第三十七話 海風にのせて
四月の太陽は温かく心地よい。二人だけの婚礼を終わらせた私は小彩と共に甘樫丘の林臣の屋敷に移り住んだ。こじんまりとした小さな邸宅だが私には十分に快適な家だ。何よりも甘樫丘の頂上からは飛鳥の都が一望でき、大和三山も眺められる。晴れた日には遠く斑鳩方面の山々も見渡すことができた。
…山代王様は元気でお過ごしかしら…
斑鳩方面にうっすらと生駒山が見える日はいつも思う。一度、彼のもとを訪ねてみなければならない…
「燈花様、…またこちらにおいでだったのですね、ハァァ…」
突然背後から声がし、息を切らした小彩がへたへたとその場に座り込んだ。
「ごめん、山菜を探していたのだけど結局ここまで登ってきてしまったのよ。でも見て、こんなにタラの芽を摘んだのよ」
籠いっぱいのタラの芽を小彩に見せると、彼女は目を輝かせた。この季節、草花の芽は柔らかくとても美味しい。天ぷらで食べたいとひどく熱望した瞬間、お腹がググゥーと低い音をたて鳴った。小彩が横目で私を見ながら必死で笑うのを堪えている。頬と鼻を膨らませた彼女の顔の方がよっぽど笑えると思った途端、堪えきれずに私が先に声を上げて笑った。勝負はあったようだ。私は笑い涙を拭いたあと再び生駒山を眺めた。
温かな風が吹き抜け地面に散らばっていた何枚もの桜の花びらが一斉に舞い上がった。
季節は五月になり強い日差しをうけた新緑はキラキラと輝き、爽やかな南風が額の汗を乾かす。
「ねぇ、小彩、最近の都は人がとても多いわね。市に買い出しに行っても、聞きなれない言葉を話す人達でごった返しているわ」
「そうですよ。宝皇女様の宮殿と百済大寺の再建事業を同時に進めるそうです」
小彩が今年摘み取ったヨモギを天日に干しながら言った。
そうなのだ、先日不運にも百済大寺の九重塔は落雷を受け大部分を焼失してしまったのだ。先帝である今は亡き舒明天皇の遺志を受けついだ皇極天皇こと宝皇女様は一日も早く寺の復興を遂げたいのだろう。
「都だけでは人員が足らず、近江や越から沢山の民を招集して宮殿の造営と大寺の復旧にあたらせているので、都中人々でごった返しているのでしょう」
「そうだったのね…林臣様、何故か朝廷の事をあまり話してくださらないのよ…最近は帰りも遅いし、疲れている様子だし…」
私は竹かごに入った菊をいじりながら呟いた。
「私も詳しくはわからないのですが、ちまたの噂では豊浦大臣様と宝皇女様の不仲説が出ているとか…なんでも豊浦大臣が帝に代わり政権を取って変わる策略を秘かに練っているとかどうとかで…根も葉もない噂だとは思いますが…」
小彩は作業の手を止めると、ちらりと私の顔色を伺うように見た。
私は平然な顔で“そう”とだけ答えうつむいた。
豊浦大臣…そう、蘇我蝦夷は馬子に次ぐ権力者であり、朝廷においても皇極天皇を支える有能な人物だった…多少の専横があったとしても天皇家に取って代わり天下を治めるような野暮な考えなどないはず…
そもそも蘇我氏は外交のプロだ。渡来人たち技術者集団をまとめ、帝と共にこの飛鳥を切り拓くのが本望。冷静沈着な林臣を見ていても、そんな大それた陰謀を企てるだなんて考えられない。でも歴史書では彼らは悪役。子々孫々にいたるまで1400年も悪役として歴史書に名が載り、その先もその名が消される事はない…
手に取った乾いた菊がパラパラと指の隙間から落ちた。
飛鳥寺横に建つ朝堂院の片隅で林臣が父親である豊浦大臣こと毛人と話をしている。
「父上、何故そんなにお怒りなのですか?もう少し冷静になり宝皇女様に上奏するべきではないのですか?」
「林太郎、そなたは長らく帝に謁見しておらぬから状況がよくわかってないのだ。各地から民を呼び寄せ、一族をあげて宮殿の造営と大寺の復旧に奉仕しているというのに、いったい何が気に入らないと言うのだ…全く頑固な帝には困ったものだ…次期皇子の話も進めねばならぬのに…」
