46話 気怠い朝と母の事情《Supreme MAMA》
ちょっと気怠いけれど、どこか清涼な朝だった。
鳥の声がまだ半分眠る村をやさしく撫でていく。
「くわぁぁ~……」
手招く布団を押しのけるのも人生の試練なのだ。
俺は、寝ぼけ眼をこすりながら裏庭の井戸で水をすくって顔を洗う。
引き締まるような冷たさが肌に沁みて、ようやく意識が現実を自覚する。
そのままのっそりとした足どり。まるで牛の歩みのように重たいリズムで、俺はリビングへ向かう。
扉を押し開けると、まだ朝の空気をまとった空間と小麦の香りが迎えてきた。
「あっ! ナエ様おはようございますっ!」
小鳥のさえずりか。
はたまた、陽気の妖精か。
俺は、すぐさま腑抜け顔を整える。
「おはようレーシャちゃん」
「はい、おはようございます!」
ここヴェル・エグゾディア世界に降りたって二ヶ月は経ったか。
俺と勇者ちゃんはひとつ屋根の下、毎日こうして夫婦のように朝の挨拶を交わしている。
彼女の実家である『Flour & Flower』でのバイト生活もだいぶ板についていた。
あれから負けイベント戦闘用のボスが紛れることもない。ゴブリンの襲来も、大規模ダンジョンが生成されることも。
忍びの血が絶えぬアークフェンの村では、時間がゆったりと流れている。
「そういえば昨日、同年代のお友だちがお店に着てくれたんですけど、ナエ様の発明したパンを大好きだって言ってましたよっ」
俺はリビングの椅子を引いて腰を据えた。
すかさず勇者ちゃんが湯飲みを置いて茶を注いでくれる。
「ありがと。いくつか趣味ていどに作ったメニューはあるけどいったいどれがお気に召したんだろう?」
「ほくほくに蒸した馬鈴薯とチーズの入ったポテトパンですっ。パンなのにずっしり重くて味もしっかりしてるから革新的って喜んでましたっ」
「タンパク質と炭水化物それと脂質が喜ばれるのかぁ。村の食事って魚と野菜でけっこう質素だから次のメニュー開発の足しにしてみるかぁ」
愛らしい笑顔を横目にずず、と。茶を啜った。
どうやら本日は、よもぎ茶のようだ。勇者ちゃんがたまに摘んでくる野草の1つ。
煎れてくれた茶で寝起きの口内を洗い流す。独特な香りと清涼感があり、どこかまろやか。コーラもサイダーもない世界観に和な風情がどこか懐かしい。
「そういえばレーシャちゃんって村の学び舎にいかないの? 同年代の友だちもいるみたいだし店の手伝いばっかりじゃ寂しいでしょ?」
「お店に立っていればお友だちが遊びにきてくれることもあるので別に寂しくはないですよ?」
勇者ちゃんことレーシャ・ポリロは、キャラクターの設定上では14才。
それはつまり当時このヴェル・エグゾディアという物語を作った俺と同年代ということになる。
遊びたい盛りだろうに。実家の手伝いで縛られているのは少し可哀想だと思ってしまう。
「それに……」
言いかけて、勇者ちゃんは手にした盆を胸に抱きしめた。
年のわりに豊かな胸が木の盆に押されてぎゅう、と。やわらかく形を変えている。
「前と違ってナエ様がずっと一緒にいてくれるんですっ! 毎日ウキウキしちゃってますっ!」
その笑顔は、朝日よりもなお世界を照らす。
あまりの日照に、俺の身体がボッと光に呑まれかける。
このヴェル・エグゾディアは、本来ならバッドエンドを迎える物語。ならば彼女もまた暗い未来を迎えるはずの運命にあった。
このままでは、という前提条件が成り立ってしまえばだが。
「(俺がそんな未来ぶち壊してやる! そして俺は俺が最高だと思って造り上げたこの勇者ちゃんと、のんびり暮らす!)」
「あ、ナエ様ちょっとお母さんが起きてこないので起こしてきてもらえます?」
