非常識ですよ、生徒ケヴィン(6)
その次の週、職員室にケヴィンが飛び込んで、職員の机にぶつかって書類を崩しながら、ジョゼの前まで駆け、机に両手をついた。
正面から、震える目でジョゼを見ている。
「非常識ですよ、生徒ケヴィン。職員室で走るなんて。マナーを守りなさい」
「ごめんなさい、ジョゼ先生。でも……その、再婚が決まったって、本当ですか」
「どこでそんなことを聞きつけるのですか、あなたは」
「嘘ですよね? だって――」
ケヴィンが言い淀む。ほかの教師の目があるからだろう。
ジョゼは優しく微笑んだ。
「いいえ、本当ですよ、生徒ケヴィン。そろそろ個別指導の時間でしたね。いつもの教室に向かいましょうか」
用意しておいた教材で満載の台車を押して、二人で空き教室へ向かう。
「再婚するので、教職は辞するつもりです。生徒ケヴィンの個別指導は、マティアス・ドラクロワ先生に引き継ぎますからご安心を。彼は私などよりよほど頭がいいし、直系の王族ですから研究所への伝手もあります。助けになってくれるはずですよ」
努めて朗らかにそう伝えたけれど、ケヴィンは返事をしなかった。
教室に入ると、いつもの黒猫がいない。今日も窓際でごろごろしていてほしかったのに、とジョゼは思う。
扉を閉め、教壇に上がったところで。
「先生、待って」
後ろから抱きしめられ、少年の腕の中に閉じ込められてしまった。
声が震えている。
(……学長先生がいてくれたら、こうはならなかったかもしれないのに。)
でも、今日はいない。いないのだ。
震える少年の腕にそっと触れて、ジョゼは思う。
己は教師で、ケヴィンは生徒であると。その二つのあいだに、そんな感情はあってはならないのだと。
だから、少年を止めるために言葉を紡ぐ。
「非常識ですよ、生徒ケヴィン。教師を抱きしめるなんて」
「ごめんなさい、ジョゼ先生。でも、僕達は――」
けれど、ケヴィンは止まらなかった。
「――両思いじゃ、なかったんですか。僕とジョゼ先生は、想い合って、通じ合っていたんじゃないんですか」
そんなセリフを、震える唇から零れ落とすように呟くものだから、ジョゼの胸がずきずきと痛んだ。己はいまから、ひどいことを言わねばならないとわかっている。
「いいですか、生徒ケヴィン。教師と生徒が想い合うなんて、あり得ないことです。それは感情の錯覚です。若いと、そういうことがままあるのです。一番近くにいる異性に、恋慕に似た幻想を抱いてしまうことが」
人を傷つけ、突き放すためだけの空虚な言葉たち。
「生徒ケヴィン。あなたのそれは、愛でも恋でもない、幻です」
自分の唇から紡がれたそれらが、空き教室の床に落ちて粉々に砕けていく様を、ジョゼは幻視した。
(ひどい嘘つきですね、私は。)
「だいたい、よくお考えなさい。私は傍流ですが王家の血を引く貴族で、あなたは特待生ながらも平民です。年齢だって、十も違う。あなたのように若くて、優秀で、人格も良い男が、私のような年増の未亡人を慕ってどうします」
優しく腕の拘束を解いて振り返り、正面からケヴィンに向き合う。
決定的に、傷付けるために。
泣きそうな顔の少年を見ると、ジョゼも泣いてしまいそうだった。
「確かに、私はあなたを好ましく思っています。けれどそれは、亡き夫の面影を、あなたの優しさの中に感じているからです。……私はそんな、ずるい女です。あさましい女です。だから、あなたは別のいいひとを見つけて、幸せになって――」
今度は。
正面から抱きしめられて。
言い訳がましい言葉を断ち切るように。
唇を、奪われた。
嫌と言う暇もなかったし、ジョゼの腕は弱々しくケヴィンの胸に置かれただけで、拒否しなかった。……できなかった。ただ、瞳を閉じて、互いの唇を通して体温が溶け合い、境界がわからなくなっていく時間に、身を任せた。
数秒の後、空き教室で寄り添う二人の距離が、少し開く。
「ごめんなさい、ジョゼ先生。こんなことをして。でも、僕のこの想いが幻だって言うなら。この唇の感触も、幻想だっていうつもりですか」