毛人が両手で顔を覆った。
「当然ながら古人皇子が次期帝になるのでは?」
毛人は軽く咳払いをすると、横目で林臣を見て声をひそめた。
「まぁ、帝もそのような認識ではいるのだがな…実は山背大兄王様が次期帝へと名乗り出ている…」
「山代王様が?」
林臣がいぶかしげに毛人を見た。
「さようだ。確かに本来であれば年齢も朝廷での経験も実力も山背大兄王様が最も相応しい。過去に一度その座を逃しているのだから今回はきっと一歩も譲らぬだろう…果て困った、解決すべき問題が山積みだ…どうすれば良いものか…」
毛人は顎に生えた無精髭を引っ張りながら舌打ちをし林臣を見た。
「所でそなた、大唐と朝鮮三国の情勢はどうなっている?そなたの抱える問題の方こそ難儀であろう?」
「はい、昨年に引き続き朝鮮三国での政変が勃発しております。大唐の膨張への懸念からでしょう。百済が新羅への侵攻を深めており、つい先日も近江皇子と鎌足が百済派兵について言及しに朝廷にやってまいりました。しかし、今までのように百済だけに肩入れするのは危険かと…新羅の善徳女王は近く大唐の皇帝に直接謁見するとの噂もあります。万が一大唐が新羅に肩入れするようなことになれば、高句麗や百済も窮地に追い込まれるのは目に見えています。下手をすればこの倭国も攻め入られる可能性もあります。朝鮮三国の情勢をよくみきわめ、今後はどの国との間にも均衡な距離を保つ外交の方が得策です。我が国への飛び火はだけは絶対に避けなければ…」
「ふーむ、そなたの意見も一理あるな。見極めるのが難しい局面だ…引き続き注視してくれ…あと、畝傍山の武器庫も防備を固めておくようにしなさい、都に通ずる道だからな…」
「承知しております」
林臣が冷静に答えると毛人はうなずき軽くため息をついた。
「私はもう一度、帝に謁見しに行ってくる。朝議が終わり次第、私の屋敷に来なさい」
「父上、今日は朝議後に請安先生の学堂に講義を聞きに行く予定なのです」
「そうであったか…そなたは実に勉学に熱心であるな。仕方あるまい…もし玄理先生もいらっしゃったら宜しく伝えておいて欲しい」
「承知しました」
林臣が頭を下げると毛人は彼の肩を軽く叩き、ブツブツと頭をかきながら部屋を出て行った。父親の後ろ姿が見えなくなると彼は足早に朝議へと向かった。
予定よりも随分長引いたな…今日も斑鳩宮より丈夫の者が来ていた…恐らく山代王様の使者達だろう…
朝堂院を出た林臣は眩しそうに額に手をかざしながら、槻木の広場に向かった。彼は広場の入口に一番近い槻の木の下で馬の手綱を持ちながら居眠りをしている猪手を見つけると、大きく手を上げ叫んだ。
「猪手起きろ!まいるぞ!!」
「はっ、はい」
その声に飛び起きた猪手は大慌てで二頭の馬の手綱をひき林臣のもとに走った。二人は南淵の川辺にある請安の私塾へと急いだ。
学堂に向かう道の先から数人の男達が一列で歩いてくる。後ろには荷馬車が引かれている。
パカッパカッ…ヒヒーン、ドウドウ…
林臣が馬の速度を緩め近づくと、彼の姿に気が付いた先頭の男が慌てて足を止め拝礼した。ガタンと大きな音をたて止まった荷馬車から若い男がひょこっと顔を出した。
「どうしたのだ?…あっ…」
若い男は林臣の姿をとらえると荷馬車から飛び降り深々と頭を下げた。彼の後ろに続いてきた側近の男も頭を下げた。
「林臣様とは気が付かず、大変失礼をいたしました」
若い男が愛想笑いを浮かべて林臣を見た。
「近江皇子か…」
「先日は突然朝廷に馳せ参じてしまい、失礼をいたしました。百済の行く先を考えると居ても立ってもいられなくて…」
