものの、なかなか来る気配はなかった。


「哲」


 部屋のドアを開ける。遮光カーテンから日差しが溢れていた。


 イーゼルには下地の乾いたまっさらなキャンバスが載っていた。フローリングに敷かれた新聞紙には、いろんな角度で描かれた女性のデッサン画が散らばっている。強かな雰囲気の女性の後姿、躍動感のある女性の姿、寝そべったままの女性の姿が、それぞれ描きかけの状態だった。紙を破られたスケッチブックがイーゼルの下に置いてあった。


 ソファーに座ったまま、何もないキャンバスを見つめていた。寝ぼけているようにも見える。奥二重の目が一重になりかけていた。


「トースト食べないの?」


「食べる」


 手が鉛筆の跡で真っ黒になっている。服には消しゴムの粕が散らばっていた。


 壁際には雪と月の絵が立掛けられているのが見えた。全体が霧のような白い靄に覆われていて、どこか懐かしいような気分にさせられる。海は描かれていなかったが、磯の香りがしてきそうだった。函館の冬が思い出された。


「雪の絵は完成した?」


「うん」


「次は人物画?」


「そうかも・・・」


 腕で顔を擦っていた。


「いいように描けない」


「何をモデルに描いてるの?」


「わからない」


 ソファーに肘を載せる。中のバネが軋む音がした。


「・・・なんかさ・・・」


 ぐっと身を乗り出して、新聞紙の上に載った絵を見つめる。


「何?」 


「ほら・・・」


 うっすらとした記憶を辿り寄せていた。


「教会のマリア像に似てる」


 函館のトラピスチヌ修道院のマリア像を思い浮かべていた。顔が出来上がっているわけでも、体の形が似ているわけでもなかったが、優しい雰囲気に通じるものを感じた。


「そう?」


「うん。なんとなく」


「ふうん」


「さすがだね」


 散らばった紙を手に取っていた。近くで見ると、一枚一枚が何度も書き直されて、今の形になっているのがわかる。書きながら、何かを捜し求めているようにも見えた。


「・・・パリのモンサンミシェルって知ってる?」


「ううん。何それ?」


「生徒が行ってきたらしくて、写真見せてもらったんだよね」


 哲の口から『生徒』という言葉を聞くのは変な感じがした。


「すげぇの。めっちゃ感動した」


「へぇ・・・」


「カトリックの修道院なんだけど・・・」


 手に持っている紙を裏返しにして、鉛筆を走らせる。一本の線が重なりあって、絵が浮かび上がっていく。小指ほどしかない鉛筆から情景が見えてくることが、不思議でしょうがなかった。


「ざくっと・・・」


「うん」


「で、ここが海で、こう浮かんでる感じなんだけど・・・」


「ここがこうゆうふうに街みたいになってて・・・」


 哲の手の勢いが止まらなかった。どんどん加速していく。


「ちょっと・・・」


 勢いよく言い放つ。鉛筆がピタリと止まった。 


「早く食べなきゃ冷めるっけさ」


 このままいくと、あと一時間くらい描き続けそうだった。


「・・・そうだな」


 オジギソウみたいに肩を竦めた。身体を起こしてソファーから離れていく。振り返ると、こちらを気遣うようにして紙と鉛筆を置いていた。


 木の枠から着物を着たおばさんが配膳しているのが見える。急遽、相島さんを店前同伴できるようになった。箸を置いて、お茶に口をつける。採れたてのフグが鍋の中で柔らかくなっていった。  


「相島さんは、よくここの店来るんですか?」


「うん」


 個室の入り口には簾がかかっている。掘りごたつの下で足を組み直す。


「今まで、同伴前に何人か連れてきたことあるよ。錦糸町だし店から近いしね」


「え、お店の子?」


 水蒸気越しに見える眼鏡が曇っていった。


「そう。ミキとか、もう辞めちゃったサクラとか」


「随分浮気性ですね」


 わざと拗ねているような声を出した。


「今はアイが一番だよ」


 目尻の皴を下げた。


「本当に?」


「本当だって」


「やったぁ、ありがとう」


 相島さんは一年前からお店に通っているらしい。女の子の入れ替わりは私よりも詳しかった。


「サクラとはもう三ヶ月くらい連絡取ってないし」


「あたしサクラちゃんに会ったことないかも。噂は聞いたことあるけど」


「なんて噂?」


 大きな顔を前に突き出した。薄くなった前髪が額に張り付いている。


「・・・相島さんのお気に入りだったって」


「そうか・・・」


 フグの刺身を醤油につける。わさびが鼻にツンとした。


「会ってみたかったな」


「確か、アイが入ったのは一月くらいか。サクラが辞めたのは十二月だもんな」


「写メとかないんですか?」


「連絡取れなくなって、全部消しちゃった」


 ボーイからもサクラちゃんの情報は聞いていた。十二月で系列店の他の店に移ったが、相島さんには何も伝えていないらしい。


「サクラとはディズニーランドも行ったことあるんだよ」


「二人で?」


「そう」


 潰れたセブンスターの箱から煙草を取り出した。


「お揃いのストラップも作ったんだ」


「名前彫るやつ?」


「そう」


 携帯には何も付いていなかった。捨ててしまったのだろうか。太い指でストラップをつける場所を摩っていた。


「楽しかったな・・・」


 湯気の向こう側を見ているようだった。


「スプラッシュマウンテンで屈むの忘れて、二人とも頭から水被っちゃってさ。サクラがハンカチで顔を拭いてくれたんだよ」


「そうなんですか・・・」


「優しい子なんだよ」


 自分と同じくらいの子が、相島さんとディズニーランドにいるところを想像する。周囲の人はどう思うのだろう。


「でも、今はアイがいるから大丈夫」


「うん」


 刺身が口の中に入ったまま頷く。


「アイはスタイルいいしな」


「そう?」


「うん。赤いドレスがよく似合う」


 灰皿に煙草の灰を落とす。顔の表情が溶けていくようにデレデレしていた。


「胸元の開いたやつ?」


「そうそう」


「変なこと考えてるんじゃないですか?」


「え? わかった?」


「もう」


 テーブルの下で携帯の時計を見る。店に入らなきゃいけない時間まであと一時間もあった。


「相島さん明日も仕事?」


「そう。これでも経営者だからね」


「ちゃんと、従業員のお給料払ってる?」


「もちろんだよ」


 小さな不動産の社長をやっているらしい。日曜日にお店に来るとき意外は、ほとんどブランドもののスーツだった。


「でも、この不景気で経営があやふやになってきて・・・」


「そうなの?」


「資金繰りがなかなかうまくいかないんだよな・・・」


 頭を抱えながら煙草の火を消していた。沸騰している鍋にフグ刺しを入れる。


「大変ですね」


 垂れ下がった目をこちらに向ける。


「・・・アイ見てると癒されるよ」


「うん」


 後ろの壁に寄り掛かった。ざらざらとした板が髪に絡まる。短いスカートの裾に触れた。小説でうまくいかないときは、クラブの仕事をしているとほっとすることがある。『アイ』を演じることは苦にはならなかった。文章にならない、物足りない時間を潰してくれるような気がしていた。


 ドレスの入ったバックを持ち直す。中で化粧ポーチが音を立てた。ドリンクをご馳走になったお客さんに御礼のメールを打っていく。相島さんのところ意外は、ほとんど他の子を指名したお客さんについていた。新規のお客さんしかメールアドレスを聞いてはいけないので、今日は一人しかメールする人がいなかった。


 信号が青になり、店前に止められたタクシーの列が増えていく。零時を回っているにも関わらず、街のネオンは華やかに色づいている。同業者だろうか。ファミリーマートの前で、外国人の人たちがサラリーマンを呼び込もうとしているのが見えた。


 今日はお客さんの入りが悪かったので、早上がりさせてもらえた。帰ったら小説を書かなければいけない。仕事が終わったばかりなのに、これから部屋に缶詰になることを思うと足取りが重くなった。明日までと言われているが、朝までかかってもいいものに仕上がる保障はなかった。 


 携帯のバイブが鳴る。植月さんからだ。歩道橋を上がりながら、携帯を耳に当てた。


「もしもし」


「・・・あ、静香さん?」


「はいはい」


 手摺から車道のほうを眺める。カラオケ舘の前で若い人たちが屯っているのが見えた。


「仕事中だった?」


「いえ、もう終わりましたよ」


「そっか」


「どうしたんですか? こんな夜中に珍しいですね」


 水溜りを避けるようにして歩いていく。


「さっきから哲に電話してるんだけど、全然繋がらなくて」


「哲は多分寝てますよ。昨日の夜から今日の昼まで絵を描いていたので・・・」


「そうだったんだ」


「何か急用ですか?」


 興奮しているのか、声がいつもよりも大きかった。


「すごいんだよ」


「何がですか?」


「今朝の朝日新聞見た?」


「ううん」


 新聞はフローリングに敷かれているもの以外ここ数年見ていない。図書館の入り口に置いてあっても、手にとって広げたことはなかった。


「コラムに作家の田部良太さんが哲の絵のことを取り上げてるんだよ」


「え?」


 一瞬何のことだかわからなかった。立ち止まって方耳を塞ぐ。


「何ですか?」


「だから・・・」


 新聞の片隅に記載された田部良太さんのコラムに、哲の名前があったそうだ。無名の画家を取り上げているらしく、何人か挙げられたうちの一人だった。哲の紹介部分はたったの二行、『光と影による独特の質感を生み出す色使い。僕は彼の絵を見たとき、フランス印象派の巨匠クロード・モネを彷彿させるようなものを感じた。』と書いてあった。


「・・・ちょっと大袈裟だよな」


 声を無理やり押さえ込んでいるようだった。


「信じられないですね。哲の絵がそんなに広まってるなんて」


「本当だよ。印象派って哲が参考にしてる手法だもんな。これ何の絵のことだろう、俺見たことあったかな」


 携帯を持つ手が震えているのに気づいた。ピンポン玉のように弾んだ植月さんの声が耳元で聞こえていた。きっと、学校主催の小さな美術展に出展した『水辺の桜』のことを言っているのだろう。あの作品は哲も気に入っていたので、出展して自分の元から離れていくのが惜しいと言っていた。素直に嬉しいと思う。贔屓目かもしれないが、哲の絵には一度見た人の目に焼き付けるようなものがあった。


 植月さんの声に相槌を打つ。同時に、自分の中で絡み合う複雑な想いを感じた。


 錦糸町のネオンを眺めた。どこまでも続いているようだった。バックの底にあるドレスのスパンコールが暗い光を湛えている。携帯を頬に押し当てて、唇を噛み締めた。湿気の混ざった風が地面から吹き上げる。高いピンヒールの足音が、すぐに車の音に掻き消えていった。


 そっとドアを開ける。 


「ただいま」


 ソファーからパジャマのズボンの裾が見えた。廊下の明かりを頼りに近づいていく。床にバックを降ろすと、革の取手が乾いた音を立てた。


 深い眠りについているようだった。ソファーから覗き込んでも、長い睫毛を閉じたまま微動だにしなかった。画材はイーゼルの下に揃えて置かれており、スケッチブックだけがソファーに立て掛けられていた。携帯はベッドの上にあるのだろう。どんなに電話しても繋がらないはずだった。