「は~い。おおせのままに~」
言われるがまま俺は立ち上がった。
通りでなんかいつもの朝と違うな、と。雰囲気では察していた。
普段ならいの一番に起きている勇者ちゃんママの姿がどこにも見当たらない。
「ところでレーシャちゃんママが寝坊するって珍しくない? たぶん俺が転がりこんできて初めてじゃないかな?」
「確かに言われてみるとそうかもですね。たぶんナエ様が一緒に住むようになったから気をお張っていたんだと思います。ああ見えてけっこうズボラなんですよ」
ズボラ、て。俺は呆れて半笑いになってしまった。
勇者ちゃんにしては、なかなか言葉強め。
いっぽうで俺は勇者ちゃんママにそんな感想をもったことがなかった。
「とにかく起こしてきちゃってください。もし粘られたらお布団剥がせば寒くて起きると思うので」
既婚者とはいえさすがに女性の寝顔をみるのははばかられる。
「……。俺が行ってきてもいいの?」
俺は、おずおずと尋ねた。
でも勇者ちゃんは、そんなことはおおよそどうでもいいらしい。
母不在のためすでに手いっぱいらしく、台所をいそいそと立ち回っていた。
「テキトーでいいですよー。私は母のぶんまでパンを焼かなきゃなので手が離せませんからー」
栗色のショートヘアーがちょこちょこと揺れ、和装の裾や重ねスカートが忙しなく翻る。
白く細いおみ足が小走りに駆けては止まり、また走る。高い棚に手を伸ばせば、脇の白い窪みがふと晒される。
ざっくり深い合わせの隙間からは、年若いのにあふれそうな膨らみが。涼やかにこぼれ、布をわずかにもち上げていた。
「(しゃあない……いくかぁ)」
多忙な彼女に背を押されるよう、俺も踵を返す。
正直なところ俺は、勇者ちゃんママが苦手だった。
なにを考えているのかまったくと言っていいほどわからない。2ヶ月近く毎日顔を合わせているのにミステリアスまま。
あのときだって、そう。一緒に晩ご飯を食べていたときのこと。
『しょうゆ』
とってくれということだろうか。
そのときの俺は、すぐさまテーブルの醤油を彼女に手渡そうと腕を伸ばしたのだ。
『かけると美味しい』
教えてくれてありがとございますゥ。
「(あれ以降、声すら聞かないんだよな。勇者ちゃんも俺のこと別に嫌ってないって言ってたし、俺だって嫌われてないことくらい自覚はあるんだが……)」
リビングで草履を脱いでから寝室へと繋がる廊下を歩く。
足どりは微かに重い。木の廊下を足裏で滑るようにしながら歩き慣れぬ方角を目指した。
「おはようございまぁぁす」
こういうとき小声になってしまうのは、本能かなにかだろうか。
俺は戸口に手をかけ、木の戸を恐る恐る横に引いた。
部屋の中では差しこむ朝日が線を作って薄暗い。それと木材の奥ゆかしい香りに混じって、ほんのりと甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
部屋に踏み入るとすぐ奥のほうで深めの吐息が聞こえてきている。薄手の掛け布団がふたつの山を作り、規則正しく上下している。
「(お、いたいた)」
乱れた煎餅布団のうえには勇者ちゃんママが大の字で寝ていた。
腰まである長い髪は身体に潰され、あっちこっちに跳ねている。浴衣のような着物の合わせははだけ、片足は布団の外に放りだされている。
すうすうと安らかな寝息を立てながらも、大柄な身体が豪快に布団の上を占拠していた。
「……寝相わる」
これはさすがの俺でも顔をしかめるほど、ヒドい。
いい大人が着衣を乱し胸を放りださんばかり。手のつけようがない寝相の悪さ。
しかも勇者ちゃんママときたら勇者ちゃんとは別の特徴がある。