近江皇子は声を落としうつむいた。
「先日も申したとおり朝鮮三国と大唐との情勢は緊迫している。ゆえに我が国としてもより一層の慎重さが必要なのだ」
「…はい、わかってはいるのですが…」
近江皇子は一瞬顔をこわばらせると隣にいた体格の良い側近の男をちらりと見た。中臣鎌足だ。
「ところで、何故こんな奥まった田舎にいるのだ?」
林臣が尋ねる。
「はい、請安先生から朝鮮三国と大唐の話が聞けると聞きやって参りました。実に面白く為になる話ばかりで時間も忘れ聞き入ってしまいました。文化も高度な技術力も我が国は到底及ばないそうです」
近江皇子が指先をいじりながら答えた。
「そうだな…だが我が国を見てみろ、技術力は及ばずとも何よりも平穏である」
「そうですね、全ては林臣様の円滑で優れた外交能力と的確なご判断の賜物かと…」
「ふんっ、口がうまくなったな。気を付けて帰られよ」
「はい、ありがとうございます」
近江皇子と鎌足は軽く一礼をすると再び荷馬車に乗り込んだ。二人が十分な距離に去ると猪手が確認するように後ろを振り返り、声をひそめて呟いた。
「若様、最近あのお二人ですが、頻繁に請安先生やら玄理先生、僧旻先生のもとに通われているようです…」
「お三方とも実に優れた国の学者だ。皆が話を聞きたがるのは当然だ。大唐や朝鮮三国の話がよほど刺激的で面白いのだろう。特にあの二人は百済への思い入れが強いからな」
林臣が淡々と答えると、
「えぇ…もちろんそうなのでしょうが、気になるのは…その…」
猪手がためらうように口をつぐみ顔を曇らせた。
「ん?どうしたのだ、はっきり申さぬか」
「はい、最近ではその場に軽皇子様も同席されているとかで…」
「軽皇子様が?…まぁ、お二方とも血のつながる親類だ。朝廷とこの国の安寧を画策するのは当然なことであろう。心配は不要だ」
「…そ、そうでございますね」
猪手は拳を胸に当てると、まるで自分を納得させるかのように力強く頷いた。
更に山ひとつ越えた所で、飛鳥川沿いにひっそりと建つ藁ぶき屋根の小屋が見えてきた。門の前で手を大きく動かし何かを熱く語り合う数人の若い男達が見える。彼らは林臣の姿を見るとおしゃべりをやめ、気まずそうに拝礼をして去っていった。彼らが居なくなり門を抜けた所で猪手がため息まじりに言った。
「請安先生はいつ来ても人気ですね」
「当然だ。学ぶことが多いからな」
林臣が馬の手綱を引きながら言うと、小屋の中から年配の男が顔をのぞかせた。
「おぉ、林太郎来たか、久しぶりであるな。さぁ、中にはいりなさい」
「請安先生、お久しぶりでございます」
林臣は軽く会釈をすると請安と共に小屋の中へと入って行った。
「先生、ご無沙汰しております。なかなかゆっくりとご挨拶ができずにいて心苦しく感じておりました。此度は朝鮮三国や大唐と上手く折り合いをつける為に、先生から良い知恵を拝借したくやって参りました」
「此度の難波大群には随分と長く滞在したようだな、状況が状況だけに大唐の使節団をとりなすのはたいそう苦労したであろう。属国になれとせがまれたのでは?」
請安は林臣を座らせると、美しい青磁の茶器に熱いお茶を注いだ。部屋中に異国情緒あふれる芳醇な茶葉の香りが漂う。
「はい。しかし倭国は朝貢すれども冊封は受けないと強く主張したものですから反感を買いました」
林臣は口の端で笑うと静かに茶器に口をつけた。
「ハハハッ…山代王も過去に大唐の特使をえらく怒らせた時があったな…しかしだ林太郎、そなたも懸念するように大唐は実に強靭な大国だ。今でこそ、朝鮮三国の争いに目を向けているがいつ倭国にも侵攻してくるかわからぬ。どの国につくのが得策か慎重に見極めねばならぬ誠に難しい局面に立たされている…」
請安はふぅーっとため息をつき苦笑った。