「哲」


 息だけの声を出した。トラックのヘッドライドがカーテンの下を流れていく。


 背凭れに掛かっているプーさんの膝掛けをお腹に被せた。居心地悪そうに寝返りを打つ。口元が少し動いたが、そのまま静かな寝息を立てていた。


 短い前髪を避けて、額を撫でる。手のひらから生温い体温が伝わってきた。短い髪の毛が指の間を擦り抜けていく。子供のようだった。五歳上にはとても見えなかった。新聞に名前が載るような絵を描く人にも見えなかった。


 力の抜けた腕を揺さぶって、すぐにでも伝えてあげたくなった。クロード・モネは哲が尊敬する画家の一人だった。数年前に東京でフランス印象派画家の展覧会があったときは、三日間も朝から晩まで通い続けていた。一日目は私も一緒に行ったが、一つ一つを回る時間があまりにも長いので、近くのスーパーで買い出しだけ済ませて先に帰ってきてしまった程だった。植月さんが教えてくれたと言ったら、さらに喜ぶだろう。寝起きが悪かったとしても、ころっと機嫌が変わってしまうような気がした。そのまま朝まで、絵を描き続けてしまうかもしれない。


 手を放して、ソファーから離れていく。プラスチックの収納箱からバスタオルとパジャマを取り出した。時計の秒針が室内に響いている。


 明日になったら伝えようと思った。一秒でも早く教えてほしかったと言うかもしれないが、熟睡しているところを邪魔したくはなかった。少しは働き過ぎる手を休める時間も必要だと思う。


 お風呂に入ったら、朝まで小説を書かなければいけない。でも、哲の寝顔を見たら不思議と心が落ち着きを取り戻していた。もやもやした感情も、台風の後のようにいつの間にか一掃されていた。 


 今度市立図書館に寄って、哲のことが書かれた記事をコピーしてこようと思う。植月さんが今度会ったときに一部くれると言っていたが、一刻も早く見せてあげたかった。


 花木さんは七年前、中途採用で出版社大手のK社に入社した。それまでは、新人賞の下読みや自身もエッセイを書いたりしていたらしい。妻と子供二人の四人家族で、亀戸のマンションを借りていた。週末でも出版社にいることが多く、夜十時以降だったら相談に乗ってくれた。


 原稿用紙を一枚捲る。黒縁眼鏡の奥に、小さな目を光らせていた。アイスティーで乾いた喉を潤す。さらっと見るだけでも、緊張が隠せなかった。


「古河さん、函館行ったことあるの?」


「はい。昔住んでたので」


「そっか。だから、描写が細やかで綺麗なんだね。この路面電車の雰囲気とかうまく描写できてると思うよ」


「そうですか?」


「僕なんかこっちから出たことないからね。こうゆうの情景がすごく新鮮だよ」


 無表情だったが、言葉に優しさがあった。同伴する男性と同じくらいの年齢なのにビリビリとするような威圧感を感じるのは、私が小説家のままでいたいからだろうか。


「この話をどう持っていきたいの?」


「亜紀と東条ですか?」


「ん・・・全体的に・・・」


 艶やかなテーブルに、原稿用紙を持つ手が映っている。


「東条が亜紀のことを忘れられずに、携帯でのメールのやりとりが始まります。東条が亜紀に会いに行って・・・」


「あ、そうゆう細かいことじゃなくて・・・」


 店内の音楽が切り替わった。ジャズ調のピアノが流れる。


「根本的に、これどうゆう話にするの?」


 原稿用紙と見比べるようにして、厳しい目をこちらに向ける。


「最初は東条と亜紀の恋愛話にしようと思ったんですけど、今はそこにもう一つ加えようかと思っています」


「そのもう一つは?」


「今のところは、亜紀が音楽の道に入るところで・・・・」


 頭が真っ白になった。混乱しながら、身振り手振りで話していた。まとまった状態で説明できなかった。自分でも途中で何を言っているかわからなくなっていた。


「ふうん・・・」


 穴が開くほど同じページを見ていた。肘を付いて、身体を乗り出す。


「はっきり言っていい?」


「はい」


「すごく甘い。流れも緩い」


 きっぱりと断言した。膝の上に置いた両手を握り締める。吸い込んだ息を吐き出せなかった。


「・・・はい」


「これじゃあ、秋までには出版できないな・・・」


 口に手を当てて、原稿用紙をテーブルの上に置く。朝までかかって書いた原稿用紙が急に安っぽいものに見えた。


「・・・・・・」


「とりあえず、しっかりと読んでからまた連絡するね。時間はいつだったら大丈夫?」


「あ・・・夜以外でしたら・・・」


 風船が萎むように、声が弱弱しくなっていた。


「なんかいい案見つかったら相談乗るから」


「はい・・・ありがとうございます・・・」


 覚悟はしていたが辛かった。心が空っぽになっていく。


「古河さんの旦那さんって画家なんだよね?」


 ストローでアイスコーヒーの氷をかき混ぜている。


「ええ。哲をご存知なんですか?」 


「もちろんだよ。これでも編集者だからね。毎日の新聞はチェックしてるよ」


 窓の外に置いてある向日葵の周りに、蜂がふわふわ飛んでいるのが見えた。


「そうですか・・・」


「大変でしょ。旦那さんが画家って」


「まぁ・・・」


 アイスコーヒーを啜る。光を浴びたように、花木さんの表情が明るくなっていた。


「きっとたくさんオファーが来るよ」


「たった一人が紙面上で褒めただけで?」


「あぁ・・・」


 原稿用紙をファイルの中に仕舞いながら、深々と頷いていた。握り締めた手の皮膚に爪が食い込む。


「新聞はいろんな人が見るからね。少なくても興味は持つよ」


「そうですか」


「有名画家の妻として、エッセイ本とか出しても売れるかもよ?」


「・・・・」


 冗談交じりなのか本気なのかわからなかった。鳥肌が立った。哲の才能は認めていた。でも、同じくらい情熱を注いでいるのに、こんなに差がつくのはなぜだろう。花木さんの緩んだ表情を見るほど、悔しさで心が割れてしまいそうだった。


 携帯のアラームを消す。薄いピンクのシーツに夕暮れが差し込んでいた。天井の蛍光灯が眩しい。図書館から帰ってきて、お昼ご飯も食べずにずっと眠っていた。


 ふらふらしながらベッドから降りる。ダブルベッドだったが、哲はほとんどソファーで寝るので、一緒に寝ることは月二回くらいしかなかった。全身鏡に映った自分の髪がぐちゃぐちゃになっている。ホールに入る前にヘアメイクをしてもらうが、お店に行く前にブローしていこうと思った。


 哲の部屋のドアが開ききっていた。フローリングに光が反射して真っ白になっている。自分が落ち着くまで哲の絵を見る気にはならなかったが、吸い込まれるように足が部屋のほうへ向かっていた。


「新聞のコピー見たよ。ありがとね」


「・・・ううん。どうせ本読みに行くついでだったさ」


 哲が座っている丸椅子の後ろに座る。皮のソファーが湿気でべたべたしていた。


「小説うまくいった?」


「ううん・・・」


「そか」


 スケッチブックの鉛筆が止まっていた。デッサン画をたくさん描いたのだろう。先週買ったばかりのスケッチブックが、もう後ろの方に差し掛かっていた。


「植月さんと話した?」


「話したよ。すっげぇ喜んでた」


 寝起きの哲に新聞のことを伝えて、すぐに家を飛び出してしまった。朝のことが昨日のことのように思えた。


「・・・そっか」


「これで興味を持つ人が出てきたら、絵の収入も安定するんじゃないかって」


「そう・・・」


「あいつなんだかんだ言って、まだ心配してるんだな」


 鉛筆をくるりと回した。口角が自然と上がっている。


「帰ってきたとき起こしてくれればよかったのに・・・」


 反論する気力がなかった。ただ、呆然と何もないキャンバスを見つめていた。


「・・・哲はいいけさ。認めてくれる人がいて・・・」


「まぁ、運がいいのかもね」


 頬の肉を噛み締める。コピーした新聞記事が頭の中に浮かんでいた。


「疲れてるの?」


「いや、なんも」


「小説? そんなにうまくいかなかったの?」


 哲が身体ごとこちらを向く。丸椅子の脚が軋んだ。


「哲には関係ないっけさ」


「関係ないって・・・」


「そうだっけ。私の小説には哲は関係ないっしょ」


 声を荒げていた。ただの八つ当たりだというのはわかっていた。でも、感情の波がどうしても抑えられなかった。


「どうしたんだよ・・・何かあったの?」


 細い目で覗き込む。長い睫毛が夕暮れの日差しに触れていた。


「なんもないって」


 突き抜けるように立ち上がる。爪先のほうに敷いてあった新聞紙が破れた。


「そうか・・・」


「そう」


 哲が静かに背を向ける。透明なベールが降りてきたようだった。


 言葉を返してこなかった。自分でもわからなかった。なぜ、哲と一緒になって喜べないのだろう。ドアの取手に触れると、手がじっとりとしているのがわかった。




 私服を鞄の中に入れる。今日のドレスは先週の木曜日に着ていたものと同じだった。指名客が来る予定はなかったので、特に気にしなかった。


 さっき、家に来る日程のことで植月さんと話していた。哲が有名な美術商から展示会の誘いの電話があったらしい。家を出るときに廊下ですれ違ったが、私には何も伝えてこなかった。電話の向こうにいる植月さんのほうが先に知っていることが不自然だった。


 左指の指輪を右指にはめる。少し、反省していた。明日の朝食は、哲の好きなチーズオムレツにしようと思った。


「アイ、ヘアメイクの前に先に出て。団体客入ったらしいから」


 更衣室のドアが開き、美容師の矢沢さんと目が合った。サクラちゃんのヘアメイクをやっている途中だった。ショートカットをコテで巻いて、ラメの入ったワックスで固めている。


