第二十五話 ロウェル主任は、止めた夜を覚えている
監禁から解かれた人間は、最初に自由の話をしない。
自分がどこで、何を止めようとして、どこで間に合わなかったのか。
たいていは、そこから話し始める。
ロウェル主任が移されたのは、北翼の小さな静養室だった。
高い窓から朝の薄い光が差し込み、白布をかけた寝台の端だけを静かに照らしている。薬草の匂いが濃い。医師がいる。水差しがある。どれも整っている。整っているのに、この部屋の空気はどこか緊張を解かない。ここにいる全員が、いま聞く言葉ひとつで、昨夜までの順番が大きく変わると知っているからだ。
ルカ・エヴァレットは、寝台脇の椅子へ腰かけたロウェルを見た。
痩せていた。頬の線は落ち、唇の色も悪い。だが背だけは伸びている。病人の背ではなく、長く人へ姿勢を教えてきた者の背だった。
その隣に、エレノアが立っている。
呼ばれたときからほとんど言葉を発していない。けれど、その沈黙の密度が、いつもの何倍も重かった。
「記録を取ります」
ルカがそう告げると、ロウェルは小さく頷いた。
「ええ。そうしてください」
声は掠れている。だが、崩れてはいない。
「まず確認します」
ルカは机上へ灰青の原票写し、取次受理簿写し、そして昨夜までの保全札を並べた。
「茶会前日、主任は主催側確認の灰青原票へ留保を書き、緊急上申願いを別に起こした。そこまでは間違いありませんか」
「ありません」
ロウェルは即答した。
「留保票は返送用です。あのまま戻れば、導線の組み直しが要る。ですが、戻して終わる段階ではないと判断したので、上申願いを別に出しました」
「理由は」
「氏名後補のまま、南回廊へ補助要員を通す話が消えなかったからです」
ロウェルはわずかに目を閉じる。
「副主任は、行事を止めるなと言いました。私は、行事のために順番を壊すなと返しました」
エレノアの指先が、寝台の端でほんの少しだけ強くなる。
ルカはそれを見なかったふりをした。
「上申願いは、主任ご自身で取次へ?」
「はい。正確には、私が封をし、取次箱へ入れました」
それで受理簿の記録と繋がる。
「そのあと何が起きましたか」
ロウェルは少しだけ水を口に含み、それから言った。
「戻る途中で、サビーヌが追ってきました。“副主任がもう一度だけ話したい”と。私は断るつもりでした。ですが、上申を入れた以上、あとは記録どおりに動くと考えていた。だから戻った」
声は静かだ。
静かだからこそ、その一つひとつが重い。
「旧客間へ通されたのですね」
「ええ。副主任はおりませんでした。代わりに、取次補助の女官がいました」
「イレーヌ・バルダン」
「名は後で知りましたが、そうです」
ロウェルは寝台の白布へ視線を落とした。
「彼女は、“もう上へは伝わっています、少しお待ちください”と言いました。私はその言葉を信じませんでした。扉を開けようとしましたが、外から鍵がかけられた」
静養室の空気が少しだけ冷える。
病欠ではなかった。
それが本人の口から出ると、書類の何倍も重い。
「その夜、誰かの声を聞きましたか」
ルカが問うと、ロウェルはすぐに頷いた。
「二度」
「順に」
「最初は、夜祈りの前です」
彼女の目が、ようやくルカではなく、どこかその夜の壁を見るように遠くなる。
「若い女の声が二つ。ひとつは取次補助の女官。もうひとつは、礼拝棟側の若い声でした。後者が“先生は、止めた紙を表へ出すなと”と言った」
レオニーか、とルカは思う。
だが口には出さない。
「続けて、男の声がしました。低く、短く。浄具係のアルノーです」
静養室の空気がまた変わる。
「主任は、アルノーを知っていたのですか」
「夜会や茶会の祈祷具確認で、何度も顔を合わせています。声も覚えています」
ロウェルは迷いなく答えた。
「彼は、“封は戻した。二つ切りも付けた。今夜のうちなら、瓶は元へ戻る”と」
ルカの指先が止まる。
二つ切り。
講読確認済の供札。
「その場に、三人いた」
「はい。若い女の声が一つ、イレーヌ。もう一つは、礼拝棟の読誦補助か、そのあたり。男がアルノー。そして」
そこでロウェルは、初めて言葉を切った。
「もう一人、年上の女の声がありました」
エレノアが静かに目を上げる。
「主任先生」
ロウェルは頷かなかった。だが否定もしなかった。