「先生はどう思われますか?大唐に譲歩するべきでしょうか?新羅もまた我が国に協力要請を申してきました。高句麗もしかりです。私としては、今までのように百済一辺倒ではなく、同じ距離を保った均衡外交の必要性があると感じております」
林臣が言うと、請安は手に持ったお茶を軽く口に含みしばらく沈黙し口を開いた。
「しかしだな…我が国は長年に渡り百済との蜜月の関係を保ってきている。百済より渡来した民や技術者も数多く、飛鳥だけではなく葛城や近江など各地にちらばり村を形成している。高い技術や文化を惜しみなくこの倭国にもたらしてくれた彼らの祖国である百済をないがしろにはできまい」
「…重々承知しておりますが…朝鮮三国と大唐の争いは日々激しくなっており下手に介入してしまっては我が国も危険にさらされるかと…」
「その気持ちも理解できる。しかし我らの祖先も朝鮮の同じ郷里出身ではないか…祖国の争いを対岸でただみているだけではすまされぬ…」
請安が口をゆがめて意味ありげに林臣を見た。
「しかし、我ら蘇我家がこの倭国に渡ってきたのは何代も昔の事…時がたった今ではすでに骨の髄まで倭国人です。この国の防衛強化にこそ財力を注ぐべきだと思うのですが…」
「まぁ、それも一理あるが、各地の百済出身の豪族達が何と言うか…この国の発展も経済もほぼ彼らがもたらしている。近江皇子様だけでなく秦氏も早急な百済救援を訴えていらっしゃるのだ…どうしたものか…」
「はい…しかし慎重な見極めが必要かと…」
「ふ~む、百済出身の豪族達が徒党を組み声を荒げねば良いのだが…彼らを説得するのは至難の業だ…」
請安が両手を胸の前で組み宙を見上げた。部屋の隅に置かれた灯籠の灯りが朝の光が差し込むまでゆらゆらと小さく揺れていた。
チュンチュン、チュンチュン
朝ね…林臣様、昨夜は帰って来なかった…朝廷で何か揉め事でもあったのかしら…最近の朝廷は物騒な話ばかり…地方の豪族の従来も激しくて、なんだか落ち着かないわ…
「燈花様、お目覚めでしょうか?」
戸の向こうから小彩の声が聞こえる。
「えぇ、今起きたわ。朝早くからどうしたの?」
私は寝ぼけた目を擦りながら彼女に尋ねた。昨夜の眠りが浅かったせいか軽い頭痛を感じこめかみを指で押さえた。
「今、猪手様がいらっしゃって林臣様の着換えを用意してほしいとおっしゃられているのです」
「わかったわ、すぐに行くわ」
私は軽く身なりを整えると急いで門の外で待つ猪手の所に向かった。
「燈花様、朝早くから申し訳ありません」
猪手が申し訳なさそうに頭を下げた。
「いいのよ、林臣様はお戻りではないの?」
「はい、昨日請安先生のもとに伺い明け方近くまで話し込まれていたのです。今は嶋宮で仮眠されておりますが、そのまま朝議に向かうとの事です。燈花様に謝っておいてほしいと言付けを頼まれました」
猪手はバツが悪そうにうつむいた。
「…そう、いいのよ。あなたも大変だったわね。近頃は朝廷も都もバタバタしているでしょう?しっかり休んで頂戴」
「ありがとうございます、本日は必ず帰宅すると若様が申しておりました」
「わかったわ。今すぐに着換えを用意してくるから、待っていて」
「はい、すみません」
猪手は荷物を受け取ると足早に去った。小さくなる彼の後ろ姿に少しだけ胸騒ぎを感じ、しばらく庭にたたずんだあと部屋に帰った。
夕方、林臣がやつれた顔で帰宅した。目の下には薄っすらと黒いクマが出来ている。疲れた表情をしていたが玄関に立つ私の姿に気が付くと優しく微笑んだ。
「今帰ったよ」
「おかえりなさい。あなたの好きな蓮根の汁といわしの煮付けを作ったのよ…今すぐ運ぶわ」
私が厨房に向かおうとすると、彼は私の腕をつかみ肩に顔をうずめ小さく囁いた。