「はい」


「アカネちゃん指名の、いつものお客さんらしいよ」


 サクラちゃんが甲高い声で話した。ピンクの頬がきゅっと上がった。


「サクラちゃんついたことあるの?」


「ないんじゃないかなぁ」


 ポーチにライターと名刺と携帯が入っていることを確認する。


「ほら、早く」


 矢沢さんが鏡越しに急かした。


「はいはい」




「アイちゃん、アカネちゃん指名のところのフリーのお客様についてもらうから」


「結構来る人?」


「この前一回来たかな」


 太一さんの後をついていく。鏡張りになっている部屋を抜けて、柱の奥のほうへ歩いていった。店内に静かなジャズ音楽が流れている。


「ご紹介します。アイさんです」


「始めまして。よろしくお願いします」


 他のお客さんにはもう女の子がついていた。太一さんに指定された一番端の席に座る。ドレスの皴を少し伸ばした。ボーイの雄一君が隣の席の灰皿を取り替えていた。


「・・・この前来ていましたよね?」


 氷を入れて、マドラーでグラスを冷やした。


「うん。会社の上司と」


 高沢さんが指名で入った時に、前に座っていた人だった。身体全体がおでんのはんぺんのようにもちもちしていた。


「近くに座ってたんですよ。覚えてますか?」


「ホンマか。さっぱり覚えてないわ」


 ウイスキーを注いだグラスをコースターに載せる。マドラーを氷入れに戻した。


「あ、関西出身なんですか?」


「そう。大学まで関西だったん」


 彼の先輩らしき人が、アカネちゃんの腰に手を回しているのが見えた。


「こっち来てもう五年になるんやけどな・・・」


「まだ、関西弁が抜けきれないんですか?」


「いや、向こうの友達には標準語になっとる言われるけどな。東京もんって」


 柔らかい声だった。自分のグラスに水を注ぐ。いつもならカクテルを強請るが、そうゆう気分には慣れなかった。


「あたしも地方出身なので、あんまり言えませんけどね」


「どこ出身なの?」


「北海道です。いただきます」


 グラスを交わす。手元から透き通った音が聞こえた。


「北海道は大学の卒業旅行で行ったな」


「どこに行ったんですか?」


「・・・小樽とか釧路? ほら北のほう」


 首を傾げていた。手に持っているグラスのウイスキーが小さく波動した。


「北のほうはわからないかな。あたしは南のほうしか行ったことないので」


「そうなんや。北海道広いもんな」


 ふっくらした唇にウイスキーが流れていく。


「こっちの仕事始めてどれくらいになるの?」


「まだ一年くらいです」


「まだ、学生なん?」


「いえ、一応社会人です」


 社会人って言うのも変な感じがした。隠すように指輪を抑える。


「コレ一本?」


「ううん、副業」


「そうなんや。普段どうゆう仕事してるん?」


「・・・文章書く・・・仕事・・・」


 言葉を詰まらせた。俯きながら水に口をつける。


「すごいな。文章なんて取引先へのメールくらいしか書いたことないわ」


 人懐っこい笑顔をこちらに向ける。


「全然ですよ。もっと本読んで勉強しなきゃいけないし・・・」


「本は人生で数冊しか読んだことないわ。大学からずっと理数系やからな」


「本読まないんですか?」


 グラスをコースターに戻す。


「仕事で使う本は読むけどな。他は興味もない」


 すぱっと切り捨てるようだった。笑うと二重顎がたぷたぷしている。グラスについた水滴をハンカチで拭った。


「瀬谷、お前そんなに話し盛り上がっていいのかよ」


「なんですか」


 顔を赤らめた先輩らしき人が急に話を振ってきた。彼が襟足をこちらに向ける。


「また鬼嫁に怒られるんじゃねぇの?」


 心臓の音が全身に響く。ハンカチを膝の上に載せた。


「最近機嫌いいので大丈夫ですよ」


「あれ? お前結婚してたっけ?」


 分厚い眼鏡をかけた人が身を乗り出してこちらを見た。


「まだ婚約ですって」


「ま、似たようなもんだろ」


 身体を前に出して、鼻の低い横顔を見つめる。真っ黒な瞳がとても綺麗だった。尊いもののようだった。


 太一さんが引き抜きの合図をした。


「ごめんなさい。呼ばれちゃって・・・」


「・・・あぁ、うん」


 ポーチから名刺を取り出す。オレンジのネイルがチャックに引っかかった。


「これ、裏に番号とメールアドレスが書いてあるので、よかったら・・・」


「・・うん・・」


「ごちそうさまです」


 受け取った名刺の裏側を向けていた。短いアドレスが書いてあるのが見える。グラスを持って彼から離れていった。ゆったりと揺れるピンクのドレスがグランドピアノに映っていた。




 ドレスを畳んでジルスチュアートの紙バックに入れる。手首につけたディオールの香水の匂いがした。ロッカーの鍵を閉める。


「アイちゃん、お疲れ」


「お疲れ」


 ユウキさんが携帯でメールを打ちながら更衣室に入ってきた。


「レジ裏の順位見た? 落ちちゃった」


「もう貼り出されてるんですか?」


「そうよ」


 ラメの入った付け睫毛がバサバサしていた。ユウキさんは先々月からずっとトップだった。ボーイさんも彼女に対しては特別待遇で、新しく面接に来た女の子に文句を言って落とすように仕向けたりしていた。


「ハナってばあたしの指名客とったのよ。もう、いいお客さんだったのに」


 目尻を鬼のように吊り上げていた。


「そうなんですか・・・」


「信じられない。寝取ったとしか思えないわ」


 関わりたくなかった。私のお客さんについたときも、さりげなく変な噂を立てようとしていたらしい。いつも上辺だけは仲がいいように取り繕っていた。


 シャネルのバックから派手なレースのついたポーチが見えた。そそくさと更衣室を出る。新人のアキちゃんとすれ違った。今の話を聞いていたのかはわからなかったが、目を背けるようにして更衣室に入っていった。


 順位もブランドものにも興味がなかった。でも、彼女のプロ意識は尊敬していた。お客さん一人ひとりの誕生日を覚えて、プレゼントをあげたりしているらしい。水商売だというだけで、世間から見下されてしまうことが可愛そうだった。


 携帯を開いて、新着メールの問い合わせをする。誰からのメールも入っていなかった。クーラー風で冷えた肩を摩る。瀬谷さんからメールは来るだろうか。きっと来ないだろうと思った。携帯の画面が暗くなる。もう少し、話してみたかった。


 鉛筆で描いた跡をなぞる様にして、キャンバスに細やかな色を付ける。人物画ではなかった。緩やかに流れる川と、水面に先を下ろす木の枝が描かれていた。


「哲、ご飯食べるよ」


 窓の外に朝靄が立ち込めていた。


「・・・あぁ」


 空気に溶け込むようにしながら、ソファーに腰を下ろす。筆がキャンバスから離れた。


「・・・昨日、植月さんから聞いたんだけど・・・」


 哲が横向きに座り直した。頭を垂れながらパレットの色を溶いている。


「美術商のこと」


「あぁ・・・」


 椅子の脚に引いた新聞紙が破れていた。


「よかったね。うまくいきそうなんでしょ?」


「うん」


「昨日、ごめんね・・・」


「うん」


 目を伏せがちに、顔を上げる。顎鬚が少し伸びていた。


「・・・人物画やめたの?」


「ううん。保留にしただけ」


 スケッチブックが他の作品と一緒に壁側に立て掛けられていた。低い台に座っている女性が描かれている。顔はなく、身体も途中のようだった。


「これはどこの景色?」


「どこ・・・。想像かな。結構前に描いて保留にしてたんだけど、急に色を塗りたくなって・・・」


「へぇ・・・」


 パレットの色を見つめる。グレーに濃い茶色が混ざっていた。この色が岩に張り付く葉になるのだろう。岩肌に飛び散る水しぶきが聞こえてきそうだった。


「綺麗だね」


「そう?」


 哲の描き方を見ていると、クロード・モネを意識しているのがよくわかる。似ているわけではないが、光と影や水の描き方など、印象派の絵画を感じることが多かった。


「今回は全体に日本的な雰囲気を出すつもりなんだ」


「たとえば?」


「この一枚のもみじの葉」


 筆の柄先をキャンバスに向ける。


「もみじの色で、深みを出したいと思ってる。奥ゆかしさっていうのかな」


「いいね」


「うまくいくかはわからないけどね」


 感性はよく通じるものがあった。言葉で聞かなくても、なんとなくキャンバスを見ただけで言いたいことが理解できた。


「あたしもこの部分小説で使いたいな」


「どう使うの?」


「まだわからないけど・・・小説に入れたいさ」


「ふうん。読んでみたいな」


「完成したらね」


 描写で使えそうだと思った。美しい時間が切り取られている。哲が満足気に八重歯を見せた。


「今日三時過ぎから美術商の人と打ち合わせがあるんだ」


「そっか。一回寝るの?」


「いや、調子いいからこのまま描こうかな」 


 筆とパレットを台の上に載せる。カーテンがふんわりと揺らいだ。


「そういや、今日植月さん遊びに来るって」


「あぁ。言ってたな」


「久しぶりにすき焼きとかやりたいね」


「すき焼きよりお好み焼きがいいな。もんじゃとかもできるじゃん」


 ソファーから立ち上がる。


「前もお好み焼きだったじゃん。たまにはすき焼きにしようよ」


「・・・じゃあ、いいよ。すき焼きで。次の日おじやもあるしね」


 丸椅子から重たい腰を浮かせた。Tシャツに青い絵の具が飛び散っている。


「今日、オムレツ作ったさ」


「チーズ入り?」


「もちろん」


 か細い背中の後ろをついていく。部屋の電気を消した。後ろを振り返る。キャンバスに描かれた川を見つめる。絵が、沈黙の中から哲のことを呼んでいるようだった。


 キーボードから手を離す。長時間つけていたため、パソコンが熱をもっていた。点滅するカーソルを見つめる。花木さんのメールに書いてあったとおり、深みが無く、ありきたりな展開しか思いつかない。時間をかけて考えても、書いてみるとどこかで見たことのあるストーリーになった。大学在学中のほうが書けていた気がした。


 もし、哲が小説家だったらどうするのだろう。溢れ出る感性で容易く人を惹きつけることができるのだろうか。同じフィールドに立つことを想像すると、自分の才能の無さを思い知らされそうで恐ろしくなった。


 机の上の扇風機をこちらに向ける。温い風が前髪を揺らした。布団が朝出たままの状態になっている。哲はしばらくこのベッドで寝ていない。絵を描いた後は、雪崩れ込むように部屋にあるソファーで寝ていた。いつ見ても、絵ばかり描いている。


 哲と出会ったのは結婚する一年前だった。小説で使う建造物についての本を探しに、横浜の市立図書館に行ったのがきっかけだった。哲は同じ机の斜め前で、ローマの美術作品についての本を読んでいた。数ページ見るごとに、ミミズが這ったような字でメモを取っていた。閉館までいたので、帰り際思い切って声を掛けたところ、数分後には向こうが芸術について熱く語りだしていた。その頃はまだどんな絵を描くのかわからなかったが、活き活きした表情と希望に満ちた目を今でも鮮明に覚えている。憧れにも似た胸の高鳴りに、体中が熱くなるのを感じた。


 哲といると、自分も小説を書かなければいけない気がした。純粋なエネルギーが心を引き上げるのだ。書く気がしない時でも、部屋に戻るとパソコンのワードを開いていた。


 でも、私と哲は同じラインにはいない。気づいたら遥か遠くまで差をつけて追い越されていた。フィールドは違えども同じラインに立ちたかったが、プレッシャーをかけるほど文章に落ち着きがなくなっていった。


 携帯を手に取る。返信していないメールが二通あった。一週間前に店に来ていた三船さんと、相島さんからだった。新着メールの問い合わせをする。「新しいメールはありません」という画面が表示された。携帯を閉じてベッドの上に放り投げた。






「この部分、豚毛使ってるの?」


「いや、日本画の面相筆。豚毛だと色がつぶれちゃって」


「だよな」


 植月さんが上向きに入っている筆を眺めていた。哲がソファーに座って説明しているのが見える。


「しかし点が細かいな。さすがだよ」


「そう?」


「・・・溶き油は?」


「調合油。あとは使ってないや」


 ドアを閉めて、すき焼きの食材をテーブルに載せる。植月さんと話すときは画家目線で会話していた。一緒にいても、二人の話には入り込めなかった。どんなに近しくても、絵を描かない人が混ざってはいけないのだと思った。


 植月さんの絵を見たことは一度もなかった。哲と植月さんは同じものを見ていても描き方が全然違うらしい。絵画教室の先生が、籠に入ったりんごの絵を描かせたとき、植月さんはりんごの腐敗や埃も正確に表現したのに対し、哲は木からもぎ取ってきたような艶やかなりんごを表現した。植月さんは写真のように物を忠実に描くことが得意だったと聞いていた。 


