フォルコン「あははっ、どうしよう博打でこんな儲かっちゃって、俺、日頃の行いがいいんだなー、うんうん。あっそうだ! マリーにも何かおみやげを買ってあげよう、たまには父親らしい事もしないとね、ウッフフ♪」
トマト警察だ!
トマトはじゃがいも同様16世紀初頭にはヨーロッパに伝来していたが、じゃがいも以上に受け入れられず、一般に食用とされるまでには更に200年の時間が必要だった!
ちなみに毒があったのはトマトではなく、お金持ちが使う銀ぴかの錫合金食器の方だった。合金に含まれる鉛がトマトの酸で溶け出し、鉛中毒を起こしたのをトマトのせいにされたんだね。
どうでもいい小ネタだけど第二作、七変化編の最後の方に出て来たリナレス提督が、マリーに会う直前に食べていたのはトマトシチューだった! 海の男リナレスは積極的に新世界の食材を自分の食卓に取り入れていたのだ! そしてその時もマリーはトマトという物を知らなかったので、提督のほっぺたにべったりついてるのは赤ビーツか何かのソースだと思っていた! 本当にどうでもいい事だ!
「御無事ですか団長!」
風紀兵団が上からもう一度顔を出すが、すぐに引っ込む……どうやら上甲板でも戦いは繰り広げられているようだ。
御無事かと言われると……私は海に落ちてずぶ濡れで、体はあちこちにぶつけて痛んではいるが、これといった怪我はしていなかった。
「甲板は制圧出来ますか!? 今人質を上に上げます!」
私はアルセーヌの袖をひったくるように掴み、階段へと連れて行こうとする。抵抗されたらどうしよう……こんな大男を引っ張って連れて行くのは無理だ。
しかし、アルセーヌは素直に私に手を引かれてついて来た。
「あの、トマトの汁で汚れるんで手を離して貰えませんか?」
「やかましい! 黙ってついて来いッ!」
「君、もしかしてさっきまで自分が銃で撃たれたと思ってたの?」
「うるさい!」
偽マリーはどこへ行ったのだろう? 先程の一連の乱闘の間に見えなくなってしまった。私に見られずに上甲板に上がったという事は無いはずだが。
「団長、御怪我は……ああっ!?」
そこへ、首に昆布を巻きつかせた風紀兵団が一人、妙に驚いたふりをしながら階段を降りて来る。私に言わせればあんたの格好こそが驚きだよ。
「上はどうなってますか!」
「は、はいっ! 水夫共は粗方片付きましたがガレー船がこちらに向かってます! こちらは団長以下八人全員無事です!」
「敵の高速艇は!?」
「転覆しました!」
私は一瞬考えながら、辺りを見回す。偽マリーは何をしているのか?
「この男を上へ連れてって下さい! 敵がやけくそで撃って来るかもしれないから物陰に匿って! 危ないと思ったら海に投げ込んでいいから!」
「だ、団長、この方はあの、その」
「お任せしましたよ! 私はまだする事があるから!」
風紀兵団の大兜がこちらを向いている。アルセーヌも人の顔をじっと見ている。
「いいから早く行けよ!」
私はマスケット銃の台尻でアルセーヌの尻をぶっ叩く。
「おうっ!?」
「だだ、団長!?」
妙な声を上げて飛び跳ねるアルセーヌに構わず、私は辺りを見回し、まず船尾の方へ向かう。何だよトマトって! 駕籠に入ってるのを見た時は林檎だと思ったよ! なんで果肉まで赤いんだよ、紛らわしい!
船尾側の廊下の向こうには、扉付きの倉庫と船長室がある。倉庫は船の備品や金庫、商品の一部を置く他、小さな机と椅子があり、アレクが帳簿をつけるのに使っていた。しかし現在倉庫の扉は外されていて、中は小さな礼拝室に改装されている。偽マリーの姿は無い。
一つ一つの動作に、私は緊張を籠めていた。偽マリーは間違いなく下層甲板のどこかに潜んでいる。銃を構えて待っているかもしれない。
壁に張りついたまま、私は船長室の扉の前に移動し、その取っ手に手を掛ける……鍵はかかっていない……
―― バン!
