第三十八話 ざわめく心
難波津の別邸から戻り林臣は再び多忙な日々へと戻った。朝廷内は皇位をめぐって落ち着かないまま不穏な波がうごめいている。この先に待ち構える未来を暗示しているようで心が沈むばかりだった。
溜まっていた洗濯物を洗い終えぼんやりしながら立ち上がった。固く絞ったはずの衣からポタポタと雫が滴り落ちている。私はもう一度袖をまくり上げ力一杯絞った。
「燈花様、難波の海はどうでしたか?私は海を見たことがないものですから…」
小彩が洗い終えた衣を庭の竹竿に干しながら呟いた。
「えぇ、とても良かったわ。短い間だったけど本当に穏やかで幸せな時間だった。今でも目をつぶれば波の音が聞こえてきそう…」
私は林臣の衣の袖からこぼれ落ちた白砂を見て答えた。
「またきっと行けますよ」
小彩が微笑んだ。
私は“そうね”とだけ答え、地面に落ちた白砂を再び見た。
また、あの海岸を訪れる事は出来るだろうか…二人で穏やかに暮らす、誰にも干渉されず…
私達は洗濯物をすべて干し終わると、縁側に座り一息ついた。小彩が今年の春に摘んだ金木犀を使い桂花茶を注いでくれた。甘く濃厚な香りを胸いっぱいに吸いこむ。やはり数ある茶の中でもこの桂花茶が一番好きだ。この香りをかぐ度に小墾田宮で中宮と過ごした懐かしい日々が思い出され胸がキュンとした。少しばかり温まった心は小彩との他愛ない会話を楽しませた。
ぽつりと水滴が額に当たり空を見上げた。さっきまでの青空はなく薄い雲が広がっている。東の空はさらに低くどんよりとした雲で覆われ遠目ながら本降りの雨なのがわかった。久々の太陽の光に喜んでいたのも束の間で、私達は大慌てて庭の洗濯物を取り込んだ。
「せっかく今日は洗濯日和だと思っていたのに…」
小彩はブツブツと眉を寄せながら言うと、
「今年は梅雨が早く来ましたね…」
と、もう一度灰色の空を見上げてうなだれた。
連日の雨で肌寒い日が続いているせいなのか、どんよりとした薄暗い天気のせいなのか気持ちがすぐに落ち込んでしまう。
「燈花様、岡山で紫陽花が見頃のようですがこうも雨が続いては見に行けませんね…」
小彩が取り込んだ洗濯物を縁側の端に置きながら残念そうに肩を落とした。
岡山とは今で言う岡寺のある山だ。橘宮からも近く去年の梅雨の時期は何度かあの急な山道を登り、山の中腹に群生する紫陽花を見に行った。
見事な紫陽花の群生は青色の絨毯のように一面に咲き誇り息をのむほど美しかった。私は何本か持ち帰ると壺に挿し青紫の美しい色合いを楽しんだ。あの美しい紫陽花の群生は急な山道に息を切らしても訪れる価値があるだろう。
「…今年の梅雨は長そうね…」
私は軽くため息をつき、まだ濡れている林臣の上着を掴んだ。きっと彼はまたずぶ濡れで帰ってくるだろう。乾いた衣を取りに行こうと縁側を立ち上がった時、
「あれ、燈花様、今、林臣様のお姿が見えたような…」
小彩が目を細め林を見つめた。
「本当に?」
彼女が指さした方を見ると確かに雨の中、笠を被り馬をひく林臣の姿が木々の間に一瞬見えた。
「小彩、急いで湯を沸かして頂戴、あと乾いた衣もお願い」
「はい、承知いたしました」
いくら初夏とはいえ、一度雨に濡れると体の芯まで冷える。私は急いで草履をはくと、戸口の前で彼を待った。
「燈花待っていてくれたのか⁈」
深く被った笠のせいで私の存在に気が付かなかったのか突如私と目が合った彼は大いに驚いた。ドッキリを仕掛けた覚えはないが、いつもクールな彼がポカンと口を開け目を丸くしている様子はあどけない子供のようで私の心を一瞬で和ませた。
「丁度、林の中にあなたが見えたのよ。今、体を拭く布を持ってくるわ」
「かまわぬ、それよりもそなたに土産だ」
ずぶ濡れの林臣は少しくたびれた表情をしながらも、馬の背にかけた籠の中から紫陽花の花束を取り出し私に差し出した。
「綺麗な紫陽花…」
