二 イベント警備のヤンキー
金曜日の大卒新人七名の仕事はステージの設営で、朝一番につなぎの作業着を一人一着与えられ、人事の担当者に連れられてぞろぞろと現場にやってきた。土日に「森の広場」中央の小さなステージで学生たちのコンサートがあるので、ベンチを運ぶ。長い木のベンチで、それなりの重さがあるが、倉庫から広場までは地面が舗装されていて、ベンチの脚は丈夫な金属のレールだったため、滑らせることができた。
男女分け隔てなくベンチを一人五つ運ぶのがノルマ。他の応援スタッフとともに倉庫の狭い鉄の扉から次々にベンチを運び出していく。
友恵が強く押してみたら、ベンチはいいスピードで軽く滑る。むしろ振動を受けながら丁寧に押していくよりも速く滑らせたほうが気持ちいい。ベンチを押しながら走ってステージ脇まで行った。
(これ、すごく楽だ)
嬉しくなって、すぐに走って倉庫に戻ると、また次のベンチを走って運んだ。
「おおき!」
背後から声をかけられて、友恵は足を止めた。振り返ると、声の主は同期の坂橋慎哉だった。彼は公立大学の環境学部を出た背の高い青年で、体育会系のサークルで部長を務めていたこともあり、まだ数日しか経っていない研修の中でもすでにリーダーシップを発揮しはじめている。
「何?」
友恵は坂橋が机を押して自分のすぐそばまで来るのを待った。坂橋は、友恵に近づくと、やや控えた声のトーンで、
「大木、走るな」
と言った。
「え、でも、実は押して歩くより走って押すほうがすごく楽だよ?」
友恵が首をかしげると、坂橋は真剣な顔になって眉間にぐっとしわを寄せ、
「おまえが走ると、走らない奴は怠けてることになるんだよ、わかるか」
と言った。
(……あのー、私たちまだ親しいわけでもなんでもないので、おまえ呼ばわりとか、される筋合いないんですけど。それに、仕事は早いほうがいいし、なんで難癖をつけられるのかわからない)
友恵がいささか釈然としない思いにかられていると、坂橋は通り過ぎながら、もうひと言残していった。
「みんながみんな、おまえみたいに体力があるわけじゃない。おまえが走ったら、全員、走らないと気まずくなる」
友恵が何か言い返そうと言葉を探していると、背後でガツンと音がして紗莉の声がした。
「いたーい!」
友恵が振り向くと、紗莉はわずかな段差にベンチの脚をひっかけ、押していた手を痛めたらしかった。人事の担当者が飛んでいった。
「ああ、加川さん小さくて可愛らしいから、力仕事は可哀想だねー」
同期の男子一人が言い、それを受けてもう一人が、
「桑津さんも細いし、大丈夫かな?」
と言った。友恵はちょうど彼らごしに紗莉を見ている構図になり、その会話が聞こえていた。
(加川さんはほんとに可愛いし、桑津さんは美人だし、思いやってもらえていいなあ……。私は「走るな」なのに……)
紗莉は医務室に連れていかれ、残ったメンバーは作業を再開した。友恵は仕方なく歩いてベンチを押した。「どうせ同じ作業をするなら、楽に走ってさっさと終わったほうがいいのに」と思いながら、友恵は黙々と、紗莉の残した分も分担して運んでいった。
「結局女って力仕事で優遇されたりするんだよな」
そんな声がすぐそばで聞こえて、友恵は、背後から冷や水をかけられたような気がした。近田幸雄、友恵と同じ大学の史学部を出た神経質そうな男子だった。
「全員男を採用してれば、ああいう騒ぎにならないのに」
バカにしたような言い方に、友恵はムッとした。仕事は力の要ることばかりじゃない。逆に、女子が得意で男子が苦手なこともあるはずだ。今日はたまたま力仕事なだけだ。
だがそれよりも別の声のほうが早かった。
「おまえは、バカか? 加川の分は大木も代わりにやってんぞ」
坂橋慎哉だった。
