プロローグ
2030年7月3日水曜日午後1時過ぎ。
小野寺久美国家情報大臣。
国家情報省は、昨年に国家情報局が昇格して省となり、旧内閣情報調査室、旧防衛省情報本部、旧警察庁や警視庁公安部の外事部門、旧経済産業省の安全保障貿易管理担当などが統合したインテリジェンス専門機関である。
彼女の元に、連絡がはいる。
総理官邸地下1階の危機管理センターにて国家安全保障会議をただちに行うので出席せよ。
……危機管理センター……?
危機管理センターでの開催とは穏やかではない。何か重大なことが起こったに違いない。
すぐに、千代田区九段南の新九段合同庁舎から、大臣公用車のアルファード Executive Lounge に乗り込む。
代官町通りから内堀通りを経由し、山王坂を通るルートでおよそ10分。道は比較的空いていた。官邸に到着すると、そのまま専用の地下駐車場に滑り込む。
官邸の地下1階は、公用車が乗り入れる駐車場と、政府の災害・テロ対策の中枢である危機管理センターが同じワンフロアに隣接して配置されている。
大臣や官僚は、車を降りてそのまま地下の専用通路を歩くだけで、危機管理センター内の官邸対策室や会議室に入室できる。
一般の来客が使う1階正面玄関とは完全に分かれており、報道陣や一般人の目に触れることはない。
危機管理センターは、大型スクリーンが設置されたオペレーションルーム、緊急時に対応する対策本部会議室、および24時間体制で情報収集を行う情報集約室などで構成されている。
小野寺は、対策本部会議室に入った。
楕円形の会議机には、すでに官房長官、外務大臣、防衛大臣が着席している。
異様なことに一般人と思われる二人の男性も席についていた。ひとりは60歳前後、もう一人は30代半ばぐらいで車椅子に座っている。
小野寺が着席するのとほぼ同時くらいに、片岡聡子総理と内閣府の田中政策統括官(経済安全保障担当)が入ってきた。
座っていた全員が立ち上がり、総理の着席とともに再度着席する。総理のすぐ横には田中が腰を下ろす。
通常の国家安全保障会議とは明らかに違う雰囲気に、小野寺は何か良くないことが起こったのだと確信した。
「皆さん、突然の呼び出しでちょっと驚いたでしょ。でもね、緊急でどうしても皆さんと話をしなくてはならないことが起こったのよ」
片岡総理は、万事こんな感じの話し方をする。どこにでもいる街のおばさん風で、重々しい感じはまるでない。
「それじゃあ田中さん。始めてくれる?」
隣に座る政策統括官に促した。
田中がおもむろに立ち上がり、説明を開始する。
「皆さんにまずご紹介申し上げます。千曲大学理工学部の真下教授です」
座っていた白髪の男性が立ち上がり、
「真下でございます」
と言って頭を下げ、すぐに着席した。
「そして同大学の材料工学研究所研究員の神坂隆一さん」
神坂は車椅子に座ったまま、黙って頭を下げた。
千曲大学は、日本の長野県松本市にある国立大学である。
「本日の会議は、この神坂さんの研究に関することで、その研究成果が日本の未来に重大な影響を与えることが必至と考えられるのです」
メンバーは、この言葉に強く興味を持ったようで二人を凝視する。
真下教授は銀髪が美しい知的な顔立ちをしているのに対して、神坂研究員は30代半ばぐらいの坊主頭で、野暮ったく田舎者という印象がぬぐえない。
「真下教授、技術的な説明をお願いできますか? ただし専門的になり過ぎないよう、配慮していただけると幸いです」
うなずいて、真下教授が立ち上がった。
「承知いたしました。早速ですが、皆さん。宇宙エレベーターという言葉を聞いたことはありませんか?」
「宇宙エレベーター?」
オウム返しのように外務大臣が言った。
「そうです。宇宙エレベーターとは、地上と宇宙を一本のテザーでつないで、その間をクライマーと呼ばれる昇降機によって物資を運ぶという装置です。これまで宇宙へ行く手段はロケットに限られていましたが、これが実現すると、経費が100分の1以下に削減可能となります」
「聞いたことがある。この研究は先進各国で進められている。だが技術的な壁にぶち当たっていてまだ実用化は遠いらしい……」
外務大臣はハッとした表情を見せた。
「まさか、そのブレイクスルーが起こったと?」
真下教授がうなずいた。
「外務大臣。まさにその通りです。これまで宇宙エレベーターの使用に耐えるテザーの開発は暗礁に乗り上げていました。素材としてはカーボンナノチューブが我が国の島飯澄夫博士によって発見されていましたが、品質を保ったまま10万キロメートルにまで伸ばす技術が開発できなかったのです」