「この人、相変わらず規格外にデカいなぁ……」
とにかく大きいのだ。
なにからなにまですべてが巨大である。布団の上に寝ているというのにそれでも圧倒的と言える。
手の長さも、足の長さだって、尋常ではない。しかも身長だって190cmは確実に越えている。
「(初めて会ったとき殺られると思ったもんなぁ。俺、勇者ちゃんママのことこんな巨大に設定したかぁ?)」
ある意味でバグと言っても過言ではない。
堂々たる女傑のサイズだった。
とにかく圧倒されている場合ではない。女性の部屋にいつまでもいるというのも忍びない。
いまはこの巨大な女性を起こさねばならぬ。
「起きてくださーい! もう朝ですよー!」
「……ぅ~」
反応はある。
意外と覚醒しかけているのかもしれない。
「新たしい朝ですよー! 希望の朝ですよー! それいち、に、さーん!」
「………………ぐぅ」
なんでだよ。
寝返りを打ったかと思えば、そのまま寝てしまった。
しょうがない。人妻に触れるというのも気が引けたけど、これは多少力業を使うしかなさそうだ。
「おーきーてーくーだーさーいぃぃ! おーねーがーいーでーすーかーらぁぁ!」
「…………んん」
腕と肩を掴んで激しく揺らしてみた。
脱力した巨体は思いのほか重い。揺らすたび女性的な箇所が躍動するように波を打つ。
手を動かしつつも、きちんと声かけも忘れない。もしこのまま意識が戻らなかったら、S.R.P。手遅れになってしまう。
「レーシャちゃんが1人で開店作業してるんですよぉぉ! レーシャちゃんママも手伝わないと怒られちゃいますねぇぇ!」
ここでようやくだった。
「……れぇ、しゃぁ?」
深酒でもしていたのか。ガラッガラの声だった。
しかし娘の名前に呼応する辺り、やはり母ということだろう。
あともう少し。俺は気力を振り絞って巨体を揺らす。
「レーシャちゃんが呼んでますぅぅ!! アナタの可愛い愛娘ががんばってるんですよぉぉ!!」
最後はほとんど絶叫だった。
喉がちぎれるほどの声量に、俺の全存在を賭けた気迫が乗る。
寝込みを揺さぶるという背徳感も羞恥も、この際かなぐり捨てた。
そのときだった。
布団の山が、ゆるりと身じろぎする。
まぶたが小さく痙攣し、長い睫毛の隙間から淡い光が零れる。
うっすらと目を開いた勇者ちゃんママは、まだ夢と現の境を漂っているよう。とろんとした瞳で覚醒しかけていた。
「……だっ、こっ」
は。イヤちょっと待て。
寝起きの勇者ちゃんママが仰向けのまま、ふわりと両手を広げてきた。
「れーしゃ、だっこして……」
虚ろな目は、未だ半分夢のなか。
それでも声音はやけに甘くて、まるで小さな子どもが母に甘えるときのそれに近かった。
否。これは母が娘に逆に甘えている声だ。
うっすら開いた瞳が紅く濡れて、艶やかな髪が乱れ、覗いた実りある果実が弾む。
俺は、人妻の痴態から即座に目を逸らす。
「いやいやいやいやっ!? 俺はレーシャちゃんじゃないし抱っこもしないって!!」
「やーだぁ……」
「こっちの倫理観のほうがやーだぁ!!」
酔ってるときと目覚めは本性がでるとか、でないとか。
そうなるとこの激甘えモードが勇者ちゃんママの素なのだろうか。
しかしこのままぐずられてしまっては、俺の心臓がたまったものではない。
「違いますっ! 俺はこの家で居候しながらバイトしてる苗ですっ! レーシャ・ポリロじゃなくて、朝倉苗っ!」
「ふゅ? ……なえ、さん?」
「そうです! 俺の名前は苗で、レーシャちゃんじゃないんです! そしてアナタの名前はコトノネ・ポリロ!」
コトノネ・ポリロ。年齢39才。
ここ『Flour & Flower』の店長であって、勇者ちゃんのお母さんである。