「顔は見ていません。ですが、若い女たちが一段低く返事をする相手でした。“順番は外で直せばよい。原票だけは通すな”と」
静養室のどこかで、医師が小さく息を呑んだ。
「その声は、エルマ・ルーセンのものだと断言できますか」
ルカは慎重に問う。
ロウェルは目を閉じる。
「断言はしません。私は顔を見ていない。けれど、礼拝棟であの高さの声を持つ女は多くない」
それで十分だった。
今は確定ではなく、切り分けが必要なのだ。
「二度目は」
「夜祈りのあとです」
ロウェルは続けた。
「今度は、若い女が一人だけ。“白は通る。灰はもう無い”と」
灰はもう無い。
灰青原票のことだ。
「そのあとで、誰かが扉の外へ紙を擦る音を立てました。封を差し替えるときのような、乾いた音です」
紙の音。
瓶の封も、紙の封も、結局は同じ夜の中で動いていた。
「主任は、なぜご自分の原票が止められたと分かったのですか」
ロウェルはゆっくりと顔を上げる。
「翌朝、扉の下から白い細票が差し込まれました」
静養室の空気が、そこで一段だけ張る。
「残していますか」
「いいえ。取られました」
だが、その答えは予想の範囲だった。
「内容は覚えています」
ロウェルの声が低くなる。
「“主任の留保は誤記として処理済。行事は支障なく進む”」
エレノアの指先が白布から離れた。
その代わり、背がさらにまっすぐになる。
「誤記として処理済」
ルカが繰り返すと、ロウェルは苦い顔をした。
「私は、その紙を見た瞬間、票の外で順番を直されたと分かりました。だから扉を叩きました。返事はありませんでした」
それで十分だった。
“誤記”の語が、本人不在のまま使われたことが、本人の口から出た。
「主任」
ルカはもう一つだけ問う。
「睡蓮毒の保管瓶について、何か心当たりはありますか」
ロウェルは少しだけ考え、それから答えた。
「直接はありません。ですが、南回廊の導線変更を巡って揉めたとき、レオニーが“祈祷瓶の順も変わるのだから、今さら名などどうでもよい”と」
講読司だけではない。
祈祷瓶の順まで、同じ夜のうちに話題へ上がっていた。
「それを聞いたのは、いつです」
「留保票を書いた少し前です。だから私は、ただの雑務補助の話ではないと思いました」
静養室に、しばし沈黙が落ちる。
ロウェルは嘘をついているようには見えない。
だが、弱っている人間の記憶は断片になりやすい。だからこそ、断片のまま採る必要がある。
「記録します」
ルカが言うと、ロウェルは頷いた。
「ええ。断言できないことは断言しないでください」
「そのつもりです」
それで彼女は、初めてほんの少しだけ表情を緩めた。
「記録院らしいわね」
短い言葉だった。
だが、その一言には、これまで奪われていた秩序へ対する信頼が戻りかけているものがあった。
そのとき、扉がノックされた。
近侍だった。
「殿下が、主任の供述要点を先に受けたいと」
「今すぐ?」
「はい。加えて、浄具係アルノーを押さえました」
部屋の空気が一変する。
「どこで」
ルカが問う。
「礼拝棟外れの香具庫です。封蝋用の微粉蝋と、予備の細刃を所持していました」
それだけで、毒物線はかなり近づく。
だが近づいたからこそ、次は慎重に切らねばならない。
「アルノーは何と」
「まだ何も。ですが」
近侍は一拍置いた。
「押さえたとき、“自分は封を戻しただけで、中は知らない”と」
封を戻しただけ。
またその言い方だ。
整えただけ。
止めただけ。
先に入れただけ。
戻しただけ。
強い側の秩序を守るためなら、自分はほんの少し動かしただけだと、皆がそう言う。
エレノアが、ロウェルへ深く一礼した。
「主任」
ロウェルは彼女を見る。
「遅くなりました」
エレノアの声は静かだった。
「ですが、ようやく、あなたの紙と、あなたの夜が戻ってきました」
ロウェルは少しだけ目を閉じ、それから答えた。
「戻すのは、これからよ」
その一言が、静養室の全員を前へ向けた。
そうだ。
原票は戻った。
夜は本人の口から語られた。
だが、まだ瓶は開けられ、封は戻され、毒は別の順番で使われた可能性が残っている。
ルカは供述札をまとめ、席を立った。
次は、浄具係アルノーだ。
紙の順番を外で直した者たちの夜は、ようやく本人の言葉で崩れ始めた。
そして今度は、瓶の順番を直した手が、どこまで同じ夜につながっているのかを切る番だった。