私は扉を開けると同時に床へ体を投げ出しながら船長室の中へマスケット銃を向けた! ……しかし。床も壁も綺麗に張り替えられ、大変綺麗になった船長室には誰も居なかった。真新しいシーツを敷かれたベッドも、誰も使った跡が無い。
私はすぐにリビングと化した荷室に戻る。あとは船首側だ。そちらにはロイ爺達が休憩に使っていた船員室と、私が来るまで物置になっていた会食室がある。
船首側の廊下に慎重に入る。会食室には扉は無かったはずなのだが、今は扉がついていた。倉庫と逆ですよ。何故わざわざこんな事をしたのか。
さて。どちらの扉を開けるか、二択ですよ……間違った方を開けたら、偽マリーに出し抜かれるかもしれない。
私は慎重に考えた。扉は向かい合っていて、一方の扉を開けるならもう一方の扉には背を向ける恰好になる。まさか後ろを見ながら扉を開ける訳にも行かないし。
……船員室だ。船員室に違いない。
船員室はハンモックを外せば広いスペースになるが、会食室は真ん中にテーブルがあって動き辛い。中に潜んで敵を待つなら、私も船員室を選ぶだろう。
私は船員室の扉の取っ手に手を掛けた。
―― パタン
「私、こっちよ?」
ふぎゃああああ!? 船員室の方を向いていた私の真後ろで扉の開く音がして、同時にそう声を掛けられた私は思わず飛び上がる!
「なっ……!?」
慌てて振り向いた私が見たのは、扉を開けながら微笑んでいる、大変美しいお姉さん……いや、赤毛の偽マリーだった!
「どうぞ入って。そんなびしょ濡れで寒いでしょう。暖かい紅茶を煎れたから」
私は。偽マリーを見つけたら、すぐにマスケット銃をつきつけるつもりで居た。
最初はこの人がどこまで陰謀に加担しているのか自信が持てなかった。この人はアイビスの貴族が国王陛下の為に用意した替え玉で、この人自体はただの女優さんであり、言われた通りの役を演じてるだけなのではないかと思っていた。
けれどもここまでの流れを見ると、この偽マリーはとてもただの女優だとは言えないと思う。この人の身柄を保証していたマリオット卿も首謀者の一人だった。
そこまで解っているのに。形だけでも優しい言葉を掛けられてしまうと、私はすぐに銃を向けられなくなってしまう。
しかも私は今この人に完全に背中を向けてしまったのに、この人は攻撃して来なかったんだよなあ。
「あ……貴女は誰なんですか!? まずそれを教えて下さい!」
「マリー・パスファインダーですわ」
「マリー・パスファインダーは私ですよ!! 私が聞いてるのは貴女の本当の名前です!」
偽マリーは私にそう言われても微笑みを絶やさず……二人掛けのテーブルと椅子のある豪華な茶室に改装された会食室の中に戻り、向こう側の椅子に座った。
「どうぞ、貴女も座って。美味しいわよ……アイビスが王様の為に中太洋の名門茶畑から取り寄せた、最高級の茶葉で煎れたお茶ですもの」
まるでアイリさんのように人懐っこい事を言う、偽マリーさん……だめだ、そんな事を考えたらますます銃を向けられなくなる。
この人はただ私の偽物を演じただけの人ではない。国王陛下の料理人を誑かして誘拐し、何か良からぬ事に使おうとしていた人なのだ。
偽マリーは優雅な手つきで、ポットからカップにお茶を注ぐ……眩しい程白いカップとポットだ……あんなのいくらぐらいするんだろう。
「さあ、冷めないうちにどうぞ。焼き砂糖のかかったビスキュイもあるわよ。とっても美味しいんだから」
偽マリーはさらに菓子篭から白い砂糖でコーティングされた小麦色の焼き菓子をトングで取り、やはり真っ白な磁器の皿に乗せて空いている椅子の前に置く……正直、私は海水でずぶ濡れの服を着ていて寒いし、小腹も空いていた。
「……シュゼットよ。ジゼル・シュゼット。レイヴンから来たわ……シュゼットというお芝居の演目を御存知かしら?」
シュゼット。私はその話をジェルマンさんの本棚から借りて読んでいた。
「……自分が何者か解らない鳥が、自分の正体を探しに行く物語です。まだ私をからかう気ですか」
私は眉間に皺を寄せそう言いながらも、着席していた。だけど椅子は大きく引いてあまりテーブルに近づかないようにしてるし、いつでも立てるよう浅く腰掛けている。マスケット銃だって抱えたままだ。
シュゼットは自分のカップに入れたお茶を一口飲んだ。勿論私のカップに入れたのと同じポットから出たお茶だ。この人が……私のお茶に細工するような時間や動機は無いように思う。私は意を決し、お茶を一口飲む。
暖かい……美味しい。
「美味しいでしょう? 私も最初は驚いたもの。本当に気品のある香り、渋みは少しもなくて、余韻は爽やかで優しくて……本当に素敵なお茶だわ。いいわねえ王様は、毎日こんなお茶を楽しめるんでしょうね」
シュゼットは朗らかにそう言って笑い、お茶をもう一口飲む……なんだか憎めないお姉さんだ……いやいや! こんな事じゃ駄目だ!