モデルのような体型をしており、村のなかでは男性よりも身体能力が高い。そのぶん手伝いを頼まれたりするが器用にこなすため信頼に厚いとか。
趣味は縁側で茶を啜りながらぼんやりすること。特技は花を育てることと料理を作ること。
「………………」
「………………」
目と目が合う。
そして歪な沈黙が立ちこめる。
「お、おはようございます」
「………………」
この感じ。
俺の知っている勇者ちゃんママはこういうこと。
じっ、と。見てくるだけであまり口を開かない。ゆえになにを考えているのかまったくわからないのだ。
しかしどうやら起こしにきたのが勇者ちゃんではないことに驚いているらしい。俺という存在を知覚したことで完全に目が開ききっている。
「じゃあ……ナエさん、だっこ」
問答無用だった。
首が長い腕に絡め捕られる。
抵抗する隙さえなく、引き寄せられていく。
「なんでだ――ちょぉっ!? 凄い力ぁ!?」
ぐいっと両腕が絡みつく。
冗談じゃない。寝ぼけてるはずなのに馬鹿みたいな怪力だった。
俺も決死の覚悟で抵抗をこころみているはず。なのに虚しくも俺の頭はそのまま分厚く甘美な谷間へ埋没した。
「んぅ~!!!?!?」
本当に呑まれるように、頭ひとつすっぽりと。
肉の壁に押し包まれ、視界と気道が勇者ちゃんママという巨大によって完全に閉ざされる。
むわ、と女特有の甘い香りが脳の奥底までもを満たした。石鹸と花蜜のような匂いに、夜の名残を帯びた熱っぽさが混ざりあう。
極上の柔らかさと重みが頭蓋にぴたりと密着し、呼吸さえまともにできない。
「むぐぅぅっ……!? お、おい、死ぬっ……!」
「………………ぐぅ」
「なんでだよおおおおおおおお!!? いま起きたじゃん!!? 完全に起きてたじゃん!!?」
あ、これヤバい死ぬヤツ。マジで死ぬヤツ。
どれだけ必死に藻掻こうとも、閉ざされた世界が開くことはなかった。
まさか冒険の終末を呼ぶのがこれほど身近にいようとは。ひとつ屋根の下にこの世界の魔王以上の敵が眠っている。
「んん?! ぐむぅううううう!?」
甘い匂いと柔らかさに脳が蕩けていく。
酸素を求めてジタバタと暴れるも、まったく剥がれることはない。
それどころか暴れたら暴れただけ締め付けも強くなってしまう。
「(マズい!? こんなところ勇者ちゃんに見られたら俺の沽券に関わるぞ!?)」
連れこまれたとはいえ女性の布団に入ってるだけでも問題なのだ。
しかもそれは勇者ちゃんの母親、その人。こんなところを娘に見られでもしたら誤解は加速しかねない。
「ナエ様ー? お母さん起きましたかー?」
「(終わるカウントマッハ進行!?)」
そんな俺の焦りを無視するように、声が聞こえた。
しかも足音が近づいてくるではないか。
「止めろおおおお!? 俺の人生をデストロイするのが目的かああ!?」
「…………んゅ」
もうダメだ。人妻が寝息を刻むたび、俺への拘束が倍増する。
もはや酸欠で意識すらも混濁。甘い体臭と両頬を潰す柔らかい感触で脳がマトモに機能しない。
しかして勇者ちゃんの足音がもう廊下のそこまで迫っていた。
「言い忘れてましたけど、寝起きのお母さんの射程に入ると大変なことになっちゃうんでした」
そして部屋の前辺りで足音が止まる。
「……あー、やっぱりでしたか。もし声をかけても起きないときは遠くからものを投げるのがオススメですよ」
もっと早く言って欲しかった。
俺の最後の抗議は、たぶん声になっていなかっただろう。
その後、俺は勇者ちゃんの手によって助けられたのだった。
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