第9章:血と灰
# 第9章:血と灰
創業時代3529年6月27日。
朝の光が庭の樹冠越しに昇り始め、ヴァルター家の食堂を柔らかい琥珀色の光で満たしていた。空気には、焼きたての小麦の平焼きパン、温かいミルク、そして刈りたての草の心地よい香りが漂っていた。テーブルの上では、ミレルが淹れたハーブティーが湯気を立てている。2歳になったばかりのリオールが子供用椅子に座り、楽しげに笑い声を上げながら木のスプーンをつかもうと手を伸ばし、たどたどしい言葉でしゃべっていた。
「エリ! みて、エリ!」
襟元に繊細な刺繍があしらわれた淡い緑色のドレスを着たメリッサが、次男の漆黒の髪を優しくなで、ナプキンを直してやった。彼女の薄金色の髪が肩にふわりとかかっている。
「お行儀よく食べてね、リオール」と彼女は微笑み、それからエリアンに向き直った。「昨日のあと、体調はどう? アーウェンが、あなたとギャレットはすごい成果を上げたって言ってたけれど」
「大丈夫だよ、母さん」と、8歳のエリアンはミルクを飲み干しながら答えた。「昨日の訓練で、まだ改善すべきところがあるって分かったけど、経絡もだいぶ負荷に耐えられるようになってきたよ」
テーブルにはアーウェンとギャレットも座っていた。引き締まった姿勢の導師は、銀灰色の髪をきれいに後ろに撫で付け、落ち着いた様子で肉を食べており、エリアンの父親は彼と今後の屋敷の営みについて話し合っていた。
「朝食が終わったら訓練場に出るぞ」ギャレットは深みのある青い瞳をエリアンに向けながら言った。「今日は、速度を上げて構えを変えたとき、お前がイベルトルのバランスをどれほど維持できるか試す。第3段階はまだ始まりに過ぎないぞ、小エルフ」
「分かっています」エリアンは落ち着いて答えた。
食事を終えると、少年はギャレットとともに訓練場へと赴いた。ひんやりとした朝の風が心地よく顔を撫でる。導師が武器ラックに歩み寄り、木剣や刃を潰した鋼の剣を選び始めている間、エリアンは広場の中心に立ち、いつもの準備運動に入った。
そしてその瞬間、世界が崩壊した。
ベテランの直感が音よりもコンマ数秒早くギャレットの中で働いた。導師はピタリと動きを止め、青い瞳を大きく見開き、その手は腰に差した本物の剣の柄へと一瞬で伸びた。
「エリアン、下がれ!」ギャレットが怒鳴り声を上げた。
ドスンという、門を打ち砕くような重くすさまじい破砕音がヴァルター家の正面門を揺ルがした。それに続いて、木が裂ける耳をつんざくような音、1階の窓ガラスが割れる音、そして何十もの獣のような怒号が響き渡った。空気が黒ずんだボウガンのボルトの鋭い風切り音で切り裂かれる。
家の扉から、侵入者たちの道を阻もうとミレルが必死の形相で飛び出してきた。老いた侍女は手を掲げる暇すらなかった。開口部から飛び出してきた傭兵――煤まみれの革鎧に身を包んだ大柄の荒くれ者が、走りながら彼女の喉元へと幅広のファルシオンを突き刺した。鋼の刃が、どす黒く濁った鮮血の飛沫とともに背中へと突き抜けた。ミレルの長いエルフの耳に揺れていた小さな銀の耳飾りが、彼女の体が石の段差へと力なく崩れ落ちる瞬間、太陽の光を受けて最後の一閃を放った。
「ミレル!」血相を変えたアーウェンが、抜身のレイピアを手に食堂から飛び出してきた。
広場と庭へと、30人を超える一団の襲撃者がなだれ込んできた。それはただの山賊ではなく、血塗られた荒野を渡ってきた百戦錬磨のゴロツキどもであり、鉄の鎖、網、重い戦斧、足枷などで武装していた。
ギャレットが最初の防衛線として立ちはだかった。イベルトルの鋼が不吉な稲妻の軌跡を描いて閃く。導師は一瞬で1人目の襲撃者の首を跳ね飛ばし、2人目の腕を切り落とし、3人目の胸に剣を柄まで突き刺した。彼の銀灰色の髪に鮮血が飛び散る。しかし、敵の数はあまりにも多すぎた。
「アーウェン! 家族を裏庭から連れ出せ! 人身売買業者だ!」ギャレットは、重い戦斧の正面からの強撃をいなしながら叫んだ。
その時、襲撃者たちの背後から両手持ちの戦斧を持った巨漢が躍り出た。ギャレットは重心を移そうとしたが、横から卑劣に投げつけられた捕縛用の網が彼の足を絡め取った。導師のバランスが崩れる。戦斧の重い刃が、ギャレットの肩を斜めに引き裂き、鎖骨と胸郭を心臓まで深く断ち割った。生温かい血の塊が彼の口から噴き出す。意識が薄れゆく中で、ギャレットは最後の力を振り絞って一歩踏み出し、敵の目に自分の剣を深く突き刺した。そして、ふたりはともに重い巨体を血塗られた大地へと倒れ伏した。