「大木は、俺が止めなかったら、走ってこのへんのをおまえよりよっぽど早く全部運んでたんだよ。そしたら他の連中の立つ瀬がないから、俺が大木を止めたんだよ。桑津も自分のノルマはやってる。女子がやりたくないのなんのって文句言ったわけじゃないんだから、ちゃんとやって怪我したのをどうこう言うなよ」
近田は周囲の微妙な空気を感じ取って、
「なんだよ、冗談だろ、冗談」
とその場を無理やり流してまたベンチを運んでいった。友恵のそばにいた二人の男子は、微妙な空気を敬遠してか、
「大木さん、ほんと、さっき走ってたよね」
「元気だよなー」
と笑顔で言った。友恵も、
「走ったほうが、よく滑って楽だったんだよ、かえって力が要らなかったの」
と言ってわざと力いっぱいベンチを押して滑らせ、その後を追ってまた歩きだした。
(全員男を採用しろとか、そんなに男だらけがいいのか。近田くんはちょっといけすかない感じ……)
友恵は心の中で文句を言った。「同じ大学だね」と声をかけた時にうっとうしそうな視線を向けられたことがあり、初めからあまり好感を持てずにいた。
ステージのそばにはすでにかなりのベンチが並べられていて、次の一つをどこに置けばいいかがわからない。友恵がキョロキョロしていると、坂橋が遠くから声をかけてきた。
「おい力持ち、悪いけどこっちまで持ってきて!」
倉庫から一番遠い一辺は友恵の運んだベンチで埋まった。友恵と両端を持って左右のバランスを整えた坂橋は、倉庫に戻りながら友恵に言った。
「さっき、せっかく頑張ってたのに水差してゴメンな。でも、おまえが走っててくれたから、近田のバカ発言にすぐ文句が言えて、よかった」
「え、いいよ、そんなの……」
急に謝られて友恵が対応に戸惑い、伏し目がちに答えると、坂橋は優しい声で続けた。
「でも一人だけ頑張りすぎないでくれ、みんながおまえみたいに元気なわけじゃない。あとの女子二人も、おまえより使えないとか言われたら、お互いやりづらいだろ」
そこで人事担当から集合がかかった。次は広場周辺の清掃らしかった。
小走りで坂橋と並んでそこに向かいながら、友恵はやっと言われたことを素直に聞く気持ちになれた。
(確かに、私が走って人一倍運んで、加川さんが怪我して、それを比較されたら加川さんは困るよね……。この人、むやみに一人で目立ってるわけじゃないんだな。ちゃんと周囲に目配りしてるんだ)
ふと、アルバイト先での自分のことを思い出した。店長も先輩も仲間たちもとても良くしてくれたけれど、なぜか、頑張っているはずなのに空回りしている気がしていた。自分では「他の人たちは近所の大学の学生仲間だから、親しさが違うのかな」と思っていた。でも今の出来事がそっくり当てはまる気がした。「私が頑張るからいいのいいの」「私は人一倍頑張るよ」と、周囲の人とのバランスを失っていたのではないか。いつも、自分は頑張っているんだから、誰もがほめてくれると思っていた。
少し前で軽やかに弾む坂橋の肩を、わずかに尊敬のまなざしで見た友恵は、その肩の高さが元カレとちょうど同じだと気づいて目を伏せた。
その翌日、友恵たち大卒組は、午後のステージで見学半分ながら警備にもついた。人事担当者がペアを適当に決め、友恵は近田と組んだ。なぜか近田は不満そうで、友恵はまたムッとしたが、逆に「もう、この人は放っておこう」という気になった。
近田は二人に一台渡された連絡用の無線機(携帯電話だと職務だと思ってもらえないので、あえて無線を使うらしい)を手に、友恵に目もくれず割り当てられた立ち位置へと向かった。友恵はそれを気にするのはやめて、自分も立ち位置に向かった。
ステージの最中、友恵は不審な動きをする人物に気がついた。ステージの後ろの何もないところをうろうろ往復している。ステージ裏のドアは内側から施錠されているが、時々そこに近づいてはドアに触っている。友恵と近田は一番隅の警備場所にいて、主な警備員はステージ側に配置されているので、他に気づいている警備員はいなそうだ。
「近田くん、おかしな人がいるから、主任さんに通報したほうがよくないかな」