「もう少しだけ、このままで…」
肩にもたれた彼から今にも寝息が聞こえてきそうだ。
夕方の陽ざしが照らす中、私は彼の体をしばらく抱き留めた。
チュンチュン、チュンチュン
今日も朝からメジロの可愛らしい声が聞こえてくる。厨房からクツクツと音がし良い香りが廊下いっぱいに漂った。
「小彩、ごめんね。起きるのが遅くなってしまったわ」
私が慌てて厨房に行くと、小彩が笑顔で立ち上がった。
「燈花様おはようございます。大丈夫ですよ。たまにはゆっくりしてください。林臣様はお目覚めですか?」
「んん、まだ寝ているわ。きっと連日の疲れが出ているのよ。今日は朝廷には行かないそうだからゆっくり休んでもらうわ…」
私はもう一度あくびをすると彼女が入れてくれた菊茶をすすった。
昼近くになりようやく林臣が目を覚ました。
「燈花なぜ起こしてくれなかったのだ、もうこんなに陽が高く昇っているではないか…」
彼は空高く昇った太陽を眩しそうに見た。
「お休みの日くらいゆっくり休んで欲しいのよ」
私が口を尖らせて言うと、
「燈花すまぬな。共に時間を過ごす事ができなくて…そなたに寂しい思いをさせてしまっていて私も胸が痛い…」
今日の彼は珍しくしおらしい。
「林臣様は朝廷の重臣で、優秀な外交官で、帝の側近で、忙しいのは重々に承知しているから仕方がないわ」
私は“聞き分けがいいのよ”と言わんばかりに眉を上げて得意げに答えた。
「燈花すまぬな。そうだ、今日から数日暇をもらったのだ。どこか二人で出かけよう。久しぶりに宇陀あたりに狩りにでも行こうか?初夏の野山ならそなたも思う存分薬草狩りができよう」
林臣が柄にもなくはしゃぎながら言った。たまに見せる彼の子供じみた笑顔が愛おしい…
私は少し沈黙したあと口を開いた。
「林臣様…それならば私、海が見たいわ。難波津から見える海が見たいわ」
「難波の海?」
林臣が眉をひそめた。
「えぇ、いつもあなたが到着を待つ朝貢船を見たいわ。あなたがどんな想いで、異国から来る船を待つのか私も感じてみたいのよ、いいでしょ?」
「私の仕事を見たいというのか?ふんっ、ちっとも面白くないぞ…」
林臣は疑うように私を見ると手で顎をさすり考えこむように下を見た。
「お願い、この通り」
私が胸の前で手を合わせ懇願すると、
「…ふぅ、そなたは実に変わっているがそこが他の女人と違う魅力だ。そなたの願いだ、もちろん受け入れるよ。早速支度をして明日の早朝出発しよう」
「やったーー!!」
私は子供のように甲高い声をあげ両手を高く掲げ喜んだ。現代では通用するこの喜びポーズも後宮だったら侍女達が血相を変え飛んできて、下品ですよ!と、口を揃えて言うだろう。
不思議と彼はなんとも思ってないのか指摘されたことはない。むしろ私の行動がもの珍しいのか肩をすくめて笑っているようにも見える。よって彼の前では本来の自分の姿に戻る事が出来た。それに心の奥底を見せるのも怖くなかった。
翌朝私たちは馬に旅の荷物を乗せ甘樫丘の邸宅を出発した。
なんて良い天気なのだろう…これってハネムーンかな?私は心の中でにやけワクワクと胸を弾ませた。
「燈花、そなた馬に乗るのは久しぶりなのでは?落馬せぬようにゆっくり行こう」
林臣は振り返ると後ろからついて来る私に言った。
「あら失礼ね。私の乗馬の腕を知っているでしょう?はっっ!!」
私はフンッと鼻で笑ったあとニヤリと彼を睨み、馬の腹を勢いよく蹴りあげた。
「おっ、お転婆め!!」
彼は私の悪そうな顔を見るとわざとらしく眉をひそめ馬の手綱を勢いよく引いた。
私達は時々休憩を挟みながら、ゆっくりと馬を走らせた。どこまでも続く青々とした水田の中を通り過ぎ、いくつもの集落や林の中を通り抜け難波の海を目指した。
