ジスカール「神よ、どうかマリーさんがどこかで元気にしておられますように」
トライダーに追われ夜道を逃げ回るマリー。しかもエテルナに居るはずのフォルコン号が居ない……どこに行ったんでしたっけ?
マリー・パスファインダーの望郷の旅路。その行方やいかに。
一人称に戻りますよ!
フォルコン号はきっとレブナンに向かったのに違いない。入れ違いになってしまった……私に船長代理のロイ爺を責める資格は無い。逗留が長引いたにも関わらず、私はフォルコン号に何も連絡を入れなかったのだ。いつもの悪い癖である。
足元がふらつく。目が霞む……疲れた……私は夕方からレブナンを離れ山を越えほぼエテルナまで行って、そこからまた帰って来たのだ、その間ずっとトライダーに追われながら。
最後の峠を越えると、眼下にセリーヌ川河口に広がるレブナンの街の灯が、月光を映してきらきらと光る海が見えた……上弦の月も今や西南西の水平線に沈もうとしている……
「マリー君……! 待つのだマリー君……!」
そこへまた降りかかる、天敵トライダーの声ッ……!
奴はまだかなり後方に居るようだが、障害物が無くなったので遠くからでも見えるようになってしまったらしい。まずいよ、奴は登り坂では私より遅くなるけど、下り坂では加速してしまう。
足が……足が棒のようだが……ええいままよ。私は疲れた体に鞭打ち、マスケット銃でバランスを取りながら道を離れ、急斜面や崖をショートカットしてどんどん滑り降り、飛び降りるッ……!
「ぐえっ! うえええ……あひゃああ!?」
いくら船酔い知らずの魔法がかかってるとはいえ、暗闇の中疲れた体でそれをやるのは容易ではなかった。斜面に生えた木の枝がばんばん顔や手足に当たり、でかい蜘蛛の巣がまとわりつき、蔓草が足首に絡まり……いくつもの転倒や転落を繰り返しながら、私は峠から転げ落ちて行く。
「マリーッぐおおっ! くんッ!! ぐえっ、待つのだァあッ!」
背後からはトライダーが魔法も無しに全く同じようにして、峠から転げ落ちながら追い掛けて来る。
道は次第に緩やかになる……もうショートカットは使えない。あとはひたすら走るしかない。
何故だろう、迫る街の灯が嫌に目に沁みる。何の涙なんだこれは……私はただ、ここから逃げ出してここに戻って来ただけだと言うのに……
「外の世界はッ……! 君には危険なのだマリー君……! 私と一緒に……王立養育院へ行こう……!」
ひいいっ!? ここに来てトライダーの声がまただんだん近づいて来ている!?
だけど無理……もう私これ以上速く走れない……疲れた、お腹すいた、喉渇いた……止まりたい……
だっ、駄目だっ、フォルコン号まで、フォルコン号まで走るんだ! きっとフォルコン号は港に来てるから……多分……
郊外の田園地帯を駆け抜け、港へと続く下り坂を駆け下りる、ゴールはきっとすぐそこだ、多分……だけどトライダーももう10m後ろまで迫っている。
この辺りまで来ると、違和感の正体がはっきりして来た。レブナンの街が眠っていないのだ。
昨日も一昨日もこんな事はなく、夜には暗く静かになっていた街なのに。今日はあちこちに松明や篝火が焚かれ、上着や毛布を被った人々が街角で語らい、笑い合っている。
まさか、また国王陛下が何か始めたとか……? こんな夜中に?
「マリー君! 養育院は、ただ孤児を集めて、生活させているような場所ではないッ! 救貧院とは違うのだッ!」
考え事をしている場合ではなかった! 港へ急がなきゃ、フォルコン号、御願いだからそこに居てぇぇ!
「そこは美しい花の咲き乱れるッ、平和で、豊かな場所なのだッ! 君の好きなたくさんの本もある、神を敬う仲間達が居るッ! そこには清潔な部屋と、清らかな生活があるのだ! そこには飲んだくれも居ない、暴力も無い! 養育院には君の求める全てがあり、君に相応しくない全てが遠ざけられている!」
疲れた……死にそう……もう止まっちゃおうかなあ……トライダーの言う事が本当なら、そこに行けば私は泣き喚く事も空腹に苦しむ事もなく、船酔いもなく、三年間のほほんと暮らせるのか。
あれ? 養育院っていい所じゃないか……私何で逃げてるんだっけ?
