71.皇帝ウィガード(挿絵有)
謁見の間の重厚な扉が開かれた瞬間、張り詰めた空気の中でマキナを始めとする周囲の近衛兵たちが、一斉に膝を折り冷たい大理石の床へ頭を垂れた。
静寂が支配する広大な空間に、規則正しく響く硬質な靴音。
カツン、カツンと乾いた音を立てて歩む何者かが、平伏するマキナのすぐ傍らを通り抜け、一段高く設えられたスカラビア帝国の玉座へと腰を下ろした。
「長旅、ご苦労だったマキナ。魔族との戦いで忙しいだろう時に時間を取らせたな。面を上げろ」
その言葉が鼓膜に届いた瞬間、マキナは違和感に反応した。
かつてこの国を訪れた際に耳にした、老練で深みのある皇帝の声色とは明らかに異なっていたからだ。
促されるままゆっくりと顔を上げると、豪華な装飾が施された玉座に深く背を預けていたのは、端正な顔立ちを残す比較的若い男性であった。
若いと言っても、その理知的な眼差しや落ち着いた佇まいからは、三十歳を優に超えていることが見て取れる。
それでもマキナが反射的に若いと感じたのは、彼女の記憶にあるスカラビアの帝が、既に古希を迎えるはずの白髪の高齢者であったからに他ならない。
目の前に座る人物は、着こなしや纏う威厳こそ一国の支配者のそれであったが、肌の張りや体格から放たれる若々しい覇気は、先代とは全くの別物であった。
マキナが言葉を失い凝視する様子を、男性は当初は訝しげに見つめていた。
だが、やがて彼女の戸惑いの正体に思い当たったのか、ふと得心がいったように声を上げた。
「そうか、お主はまだ何も知らぬまま、戦場を渡り歩いていたのか。先帝は半年ほど前に急病で亡くなられてな。今は、先帝の嫡子である余、ウィガード=ダルダミアンが後継として皇帝の座を引き継いでいる」
淡々と語られる葬送の事実に、マキナはようやく状況の変転を理解した。
確かに、彼女が最後にこの鉄の帝国を訪れたのは一年前のこと。
代替わりが半年前であるならば、その期間の殆どを各地の最前線で魔族との死闘に費やしていたマキナが、情報の遮断された国外の政変を知る由もないのは当然であった。
「(ウィガード=ダルダミアン陛下……対面するのはこれが初めて。確か以前は、外交のために他国へ長期出向しているという話だったはずだけど……)」
胸の奥に小さな疑問の火が灯ったが、マキナは小さく息を呑んでその感情を強引に心の奥底へ仕舞い込む。
そして非礼を詫びるように改めて深く頭を下げ、新帝ウィガードへ敬意を込めた言葉を返した。
「知らぬこととはいえ、失礼致しました。ウィガード陛下、お初にお目にかかります。マキナと申します。この度は突然の不躾な訪問にも関わらず、速やかな入国と謁見を許可していただき、心より感謝申し上げます」
マキナの理にかなった形式美の挨拶を受け、ウィガードは口元に微かな、しかしどこか冷ややかな笑みを浮かべた。
「構わぬ。他ならぬ『英雄』ともなれば、余としても無下に断るわけにもいくまいからな。それで、斯様に切迫した様子で参ったのは、如何なる緊急の件があってのことだ?」
「……先日、どこの国の領土にも属さぬ辺境の地にて、複数の魔族の潜伏を確認致しました。その際、従来の魔族の生態とは明らかに異なる不可解な行動が見受けられたため、軍事研究の最先端を行くスカラビア帝国において、同様の特異事例や情報を得ていないかを確認しに参った次第です」
マキナは言葉を選びながら丁寧に説明し、僅かな沈黙の後に、決意を込めて「それから……」と続けた。
「もう一点、私の大切な知人がこの国を訪れていないか、その行方を確認させていただきたく存じます」
「其方の、知り合いだと?」
戦うためだけの存在であるはずの『英雄』が口にした「知人」という、あまりに人間味を帯びた言葉に、ウィガードは僅かに眉を顰めた。
だが、その感情の揺らぎは瞬時に抹消され、元の無機質な表情へと取り繕われる。
「いや、これは失礼。世辞にも社交的とは言い難い『英雄』殿に、親しい知人がいるという事実に、些か興味を惹かれてな」
言葉の内容こそ整えてはいるが、その響きには隠しきれない侮蔑のニュアンスが混じっていた。
魔族を屠るための便利な道具が、一丁前に人間同士の繋がりなど。
そんな蔑みの気配を敏感に察知しながらも、マキナは今更この程度の冷遇で心を折るほど、世間知らずでも脆弱でもなかった。
ただひたすらに感情を殺して頭を下げ、冷徹な支配者の次なる宣告を待つ。
「事情は概ね把握した。魔族の変異に関する情報は、人類の矛たる其方にとっても死活問題であろう。軍部の管轄部署には余から直接伝えておくゆえ、後ほど向かうが良い。それから知人の捜索とやらについても、節度を守る限りにおいて、城下での聞き込みを特別に許可しよう」
「はっ、寛大なお計らい、ありがとうございます」
望んでいた以上の回答に、マキナは一層深く腰を折り、真摯な謝意を述べた。
「だが、あまり目立った真似をして民を動揺させるなよ。この帝都はいま、血の滲むような努力の末に、束の間の平穏を享受しているのだ。下手に余計な首を突っ込み、争いの火種を撒くようなことがあれば、如何に『英雄』と言えど、国家の法に則り相応の対応をせねばならん」
「……肝に銘じます」
束の間の平穏――その言葉の裏に張り付いたような不自然な強調に、マキナは確かな引っ掛かりを覚えた。