ヒューッと湿った風が私の頬を撫でた。
「林臣様、潮の香りがするわ…」
私が言うと、彼は驚いたように目を丸くし答えた。
「さようだ、もうすぐ難波の海が見える。そなた海を見るのは初めてであろう?よくわかったな」
「えぇ…」
懐かしい潮の香り…
しばらくすると小高い丘の上に出た。
「海だわ…」
私は馬を止めると、午後の日差しを浴びてキラキラと輝く海を見渡した。白波の中に白い帆をたてた小さな船がいくつも見える。
あぁ、なんて気持ちが良いのかしら…海は本当に久しぶり。潮の香りが体中に沁みわたる…
私達は馬の手綱を道の端にある丸太の木にくくりつけると、海岸まで歩いて降りた。
「林臣様、とても気持ちが良いわ!!」
砂浜に出た私は草履を脱ぎ捨て海の中へと入っていった。初夏を迎えたばかりの海水はまだ冷たかったが、嬉しくてバシャバシャと海水を救いあげた。
「と、燈花!濡れてしまうぞ!」
林臣の慌てた声が背後から聞こえる。
「かまわないわ!風変わりな所が私の魅力なのでは?」
私は振り返るとわざとおどけてみせた。
「まったく、そなたにはかなわん…」
彼も裸足になると、私のあとに続き海の中へと入ってきた。私達は水しぶきを上げながら童心に戻ったようにはしゃいで遊んだ。
「燈花そろそろ、私の別邸に向かおう」
「えぇ」
私達はさっき降りてきた坂道をゆっくりと上った。そこから少し歩いた道沿いに小さな建物が見えてきた。
「あそこに見えるのが私の別邸だよ。使節団をもてなす迎館はもう少し先の海から離れた内陸にある」
林臣は別邸の前で馬を止めると荷物を降ろし中へと入った。海に面しているせいか家の中に入っても波の音が響いている。
太陽の光が十分に差し込む家の中は明るく、大唐や朝鮮三国から持ち込まれた家具や珍しい調度品が並んでいた。
「わぁ、凄い…ここの物は倭国ではなかなか見ることがないわね」
私は目の前の棚に置かれた美しい青磁の器を手に取った。
「全て大唐と朝鮮三国から持ち込まれた調度品だ。いずれ都に運び入れるつもりだ。使節団が滞在する迎館にはもっと貴重な朝貢品の品々が保管されているのだ。それらも近く都に運び入れる手はずになっている」
「あなたは外交のエキスパートね」
私は手に取った青磁の器を眺めながら言った。
「エキスパート?なんだその言葉は…」
彼は荷物をほどきながら怪訝そうに私を見た。その表情が可笑しくて吹き出してしまった。私は慌てて口を押え言葉を付け加えた。
「ある物事に非常に特化した秀逸な人という意味よ」
彼は目を細め疑うように私を見るとフンッと鼻で笑った。
「大唐や朝鮮三国からの高い技術力がこの国の発展につながっている。どんどん取り入れるつもりだ」
「林臣様、でも大唐も朝鮮三国も争いが絶えず緊張状態なのでしょう?あなたもいつか戦に向かうかしら…」
私は少しためらいながら彼に尋ねた。
「何も心配いらぬ。我が国が無益な戦に参戦して何が得られるというのだ。私は、民やそなたが安心して暮らせるようにこの国を全力で守りたい」
彼はそう言うと優しく私を抱きしめた。
ザザーザザー、、、、ザザァ
朝になり遠くから波の音が聞こえる。部屋の中はすっかり明るい。私は隣に林臣が居ない事に気がついた。
いったいこんな朝早くからどこに行ったのだろう…
私は身なりを整え外に出た。馬屋に馬がつながっている所を見ると徒歩でそう遠くへは行かないはず。私は昨日、彼と訪れた砂浜に向かい歩き始めた。
太陽の強い日差しを受けた海面がキラキラとプリズムのように輝いている。潮の香りが全身を包み込み心身を浄化していく。青空の中を飛ぶトンビさえも愛おしく思えた。砂浜へと続く坂道に差し掛かった時、前方に魚籠をぶるさげた男がこちらに向かって歩いてくる姿が見えた。
林臣だろうか?