「まさか、それを君たちが可能にしたというのか?」
黙っていた防衛大臣が声を上げた。
「その通りです。防衛大臣。ここにいる神坂君があたらしい素材を発見し、技術的に可能であることを証明したのです……」
真下が続ける。
「2日前のことです。ここにいる神坂君が私の元に報告に来ました。宇宙エレベーターに使用するテザー(紐)の研究はカーボンナノチューブが主流なのですが、それと異なる素材を神坂が発見し、それをカーボンスパイダーシルクと呼ぶことにしました。
さらにこれから製造したテザーが、宇宙エレベーターに必要な条件を満たしているとわかりました。
私は即座に学長に報告し、学長からただちに政府に報告を上げたのです。
ただいま政府の方でも検証作業を進められておりますが、私の方に入りました一報では、技術的に間違いないとのことでした」
片岡総理がうなずいた。
「話はロケットの経費削減にとどまらないのよ。ここからが話の始まりなの。皆さん、先に言っておくわ。これはね、地獄の釜の蓋を開けることに等しいの。この技術をめぐって我が国の対応を誤れば……日本はゲームオーバーになるわ。まず必要なのはこの技術の情報漏洩を完璧に遮断することよ」
総理の一言で会議の雰囲気がガラッと変わった。
一気に緊張感が増す。
すかさず、小野寺国家情報大臣が問いかける。
「神坂さん、この研究は真下教授とあなたのほかに、誰がこれを知っているの?」
神坂は、少し困ったような顔をして、真下教授に視線を向けた。
「大臣。申し訳ありません。神坂は筋萎縮性側索硬化症に罹患しておりまして、発話ができなくなっています。聴覚には今のところ問題ありません」
小野寺が続けた。
「それなら、手話はできる?」
(真下先生と私の他にはいません。助手や大学院生も関与しておりません。この研究はずっと一人でやってきました)
神坂は、かなりゆっくりとした動作で手話を返した。
小野寺は、答えを会議のメンバーにわかるように通訳しながら質問を続けた。
「シミュレーションはどうしたの? ナノレベルの研究ならスパコンを使ったでしょ? それはもしかして富岳?」
この手話は、真下教授が引き取った。
「我々のような地方大学では富岳のようなスーパーコンピューターの高額な使用料は払えません。ですから研究室の予算でジーデップ・アドバンスのGPUワークステーションを2台部屋に置いて24時間使用しています」
富岳を本格的に回すと、数百万〜数千万円の利用料があっという間に消えてしまう。そんな予算が地方大学にあるわけがない。
小野寺が聞く。
「そのワークステーションは常に外部に接続しているの?」
神坂が答える。
(接続しているのは、専用ケーブルで文部科学省のAI「阿吽」とだけ繋がっています。外部のネットには接続しておりません。各種のシミュレーションもこの閉鎖環境の中だけで実施していました。真下先生の指示でしたので……)
「外国のAIは使っていなかったのね?」
(はい、使っていたのは「阿吽」だけです。他のAIはいっさい使用していません)
小野寺がほっとしたように言った。
「よかった。もし外国のAIを使用していたら、それだけでゲームオーバーになるところだったわ」
真下が小野寺に顔を向けた。
「私はナノレベルの材料工学研究で、かつて島飯澄夫博士の教えを受けたことがあります。ですから、この研究のブレイクスルーが、世界にどのような影響を及ぼすかは理解しています。
神坂の研究は大学時代から続いているもので、私から見ていい筋のように思えたのです。ですから神坂には徹底して研究過程での秘密保持を指示してきました」
「真下教授、神坂さん、その配慮に深く感謝するわ。ではこの秘密は現在のところ外部には全く漏れていないと断言できるのね?」
田中政策統括官が口をはさんだ。
「真下さんは事の重大さを認識していて、学長が私に直接連絡してきてくれたのです。メールや電話も漏洩の危険があるので、その場では詳細は明かさず、至急直接会ってくれとのことでした。
学長とは同じ大学出身なのでよく知っていたのです。そして本日午前、神坂さんを伴って霞が関に来てくれました。
私はそのきわめて重大な内容から判断し直接総理に申し上げたところ、急遽この会議を開くことになった次第です。
大臣、今のところ外部に漏れている形跡はないと言えると思います」