「わあああああ!!」
冗談じゃない! 私は自分の運命だけは自分で掴むのだ、例えそれが蜘蛛の巣と泥に塗れたこの姿だろうと、人に勝手に押し付けられた運命よりはマシだ!
「養育院になんか行きませんよ! ついて来るなーッ!!」
最後の力を振り絞り、私がそう絶叫した、次の瞬間。
―― ガラーン! ガララーン! ガラララーン! ガラーン!!
街のあちこちで……鐘の音が一斉に鳴り出した……
―― ヒュルルルル…… ドォォォン!!
続いて、夜空に巨大な光の花が咲いた。
―― ヒュルルル、ドドーン、ヒュー、ドドーン!! パラパラパラ!
―― ガララーン! ガラーン! ガララーン! ガラーン!!
巨大な光の花……そう。色とりどりの花火が、次々と夜空に打ち上げられて行く。鐘の音も深夜だというのに立て続けに鳴り響いている。
私はちょうど、街の大きな広場に出ていた。先日風紀兵団が掃除していて、私がドパルドン卿から風紀兵団の活動費を供出していただいた場所だ。
広場には……たくさんの市民が、衛兵が、陸海の兵士や騎士団の従卒も居て……
「新年、明けましておめでとう!!」
「新しい年に幸あれ!!」「ハッハー! また一年生き延びたぞ!」
老若男女が、それぞれの立場も垣根も越え、お互いを祝福し合っている。
私は広場の真ん中で立ち止まり、呼吸を整えていた。
トライダーも私に追いついて、私の肩に手を置いたが……
ふふ……ははは……
「あは……あははは! あははははははは!!」
私はトライダーの手を跳ね退け、振り返る。
「トライダーさん! 明けましておめでとうございます! 明けたんですよ……今、年が明けました! あははははははは!!」
全身にのしかかる疲労と、まるで力の入らない両脚、酷く乱れる呼吸。一月のレブナンの夜空に、過熱した体からもうもうと湯気を上げながら、私は笑った。哄笑した。体はかつてない程にボロボロなのだが、こんなに笑った事は記憶に無いというくらい、私は笑った。
「私は16歳になりました!! 今日から大人の仲間入りですよ、どんな仕事にでも就けます、もう孤児だなんて言われる筋合いは無い、私は大人です! あははは、あはは、トライダーさん! 何とか言って下さいよ! あはははは!」
―― ドドーン! パラパラパラ…… ドーン! パパーン!
花火は尚も撃ち上がり、雲一つないレブナンの夜空へと広がる。何と言う美しさ、何という清々しさだろう。
―― ガラララーン! ガラーン! ガラララーン! ガラーン!
教会の鐘の音の祝福もまだ止まない。何と美しい音色なのか。神様神父様ありがとうございます、私を大人にしてくれて有難うございます!
「マリー君ッ……だが、養育院は一度入れば18歳まで居る事が出来るのだッ……私が院長に掛け合う、どうか、15歳のうちに入所を同意した事にしてくれないか!」
あははは、そう来たかトライダー、いやヨハン! それでは君が不正をした事になってしまうのだろう? いやいや君にそんな事が出来る訳がないじゃないか、無理はやめて状況を受け入れるんだな! ……ってフレデリクが言ってます。
「お断りします! 私、もう16歳ですから! それにどうか御安心を、私は船乗りをやめますよ! もう海に逃げる必要もなくなりましたから、勿論風紀兵団なんかになる訳もありません! 私はフォルコン号に乗って故郷へ帰り、ヴィタリスのマリーとして暮らします!」
―― パパパパーラーラーラーパーパー、パラーラパラララーラ……
どこかで愉快な管楽器の音色も鳴り出した。サフィーラで聞いた新聞屋の音楽のようだ。彼等も新年を、大人になった私を祝福してくれているのかしら。
「マリー君ッ、どうか、どうか信じてくれ! 王立養育院は決してただ孤児を集めて収容する刑務所のような場所ではないのだ、本当に、君の求める生活はそこにあるのだ、そこは本当に清らかで平和な場所で……」
トライダーがまだ何か言ってる。だけど私にはもう大人の余裕があるのだ。
「解ってますよ、私は別にトライダーさんの言葉を疑ってる訳ではないんですよ、貴方は嘘をつく人ではないとは思っています、だけど私はそこに行きたくないんです、それだけですよ! ま、今となっては行きたくても行けませんけど? さよならトライダーさん。私、フォルコン号に帰りますから。貴方は風紀兵団の野営地に行ってみたらどうですか? それじゃ、おやすみなさーい」
私は笑顔で手を振り、その場を立ち去ろうとする。
―― パララ、パーパパーラーラー! パパーラ パーララーラ パラララーラ!