「……ええ、幻想です。あなたの想いも、私の感情も――」
――そして、これからこの教室で起こることも。
そう、幻想なのだ。ジョゼは自分にそう言い聞かせた。だって……。
(私は、きっと、拒めません。)
強く求められてしまったら、この愛しいひとのことを拒めないから。
だから、せめて理性だけは、最後まで『すべては幻想なのだ』と嘘を吐き続けなければいけない。
それが、ただの言い訳だとわかっていても。
あるいは、わかっていたからこそ。
ジョゼは左手の薬指から、そっと銀の指輪を外して、ポケットにしまった。
個別指導が終わった教室には、甘くて退廃的な心だけが残っていた。
ジョゼは、自分が今しがた感じた気持ちが、胸を締め付ける想いが、禁断の果実だと理解していた。だから、ブラウスのボタンを留めながら言う。
「生徒ケヴィン。今日のことは、忘れましょう。お互いのために」
「いいえ。絶対に忘れません。忘れさせもしません」
けれど、ケヴィンは力強く断言した。
「ほかの奴と結婚なんてしないでください。いつか、僕が迎えに来ますから」
「……非常識ですよ、生徒ケヴィン」
いつものように、そう言って。
いつもと違うのは、今日はケヴィンがごめんなさいと言わなかったことだ。
「必ず、ジョゼ先生を迎えに来ます。どこにいても、なにをしていても」
あんまりにもまっすぐ、そんなことを言うものだから。
ジョゼはうつむいて、小さな声で「非常識ですよ、生徒ケヴィン」と、もう一度呟いた。
●
田舎にある修道院に、ひとりの修道女がやってきた。
その修道女は傍流ながらも王族の血を引き、若くしてシャノワール魔術学園の教壇に立つ才女だったが、不運にも結婚して一年足らずで夫を亡くしていた。
それでも変わらず教壇に立っていたが、再婚の話を機に学園を去り……、しかし、その再婚も土壇場で断ってしまったという。
「私のように愚かで罪深くあさましき女に許されるのは、ただ、祈ることだけでございます」
どんな罪を犯したのか、女は頑として口を割らなかったが、まじめな態度で慣れない畑仕事に従事し、朝昼の祈りを欠かさず質素な生活を送るので、やがて誰も気にしなくなった。
修道院では、付近の子供たち向けの簡単な魔術講義をおこなう私塾も開いた。
特に好評だったのは神話の絵本の読み聞かせだ。彼女によって見出された数人の才ある児童がシャノワール魔術学園に進むほどで、すぐに彼女のあだ名は「先生」になった。
そんな生活が十年過ぎたころ、修道女の元を、ひとりの男爵が訪れた。
陽光葉の研究と、それを応用した陽光灯の開発によって爵位を得た、いわゆる成り上がりの平民だ。
元平民だけあって、常識を知らないのか――。
「僕と、結婚してください」
――その男爵は、修道女の前で膝をつき、花束を差し出して求婚したのである。
夫を亡くし、再婚を断り、神の道を志した女に、だ。
「がんばって、貴族のマナーもおぼえたんですよ。まだ、下手ですけど……。プロポーズには花、ですよね?」
そんなことを言う、愚かな男爵の花束を……。
「もう、もう! 修道女にいきなり求婚するなんて、まったくあなたという人は――」
……修道女は、泣き笑いで受け取ったという。
「――非常識ですよ、生徒ケヴィン」
「ごめんなさい、ジョゼ先生」
以上、『非常識ですよ、ケヴィン』でした。
実は、黒猫学園短編集はサイコロのアプリでキャラクターの設定とカップリングをランダムに決定していて、教師と生徒のカップリングが出たときは「おお……!」と謎に感動したのをおぼえています。
一年前にアイデアだけは出し終わっていたのですが、なんとか今になって書き上げられました。
ブクマを外さず、見捨てないでいてくださった皆様に感謝です。
次は平民の女性シェフ、イアサント(『植物だけが、知っている。』登場キャラ)を主人公にしたエピソードを予定しています。こちらもアイデア出しは終わっているので、なんとか更新を続けていきたいところです。(追記:土日から再開予定です。)
ブクマ、☆☆☆☆☆で評価、いいね、感想などいただけると励みになります。