「ギャレット……!」エリアンは凍りついた。頭の中ではケイルの知識が戦術や間合い、回避の必要性を叫んでいたが、8歳の子供の肉体は凍りつくような恐怖と圧倒的な硬直に縛られていた。
アーウェンは、メリッサとリオールが身を寄せ合っている食堂への入口を守るように、狂気的なまでの戦いぶりを見せていた。父親は3人を貫き、その動きは素早く正確だったが、襲撃者のひとりが側面から回り込み、彼の両膝を横なぎに切り裂いた。アーウェンはその場に崩れ落ちる。ふたり目の暴漢が、容赦なく彼の背中、両肩甲骨の間に短い短剣を突き立てた。
アーウェンは自分の血で咽せた。エリアンの方へと首を振り、最後にこう絞り出した。
「走れ……エリ……」
傭兵の首領の鉄鋲を打ち付けた重いブーツが、アーウェンの頭部を石畳に踏みにじった。
「家の中をしらみつぶしに探せ! 女とガキは生け捕りにしろ、うまくいけば高く売れるぞ! 純血種なら破格の値がつく!」傷だらけの巨体で、引き裂けた耳と野獣のような笑みを浮かべた首領が怒声を飛ばした。
3人の暴漢が食堂になだれ込んだ。メリッサは隅にうずくまり、泣き叫ぶ2歳のリオールを自分の体で必死に覆い隠した。彼女の淡い緑色のドレスには、外から飛び散った血痕が飛び散っている。
「おい、見ろよ! なんて上物だ! エルフの貴婦人じゃねぇか!」と、ひとりの男がメリッサの薄金色の髪を乱暴につかみ、壁から引きずり離しながら下劣な笑い声を上げた。
「この子だけは……! お願い、何でもあげる! 私をどうにでもして! この子だけは殺さないで!」メリッサは襲撃者の足にしがみつきながら泣き叫んだ。
「うるせぇ、牝犬が!」男は短剣で彼女の喉を容赦なく切り裂いた。
血が勢いよく白い床板に噴き出した。メリッサは痙攣するように身悶えし、口から血の泡を吐き出しながら、その視線をエリアンに固定したまま、ゆっくりと光を失っていった。
ふたり目の男が、泣き叫ぶ2歳のリオールに歩み寄った。彼はゴミクズでも扱うかのように、小さな子供の足を乱暴につかみ上げた。
「こんなガキ、市場じゃ足手まといになるだけだ」
男は力いっぱい、幼いリオールの頭をドアの石の柱へと激しく打ちつけた。乾いた、ぞっとするような頭蓋骨の砕ける音が響き渡る。2歳の幼児は一瞬でぐったりと力を失い、その小さな鼻と耳から鮮血の筋が流れ落ち、男は無造作にその亡骸を母親の胸元へと投げ捨てた。
その瞬間、エリアンの中で何かが決定的に、二度と戻らない形で引き裂かれた。
ケイルの記憶、幾世紀もの知識、冷徹な論理、マナを通す経絡の安全規則――そのすべてが、煮えくりかえるような狂気、身を引き裂く絶望、そして非人間的な怒りの炎の中で焼き尽くされた。
**子供の「原初」が、ただ目覚めたのではない――吠え猛り、自らの制限を粉々に打ち砕いたのだ。**
*「殺す!」*
エリアンは両手を前へ突き出した。幾何学も、フォーミュラも、8歳の肉体の経絡の限界も、すべてを無視し、意志の力だけで原初から凄まじく圧縮された、狂暴なマナの奔流を強引に引きずり出した。
右手が一瞬にして地獄の業火、目を眩かせるほどの炎に包まれた。左手は鉛のように高密度な、圧縮された空気と土の塊を紡ぎ出した。無言魔法の二重紋様が、コンマ一秒の間に形成された。
「死ね――っ!」
少年とは思えない、獣の叫びのような絶叫が喉から絞り出された。
圧倒的な威力の衝撃波を伴う眩い炎の柱が、両手のひらから解き放たれた。炎の竜巻が食堂にいた3人の暴漢を一瞬で焼き尽くす――彼らの皮膚ははじけ、肉は一瞬で炭化し、骨は灰と化した。衝撃波は耐力壁の残骸を吹き飛ばし、屋根の一部を襲撃者たちの頭上に崩落させた。
しかし、その代償はあまりにも過酷だった。
幼いマナの経絡はその負荷に耐えきれず、体内で引き裂かれ始めた。エリアンは自分の血管に熔けた鉄を流し込まれたかのような激痛を感じた。少年の鼻、目、耳から鮮血が滝のように吹き出す。青白い顔や手の皮膚には、破裂しかけた紫黒色の血管の網目が浮かび上がった。口から血の塊が溢れ出し、足の力が抜け、視界が真っ赤な霧に染まっていく。
彼は意識を奮い立たせ、残りの敵を焼き尽くすためにさらなるマナを引き出そうとしたが、体力の限界が完全に訪れていた。