だが、ここで下手に食い下がって得たばかりの許可を撤回されては元も子もない。
彼女は敢えて疑念を表情に出さず、ただ静かにその警告を受け入れた。
「余も今は国政の立て直しで多忙な身でな。他に緊急の要件が無ければ、早々に下がるが良い」
マキナは最後に礼儀正しく頭を下げると、音を立てぬよう慎重に立ち上がり、重苦しい威圧感に満ちた謁見の間を後にした。
「(ウィガード=ダルダミアン陛下……。先代陛下と比較すると、一見して落ち着いた思慮深い雰囲気ではあったけれど、その言葉の端々にはどこか不気味な含みがあった。もう少しこの国の内情と、陛下の人となりを把握するまでは、細心の注意を払った方が良いかもしれない)」
決して振り返ることはせず、背後に残る視線の主を強く意識しながら、マキナは張り詰めた空気の外へと踏み出していった。
鋼鉄の鎧が擦れる微かな音を伴って、彼女を先導する兵たちの姿が廊下の角へと消えていった。
その気配が完全に遮断されたことを確認すると、玉座に座るウィガードは、張り付いていた威厳を解くように小さく、吐き捨てるような吐息を溢した。
それを見計らったかのように、気配すら完全に殺していた一人の男性が、影から滲み出るようにウィガードの側へと歩み寄る。
「……完全に、部屋を離れたようですな」
齢は六十を優に超えているであろうその老人は、手入れの行き届いた真っ白な髭を蓄え、軍事国家には珍しい、高級な絹で仕立てられた礼装を完璧に着こなしていた。
「ああ。もしや嗅ぎ回られるのではないかと警戒して時間を割いたが、どうやら杞憂だったようだ。力以外は使い道がない木偶の坊よ」
先程までの一国を統べる王としての貫禄は影を潜め、ウィガードは肘掛けに乱暴に腕を置き、砕けた、そして傲慢な口調で返答した。
「ここに来るまでの道中も、余計な火種に気付くような様子はなかったのだろうな、ガディール」
そう問いかけられた側近の男性、ガディール=ジャディクは、胸元に恭しく手を当て、静かに、しかし澱みのない所作で頭を下げた。
「はい。マキナ様は周囲の警戒こそ怠っておりませんでしたが、深く疑っている様子は御座いませんでした。あくまで、魔族の脅威のみに目を奪われているようです」
ガディールの報告を聞き、ウィガードは満足げに小さく頷いた。
「万が一、鼻が利くようならば早急に対処せねばならんと思っていたが……ならば予定通り、奴が要望する『魔族の情報』と『知人の情報』とやらを適当に与えて、早々にこの国から追い払うのが得策だな」
「ウィガード様、それについてで御座いますが……この老骨、ガディールめに一つの妙案がございます」
「ほう、なんだ。言ってみろ」
ガディールはウィガードの耳元にその枯れた身体を寄せ、密やかに、そして毒を含んだ言葉を囁いた。
その内容が脳に達するなり、ウィガードの薄い唇がニヤリと、獲物を追い詰めた獣のような歪な笑みに吊り上がった。
「なるほどな。ただ不快な『英雄』を遠ざけるのではなく、あえて泳がせ、我々のために最大限利用してやるというわけか」
「左様でございます。彼の者が持つ圧倒的な武勇と、世界が抱く『英雄』という幻想……これほど使い勝手の良い隠れ蓑は他には御座いません」
ウィガードは込み上げる愉悦を隠すように、細長い指先で口元を覆いながら低く笑い声を漏らす。
「確かにそれが完遂できれば、我らにとってこれ以上の好都合はない。だが、直感だけは鋭い化け物を完全に飼い慣らすことなど出来るのか?」
「先程、怪しむ素振りは無いと申しましたが、彼の者の持つ本能は僅かな違和感を既に感じ取っている気配もございました」
ガディールは濁った瞳を細め、主君の耳元へ密やかに策を提示する。
「ここで下手に嘘を重ねて疑問を肥大化させるよりは、その違和感を正当な理由で上書きし、我々の筋書き通りに動くよう逆手に取る方が遥かに安全かつ確実かと存じます」
ウィガードは僅かに顎に手を当て熟考する様子を見せた後、獲物を定めるように小さく頷いてガディールの濁った瞳を見据えた。
「ならば、お前にその手綱を任せる。存分にあの高潔な英雄を我々の汚泥に塗れた計画に引きずり込み、利用してやれ」
「御意。すべては陛下の望まれるスカラビアの未来のために。このガディール、粉骨砕身してお応えいたしましょう」
絶対的な主君の命を受け、ガディールは音もなく一礼し、影に溶け込むようにして謁見の間を去っていった。
誰もいなくなった静寂の玉座の間で、一人残された新帝ウィガードは、漆黒の城壁の向こう側を見つめながら、再び醜悪な笑みを浮かべていた。
「『英雄』がこのタイミングで現れた時はどう処置したものかと頭を悩ませていたが……こうなれば寧ろ天の助け。我がスカラビアの至高なる計画を完遂するための、最も輝かしい『生贄』になってもらおうではないか」
静謐を湛えた室内に、狂気を孕んだ皇帝の笑い声が、いつまでも止むことなく不気味にこだましていた。
※後書きです
ども、琥珀です。
先週半ばくらいは涼しかったですね
夏とはいえ、あれくらいの気温だったら嬉しいものです……
本日もお読みいただきありがとうございました。
次回の更新は水曜日の朝7時頃を予定しておりますので宜しくお願いします。