私の姿に気が付いた彼が砂に足を取られながら走ってくる。
「燈花、おはよう。見てくれ、こんなに魚が釣れたぞ」
林臣が魚籠の中を得意げに見せてきた。中で数匹の鱚がピチピチと飛び上がった。この時期、岸から鱚を釣ることが出来るのだ。でもこれだけの魚を釣るのは大変だったはず、私は満足げな林臣に向かい手を叩いて微笑んだ。
天ぷらで食べたいという欲望を掻き消しながら私達は家に戻り調理に取り掛かった。
時間はたっぷりある、優雅なブランチでも取ろう。
二人だけの時間がゆっくりと流れる。こんなにゆったりとした時間を彼と過ごすのは初めてだ。都では毎日忙しくて、なかなかゆっくり話す事もできなかった。
彼が政の話を口にすることはほとんどなく私ばかりがペチャクチャと話した。彼の笑う姿が愛おしくて私はどうでも良いくだらない話ばかりをして彼を笑わせた。
午後の日が傾きだした頃に私達は再び海岸へと向かった。大きな白い帆の船が海岸に見える。
「林臣様、あの船は?」
「おそらく百済からの渡来船であろう…」
船の周りに数人の百済人らしき男達と役人の恰好をした男が身振り手振りで何かを伝えようとしている。
「ねぇ、あの人達どうしたのかしら?何か困っているんじゃない?」
私は額に手をかざし彼らの様子を観察しながら言った。役人の男が頭をボリボリとかいている。
「林臣様、ちょっと間に入ってみては?」
林臣は男達の姿を見るとすぐに状況を把握したのか、
「通訳官がいないのだろう…まぁ誰かがなんとかするさ、、私は休暇中だ」
けだるそうに言い砂の上にゴロンと寝転がった。
「林臣様ったら、そんな冷たい事を言わずに助けてあげれば?私達だって特にやることもないんだし…」
私が目を細めジーっと彼の顔を見ていると、その視線が嫌だったのか、
「…まったく!そなたのお節介さは究極だ!」
林臣はため息をつきながら渋々と起き上がり男達の方へと歩き出した。私は彼のけだるそうな後ろ姿が可笑しくて笑いを堪えながらあとに続いた。
「どうしたのだ?」
彼がぶっきらぼうに倭国人らしき男に尋ねた。
「あっ、これは林臣様!!なぜこちらに?」
男が目を丸くして言った。林臣は手を振りながら、
「良いから、どうしたのだ?」
「へい、それが、見ての通り百済からの朝貢船なのですが、本日担当の通訳官が具合が悪く来ていないのです。積み荷の詳細がわからずに途方に暮れております」
男は困った顔をして下を向いた。
「まったく…どれ、積み荷は…さほどないな…私が通訳するから書き留めよ」
「えっ?!よろしいのですか?!」
男は信じられないという様子で口を開け林臣を見た。
「仕方あるまい、他に訳せる者はおらんのであろう?」
林臣が首を横に振りながらため息まじりに言った。
「そ、それは、大変助かります。ありがとうございます」
男は肩を撫で下ろすと額にびっしょりとかいた汗を袖で拭った。
「燈花、積み荷の搬入に少し時間がかかるが構わぬか?」
彼が残念そうにこちらを見た。
「もちろんよ。林臣様しか通訳は出来ないのでしょう?時間はたっぷりあるもの、いくらでも待つわ」
私は悠長に答えると近くにあった平たい岩の上に座った。
「すまぬな」
彼は優しく微笑み男達と船の中に入っていった。
美しい夕焼けが水面を照らしている。彼はまだ積み荷の近くで手を荷に向けながら指示を出している。
素敵ね、、
私は横に並んだ岩にもたれた。
「燈花待たせたな」
林臣が優しく私の体を揺らした。どうやらうたた寝してしまったらしい。
「終わったの?」
私はあくびをしながら尋ねた。
「ああ、退屈だっただろう?」
彼は首に巻いた手巾を外しやれやれというように顔を拭いた。