友恵は言った。近田は無視した。
面倒だな、と友恵は思った。いろいろ対処を考えてみたが、やはり新人が勝手な行動をするより、無線で報告だろう。
「いいから無線機貸して」
友恵が手を出したが、近田はまた無視した。
(……この人、バカなんじゃないの? 私が嫌いとかムカつくとか、あったとしても、仕事に持ち込むなんて……)
「じゃあいいや、あそこの警備の人まで私、言いに行くから、その間よろしくね」
そう言ってさらに友恵は近田の様子を見ていたが、動く気配がなかったので、隣の正規の警備スタッフのところへ向かった。背後で近田の声が聞こえた。
「こちらバックヤード寄りのサイド、近田です。不審者発見、ご指示願います」
友恵は足を止めかけたが、構わず警備員のところへ行った。近田がどうやら報告したらしかったので、「無線で主任に報告してください」とは言えなくなった。
「ステージ裏をウロウロしている男性がいて、挙動不審です。こちらは新入社員二人なので対応がわかりません。念のため、ご報告に来ました」
「わかりました、交代しますのでここをお願いします」
警備員は友恵をその場に残してステージ裏へと駆けていった。しばらくすると、不審者を押すような形で背後に手を添えた警備員が、客の目を避けてステージを大回りで迂回して詰め所の方向へ向かうのが見えた。
間もなくイベント警備担当の主任が友恵のところへやってきた。
「代われ。後で事情を聞く。持ち場に戻れ」
その言い方から責められたように感じ、友恵は釈然としなかったが、後で聞かれたときに正直に答えればいいと思って強制的に気を鎮めた。そしてまた近田の横に戻り、
「後で事情を聞くって」
と、仕返しのつもりで言った。
(仕事で人を無視するとか、ほんとにありえない。上の人から怒られればいいんだ)
腹の底ではそうして言葉を投げつつ、友恵は黙って警備に立ち続けた。
イベントが終わり、片付けも清掃も済んでから、友恵と近田は主任に呼ばれ、ステージ裏に残された。
「今日のステージで不審者が出たな。あれはウチの常連というか、あちこちでよくわかんねえことをやって、何度も警備で捕まえては追い出してるおなじみのオッサンだ。だから不審者に間違いねえ、けど問題があったら無線でとにかく俺に連絡しろっつったよな?」
主任は問いかけるというより、いちゃもんをつけるチンピラのような口調で言った。イベント警備の主任は若く、小柄ながら体格がよくて、いかにも体育会系という風情の青年だった。友恵はまた複雑な気分になっていた。
(社会人のしゃべり方がこれでいいのかなあ……)
「おう、大木、おまえなんで持ち場を離れたか、言ってみろ」
主任に聞かれたので、友恵は正々堂々と答えた。
「無線を持っていた近田くんに通報をお願いしたんですが、やってもらえず、無線も貸してもらえなかったので、仕方なく隣の警備の方に口頭で通報に行きました」
主任は「ああん?」と顔をゆがめ、近田にも聞いた。
「なんだおまえ、何やってんだ」
近田はうんざりした口調で答えた。
「無線連絡お聞きいただいたと思いますが、私はちゃんと主任にご連絡しました」
主任はキッと表情を引き締めて、今度は真剣な顔で友恵に聞いた。
「近田は俺に無線で連絡してきたけど、どういうことなのか、説明できるか」
友恵は、さっきまで「ふてくされたヤンキー」だった主任の表情の変化に戸惑いつつ、
「はい、私がやむを得ず『隣の警備員に通報してくる』と持ち場を離れた後、主任にご報告していたようです」
と答えた。逃げも隠れもしない、これが事実だ。友恵は「私は間違っていない」という意思表示をこめて胸を張った。
「近田、なんですぐ報告しなかった?」
「いえ、大木さんがろくに話もせずにどこかに行っただけです、私はちゃんとやりました」
近田の返事に、友恵はあっけにとられた。呆れすぎて言葉も出なかった。
