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悪役令嬢裁判録~婚約破棄で断罪された公爵令嬢ですが、王宮記録官が証拠と手続きで冤罪を覆します~  作者: ビッグサム


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第二十三話 その原票は、白票より先に読まれる

 再審前審の場は、夜会の広間より静かで、審問室よりも冷たかった。

 朝の光が高窓から薄く落ち、石床の上にまっすぐな白を引いている。玉座でも会見室でもない。法務院と王太子宮の間にある、記録採否を決めるための前審室だ。

 ここでは、人を裁く前に、まず紙が裁かれる。

 ルカ・エヴァレットは記録官席に着き、机の上へ今日の順番どおりに束を並べた。

 灰青の原票。

 取次仮受の裏書。

 病欠小票。

 白票の承認補足票。

 取次白箱持出控え。

 講読前整句控。

 講読札箱六の貸出票。

 そして、ロウェルの上申受理簿写し。

 どれも紙だ。

 だが、今日ここでは、紙のほうが人より先に口を持つ。

 セドリック第一王子は、一段高い席にいた。

 外套はなく、軍服の襟だけが朝の硬さを帯びている。疲れは残っているはずだ。だが、昨夜までと違うのは、その疲れがもう曖昧さの言い訳にならないと、彼自身が理解している顔だった。

 エレノアは被疑当事者席に座している。

 灰青の衣は昨夜と同じだが、その背筋は昨夜よりむしろ強く見えた。理由は簡単だ。今日の机上には、ようやく彼女の側の紙がある。

 対面には法務院。

 ベルナール補佐官。

 その後ろに、顔色を失った若い書記たち。

 さらに壁際には、監査院立会の席。

 教育棟からイザベラ・クレイン、サビーヌ・エラール。

 礼拝棟からアデル・ヴェルネ、レオニー・サール。

 そして、拘束下のイレーヌ・バルダン。

 エルマ・ルーセンの席だけは、まだ空だった。

「始める」

 セドリックの声が落ちる。

「本前審は、ヴァレンティア公女に対する断罪根拠として提出された諸票の採否、および再審に付すべき主要記録の優先順位を定める」

 室内の空気が張る。

 ここで決まるのは、有罪無罪ではない。

 だが、どの紙を採るかで、その後に進める道は大きく変わる。

「記録院より、主張の順を」

 ルカは立ち上がった。

「本日前審で最初に採るべきは、教育側主催確認の灰青原票です」

 ざわめきは起きない。

 ざわめくには、この場は静かすぎた。

 ルカは灰青の票を持ち上げる。

「理由は三つあります。第一に、教育棟の正式票であること。第二に、取次仮受印があり、少なくとも王太子宮の取次まで実際に到達していること。第三に、文面・署名・押印のすべてが、白票の承認補足票より前段階の判断を示していることです」

 ベルナールがすぐに口を挟んだ。

「原票であること自体は認める。だが、原票だからといって、それだけで現在の意思を示すとは限らん。留保票があとから承認へ改まることはありうる」

「ありえます」

 ルカは頷いた。

「ですので、次に“改まった”という主張が、どの紙で、どの順で出たかを切ります」

 そこでルカは、エレノアの前に一歩進み、灰青原票を王子の前へ差し出した。

 セドリックはそれを受け取る。

 その指が、票の左寄せの署名位置でほんの一瞬だけ止まる。

 彼は読み上げなかった。

 自分の目で読んだ。

 ――主催側確認 留保

 ――氏名後補のまま導線へ加えること不可

 ――返送先 王太子宮付書記局

 読み終えたあとも、王子はすぐには紙を置かなかった。

「……ロウェルの手だな」

 低い声だった。

 エレノアが答える。

「はい、殿下」

「お前もそう見るか」

「見ます。署名位置も、文の切り方も、印の濃さも」

 セドリックは灰青の票を机へ戻した。

 その動作は慎重だった。まるで、今ようやく“読む価値のある紙”に触れたと知ったように。

「続けろ」

 ルカは次に、白の承認補足票を持ち上げた。

「対してこちらは、ロウェル主任名義の承認補足票です。しかし、これは教育側の正式票ではありません。王宮共通の白補足票であり、教育棟正式票の灰青紙ではない。さらに文言が不自然です」

 エレノアが、昨日と同じ低い声で言う。

「“誤記につき撤回し”は、ロウェル主任の文ではありません」

 ルカが続ける。

「加えて、この票には下書きが存在します」

 今度は受理箱から出た未提出票の写しを示す。

 ――主催側確認の留保は誤記につき撤回し、

「完成票より前に、整文途中の白票が存在する。しかも欄外には“上覧前に整文”とある。つまり承認票は、完成した判断の記録ではなく、上覧前に整えられる予定だった文です」