 ドア越しに笑い声が聞こえる。キッチンの戸棚からすき焼きの鍋を取り出した。蛇口から水滴の落ちる音がした。


「なんか肉多くない?」


 菜箸で白滝を避けていた。熱くなった鍋掴みをフックにかける。


「お肉特売してて、たくさん買っちゃった」


「SEIYUでしょ? ニクの日だもんね」


「よく知ってますね」


「これでも一人が長いからね」


 生卵の入った皿を並べていく。すき焼きがグツグツ煮立っていた。


「植月さんは彼女作らないんですか?」


「もうここ数年いないよ。今は仕事も落ち着いてきたから作りたいんだけどね」


「あれ? 職場の事務やってる女の子は?」


「彼氏持ちだったんだよ」


 哲が掻き混ぜた卵に肉を入れていた。白いご飯から湯気が出ている。


「好きな人いたんですか?」


「好きっていうか、気になるかなって」


 缶ビールに口をつけていた。短い髭にうっすらと泡が乗っている。


「同じ職場の人。超美人なんだよ」


「哲、見たことあるの?」


「社員旅行の写真をちらっとね」


「へぇ・・・。植月さんから女性の話題ってあんまり聞いたことなかったからな」


 椅子に腰を下ろす。グレープフルーツサワーの缶蓋を開けた。


「植月さんしっかりしてるから、黙ってても向こうから寄ってきそうですよね」


「大学の時はすごい人気だったよ、ゼミの後輩とか・・・。でも全然彼女作らなねぇの」


「え・・・なんで?」


「もういいだろ。その辺で勘弁してくれよ」


 苦虫を噛み潰すような顔をした。哲が楽しそうに缶ビールを置いた。


「で、美術商の人との打ち合わせどうだったの?」


「画廊に展示することになったよ。この前の『水辺の桜』」


「契約できたってこと?」


「そう」


「すごいじゃん」


「いやいや」


 白滝と豆腐を皿に入れる。哲が口を動かしながら、柔らかそうな肉を選んでいた。


「ねぇ、美術商ってどうゆうことするの?」


 右横を向く。ちらっと目が合った。


「・・・画家の今後の方向性を決めたり、宣伝したり・・・色々かな」


「編集者みたいな感じ?」


「そ」


 軽く相槌を打った。気を使っているようにも見えた。


「哲の美術商、佐野栄治さんでしょ? 有名だよね」


「そうなんですか?」


 顔を上げる。植月さんが箸を銜えながら頭を大きく振った。


「ほら、日本画家の神楽坂道夫さんとか担当してるよ」


「・・・ふうん・・・」


 哲が話すのは海外の作品ばかりだったので、日本画家のことはほとんど知らなかった。出展したコンテストの展示会には見に行くが、他の作品には目が行かなかった。


「大きい仕事とかあるかもよ? 知り合いの頼みとかじゃなく」


「まぁ、芸術って感性だからね。正直、俺にも何がよくて何が悪いのかわからないんだよ」


 耳が少し赤くなっていた。ビールを一気に飲んだからだろうか。


「・・・そうだな。そこが難しいんだよね。芸術の魅力でもあるんだけど」


 箸を置いてビールを飲み干す。ワイシャツの袖からブルガリの腕時計が見えた。


「翔はもう描かないの?」


「俺は、もういいんだよ」


「・・・・」


 沈黙が振り落ちた。窓の外から雨音が聞こえる。植月さんが絵を描くのを辞めてしまった理由を聞いたことがなかった。哲は何か知っているのだろうか。


「やっぱ肉多くない? 水菜とか超少ないじゃん」


 突然、空気を切り替えた。


「文句言うなら哲作ってよ」


「だって、料理できないし」


 口を尖らせていた。斜め前で植月さんが表情を緩めた。


「美術のセンスがある人って、料理も上手いらしいよ。哲もやってみればいいのに」


「この前、豚の角煮なら作ったよ」


「お、すげぇじゃん。難しかったでしょ」


「それで鍋を一つダメにしたんですよ。醤油の焦げ目が取れなくて」


 ポケットの中で携帯のバイブが鳴った。手のひらで押さえつける。すぐに確認したかったが、今、二人の前でお客さんのメールを取りたくなかった。


 雨脚が強くなっているのだろうか。車のタイヤの音がやけに煩かった。食べ終わった皿を下げていく。牛肉はほとんど無くなり、豆腐とえのきが少しだけ残っていた。


 哲は植月さんを駅まで送りに行くと言って、さっき出て行ったばかりだった。泊まっていくように勧めたが、明日も残った仕事をしに出勤しなければならないということで帰っていった。二人がいなくなると、急に部屋が冷たくなった。


 今日も朝まで絵を描くのだろう。植月さんと話してさらにイメージを掴んだと言っていた。話している途中から、すぐにでも描きたくてうずうずしているように見えた。絵も早く完成されることを望んでいるのだろう。描きかけにも拘らず、キャンバスから沸々としたエネルギーが漂っているのを感じた。


 哲の絵は、哲の手を求めているのだと思う。でも、私の小説は私のことを求めているとは思えなかった。いつか手放してくれるように、距離を置いているようにさえ思えた。


 水道の蛇口を捻って、皿を水に漬ける。さっきのメールは誰からだったのだろう。タオルで手を拭いて、携帯を取り出した。青い光が点滅している。名前が出ていなかった。ローマ字のメールアドレスが表示されていた。


 メールを開いてみると、本文の始めに『瀬谷徹』という文字が書いてあった。胸が締め付けられるようだった。昨日の夜、隣に座っていた大福のような顔が頭に浮かんでくる。特に何が書いてあるというわけではないが、ほのぼのとした光に包まれるような嬉しさがこみ上げた。本当にメールが来るとは思っていなかった。


 誰にでも出せるような、当たり障りの無い返信のメールを打っていく。親指が固まっていた。彼はお客さんの一人だった。いつものような営業メールをするだけだ。興味はあるが、それ以上のことはないのだ。


 皿から水が溢れていく。送信中の携帯を持ったまま、皿の中を眺めていた。哲はどれくらいしたら戻ってくるのだろう。水面に映る自分の顔が、波紋の中でゆるゆると歪んでいった。


「・・・もしもし、古河です」


『あ、古河さん。花木です。お疲れ様』


「はい・・・」


 ベッドの横にある時計を見ると、もう十二時になっていた。目を擦りながら身体を起こす。


『今大丈夫?』


 張りのある声が耳元に響いた。


「・・・はい・・・」


『その後小説どう?』


「・・・まだスランプから抜け出せない感じです・・・」


『そっか』


 剥いだ布団を壁際に寄せる。本当にスランプなのかは自分でもわからなかった。


『実はその件で電話したんだ。今更言いにくいんだけどさ・・・・』


「・・・はい?」


『二章から全部書きなおせる?』


「え?」 


 寝起きで頭が働かない。携帯を両手で握り締めた。


「二章からですか?」


『そう』


 頭からつま先まで冷たくなっていった。


『うちの部長から言われてさ。もし、また本出したかったらもっと斬新な展開を出してって』


「斬新ですか・・・」


 この数ヶ月間に書いたものが全て無駄になってしまう。二百枚以上書いた小説を白紙にして、一から書き直せという意味だった。


『来月の頭に一回見せてもらっていい?』


「・・・はぁ・・・・」


『メールにも書いたけど、ちょっと今のままじゃありきたりだから』


「はい」


 段々と早口になっていた。携帯の向こうで、電車ホームのアナウンスが聞こえる。


『あれじゃあ、その辺の学生のほうが書けてるって。うちもこのままだとちょっと厳しいからさ・・・』


「・・・・・」


『ごめんね。でも、うちの上司から言われたことだから』


「・・・はい・・・・」


 画面の暗くなったパソコンを見つめる。きついことは言われ慣れてしまっていた。


 今日はあまり書く気がしなかった。まだ夢の中にいるように力が抜けている。ベッドから降りると、足の裏がずっしりと重みを感じた。身体を引き摺るようにして、ふらふらと寝室を出て行った。


 きっちりと閉まったカーテンが午後の日差しを溜めている。スケッチブックが川の流れを描いたページを開いたまま、イーゼルの横に立て掛けられてあった。グレーに染まった手ぬぐいがソファーの下に置いてある。二つのペインティングナイフが筆を照らしていた。


 哲が寝返りを打った。ほっそりした腕で目元を隠すようにして、ソファーに埋もれている。膝まで捲られたスウェットには油の痕がついていた。 


 ソファーの背凭れに手を載せる。描きかけの絵を眺めた。一晩越えるごとに、着実に色を深めていく。夜は一番感性が研ぎ澄まされると言っていた。冷静に自分の感性を見つめることができるらしい。


 芸術家は夜の世界の人間なのだと思う。闇の中から魂が思う形を剥ぎ取っていく。その姿は奇妙であり、知的であった。憧れているのだと思う。哲の作り出す一瞬は、人の頭に焼きつく美しい世界だった。この世界を見抜ける目が羨ましいと思った。


 絵に背を向ける。手でソファーを伝っていった。


「・・・今、何時?」


 哲が腕を伸ばしながら起き上がった。


「起きてたの?」


「起きた」


「十二時ちょっと過ぎだよ」


 跳ねた髪を掻いていた。


「昨日、翔を送っていって・・・。あ、そのまま絵を描いてたのか。気づいたら寝てた」


「お腹出して寝てたっしょ。風邪引くよ」


「・・・あぁ。そかも」


「植月さん大丈夫だった? 相当飲んでたけど」


「あぁ・・・、終電に間に合ったから・・・」


 ぼうっとしながら絵を見ていた。シャツを捲ってお腹を摩っている。


「ねぇ、哲・・・」


「ん?」


 哲の隣にぺたんとお尻を落とす。


「植月さんっていつから絵を描かなくなったの?」


 貼り付けたように冷静な横顔だった。


「俺が地域の絵画コンクールで入賞してから」


「・・・そう」


 会話が途切れた。発する言葉に初めての歪みを感じた。イーゼルが作るような細長い影が見えた。絵を眺めていた顔が、ふいにこちらを向く。瞳に薄暗い光を湛えて、私の表情を確認しているようだった。


 哲の手に触れる。生温かかった。自分と哲との間に硬い壁が作られているのを感じた。無言の時間が流れる。網戸からささやかな風が吹き込み、カーテンが少し揺れていた。添うことのできない重々しい空気に、自分も取り込まれていくのを感じていた。


 クローゼットに並んだワインレッドのドレスを取り出す。今日はお客さんが来る予定がなかった。二ヶ月前からメールしている人が来る予定だったが、出張でキャンセルになってしまった。一人もお客さんを呼べない日はお店に行きにくかった。


 結婚指輪を右指にはめる。時々出会った頃が懐かしく思うことがある。安いアパートの隅で芸術が創られていく様子を、何も考えずに眺めていた。狭い部屋の天井にはいつも蜘蛛の巣があり、洗濯物は洗濯機から溢れ出していた。文句を言いながらも、何時間でも丸くなった背中を見つめていた。震えるような感性に、惹かれていくばかりだった。


 哲はまだ絵の前で寝ていた。こんなに睡眠をとるのは久しぶりだった。連日の疲れが出ているのだろうか。サランラップをかけた野菜炒めとご飯をテーブルの上に置いておいた。きっと、食べるのは十時過ぎだろう。リビングは涼しいので、数時間置いても悪くはならないと思った。