しかしちょうど数人からなる管楽器の小楽団が通りかかり、私の行く手を塞ぐ。楽団の先頭は、サフィーラで出会ったロワンのような、とても小柄で風変りな服を着た道化師が務めていた。
男は素っ頓狂な声で叫ぶ。
「皆の衆! 王様の御触れだ! 王様の御触れだよー! 新年初めてのアイビス国王の御触れだよー! 心してお聞き!!」
道化師はそう言って帽子を取り、両手を広げる。近くに居た市民の男が応じる。
「おいおい、めでたい気持ちの時にやめてくれよ! 御触れなんてどうせ増税か何かだろうが、そんなの聞きたくねーよ!」
道化師は腰に手をあてて応じる。
「なんだと失礼な! 畏れ多くも国王陛下は、お前達市民の健康と長寿を願って、この新しい法律を作って下さったんだぞ! 感謝して聞け!」
鐘の音が止まる。辺りの喧噪もしばし静まり、皆が道化師に注目する。道化師はコホンと、一つ咳払いをして続ける。
「いいかね? 国王陛下はなんと! お前達の寿命を延ばしてくれたのだ!!」
周囲がどよめく。一体この道化師は何を言おうというのか。
「今までアイビス国民は新年、一月一日になると一斉に年齢を一つ上げる事になっていた! 国王陛下は今年よりそれを改め、国民は、誕生日が来たら年齢を一年上げる事にするという法律を発布したのだ!」
「どういう事? あたしゃ去年は46で、今年47になったんだけど、三月の誕生日が来たら48になっちまうのかい?」
「違う違う、あんたは今日の時点ではまだ46で、三月の誕生日が来たら47になるんだよ」
近くに居た御婦人の質問に、道化師は明快に答える。周りの皆がざわめく。
「なんだよ寿命を延ばすって。ただ数え方を変えただけじゃないか」
「レイヴンやクラッセではもうその数え方になってるんだよね……アイビスもやっと追いついたって事かなあ」
「だけど! じゃあ私ってまだ28歳なのね!? 29歳になるまであと11か月あるのね? 素敵ィィ! ありがとう王様最高ォォ!」
喜ぶ者、呆れる者……人々の反応は様々だ。
私は、焦点が合わなくなった目でただぼんやりと道化師を凝視していた。
トライダーが、私の隣に並びかけて来た。
「私の誕生日は8月2日、その日が来るまで、私は21歳という事になったようだ。マリー君……君の誕生日を伺ってもいいだろうか」
私は、震え声で答えた。
「12月……11日です……」
「マリー君。王立養育院に行こう」
間一髪、私は肩に伸びて来たトライダーの魔の手を避け、再び走り出す。
「わあああ!」
「待つのだマリー君!!」
茶番。
もしかすると、私の人生というものは全てその一言で説明出来るのではないだろうか。茶番。私は今回何をしていたのだろうか。さんざん走り回って海に落ちて銃で撃たれたと思って偽マリーを逃がして……
だけどレブナンでは何も商売が出来ず何一つ成果も無く、ジゼルお姉さんも結局何も話してくれず、宿屋に預けたホールチーズすら取りに行けそうにない。
そして故郷ヴィタリスは……すぐそこに見えていたような気がした故郷ヴィタリスは、瞬く間にほぼ一年先の未来へと飛び去ってしまった。
遠く彼方のヴィタリス……オクタヴィアンさんとの約束はどうなるのだろう?
私は16歳になったら雇って貰うという約束をしていたのだ、だけど私が16歳になるのは一年も先になってしまった。オクタヴィアンさんはその間に他の人を雇ってしまったりはしないか?
私はそんな事を考えつつ、疲労困憊した体に鞭打ち、新年の祝いに沸くレブナン市街を、トライダーに追われながら逃げて行く。
どうしてこうなった?
国王陛下のせいだ。
国王陛下のバカ……国王陛下のバカ! 国王陛下のバーカ!!
なんて事してくれるんだよ……ああ……私もいっぺんくらいあの野郎、いや国王陛下の御尊顔を拝してみたい。
そんなわけで、マリー・パスファインダーの冒険と航海はまだまだ続きます。