14 温慶春
中国科学技術部陳技官のヒトシ・ナカモトレポートは、彼の知らないところでただちに国家安全部の検閲にかかり、その重大な内容ゆえ、即座に国家安全部長・温慶春の知るところとなった。
ヒトシ・ナカモトレポートが提出されたのは、2030年10月31日北京時間午後5時過ぎ。すでに終業時刻を過ぎていたが、温部長は執務室のモニター上に表示されたレポートにすばやく目を通した。
……宇宙エレベーターだと……?
陳技官のレポートは、新素材カーボンスパイダーシルクが送電線の大容量化と軽量化が実現できる可能性について大半の説明を割いており、宇宙エレベーターについての記述はひどくあっさりとしている。
……これではよくわからん……だが、その前に……
温部長は机の端にあるインターフォンを押して副官を呼んだ。
ほとんど間を置かずにドアがノックされ、国家安全部の制服を見事に着こなした長身の男が姿を現した。
副官の陸凱は、中国映画俳優の張哲瀚を彷彿とさせる抜群のイケメンである。
「この報告書はここで止めろ。複製を禁止する。科学技術部の陳宇航という人物の経歴を大至急調べて報告しろ。それから陳技官を退庁時に拘束し、ここへ連れてこい」
ここ頤東苑は、北京市海淀区西苑100号にある、中国国家安全部の実質的な本部所在地として知られる大規模な官庁・居住複合施設である。
「承知いたしました」
陸凱は踵を返して出ていった。
温部長は、ふたたびレポートに向き直った。
「長尺化が理論どおり成立するなら、宇宙エレベーターの最大の技術的障害を除去する可能性がある」
つい先ほどまで、この事件は、正体不明の人物がロンドンから匿名で投稿した、重要かもしれない新素材の論文にすぎなかった。
だが陳宇航のこの一文によって、ヒトシ・ナカモトという人物の意味は一変した。
単なる先端炭素材料の研究者ではない。
もしかしたら、宇宙輸送、エネルギー、軍事、そして世界の産業構造そのものを一変させる可能性を持つ人物へと、この瞬間、変わってしまったのである。
ほどなくして、副官の陸凱が戻ってきた。
温部長が尋ねる。
「で? 陳とはどんな男だ?」
陸凱は、手元のタブレットを見ながら答えた。
国家安全部は、全国の国家公務員についての詳細な人事・公安・保密関係の情報を、必要に応じて即座に照合できる体制を整えている。
「陳宇航、34歳。雲南省昆明市出身。両親とも昆明市在住。父親は国有企業を定年退職、母親は元中学校教師。兄弟はいません。
母方の実家は昆明市郊外の出身です。祖母の代までは、雲南地方の伝統的な織物や細幅の帯、結束用の紐などを家内で織っていた記録があります。現在は生業としていませんが、母親は幼少期に祖母から簡単な織り方を教わっていたようです。政治的、治安上の問題はありません。
清華大学集成電路学院卒業後、同大学院微納電子系博士課程修了。博士号取得後、国家公務員試験に上位で合格し、科学技術部に採用されています。現在は科学技術部国際科学技術情報局・先端技術調査処の主任技官。専門は半導体微細加工、ナノ材料および先端製造技術の技術評価です。
26歳で中国共産党に入党。党内処分歴なし。勤務評価は採用以来すべて優良以上。過去3年間は連続して優秀公務員として内部表彰を受けています。
現在の職務は、国外の科学技術情報の収集と評価です。宇宙開発、半導体、量子通信、人工知能、ナノテクノロジーなどの重点分野について、欧米を中心とする国外研究機関、大学、企業の公開論文および技術情報を調査しています。そのため、国外インターネットへの直接接続を許可された限定職員の一人です。
涉密人員としての保密等級は『重要涉密人員』。採用時、配置転換時、および昨年の定期再審査をすべて通過しています。政治的問題なし。外国情報機関との接触を示す記録なし。外国政府、外国大学、外国企業からの資金提供もありません。
海外留学歴なし。公務による海外渡航は3回。シンガポール、ドイツ、日本。いずれも科学技術関係の国際会議への出席で、事前申告、帰国後報告とも異常ありません。国外滞在中に接触した人物についても確認済みです。不審な継続接触は認められません。
個人の通信履歴、金融記録にも異常なし。住宅ローン、消費者金融、私的な巨額債務なし。株式の異常取引、暗号資産口座、国外銀行口座も確認されていません。賭博歴なし。公安機関による捜査歴、行政処分歴、交通違反を除く違法行為もありません。
未婚。現在は西城区の中央国家機関独身職員宿舎に居住。交際相手についても特記すべき事項はありません。
両親および主要な親族についても照合済みです。外国籍取得者、国外永住者、重大な犯罪歴を持つ者はいません。本人を含め、反政府組織、宗教団体、国外政治団体との関係も確認されていません。
大学時代の指導教授、同級生、科学技術部採用後の上司、同僚についても予備照合を終えています。現時点で、陳宇航がヒトシ・ナカモト、あるいは今回の論文投稿に関係する人物と事前に接触していたことを示す記録はありません」
陸凱はそこで一度、タブレットから目を上げた。
「つまり?」
温部長が短く聞いた。
「現時点では、潔白と判断してよろしいかと。ヒトシ・ナカモト側の協力者である可能性は極めて低いです。職務上、偶然あの論文を発見し、自分の専門知識だけで宇宙エレベーターへの応用可能性に気づいたものと思われます」
温部長は、しばらく黙っていた。
「頭は?」
「相当に切れます。清華大学在学中から成績は最上位層。科学技術部内部でも、専門外の論文から重要性を見抜く能力について高く評価されている人物です」
「なるほど……」
温部長は、机の上に置かれた陳宇航のレポートをもう一度開いた。
「身元に問題はない。しかも、この論文の意味に一人で気づいたわけか」
「はい」
「なら、なおさら帰すな。連れてこい」