「そんな事ないわ、働く姿のあなたは悔しいけど素敵だったわ」
「私の仕事姿が?そんなウソは通じぬぞ、証拠に居眠りしていただろう?」
「本当に素敵だったわ。なんだかとても穏やかな気持ちで心地よくて、少しウトウトしただけよ」
私が口を尖らせ頬を膨らませると、彼はようやく笑顔を見せ、
「ならばそう言う事にしよう…あと百済の酒をもらってきたから一緒に飲もう」
腕に抱えた袋の中から酒瓶と木の椀を取り出し、なみなみと酒を注いだ。白く濁った酒からほんのり甘い香りが漂う。恐る恐る口に含んでみると、
「んっ?ほんのり甘くて美味しいわ、なんていうお酒かしら?どんどん飲めそう…」
私はぐいぐいと酒をあおった。
「こら燈花、そなた酒には弱いだろう。飲みすぎるなよ。またそなたを背負って帰るのはごめんだ」
「林臣様、そんな大昔の話を持ち出すなんて嫌味な人ね」
私も目を細めて皮肉めいたように言った。
もう酔ってしまったのだろうか?体も心も温かくて、ふわふわと良い気分だ…
「なんと悪そうな顔を…顔が真っ赤だぞ。まったく…」
「あら私全然酔ってなどいないわ。そうだ、あなたに私の最大の秘密を教えるわ…」
「酔っ払いさん、なんなのだ?」
「私ね…実はこの世界の人間ではないのよ…ふふっ。アハハ…」
「それ見たことか!酔っているではないか!あれほど言ったのに…」
「私ね、何を隠そう1400年後の未来から来たのよ。ふふっ…」
「その話は以前も聞いたぞ、そなた酔うとすぐその話をするのだな」
林臣は呆れ顔で言い顔を振った。
「で、どのような世なのだ?」
「ふふっ…私が来た世界はね、争いもなく、みな平等に機会が与えられるの。身分の差もなく、人々が疫病で死ぬこともほとんどないのよ…でも、あなたの居ない世界だわ…」
私は小さく息を吐き彼の肩にもたれかかった。
「…燈花、もし来世で会えるとしたらそなたは私を覚えていてくれるか?」
「わかる。必ずあなただと気づくわ」
私がそう答えると彼は黙ったまま私の肩に手を回しふたたび海を見つめた。
沈む夕日に照らされた水面がキラキラと光り、真っ赤な空をウミネコの群れが西に向かい飛んでいく。
ザザァ…ザザァ…
波の音だけが静かに響いている。
「燈花もう日が暮れる。家に帰ろう」
「もう少しだけ日が沈むのを見たいわ…」
私は立ち上がった彼の腕を引っ張り再び隣に座らせ肩に寄りかかった。
「林臣様、このまま二人でこの地で暮らしたいわ…朝廷や政から一切離れて、あなたは通訳官として時折来る渡来船の積み荷の管理をするの…私と二人で穏やかにここで海を見ながら暮らすのよ…」
私は太陽が沈んでしまった水平線を見つめながら呟いた。彼は一瞬私を見ると再び目線を海に向けた。
「それも悪くないな…そうだな…時が来たらこの地に移り住もう…」
「すぐに越して来たいわ」
私が顔を上げ真顔で見ると、彼は一呼吸し黒く澄んだ瞳で真っ直ぐに私を見つめた。
「燈花、昨日も話したが大唐と朝鮮三国の争いが勃発している、戦が始まればいずれ倭国も必ず巻き込まれる。全ての領土が奪われ、多くの民が殺される可能性もあるのだ。絶対にこの国を守らねばならない。そなたがいつまでも安心して住めるようにこの国を守りたいのだ。きっと私にしかこの責務は務まらぬはず…」
「林臣様…」
涙がとめどなく溢れる。彼がこんなにこの国を守ろうとしているなんて知らなかった。
「ど、どうしたのだ?」
「あなたなしでは生きていけない…」
「大丈夫だよ、私は死なないし必ずそなたを守る」
林臣がそっと私を胸に抱きしめた。
なんて温かなんだろう、神様どうか彼を守って…
夜空一面に満天の星がキラキラと輝き始めた。