 ベルナールの眉が動く。

「下書きがあること自体は珍しくない」

「はい。問題はその順です」

 ルカは取次白箱持出控えを前へ出した。

「病欠票と承認票は、当初、法務院へ直送される票ではありませんでした。王太子宮の取次白箱へ仮受され、夜半前にレナート次席が二通を抜き出している」

 監査院受領官が補足する。

「その持出控えは保全済みだ。取扱欄には I.B.――取次補助イレーヌ・バルダンの記録が残る」

 イレーヌは俯いたまま、何も言わない。

 だが沈黙それ自体が、もう否定にはなっていなかった。

「つまり」

 ルカが言う。

「灰青原票が取次仮受で止められる一方、白の病欠票と承認補足票だけが、上覧前整理の束へ先に載せられた。順番が逆です」

 室内の空気が、ここで初めてわずかに揺れた。

 断罪の根拠として採られた側の紙が、正規の順番ではなく“見せる順番”で先に置かれた。

 その異様さが、誰の目にも見え始めたのだ。

 セドリックが、壁際のマルセルへ向いた。

「取次受理簿」

 マルセルはすぐに進み出て、昨夜から保全されている簿冊を開いた。

 ロウェル緊急上申願い。

 受理。

 書記局整理預り。

 病欠連絡により取下。

 その行が、朝の光の中でやけに冷たく見えた。

「王太子宮付書記官マルセル・ドーレン」

 セドリックの声は静かだった。

「お前は、この病欠連絡で上申を止めたな」

「……はい」

「その責は」

「私にあります」

 そこは逃げなかった。

「だが、病欠票そのものは教育棟の正式票ではありませんでした」

 ルカが言う。

「教育棟内務補助室の正式票見本には、代理記載欄と補助印欄がある。提出された病欠小票には、それがない。つまり、上申停止の根拠自体が正式様式外です」

 セドリックの視線が、今度はイザベラへ向く。

「イザベラ・クレイン」

「はい」

「お前はロウェルの上申を預かった。だが、病欠小票は出していない」

「はい」

「それでも責はある」

「あります」

 彼女は昨日と同じように認めた。

 その認め方に、見苦しさはない。

 だからこそ、その先の見苦しい紙が際立つ。

「次に」

 ルカは講読前整句控を開いた。

 茶会前日、夕刻二刻。

 I.B. 病欠通知。語句二。返却済。

 夕刻三刻。

 L.S. 留保処理相談。語句四。返却二、残二。

 夜半前。

 R 上覧前整理。語句三。返却一。

「ここで重要なのは、承認票の文言が、一人の筆写教師の整文ではなく、講読司とその上位の選句によって部品化されていたことです」

 アデルが一歩進み出る。

「病欠小票の文は、私が整えました。ですが、承認票の核心文――“誤記につき撤回し”は、私の整句帳にありません」

「講読札箱六から抜かれた三枚」

 ルカが続ける。

「“誤記につき”“撤回し”“上覧前整理により”。責を薄くし、順番を後から正当化するための語です」

 そこで、ようやく空席だった扉が開いた。

 エルマ・ルーセンが入ってくる。

 拘束下で連れてこられたはずなのに、背筋は崩れていない。だが昨夜よりも、その顔に僅かな翳りがあった。逃げ切れる位置ではなくなったことを、自分でも理解している顔だ。

 セドリックは彼女を見た。

「聖句主任エルマ・ルーセン」

「はい」

「お前は、“止まった紙は敗ける”と教えたか」

 部屋が完全に静まる。

 エルマは、数拍だけ沈黙した。

 だが、その沈黙は言葉を選ぶ沈黙であって、否定を探す沈黙ではなかった。

「……はい」

「言い回しを整えろと?」

「はい」

「票の外で順番を直せと?」

 そこでようやく、エルマは目を伏せた。

「私は、“表に見える順番を先に置け”と言いました」

 それは、ほとんど同じ意味だった。

 ルカはエルマの整句控末尾から出た封筒の札を机へ置く。

 ――止まりは誤りにあらず

 ――通りが正しさを作る

「この札は、あなたのものですね」

「……はい」

「若い者へ見せるためではなく、自分の机へ置くための」

「はい」

 セドリックの手が机上で止まる。

 その二枚の札が、今日ここにあるどの票よりも、この件の芯をよく表していたからだろう。

「では確認する」

 王子の声は低い。

「ロウェルの灰青原票は実在し、王太子宮取次まで達した」

「はい」

「その後、取次補助イレーヌ・バルダンの判断で白箱に乗せられず、引かれた」

 イレーヌは俯いたまま答える。

「はい」

「病欠小票は、その前に I便で先行した」

 サビーヌが震える声で、