主任はしばらく黙って、重々しく口を開いた。
「――近田おまえ、会社ナメてんじゃねえぞ」
威嚇や威圧でなく、むしろ押し殺すような、平静を装った声だった。
「新人預かって、監督役の俺がなんも見てなかったと思ってんじゃねえ。大木がおまえの無線に向かって手ぇ出して、おまえになんか言ってんのは見てんだよ。あれが何の関係もねえ別の話なわけねえだろ。おまえ、俺の仕事なんだと思ってんだ」
なんだ、見てたんだ、と友恵は思った。新人の監督役として、現場警備責任者として、ちゃんと見ていてくれたことに友恵はホッとした。
「俺は現場でトラブルを起こさないのが仕事だ。それは客だけじゃねえ、おまえらみたいな甘ちゃんのスタッフがわけわかんねえことをやるのまで含めてだ。不審者やおかしな客の相手に、身内の面倒まで加わったら手が回らねんだよ。会社のトラブルになってんじゃねえ。なんか特別な事情があったのかと思って、話を聞いてやりゃあ」
主任に厳しく言われ、近田はひきつっていた。
友恵は専務の言った「この会社は、基本的には、たった十八歳で入ってくれた子たちが頑張り続けて維持してきた」という言葉を思い出していた。この主任は今、二十八歳くらいだろうか。若いが、十八で入社していれば、もう十年もいるベテランだ。態度はあまり好ましくなく、研修の時の高卒生を彷彿とさせるものがあるが、自分の職務を理解し、忠実に務めている。
「大木。おまえは、無線で報告しようとしたな」
「はい」
「それが難しいから、近くにいる警備員に伝えに行った」
「はい」
「伝えた内容は」
「不審者のことです」
「……近田がやってくんねえ、とかは」
「いえ、近田くんがどうこうという話は何も」
友恵は、警備員に言う際に、迷いはしたものの近田を糾弾する言葉は避けた。だから自信を持って答えた。
「そうか、わかった、おまえは正しい対処をした、研修室に戻っていい」
主任の言葉に、友恵はパッと顔を輝かせ、勝ち誇った気分で背すじを伸ばした。
「ありがとうございました!」
一礼して去っていこうとした友恵を、主任が呼び止めた。
「おい、大木。おまえは、『私は間違ってません』って顔して発言するのをやめろ。それが間違っているか、いないか、決めるのはおまえじゃねえ。判断するのは上司や責任者だ。淡々と事実を客観的に報告すればいい。新人は間違いをする。それは上がちゃんと正すから、下で勝手な判断をするな」
友恵の中でその声が、前日のベンチ運びの坂橋の声と重なった。最初は反発したが、繰り返し説明されて腑に落ちた「自分だけ頑張るな」という忠告。それがなければ、この主任の言葉も高圧的で不愉快に思ったかもしれない。おかげで「これは、聞かなければならないことなのではないか」と反射的に思えた。
友恵は足を止め、「気をつけ」の姿勢をとって深くお辞儀をした。
「わかりました。ありがとうございました。失礼いたします!」
「いい挨拶だな! がんばれよ!」
主任は明るく声をかけてきた。友恵は感激してもう一礼し、研修室のプレハブに向かって歩きはじめた。
背後では近田がなにやら指導を受けている気配があった。友恵は気にしないように努めて足を早めた。なんだかよくわからない感動が友恵を包んでいた。
(主任さん、社会人として、めっちゃカッコいい。ヤンキーみたいな態度や口調だけど、仕事をちゃんとやってる。体育会系のノリって怖いって思ってたけど、なんだかビシッとしてる。なんかもしかして、この会社、私が知らなかったいろんなものがたくさんあるんじゃないの?)
がんばりすぎて空回りしたり、「私は正しい」と胸を張りすぎたりする自分が客観的に見えた気がした。就職活動がうまくいかなかったことを、自分の運が悪いとか自分の居場所がないと嘆いたり、女性差別なのではないかと社会のせいにしたりもしてみた。だが、アルバイト先でそこはかとなく浮いていた自分と、就職活動で空回りしていた自分が重なった気がした。