「何故……」
「ええ?」
「貴女は何故こんな事をなさったんですか!? マリオット卿に頼まれて私の代わりを演じる事になったんでしょう? だったらそれだけでいいじゃないですか、演技の代金を受け取って帰ればいい! それを何で、料理人を誑かしたり、波止場で混乱を起こしたりするんですか!」
私がそう言うと。シュゼットはまず、目を丸く見開いて私を見た。次に目を逸らし、溜息を漏らす。
「何故と言われてもねぇ……貴女は知らないけど、私、王侯貴族じゃないもの。貧しい者はねえ、働かないといけないのよ? お芝居の代金くらいじゃたかが知れてるじゃない、それじゃあ飲み屋の借金だって払えないわ」
そう言ってシュゼットは、優雅な仕草で細長いビスキュイを一つつまみあげたかと思うと、お腹を空かせた男の子のように、ぺろりと……一口で食べてしまう。
「お茶は完璧なのに、これはちょっと甘過ぎるわねぇ……」
「……貴女は一体誰に頼まれて、こんな事をしたんですか?」
「ねえ? 御願いがあるんだけど。私をここから逃がして下さらない?」
なっ……?
シュゼットお姉さんはとんでもない事を言い出した……国王陛下御上船の船を盗み、陛下の料理人を誘拐しておいて、逃がしてくれと!? どこをどうすれば私がはいそうですかと応じると思っているの!?
「私のリトルマリー号を盗み出し、バウスプリットを壊しておいて、何を言ってるんですか」
「これ、私のリトルマリー号でもあるのよ? 私、アイビス海軍の人から船長になってくれって頼まれたんだから」
「そういう芝居を引き受けただけでしょう!! この船の正式な所有者は私、ヴィタリス生まれの! フォルコンの娘の! 本物の! マリー・パスファインダーですよ!!」
その瞬間、私の動物的本能が、いつも森の中で肉食動物から逃げ回っている草食動物のような本能が突然、大音量で警報を鳴らし出した。
ええっ!? な、何で? 何事? 何が起きるの? 解らない! だけど本能は、今すぐここから逃げ出せと言ってる、いや出来ないよそんなの、私、今やっと偽マリーを追い詰めたのに、何故、何故!?
「そう……そうよね……」
ジゼル・シュゼットが、テーブルに頬杖をついた……
「面白いわねえ、人生は……悪い事って、案外出来ないものね」
「そ、そうですよ! 船を盗んで、人を誘拐して……」
「そんなつもりじゃなかったのよ……ただ……」
逃げろ、逃げろマリー……!
「あの男の娘に成り済ますチャンスだなんて……とても黙って見過ごす事なんか出来なかったのよね……」
ひっ……
ひっ……
ぎゃあああぁぁぁあぁぁぁああああ!?
目の前の御姉様は頬杖をやめ、高く結い上げた髪に触れる。次の瞬間、まるで魔法が弾けたように……その長く美しい髪が、戒めを解かれて広がった。
「とっても愉快だったわぁ。私がマリー・パスファインダーを名乗るだなんて。私とあの男、八歳くらいしか違わないのよ? 皆ほんとうに私をあの男の娘だと思ったのかしら? 笑っちゃうわ。ねえー?」
御姉様は頬杖をつき直し、私をじっとりと見つめながら意味深な笑みを浮かべていた。
「だけど私、どうしてあのレストランで貴女を初めて見た時に解らなかったのかしら? 貴女はあの男よりだいぶ小さいけれど、その髪の色は本当にあの男そっくりだわ。うふふふ……懐かしいわねぇ。あの男に初めて出会ったのは、それこそ……私が貴女くらいの年だった頃かしら……」
立場は逆転した。私は狼の前に飛び出してしまった羊だった。冷や汗だか涙だか鼻水だか解らない物が顔面を伝い、指は震え、腕は震え、肩は震え、呼吸は先程までの三倍の速さになっていた。
「あの男はお元気? 死んだ、なんて噂も聞くけれど私は信じないわ……だって私、フォルコン・パスファインダーの娘ですもの……ホホホ、ホホホホホ! あらやだ、冗談よ、冗談」
こんな時、普通の娘ならどうするのだろう。多分こんなに動揺したりしない。ああこの人は父の昔の知り合いなのだと思うだけだ。
その女の人が、昔父に酷い事をされたと言い出したら? お父さんはそんな人じゃない、何かの間違いだと言うのではないか。
だけど私は既にお父さんがそんな人だと知っている。
「貴女に一つ御願いがあるの……私を逃がしてくれないなら、せめて貴女が私の人生を終わらせてくれないかしら? その銃で私の頭と心臓を撃ち抜いて下さらない? 私が痛みや恐怖を感じる前に。だって私、怖いアイビスの兵隊さんに捕まったら、本当に何をされるか解らないもの……ね? 御願い」