 化粧ポーチを鞄の中に入れた。手鏡でつけ睫毛がずれていないことを確認する。アイシャドウが薄めだったがどうでもよかった。今日は指名客が来ないので、ボーイが何も言わない限り誰も気づかないだろうと思った。


 布団の上に置いてある携帯電話が点滅していた。手に取って画面を開く。名前が表示されていなかった。


「もしもし・・・」


『もしもし、アイさん?』


「はい?」


 聞き覚えのない声だった。鞄を持って廊下に出る。 


『覚えとるかな。瀬谷やけど・・・』


「あぁ・・・」


 心臓がドクドクと脈を打った。小走りで玄関のほうへ向かう。


「覚えてますよ」


『ホンマ?』


「・・・メール、ありがとうございます」


 靴の踵を踏んだまま鍵を閉めた。


『アレな・・・何書いとったっけ?』


「ほら、お酒よく飲むかとか・・・」


『あ、そうやったな』


 口籠った声だった。緊張しているのだろうか。


「今日はどうしたんですか?」


『いいや。ただ声聞きたくなってん』


「・・・・」


 錆びた手摺に手をかけて、階段を下りていく。ヒールの音が響いていた。


『今暇?』


「そうですね・・・」


 時計を見る。店入りまで二時間近くあった。


『アイさん今どこにおるん?』


「・・品川の近く・・・」


『すげぇ、めっちゃ近いわ』


 嘘をついた。いつもお客さんと会う場所だった。


『ちょっと話さへん?』


「え?」


『俺、今仕事終わって田町にいるん。あと・・・、せやな・・・。十五分くらいで着くから』


 電信柱の前で立ち止まった。セブンイレブンのビニール袋がくしゃくしゃになって落ちている。


「あ、でも・・・ちょっと用事があるので、三十分後にしてもらえますか?」


『ええよ。でも、大丈夫なん?』


「うん」


 携帯を持ったまま、大きく頷いた。


『じゃあ七時三十分に駅の改札な』


「うん」


 電話が切れた。携帯をポケットに入れて二階の部屋を見上げる。カーテンを閉め切ったまま、電気は付いていない。額に滲んだ汗を拭った。ただお客さんと会うだけだったが、哲には知られたくなかった。


 錦糸町から品川まで約二十分ある。会っても一時間半くらいしか話せなかった。ドレスの入った紙バックをきつく閉める。白い街灯の光が指輪を照らし出していた。深呼吸をすると、手の緊張が解けていった。また会えることが純粋に嬉しかった。怖くなるほどに、心がざわめきだすのを感じていた。


 品川は夜になると帰宅するサラリーマンで溢れている。電車の窓が湿気で曇っていた。三十代くらいの女の人が押しつぶされそうになりながらつり革に掴まっているのが見える。人の流れに逆らうようにして、階段を駆け上がっていった。


 歩きながら、閉じた携帯を見つめる。つい数分前に、三ヶ月前に店に来ていた本多さんからメールがあった。今週の金曜日に出張で宮城から東京に来るらしい。帰りに店に寄ってくれると書いてあったが、まだ返信していなかった。明日でもいいと思った。


 右手の指輪を摩った。いつもより熱を持っている気がした。身体から離れることのできない輝きを放っていた。薬指の付け根まで押さえ付ける。


 山手線、京浜東北線のホームに向かって黒い人だかりができていた。瀬谷さんはあちらのホームから来るのだろうか。約束の時間まであと五分あった。数分前の電話越しの声が、まだ耳に残っている。何度も何度も思い出していた。人を避けながら改札を抜ける。顔を上げると、時計の針が一分動くのが見えた。


「ども」


 瀬谷さんが改札から出て来た。斜めがけの鞄を後ろにやって、ハンカチで汗を拭いている。


「久しぶり・・・かな?」


「先週会ったばっかやん」


 白い頬をふわふわさせる。ワイシャツが膨れながらベルトに収まっていた。


「そっか」


「今日ホンマに大丈夫やったん?」


「うん」


 少し周りを見渡した。


「どこ行きたい? なんかある?」


「特に・・・、何でもいいですよ」


「じゃあ、階段下りた辺りにイタリアンとかあったからそこにしよ」


「うん」


 大きな身体が港南口のほうを向いた。距離を縮めるように付いていく。


「いつも仕事が終わるの、この時間なんですか?」


「今日はたまたま。最近は終電近くやな」


「いいんですか?」


 バックの皮を握り締めた。


「何が?」 


「・・・婚約者さんとなんかあったんですか?」


「ううん。なんも」


 横を向いたまま話していた。サラリーマンにティッシュを配っているのが見える。


「ここら辺、結構美味しい店あるんやで」


「よく来るんですか?」


「昔プロジェクトがこっちのほうやったん」


「プロジェクト?」


「IT関係の仕事やってるん。取引先がこっちのほうやったからな。遅くなった日はここら辺の居酒屋で、よく上司の愚痴言ってたわ」


 短い髪の間から滴る汗を拭いていた。きちんと折りたたまれたハンカチだった。


「今日は仕事ないん?」


「・・・うん」


 紙バックを隠すように持ち直した。お店には行きたくなかった。


「そっか。よかったわ」


 エスカレーターを降りていく。交番の赤いランプが見えた。


「変なお客さんとかも来るやろ」


「うん・・・」


「嫌やないん?」


「・・・・」


「やめたらええのにな」


 タクシーが目の前を通り過ぎていく。声が車の音に解けていった。


「あ・・・ここ」


 人差し指を指す。四階の窓にイタリアの国旗が下がっていた。同伴前にこの道を通っていたが目に入らなかった。


「本当はランチがおいしいんやけどな」


「よく行ってたんですか?」


「午後から打ち合わせとかない日は。じゃがいも食べ放題なんやで」


「じゃがいも?」


「そう。パンじゃなくてじゃがいも」


 エレベーターのボタンを押す。扉の赤いペンキが剥がれかかっていた。


「食べれないもんやで。俺でさえじゃがいもは二つくらいやったもん」


「瀬谷さん、すごく食べそうなのに」


「うるさいわ」


 自然と笑みがこぼれた。エレベーターの扉が開く。


「どうして急に誘ってくれたんですか?」


 四階の行き先階ボタンを押す。淡いピンク色に濡れた爪を眺めていた。


「知らん」


 動かない時が流れる。エレベーターの表示が静かに変わっていった。


 壁際にワインのボトルが並んでいる。カウンターの上には黒板に本日のお勧めメニューが書かれていた。明かりを落とした店内で、キャンドルライトがテーブルの上を照らしている。


「このサラダ美味しいです。ドレッシングにアンチョビが入ってるのかな」


「そう?」


「初めて食べる味です」


 ベーコンと松の実がルッコラの上にかかっている。あっさりとしたオリーブオイルのドレッシングだった。


「でも、サラダより肉のほうがいいって。野菜なんて食った気しないやん」


「瀬谷さんが頼んだの揚げ物ばっかりじゃないですか」


「そういやそうやな」


 ガーリック風味のポテトフライをつまんでいる。見るからにカロリーが高そうだった。


「太りますよ」


「もう太ってるもん」


 ほっぺに塩がついていた。トングを丸皿に載せる。


「アイさん、本名は何て言うの?」


「静香です」


「静香さんね。そっちのほうがいい名前やな」


「ありがとうございます」


 油のついた手がぐしゃっと丸めたお絞りに伸びた。


「普段文章書く仕事してるんやろ?」


「うん」


「どうゆうの書くん?」


 取り分けたサラダを口に運ぶ。オリーブオイルが皿の上に残った。


「小説」


「すごいやん。本とか出してるの?」


 身体を軽く前に乗り出した。


「・・・今度出す予定です」


 シェルクラブのから揚げにレモンを絞った。丸い目がこちらを見ていた。


「小説ってどうやって書くの?」


「どうやって?」


「何見て書くん?」


「・・・本とかたくさん読んで・・・。あとは、自分の中で想像して書くかな」


「へぇ・・・。俺なんか最後に小説読んだのいつやったかな。前過ぎて思い出せんわ」


 焼酎の氷が溶け始めている。瀬谷さんの右手の薬指にはシルバーリングがはめられていた。


「でも、小説書けるからって上手いわけではないですよ。指摘ばかりです」


「書けるだけですごいって」


 膝から落ちそうになったナプキンを抑えた。


「瀬谷さんは芸術に興味ないんですか?」


「芸術? 例えば?」


「絵とか・・・」


 指輪がオレンジカクテルのグラスにあたった。


「そうやな・・・、入り口に船の絵掛かってるやろ?」


「うん」


 ドア付近を指していた。木でできた枠にB3くらいの絵が掛かっている。


「あの絵も、教科書に載ってた絵も、違いがようわからん」


 マシュマロのような頬を持ち上げる。隣のテーブルでシャンパンを開けていた。コルクの外れる音が聞こえた。


「どんな仕事してるんですか?」


「俺SEやねん。だから、主にプログラムの設計書作ったりかな・・・」


 横に置いてある鞄を叩いた。パソコンが入っているのだろうか。チャックがはち切れそうだった。


「SE? プログラム?」


「不動産や銀行とかの個人情報あるやろ。それって裏でPCが管理しとんねん。そうゆうユーザー向けのソフトをつくっとる・・・つってもわからないやろ?」


「そうですね。全然・・・」


「そりゃそうや」


 じゃがいものスープにスプーンを入れていた。クルトンが中に沈んでいく。


「夜遅くまでかかるんですか?」


「バグとか出したらな」


「バグ?」


「プログラムが正しい命令されてないとテストした時不具合が出んねん。そしたらその対応で夜までかかるな。あとは夜から朝までテストするとかも普通やな」


「へぇ・・・」


 想像のつかない世界だった。夜遅くまで明かりの付いたビルから出てくる人たちは、こうゆう世界に生きているのだろうか。


「不具合ってバグって言うんですか?」


「そうや」


 グラスに口紅の痕が付いている。カクテルを喉に流した。


「じゃあ、私の小説はバグだらけかもしれないです」


「ん? どうゆうこと?」


「編集者から注意されてばかりです」


「そうなん?」


「注意されてばかりで、もう何がよくて何が悪いのかもわからないんですよ」


 蝋燭の明かりのような瞳を見つめる。溜めていたことがすらすら出てくるのは、自分と全く違う人と話しているからだろうか。


「小説って間違いないように見えるけどな。俺には何がいいのかさっぱりや」


「そうですよね」


 手の汗が引いていく。顔の筋肉が解けていくような心地がした。


「この海老うまいよ。絶対北海道のだって」


 トマトクリームパスタを食べていた。口周りがオレンジ色になっている。


「海老って北海道だったかな? あまり聞かない気がしますけど」


「なんや。自分の地元のものわからんの?」


「しばらく帰ってないのでよくわからないです。イカとかカニなら有名ですよ。安くて美味しい店がたくさんあって、・・・・・・」


 パスタをフォークに絡める。海老がバジルを付けたまま麺の中に入っていた。カウンターに座っている人にシャンパンを差し出しているのが見える。ナプキンで口元を抑えて、小刻みに頷く。瀬谷さんの話を聞いていると、鬱々と悩んでいたことが何でもないことのように思えた。