「……はい」

 と答える。

「上申は、様式外の病欠小票と、書記局整理預りで止められた」

 マルセルが、

「はい」

 と返す。

「承認補足票の文言は、講読司の語句箱と整句控を通じて薄められた」

 エルマとレオニーが、ほとんど同時に沈黙する。

 否定しない。

 それで十分だった。

 セドリックはゆっくりと立ち上がった。

 この場で誰かを有罪にする権限は、まだここにはない。

 だが、どの紙を採り、どの紙を切るかを決める権限はある。

「記録する」

 王子の声が、前審室の石壁へまっすぐ当たる。

「ロウェル主任の灰青原票を、本件の主たる原記録として採る」

 誰も動かない。

「ロウェル名義の白承認補足票、病欠小票、白起こしの転記控え、整文前白票、これらは、いずれも原記録を覆す根拠としては採らない」

 ベルナールが顔を上げた。

「殿下、それでは――」

「黙れ」

 その一言で終わった。

「白票群は、成立経路に重大な疑義がある。病欠小票は様式外、承認補足票は補足票にすぎず、しかも下書きと整文工程が残っている。採れない」

 エレノアの肩が、ほんのわずかにだけ動く。

 泣くわけではない。

 だが、自分を沈めていた紙の重みが、ようやく一枚ずつ外れ始めたのだ。

「加えて」

 セドリックは続ける。

「ヴァレンティア公女に対する現在の断罪根拠のうち、聖女導線妨害については、主要紙証が崩れたものと見る。よって、この点は再審本審までのあいだ効力を停止する」

 前審室の空気が、一瞬だけ大きく揺れた。

 完全な無罪ではない。

 だが、“断罪の柱”の一本がここで折れた。

「殿下」

 ベルナールがなおも言い募ろうとする。

「毒物線、贈答物流通線まではまだ――」

「だから本審へ回す」

 セドリックの声は冷たい。

「だが、崩れた柱で他の柱まで支えることは許さない」

 その判断は、王子として正しい。

 そしてその“正しさ”を、今日ここまで紙で運んできたのはルカたちだった。

「記録官」

 セドリックがルカを見る。

「次に本審へ回すべき紙を言え」

 ルカは一礼した。

「睡蓮毒の鑑定受理記録と、贈答品流通控えの副印不一致です。どちらも、まだ原本と受理経路の再照合が必要です」

「分かった。そこへ監査院を入れる」

 王子はそこで視線をエルマ、イレーヌ、レオニーへ移した。

「お前たちは、人を直接裁いたつもりはなかったのだろう」

 その言葉に、イレーヌが初めて目を上げた。

「……はい」

「だが、紙の順番を歪めることは、ここでは裁きそのものだ」

 誰も返せない。

 返せないことが、いまは何より重かった。

「ロウェルの原票は、今朝、私の前で読む」

 エレノアへ向けた短い言葉だった。

 昨夜の紙に書かれていた一行が、ここで正式な声になる。

「ヴァレンティア公女」

「はい」

「お前の教師の紙は、ようやく本来の順で読まれる」

 エレノアは立ち上がり、一礼した。

「ありがとうございます、殿下」

 その声音は静かだった。

 だが、その静けさの奥にあるものが、前審室にいる誰にも分かった。

 遅れた。

 それでも、戻ってきた。

 戻ってきたのは、ただの紙ではなく、自分を守るはずだった秩序そのものだと。

 そのとき、監査院補佐が受領官へ耳打ちをした。

 受領官の眉がわずかに寄る。

「何だ」

 セドリックが問う。

 補佐は一歩前へ出た。

「礼拝棟の聖具庫より報告です。睡蓮毒の祈祷用保管瓶に、封蝋の剥離痕が見つかったと」

 前審室の空気が、また別の意味で張り詰める。

 毒物線が、今ここで動いた。

「時刻は」

 ルカが問う。

「茶会前日、夜祈り前後に限るとのことです」

 礼拝棟。

 またそこだ。

 病欠票。

 講読司。

 札箱。

 そして今度は、睡蓮毒の保管瓶。

 セドリックの目が、机上の灰青原票から離れ、次の紙の向こうを見た。

「……本審の前に、もう一度切る必要があるな」

 王子のその言葉で、誰もが理解する。

 ロウェルの原票は戻った。

 聖女導線妨害の柱は折れた。

 だが、これで終わりではない。

 むしろ、偽りの順番で覆われていた下から、次の線――毒と贈答品――が、ようやく本当の形で出てくる。

 ルカは机上の灰青原票を、もう一度だけ見た。

 この一枚が戻ったことで、次は別の一枚が顔を出す。

 紙は、ようやく正しい順番で崩れ始めた。

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