背後から、傭兵の首領が音もなく近づいていた。鉄で補強された重いガントレットが、鈍い音とともにエリアンの後頭部を強打した。
視界が暗転する。遠ざかる耳鳴りと闇の向こうで、首領の侮蔑を含んだ満足げな声が聞こえたのが最後だった。
「鎖で繋げ! 道中でくたばらねぇように、頭にボロ布でも巻いとけ! これだけの魔法の才能を持った純血のエルフのガキだ……とてつもない高値で売れるぞ……!」
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意識は、耐えがたい激しい脈動とともに戻ってきた。
エリアンが最初に感じたのは、強烈な悪臭だった。それは朝露や食堂の焼きたてパンの匂いなどではない。空気に満ちていたのは、洗われていない肉体、腐りかけた藁、排泄物、錆びた鉄、焦げた肉、そして乾燥した血が混ざり合った、胃の腑がひっくり返るような悪臭だった。
エリアンは目を開けた。
彼は、頑丈な木製の荷台に載せられた鉄格子の檻の中で、シラミとうんざりするような不浄にまみれた汚れた床に転がっていた。手足には、抑制の鉄で造られた重厚な足枷と手枷が嵌められていた。黒ずんだ金属が皮膚を食い込み、体内の原初を暴力的に押さえつけ、マナを巡らせようとするたびに鈍く痺れるような麻痺痛が走る。
白かった訓練用のシャツはボロボロに引き裂かれ、黒く焦げ、自分のものだけでなく母、父、そしてリオールの血で黒ずみ固まっていた。白銀の髪はもつれ、煤と、後頭部の傷から流れて乾いた血の塊にまみれている。経絡の断裂により、陶磁器のようなエルフの肌には今も紫黒色のあざや痛々しい内出血の跡が浮かんでいた。
荷台は、太陽が照りつける広大な乾ききった広場の中心に置かれていた。周囲には木製の処刑台、赤々と熱せられた鉄板、そして無数の鉄の檻が立ち並んでいる。
ここは**辺境の奴隷市場**――この世の地獄の出先機関であり、誰の命も壊れた銅貨ほどの価値すらない場所だった。
周囲では地獄のように残酷な売買が繰り広げられていた:
すぐ隣の舞台には、重い鎖に繋がれた**獣人**たち――血まみれの口に鉄の口枷をはめられたザロミットやオークたちが立っていた。その肉体には新しい焼印の跡が生々しく残り、青白い悪臭を放つ煙を上げている。監視官たちは金属の棘がついた革鞭で彼らを容赦なく打ち据え、分厚い上着を着た肥え太った買い手たちの前で歯や筋肉を見せつけさせていた。
向かいの檻には、森の妖精やハイ・エルフたちの姿があった。彼らの洗練された衣装は引き裂かれ、女性たちの身体には暴行の跡が残っている。エルフたちは高級な奴隷、剣闘士、あるいは貴族たちの秘密の遊び道具として売りに出されていた。共用の檻には、まるで家畜のように**人間**や**ドワーフ**たちが詰め込まれ、虚ろで獣のような恐怖の目を剥き出しにして、奴隷商人の焼きごてを見つめていた。
「おいおい、買っていけ! 内陸から仕入れたばかりの極上の品だ! 鉱山で使えるタフな労働者に、夜の慰みものに最高のエルフの女たち、それに珍しい一品もあるぞ!」あばた顔の油ぎった監視官が、エリアンの檻の前を通り過ぎながら、金属の柵を鞭でカンカンと鳴らした。「そしてこれが本日の目玉だ! 生まれながらにして魔力を宿した純血のエルフのガキだ! 抑制の鉄の枷つき! 初値は50アウルからだ!」
エリアンは手枷に繋がれた子供の手をゆっくりと持ち上げ、自分の指先を見つめた。擦り傷と泥、そして血にまみれていた。
彼の魂の奥底から、あらゆる温もり、慈悲、そして同情が消え去っていた。ケイルの記憶とエリアンの幼い絶望が完全に融合し、その後に残されたのは、ただ焼き尽くされた冷徹な荒涼たる世界だけだった。
檻の暗がりから、外界を見つめるのは子供の目ではなかった。荷台の闇の中から世界を凝視していたのは、ガラス玉のように凍りつき、一切の感情を失った、底冷えのする薄灰色の瞳――その奥底には、猛獣のような、耐えがたいほどに激しい憎悪の炎が潜んでいた。
*(生きてやるよ、クソッタレが。この地獄を這いずり回り、俺の肉体と魔力から絞り出せる限りの力を引き出し、俺の邪魔をするすべての野郎を押しつぶし、あのクズどもを全員地獄に叩き落としてやる……。生きて後悔させてやる、一人残らずな)*