 テーブルの上で携帯が鳴った。お店からだった。


「ええよ。出て」


 から揚げを口にほおばりながら首を縦に振った。


「じゃあ、すみません。ちょっと待っててください」


 席を外して通話ボタンを押す。頭の上に垂れ下がっている観葉植物を避けた。なるべく瀬谷さんの見えないところまで歩いていった。


「・・・もしもし」


『あ、アイちゃん?』


「はい」


『ミルナイトの太一です。今大丈夫?』


 携帯の向こうで、ボーイの朝礼の声が聞こえた。


「はい」


『今日どうしたの? アイちゃんまだ出勤の連絡ないけど?』


「・・・すみません。今日体調崩してしまって、休んでもいいですか?」


『そっか。大丈夫? ちょっと待ってね・・・、今日は人数多いから休んでもいいかな』


 出勤名簿の紙を捲る音が聞こえた。


「本当ですか?」


『うん。指名の約束とかないよね?』


「はい。今日はないです」


 胸を撫で下ろした。両手で携帯を握りなおす。


『お大事にね。次の金曜日は人数少ないから、それまでに治してほしいな』


「はい、わかりました」


『はい、じゃあね』


「失礼します」


 電話を切って親指で画面を拭く。ウェイトレスがグラスを載せたトレンチを持って、狭い通路を器用に潜り抜けていった。瀬谷さんの方を見る。ドリンクメニューを見ているようだった。


「ごめんなさい。なんかドリンク頼みますか?」


 席に座って、携帯を鞄のポケットに仕舞った。グラスにはまだ焼酎が半分以上残っている。


「いいの? 帰らなくて」


「え?」


 ドリンクメニュー越しに、こちらに顔を向ける。目を合わせないでいるようだった。皿に載せたフォークに触れたまま、硬直した。


「これ、食べたら帰ろっか」


「・・・何で? まだ、大丈夫ですよ」


「でもほら、俺も明日までの仕事あるから」


「・・そうですか・・・・・・」


「いきなり誘ってごめんね」


 閉じたメニューを見つめていた。天井のライトがお互いの指輪を撫でるように反射させている。電話を聞かれていたのだろうか。それとも、何かを勘付いたのだろうか。


 お酒を飲むペースが速くなる。さっきよりも会話が少なくなった気がした。料理がなくなり、食器の彩りも徐々にまっさらになっていく。


 時折、無理やり遠ざかろうとしているのを感じた。お店のことも哲のことも頭に浮かぶことはなかった。でも、何を思われても仕方ないと思う。膝の上のナプキンを畳んで、テーブルに載せた。ドレスの入ったバックが視界に入る。心の中を雫が流れていくようだった。音のないまま、悲しさが込み上げていた。


「あれ? 早上がりしたの?」


「うん」


 哲がテーブルの椅子に座っていた。本棚の横にあるテレビにはお笑い芸人が映っている。キッチンに置いた時計が二十三時半を指していた。


「何かあったの?」


「ううん。人数多かったから早く上がってきちゃった」


「そっか」


 後ろの髪が逆立っている。カップに入ったコーヒーを飲み干していた。


「小説のスランプ、抜け出せそう?」


「・・・うん・・・いいネタが見つかりそうかな」


「よかったね」


 手を洗いながら洗面台に映った自分の顔を見つめる。数時間前出て行った時と同じ表情だった。タオルの糸くずをゴミ箱に捨てる。


「哲がテレビ見てるなんて珍しいね」


「久しぶりにつけたら面白くて」


「ふうん」


 洗面台にはお椀と皿が水に浸けてあった。心が鈍い痛みを感じる。


「この番組面白いんだよ。芸人が一人ずつすべらない話を言っていくんだけど・・・」


「ごめん・・・」


「?」


 薄い身体を捻るようにしてこちらを向いた。


「なんだか体調悪いの。化粧落として、もう寝るね」


「ん? 大丈夫?」


 身体を前に倒すようにして、顔を覗き込んだ。


「うん」


「どうしたの? 風邪?」


「ううん。ここのところずっと小説書いてたから、疲れが出たんだと思う」


「そっか。ゆっくり休んだらいいよ」


 疑いのない声が耳に触れる。重ねた嘘が鉛のように感じた。


「今日も朝まで絵、描くの?」


 バックの底からポーチを取り出す。ビューラーを避けて、メイク落としシートを引っ張った。


「うん。一気に仕上げようかなって思ってる」


「そっか」


 つけ睫毛をティッシュの上に載せる。瞼にシートを押さえると、べったりとアイシャドウが張り付いた。ラメが小さな泡の中に染み込んでいく。




 電気を消してベッドに横になると、すぐにテレビの音が聞こえなくなった。絵を描き始めたのだろうか。新聞紙の上を丸椅子が擦れる音が聞こえる。パレットに色を落としていく姿が浮かんでいた。


 うっすらと開いた網戸から入る風に、カーテンが柔らかく震えている。広いベッドだった。手を伸ばしても、足を伸ばしても、一人分の隙間が残った。布団を剥ぐようにして低い天井を見上げる。


 瀬谷さんに送ったメールの返信が来ることはなかった。きっと、婚約者と一緒にいるからだろう。熱のままに、メールしてしまったことに後悔していた。何を書いたわけではないが、彼女には絶対に見られてはいけないのだと思った。


 夜が長く感じるのは、小説を書かないからだろうか。それとも、瀬谷さんと会っていたからだろうか。頬を膨らませて笑う表情が記憶から離れなかった。彼から愛されるのはどうゆう気持ちなのだろう。そばにいる彼女は、夜が短く感じるのだろうか。


 パソコンの画面が闇の中に消えていた。カーテンの隙間からマンションの電球が見える。布団から出した肌が熱を失っていった。洗い立ての枕カバーに頬を載せると、瞼がうつろうつろ落ちていく。いつのまにか夢を見ていた。スケッチブックを捲る音が、瞼の中に溶けていった。




 昨日浸けてあった洗面台の食器は、水滴を落とされて棚に戻っていた。冷蔵庫を開けて、食パンと牛乳を取り出す。卵とベーコンと調味料くらいしかなくなっていた。あとでスーパーに行かなければいけないと思った。


 哲は急遽、美術商の人との打ち合わせが入ったらしい。体調を気遣ったのか、テーブルに走り書きした置手紙が載っていた。シャワーから上がったときにはもうお昼を回っていたので、何時に家を出て行ったのかわからなかった。


 チャイムが鳴る。注いだ牛乳を置いて、椅子に掛かったパーカーを羽織った。誰か来るのに心当たりがなかった。哲からも何も聞いていなかった。新聞の勧誘かNHKの集金だろうか。


 小さな穴から外を覗く。青いTシャツを着た植月さんが立っていた。鍵を廻して、ドアを押す。


「静香さん。こんにちは」


 真っ白な歯を見せて、軽く頭を下げた。


「どうしたんですか? 会社は?」


「ん? 哲から何も聞いてない?」 


「はい。哲も午前中にすぐ出てしまったので・・・」


 垂れた前髪を耳にかける。


「え? あいついないの?」


「何か用事あったんですか?」


「今日は会社代休もらったから、一緒に画材買いに行く予定だったんだけど。忘れてんのかも・・・」


 手で日差しを避けるようにして、大きく目を開く。


「一緒に?」


「うん」


「植月さん、絵描くんですか?」


「うん・・・まぁ・・・これからね」


 髭のない顎を擦った。ユナイテッドアローズのロゴが入ったリュックが肩から滑っている。


「・・・とりあえずまた出直すよ。ごめんね。哲、叱っておいて」


 一歩引いて、目の位置にある肩を横に向けた。


「あ・・・哲はいないんですが、せっかくだからちょっと上がっていきませんか?」


 段差に片足をかけたまま、動きを止めた。


「いいの? 俺来るって聞いてなかったんでしょ?」


「大丈夫ですよ。あんまり片付いてないですけど、久しぶりですし・・・」


「そう? じゃあ、お言葉に甘えて・・・」


 植月さんを通して玄関のドアを閉める。熱風が遮られた。トラックがウィンカーを点滅させながら電信柱の横に止まっているのが見えた。


「冷たいコーヒーでいいですか?」


「あぁ、気を遣わせちゃって悪いね」


 グラスの氷を伝うようにして、ペットボトルのコーヒーが流れていく。手元から苦い香りがした。


「いえ・・・」


 リュックをフローリングに置いて、ハンカチで首を拭いていた。


「外暑いんですか?」


「日差しが痛いくらいだよ。仕事で外回りだときつくて・・・。そっか、静香さんは日中外に出てないの?」


「あんまり出ないですね。完全な夜型です」


「そうだよね。あ、ありがとう」


 グラスの横にガムシロップを置いた。


「それ、朝食?」


「朝食というか、昼食というか・・・。起きたらお腹空いたので」


「ごめん。起こしちゃった?」


「いえ、一時間前に起きたんですけど、色々やってたら時間が経っちゃって」


 いつも哲が座っている場所に腰を下ろす。同じ椅子だったが、肘掛の幅が広く感じた。


「家事大変だよね」


「そんなに大したことしてないですよ」


「いや、俺もやってるからよくわかるよ」


 ちぎったパンにマーガリンを塗る。


「結婚すればいいじゃないですか。仕事と家事だから大変なんですよ」


「一人に慣れちゃったんだよね。料理とか結構楽しいし」


 コーヒーを一口飲んで隣の部屋のほうを見ていた。日差しが遮光カーテンに透けて、フローリングにレースの影を掛けている。


「普段何作ってるんですか?」


「カレーとかコロッケとか、何でも作るよ」


「へぇ・・・。あたしより作ってるかも・・・」


 手についたパンの屑をほろった。手を拭いて、イチゴジャムの蓋を閉める。


「この前、アボカドグラタン作ってさ」


「美味しそう」


「お勧めだよ。簡単だから、今度レシピ教えてあげるね」


 グラスの底に溜まったガムシロップが揺れた。指でグラスの模様を触る。


「植月さん、絵、描き始めるんですよね?」


「・・・うん、まぁね」


 軽く頷いて、テーブルの横で足を組んだ。


「そうですか・・・。急に、びっくりしましたよ」


「ん?」


 一瞬、太い眉が動いた。


「何で?」


「だって、ほら・・・。ずっと『描かない』の一点張りだったのに」


「あぁ。でも、哲が描いてるの見たらやっぱり自分も描きたくなっちゃって」


 筆先で感性を突くようなキャンバスの絵が牛乳の中に浮かんできた。グラスを置くと、水面が静かになっていく。


「もともと描いてたんですよね」


「そうだね。もう五年くらい前か・・・。静香さんが学生のときだもんね」


「すごく上手かったって聞いてます」


「・・・哲か・・・」


 顔を下に向けて、少し微笑んでいるように見えた。


「昔からあいつの才能には負けるよ」


「またまた・・・」


「いや、本当だよ」


 首を横に向けた。薄い壁越しにあるキャンバスを見透かそうとしているようだった。


「・・・どこから湧き出てくるんだろうな。あの想像力・・・」


「そうですね」


「羨ましいよ。本当に」


 グラスの縁を座りながら、鈍い瞬きをしていた。テーブルから手を離す。哲のいないところで植月さんといると、自分と重なるものが浮き上がって見えた。午後の日差しがグラスを通して、テーブルにひんやりとした影を描いていた。


