仮面夫婦の優雅なるオウヴェルトゥーラ ー後ー
バルコニーから庭園を見下ろす。
昼間とは表情を変えたそこにはもう誰もいない。
剣を振りまわしている時からは想像もできない情けない顔も、ナハトの姿を見た途端に獣耳と尻尾の幻覚が見えるくらいに嬉しそうな笑顔も、自分がどんな気持ちで向き合おうともそんなのお構いなしで懐いてくる姿も見つからない。
「……ディアナが帰って寂しいか?」
ふわりと肩にかけられたそれから香る香りにそっと目を伏せる。
セルリアは声の主を振りかえらないまま小さく首を振った。
「寂しくなんかないわ。……ものすごく変な感じ」
冷たい夜風から守るようにかけられたブカブカの羽織を胸元でキュッと握りしめる。
もっと、悲しい思いをすると思っていた。
もっと、目をそらしたくなるような汚い感情で一杯になると思っていた。
だけど今、この胸に灯るのはそれとは正反対の優しくてじんわり温かいような感情で、セルリアが戸惑うほどの安心が広がっている。
「全然、嫉妬しなかったの。
自分でも驚くくらい素直にあの子を祝福してあげられた。」
どうしてかしら?
小さく呟きながら体を横に倒して、隣で無言を貫いている男に寄りかかる。
すぐに文句が返ってくるだろうと思っていたセルリアの予想とは反して、意外と逞しい腕に引き寄せられた。
まったく想定外の行動にパチパチと目を瞬きながらすぐ目の前にある胸板に大人しく頬を寄せる。
長い指がサラリと髪を梳く感覚が妙に優しくて、耳に響く少し早めの命を刻む音がなんだかちょっぴり嬉しくて、なんだか変だ。
「……ねぇ、どうして私を選んだの?」
お妃候補はたくさんいた。
その中にはセルリアより綺麗で賢くて後ろ盾もしっかりしている貴族の令嬢だってもちろんいた。
それなのに何の迷いもなく王妃に―――彼が自分の妻に選んだのはセルリアだった。
おまけに側室はひとりもいないし、そういう話も聞かない。
「なんだ。忘れたのか」
頭の上から呆れた視線を感じて、え?と視線をあげれば呆れた顔と目があう。
こんな顔、見慣れてるはずだった。
ディアナほどではないにしろ、それなりに色々とやらかしてきた自覚のあるセルリアはその度にこの視線を貰って来た。
それなのに、違う。
その瞳の奥に今までになかったセルリアの知らない感情が宿っている気がした。
「……どういうこと?」
隠しきれない動揺が声を震わせる。
それにまた驚いて瞳まで揺れている気がして慌てて顔を隠した。
自然と胸板に顔を押し付けるような形になってまたどうしたらいいか分からなくなる。
すっかり悪循環に陥ってしまったセルリアとは裏腹に頭の上から落ちてくる声は至極楽しそうだった。
「ヒントをやろうか?」
噛み殺し切れていない笑いに苛立ちながらも気になるので素直に頷く。
それを褒めるようにまた長い指がセルリアの髪を梳き始めた。
「昔、とあるチビに怖いところに行くなと泣きつかれた事があってな」
あれ、なんだか嫌な予感がする。
このまま話を聞いたら記憶のかなたへと追いやった黒歴史が掘り起こされるような……。
「あまりにわんわん泣くものだからしょうがなく適当に言いくるめたんだが……」
しょうがなく!しかも適当に!?
心配してくれている相手になんていい草……!!
「――――“お兄ちゃんが怖いところに行かなくてもいいようになったら、ずっと一緒にいられるようになったらお嫁さんになってあげる。”……だったか?」
そうだ。
『だから、ぜったい、ぜったい、かえってきてね』
確かに遠い昔、誰かにそんなことを言った気がする。
置いていかれるのが嫌で、もう二度と会えなくなるのが嫌で、泣いて泣いて、そう困らせた記憶がおぼろげながらに蘇る。
珍しく本気で困り顔をする相手に無理やり押し付けた約束があった。
ナハトがおじさんに連れられて戦場に赴くようになった時、ディアナほど取り乱さなかったのは既に一度経験していたからなのかもしれない。
ディアナを素直に祝福できたのも、ナハトへの気持ちはあくまでもディアナとセットの時のもので―――――常にお互いしか見えていないふたりの関係性への憧れだったからなのかもしれない。
自分だってディアナくらい分かりやすく大事にしてほしい、愛してほしい、もっとわかりやすい愛情が欲しい、そう思う無意識の――――。
そこまで考えてセルリアは顔から火が出そうなくらいに恥ずかしくなった。
「さて、聡明なる我が妻殿は答えを見つけられたか?」
「………やくそく、だから?」
「正解は、何を血迷ったのか俺がそのチビを欲しいと思ったからだ」
フッと笑って紡がれた言葉に目を見開いて驚くセルリアに優しいキスが落ちてくる。
唇から広がる甘さを受け入れるようにそっと目を閉じた。
仮面夫婦の優雅なるオウヴェルトゥーラ
今更“愛してる”なんて言えない。
だからせめて蕩けるような口づけを。