 哲が帰ってきたのは六時過ぎだった。ちょうど家から出るところだったので、打ち合わせの内容は詳しく聞けなかった。帰って来るなり、着慣れないワイシャツを椅子に被せて、ソファーに雪崩れ込んでいった。昨日の昼からほぼ寝ていないのだろう。植月さんが夕方前に帰ってしまったことを伝えると、飛び上がって鞄から携帯を探していた。完全に忘れていたようだった。


 甘いシャンパンが舌の上でとろける。紫色のレースが膝を流れた。


「本多さん、本当に来てくれると思わなかった」


「だって、久しぶりにアイちゃんの顔見たかったし」


「あたしも本多さんに会いたかった」


 シャンデリアのライトに薄くなりかけている頭が照らされている。丸まったスーツの上着から、アルマーニの香水の匂いがした。


「でも、あんまり長居すると奥さんとお子さんに怒られちゃいますよ」


 かさかさの唇が加えたタバコに火を点ける。ライターの金具が熱くなった。


「明日の朝に帰るから大丈夫」


「今日は東京に泊まりですか?」


「そう」


「じゃあ、長く居られますね」


 レースのカーテンにタバコの煙が巻き付いた。ポーチのポケットにライターを入れる。


「一緒に泊まってもいいんだよ」


「え・・・」


「アイちゃん可愛いね。前会ったときよりおっぱい大きくなった?」


 交差したドレスの胸元をまじまじと眺めていた。ハンカチを強く握った。


「え、どうかな・・・」


「触りたくなっちゃうな」


「・・・・」


「ちょっとだけ・・・」


 ボーイの明さんがトレンチを持ったままこちらを気にしていた。カーテンの隙間を縫うようにして、堀の深い目を光らせていた。


「駄目ですよ。そうゆうことしちゃ」


 膝から離れようとした手を押え付けた。触れるのも嫌だった。


「はぁい」


 鼻の下を伸ばしたまま、甘えた声を出した。顔の皺に熱が入り込んでいる。カウンターのほうを見ると、太一さんと目が合った。


「失礼します。アイさん」


「はい」


 太一さんが手を向けた。昨日入ったばかりのサキちゃんと明さんが、こちらを見ながら話をしていた。


「ごめんなさい。呼ばれちゃいました」


「えぇ・・・今席に着いたばっかなのに・・・」


 シャンパンを一気に飲み干した。お酒が全身に回っていった。


「ちょっと外すだけですよ。またすぐに来ますね」


 薄いカーテンを持ち上げた。お店のドレスを着たサキちゃんが笑窪を作りながら、膝を曲げてお辞儀をした。


「ご紹介します。昨日から入りました、サキさんです」


「サキです。宜しくお願いします」


 灰皿から一筋の煙が伸びていった。名刺をグラスの上に載せる。


「じゃあすみません。ちょっとだけ失礼します」


 すれ違いにストロベリーの香りがした。背中からサキちゃんのおっとりした声が聞こえた。逃げるようにカーテンを開ける。明さんがインカムを持って、他のボーイに指示をしていた。


「アイちゃん大丈夫だった?」


 太一さんがインカムを抑えながらこちらに歩いてきた。


「大丈夫じゃない。もうあのお客さん嫌です。いきなり触ってこようとするんだもん。もう二度とVIPは勧めないでください」


 ポーチのチャックを閉めると、右手の人差し指が震えているのに気づいた。


「まぁまぁ、ちょっと疲れたでしょ。少し休んでていいよ」


「・・・更衣室で化粧直してきます」


「はいはい」


 鏡窓に待機している女の子たちが映っていた。巻いた髪にはラメが散りばめられている。更衣室のほうへ向かうと、エレベーターから降りてきたハナちゃんとすれ違った。常連のお客さんと腕を組んで、グランドピアノの奥にあるVIP席へ消えていくのが見えた。


 鏡台の椅子に腰を下ろす。ヘアピンやワックスは箱の中に収まっていて、一切人の気配を感じさせなかった。睫毛が長く、ファンデーションで顔の白くなった自分と向かい合った。 


 触ろうとするお客さんは初めてではなかった。今までは何でもなかったことが、灰色に見えていた。奥歯を噛み締める。この仕事が憂鬱なものに感じていた。舐めるような視線にむかむかした。なぜだろう。見えていたものがいきなり逆転してしまったようだった。本多さんだけではなく、常連のお客さんにメールすることさえ面倒だった。


「あ、お疲れ」


「お疲れ様です」


 ハナちゃんが鏡越しににっこりとした。水玉模様のポーチに長い髪が掛かっている。


「アイちゃん、今日は同伴?」


「店前同伴だけどね・・・」


 溜息混じりに答えた。


「お疲れ気味?」


「うん・・・。今日はもうホールに戻りたくない・・・」


「そうゆう日、ありますよね。ハナもこの前・・・・」


 猫のような声がホールの音楽に霞んでいく。蛇口をひねって両手を水に浸した。マニキュアを塗った爪の先から、白く濁った水が小さく膨らんでいた。


「ただいま」


 サンダルのベルトを外して、擦り切れた革靴の横に置く。夜中の二時を過ぎていた。携帯を鞄の奥に放り込む。フローリングを歩くと、足の裏が冷たくなっていった。閉め切ったドアから椅子をずらすような音が聞こえる。


 部屋の前に立つ。油絵の具の香りが鼻を突いた。


「・・ただいま」


 筆とキャンバスの間にほんの少し時間ができた。音を立てないようにしながら、背中でドアを閉める。


「・・・・ん、おかえり」


 背を向けたまま声を出した。キャンバスと照らし合わせるようにして、パレットに色を落としていく。イーゼルの位置が昼間に見た時よりも右に動いていた。新聞紙には蓋の開いたチューブが散らばっている。旅館のタオルの半分が赤と緑に染まっていた。 


 バックをフローリングに置いて、哲の後ろに座る。ソファーの革が湿気で肌に貼りついた。


 パレットに調合油が滴り落ちる。川に付く細い枝を描いていた。背中から見える情景は凛とした感受性が広がっている。部屋の空気が哲の色を帯びているのを感じた。背凭れに体重を落として、キャンバスを眺める。小指程しかない筆を動かすと、少しずつ川が流れ始めるのがわかった。


 タバコの匂いが染み付いた髪に、画材の香りが覆い被さった。哲の知性が絡みつき、心を繋ぎ止めていく。こちらを振り向くことはなかった。細い筆から生まれる絵が徐々に哲を支配しているように見えた。 


 美術商との打ち合わせはどうだったのだろう。新しい仕事を貰えたのだろうか。植月さんとは何を話したのだろう。新しい画材を買ってきたのだろうか。


 黙々と絵に打ち込む姿を見ると、話しかけることができなかった。タオルと指を使って絵の具を伸ばしていく。手のひらが緑色になっていた。結婚したばかりの頃は、絵を描いている時でも何気ない話をしていた。夕食の話や画家の話、小説家への夢を語ることもあった。手首を唇にあてる。口を噤んでしまうのは後ろめたい気持ちがあるからだけだろうか。


 携帯を持ったまま横になった。頭のクッションが固くて首が痛かった。緩やかに巻いた髪を撫で付けて、もう一度ソファーに体を埋める。筋の張った腕は止まることなく描き続けていた。


 筆のリズムが心地いい。透き通るような紅葉の葉を見つめながら、瀬谷さんからのメールを待っていた。時間が経つ毎に目蓋が落ちてくる。哲は何を思っているのだろう。気づいた頃には、見えなくなるほど遠く離れたところにいた。


 ソファーに納まるように、身体を丸く縮める。花びらのように、心がしっとりと濡れているのを感じた。


 遮光カーテンの隙間から入った光が、目の上に焼き付いた。どれくらい寝ていたのだろう。汗ばんだ手で携帯を握り締めていた。片目ずつ開くと、真っ白で何も見えなくなった。焦点が合い、ゆったりとした川の風景が現れる。色の調えられたパレットが椅子の上に置かれていた。


 お腹にはプーさんの膝掛けが掛けられていた。ふんわりと温かい心地がする。哲はいなかった。身体を起こすと、テーブルにメモが載っているのが見えた。時計の下に掛かったカレンダーを眺める。今日は大学の臨時講師の日だっただろうか。


 洗い立てのバケツに水滴が付いている。膝掛けに手を置いた。爪で弾くようにして携帯の画面を開く。新着メールが一件来ていた。胸が鼓動する。友達用のフォルダの中にも、お客さん用のフォルダの中にも入っていなかった。瀬谷さんからだった。


 下を向くと、指輪が白くぼやけていった。深く目を閉じて、濡れた睫毛を袖で拭う。


 描かれた紅葉を見つめた。木は色を変えて季節を移ろうけど、人の心は色を変えずに季節を移ろう。正直だと思う。哲には私がどう見えているのだろう。もし、人も葉のように色彩を表現できるなら、秘めた想いも美しく見えるのだろうか。


 膝掛けを掴んで顔を抑える。マスカラで端のほうが黒くなっていった。報われない想いだと知りながら、また声を聞きたいと思ってしまう。記憶を研ぐように何度も何度も駆け巡る。ほんの少しの時間しか会えなかった。でも、忘れることができなかった。


 イチョウの葉がひらりと舞った。マルイのショーウィンドウにはチェックのコートを着たマネキンが立っている。リクルートスーツを着た女の子がマルイに入っていくのが見えた。コンタクトレンズのチラシを避けるようにして、新橋駅の改札口へ向かう。


 さっき別れたばかりの瀬谷さんにメールを打っていた。初めてメールした六月から数えて、もう二百件以上が瀬谷さんの名前で埋め尽くされていた。右手の指輪にウエディングドレスを着たテディベアのストラップが触れる。


 画面に瀬谷さんの番号が表示された。着信だった。


「・・・もしもし」


『もしもし、電車乗るとこやった?』


 綿毛のような声が耳に響く。


「いえ、まだ改札の前にいますよ」


『まだ? 遅くない?』


「マルイ寄って行こうかなと思っていたのですが、セールで混んでて・・・」


『そっか。それは早く帰ったほうがええな』


「瀬谷さんは、今駅ですか?」


『そうや。東海道線の電車が遅延してるらしくて、乗り換えがちょっと遅れてるん』


「大変ですね」


『東海道線なのに総武線まで遅延する意味がわからんわ』


 コンビニの前で立ち止まる。午前中に小雨がぱらついたからか、透明傘が並べてあった。


『んで・・・・』


「ん?」


『再来週上司と店に行くことになってん。言うの忘れてたわ』


「え・・・再来週ですか?」


『そ。ま、俺もそんな行きたくないんやけどな・・・』


 コンビニの前で立ち止まる。来週はミルナイトの出勤予定になっていた。


「別の日じゃ駄目ですか?」


『出勤なん?』


 携帯から、電車の通り過ぎる音が聞こえた。


「うん」


『ええやん。そんな気にせんっちゅうに』


「・・・ん・・・」


 遠くへ笑い飛ばすようだった。広場を突き抜ける秋風が髪を撫でる。電車のドアが開く音が聞こえた。


『あ、ごめん。もう電車来たから』


「え、あ・・・」


『じゃ、またメールするわ』


「うん」


 プツっと声が切れた。暗くなった画面を閉じて、バックの奥に入れる。


 電光掲示板を見上げる。ちょうど十六時発の電車が行ってしまった。Suicaをあてて改札を通る。階段から駆け下りて来た女子大生とぶつかりそうになった。


 瀬谷さんとは週一で会っていた。お客さんとして、お店に誘うようなことはしなかった。お互いのパートナーについて話すことはなく、関係は曖昧なままだった。ただ、そばで温もり感じるのが好きだった。長い時間でも、短い時間でも、胸を突く痛みさえ麻痺するようだった。会うほどに、甘い果実を噛むようなじわじわとした愛情が流れた。 


 ホームの椅子に腰を下ろす。ホームレスの人がゴミ箱から雑誌を漁っているのが見えた。アイポッドのイヤホンを耳に差し込む。『TO BE』のところでカーソルを止めた。雑音が浜崎あゆみの声に紛れていった。




 ソファーに座って、白い毛布を膝に掛ける。哲の座っている丸椅子が小さな音を鳴らした。暖房の風が柔らかくなり、床の新聞紙が動かなくなった。


 晩夏にはデパートの画廊で哲の絵を展示していた。美術商を通して著名人からオファーが来ることもあったらしい。哲の全てを把握できなくなっていた。美術商の佐野さんには一度も会ったことがなく、四十代の男性だということを知ったのもつい最近だった。体に合わないスーツを着て外に出ていき、帰ってくると朝まで絵を描いている。一緒にいながら、別の世界の人のようになっていた。 


 パーカーの袖を巻くって、何も描かれていないキャンバスを見つめていた。片腕に挟んだスケッチブックには、片腕を伸ばした女性が描かれている。毛布をお腹まで持ち上げると、ソファーが軋んだ。思い出したように、こちらを振り向く。


「・・・次の絵、決まった?」


「あぁ」


 吹き付ける夜風に、窓が震えていた。


「今回は人物画」


「ずっと前に、スケッチブックに描いてたやつ?」


「あぁ」


「展覧会に出展するの?」


「ううん」


 鉛筆を手の上で回す。丸椅子の下には新しい新聞紙が敷かれていた。


「ただ、描くだけ」


「何にも出さないの?」


「上手く描けたらコンクールに出そうかなって思ってる」


「そっか」


 哲が何を考えているのかわからなかった。会話の間が長く感じる。


「佐野さんには、コンクールなんて出さないほうがいいって言われたんだよね」


「佐野さんって美術商の?」


「そう」


 一瞬、誰だかわからなくなった。クラブのお客さんと混ざってしまった。


「・・・あたしもそう思う・・・もう賞取らなくても画家として食べていけるんだし」


「でも、わからないんだよね」


「何が?」


「自分の絵をどこにやればいいのかわからない」


「展覧会とかあるじゃん」


「まぁ、そうだけど」


 鉛筆がスケッチブックの上を転がる。


「今回は人物画だし、初めて描くからコンクールに出そうかなって。翔もコンクールに向けて描いてるし」


「植月さんも?」 


「うん。あいつは風景画描いてるけどね」


 嬉しそうな表情を浮かべた。頬に小さな笑窪を作る。


「そうなんだ」


「久しぶりに見たら、学生の頃を思い出したよ」


「植月さんの描いてる絵、見たことあるの?」


「あぁ。この前、大学の帰りに寄ってきたんだ。図面の捉え方とか昔のまんまなんだよ。授業さぼって描いてた頃を思い出すな・・・」


「したら、この数年間描いてないのに全然衰えてないってこと?」


「そう。むしろ目が細かくなったっていうか・・・」


「どんな絵?」


「海とヨットの絵。その海が、なんていうかな・・・。とにかく綺麗」


 空中に鉛筆を動かしていた。


「へぇ・・・」


 数週間前に完成された紅葉の絵を見つめる。部屋の角から、重厚な存在感を放っていた。


「哲がいうならすごいんだろうね・・・」


「静香にも見せたいよ。今度、一緒に翔の家行こう。本当に上手いから・・・」


「そうね・・・」


 心が痛む。毛布のほつれた糸に指を絡めた。


「小説はどうなの? うまくいってる」


「・・・そこそこ・・・」


 嘘をつく。しばらくパソコンを開いていなかった。


「そっか」


 毛布の中で携帯のバイブが鳴った。太ももを抑える。


「・・・じゃあ、あたしもそろそろ小説書こうかな」


 両足を床に下ろす。タオル生地の靴下が新聞紙を滑った。


「哲は今日も朝まで?」


「あぁ。やっと具体的に描き出せそう」


 スケッチブックを指で軽く叩いた。


「その女性像?」


「うん。まぁ、もうちょっと下書きしてからだけどね」


 顔はなかったが、柔らかな雰囲気を感じた。哲の指が、一つ一つの線を丁寧にぼかしている姿が目に浮かんだ。


「風邪引かないようにね」


「あぁ、おやすみ」


 ソファーから離れていく。背中からスケッチブックの上を滑る鉛筆の音が聞こえてきた。携帯が熱を持っている。瀬谷さんからだろう。彼女の寝た頃に、メールをしてきたのだろうと思った。


 平日にも関わらず車の通りが激しかった。排気ガスで曇った網戸に小さな虫が挟まっていた。洗濯籠を抱えて、ベランダに出る。遠くに見える東京スカイツリーが青空まで届きそうだった。一番上で赤いクレーンが動いているのが見えた。 


 哲はソファーで寝ていた。だらんと下がった手はスケッチブックに触れている。画材はイーゼルの作る影に埋もれていた。静かに時間を止めているようだった。


 Tシャツとパーカーを干したところで、洗濯籠をフローリングに置いた。ポケットから携帯を取り出す。金城さんからだった。明日来る予定だったが、リオちゃんを指名するときもあったので自分のお客さんになるかわからなかった。常連だった相島さんも他の子を指名するようになった。最近は営業メールをすることも少なくなっていた。店内の順位も下がって、店長やボーイの視線が痛かった。 


 今の哲の稼ぎなら専業主婦になっても問題なかった。二人で暮らしていくには充分だった。でも、お店を辞めたら瀬谷さんと会えなくなってしまう気がした。植月さんは不振に思っているようだったが、小説の話題作りを理由に続けていた。心が焦がれて、高まる気持ちを止められなかった。


 瀬谷さんは何も思っていないのだろう。いつも皴一つないアイロンのかかったスーツを着ていた。右手にはめた太いシルバーリングを外すこともなかった。一緒に夕食を食べた後で、家に帰って彼女を抱いているのだろう。離れると、世界が灰色に染まっていくようだった。でも、指輪をした私には何を思う権利もなかった。


 部屋に入って窓とカーテンを閉める。網戸から入り込む風が指の間を吹き抜けた。後ろから哲の寝息が聞こえていた。


 玄関に座って、ブーツのチャックを上げる。爪のラメが剥がれかけていた。 


「行ってきます」


 フローリングから手を離すと、仕事部屋から微かに哲の声が聞こえた気がした。


 ドアを押し開けて外に出る。夜風が頬に刺さった。鍵を差し込む。キーホルダーのテディベアが手の中でくるりと回った。チェックのマフラーを後ろにやって、階段を下りていく。


 イヤホンのコードを解いていく。自分の足音に跳ね返るようにして、もう一つ足音が聞こえてきた。段々大きくなり、踊り場を曲がると突然止まった。 


「・・・」


 薄い影が階段の手摺をなぞる。


「・・・・あ・・・」


 植月さんだった。真っ黒なダウンコートに膨れ上がった鞄を持っていた。


「・・静香さん・・・・・」


「仕事帰りですか?」


「うん・・・まぁ・・・・」


「こんな時間に、何か急用ですか?」


「ん・・・・」


 視線を逸らして、階段に掛けていた片足を下ろした。


「哲、起きてる?」


「・・・ええ。絵を描いてると思いますが・・・」


「そっか」


 天井の蛍光灯が点滅している。植月さんの足元に蜘蛛の巣が見えた。


「静香さんは仕事?」


「はい」


「本当に?」


「え?」


「いや、遅いの?」


 ひび割れした口に手をあてた。


「・・・ええ・・・」


「そう・・・」


 携帯のバイブで指先が震えた。着信のようだったが、取れなかった。


「じゃあ、ちょっとお邪魔するね」


「え・・・」


 乾いた空気を吸い込んだ。喉から言葉が出てこなかった。


「・・・・・・」


 地面を這うような視線をこちらに向ける。胃の奥が熱くなっていった。


「はい・・・」


「・・・・・・・」


 すれ違いに油絵の具の匂いがした。段差を確かめながら階段を下りていく。しばらくして、ドアの閉まる音がした。


 ドレスの入ったバッグを左手に持ち替える。小さな蜘蛛が壁を伝っていくのが見えた。引き寄せられるように漆黒の中に消えていく。背筋が冷たくなっていった。


 なぜ、こんな時間に来たのだろう。アパートの前の外灯に明かりが点いた。枯葉を付けた木々が、闇の中でわさわさと揺れている。気のせいだろうか。嫌な予感が頭を過ぎった。俯くと、ポケットの中で携帯が点滅しているのが見えた。


 救急車のサイレンが遠くなっていった。トラックのライトが閉店したラーメン屋の窓を照らしている。電信柱には不動産のチラシが貼りついていた。


 白黒のスクリーンのような、淡々とした表情が蘇る。植月さんと何を話していたのだろう。絵のことだけだろうか。歩道を振り返る。雑居ビルの看板が混然とした色合いで鬩ぎあっていた。 


 着信履歴を辿っていく。呼吸を整えて、発信ボタンを押した。


「もしもし」


『もしもし、瀬谷です』


 暖簾の下がった中華屋の前を通り過ぎていく。赤信号の前で立ち止まった。


「・・・すみません。さっき電話取れなくて」


『ま、ええよ』


「珍しいですね。この時間に」


『せやろ。さっき東京に帰ってきたん・・・もうくたくたや』


 声の向こうで電車の通る音が聞こえた。


「そっか。大阪出張だったんですよね」


『そ。一日やけどな』


「確か二日の予定でしたよね?」


『向こうのシステムが想定よりもうまく稼動したんや。やっと帰ってゆっくり眠れるわ』


 頬を震わせて笑う様子が目に見えるようだった。手の力が抜けていく。


「お疲れ様です」


『・・・んで、今からちょっとだけ会えへん?』


「え? 今ですか?」


 タバコの自販機の明かりで腕時計見る。


「今日はこれから仕事が・・・」


『渡したいものがあるん。ほんの数秒でええんやけど・・・』


「本当? 何ですか?」


『まぁ、会ってからな。久々に静香さんの顔も見たいし』


「この前会ったばかりですよ」


『ま、そうなんやけどな』


 心が薄紅色に染まっていく。数分前のことが、じゅわっと溶けていった。


『じゃあ、また東京駅でいい?』


「うん」


『着いたらメールするわ』


「うん。じゃあ・・・」


 少しして、音が切れた。白いコートの袖を直す。自転車の風がフードのファーを柔らかく撫でた。


 瀬谷さんの婚約者は私と会っていることに気づいているのだろうか。婚約指輪ではなく、結婚指輪をはめた自分と哲よりも深い絆で結ばれているように感じた。どんなに優しくされても、愛されることのない痛みを感じた。


 歩道橋を上がると、金木犀の香りに触れた。薄く塗った唇のグロスが乾いていく。想うことが叶わないのだろうか。叶わないから想うのだろうか。マフラーをファスナーの中に入れる。三日月のような輪が、きつく薬指を締め付けていた。 


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