「岡山の紫陽花が見頃だと聞いたので、少しばかりそなたに摘んできた。ちょうど帝に謁見したついでだったしな…」
林臣は“ついでだ”という言葉を強調して言ったが、照れ隠しの為に言った事は赤く染まった顔を見ればバレバレだった。彼のそんなところもいじらしくて受け取った紫陽花よりも長く彼の瞳を見つめた。
「林臣様…ありがとう…とても綺麗ね」
温かいものが胸に込み上げる。
「どうしたのだ?」
「あまりにも素敵で…とても嬉しいわ」
「…そうか、良かった」
林臣は涙ぐむ私を見て驚いたのかキョトンとしている。彼は女心を全く理解していない。あんなに頭脳明晰なのに…そんなギャップもまた愛おしいのだけど…
雨の中…あなたが花を摘みに行くなんて想像もしていなかった…その心が嬉しいのよ…
私は彼に気づかれないように、そっと袖で目尻を押さえた。
部屋に戻ると紫陽花の枝や茎が水を吸いやすいように丁寧に手を加えた。毎日こまめに水替えをし、茎の切り口を確認し紫陽花を愛でた。
私の一心不乱な愛を受けた紫陽花はその想いに答えるかのように長く美しく咲いた。
ミーンミーンミーン…ジジジジジィィ…
長かった梅雨が明けた途端、待っていたかのようにセミが激しく鳴き始めた。本格的な夏を前に都は市だけでなく、どこに行っても活気に溢れ大勢の人々でごった返している。多くの民や技術者が百済大寺の復旧の為に都に集められ、長い間その仕事に従事している。朝廷は相変わらず慌ただしいままで、百済とゆかりのある地方豪族や官人が朝廷内を頻繁に出入りする姿が目立った。
林臣の帰宅は以前にもまして遅くなり、屋敷に戻らない日々も増えていった。
ある日の夜、私は小彩と二人で飛鳥川沿いに生息する蛍を見に行った。風もなく月の光もない夜だ。暗がりの中、小さな灯籠の灯りだけを頼りに川のせせらぎを聴きながら歩いて行くと、前方に無数の緑色の光が見えてきた。まるで流れ星のような美しい蛍の舞に息をのんだ。
「燈花様、幻想的でとても美しいですね」
小彩がうっとりとしながら言った。
「本当に綺麗ね…」
去年の夏、後宮の敷地で見た蛍を思い出していた。たった一年前なのにだいぶ昔の事のように感じる。あの夜の林臣の奏でた澄んだ琴の音が未だ心に響く。
「林臣様は、今日も朝廷にお泊りでしょうか?」
小彩がためらいがちに尋ねた。
「えぇ、仕方ないわ。色々問題を抱えていらっしゃるようだし…頭を悩ませているのよ」
私は軽くため息をつき彼女に微笑んだ。
「燈花様、朝廷で働く知人から聞いたのですが…その…気になる事が…」
小彩が珍しく硬い顔つきで言った。
「どうしたの?話してみて」
私は川べりの草が生い茂る柔らかそうな場所を探し彼女を連れ腰を下ろした。
「はい…では、その今、大唐を含めた朝鮮諸国で争いのせいで百済が不利な状況になり、大唐と新羅の両国から攻め入られそうだと、あと百済出身の豪族やゆかりのある民が百済救済の為に結集し戦の準備をしているとも聞きました。まことでしょうか?私の祖先も百済からの渡来人なので…気になってしまって…」
小彩が口をつぐみうつむいた。
「そうだったのね…確かに大唐と朝鮮諸国はずっと緊迫状態が続いているわ。朝廷内でもずっと議論がされているのよ。事実この国の多くの民や力のある豪族は百済からの渡来民よ。だから彼らがゆかりのある百済の地を想う気持ちはわかるわ…けれど…もうこの国の田畑を耕し、自然の恩恵を受け豊かに平和に暮らしているでしょ?百済だけではなくこの倭国の民でもあるのよ」
私が少しだけ語気を強めて言うと小彩は腑に落ちなかったのか、
「確かに…そうかもしれませんが…」
と、言い首を傾げ下を向くと土手の雑草を手で引き抜き始めた。少したつと今度は、
「では、宝皇女様はどうお考えだと思いますか?」
と顔を上げ、私の顔を覗き込んだ。
「詳しくはわからないけれど、きっと宝皇女様も反対の立場じゃないかしら…特に今は宮の造営や先帝が残された百済大寺の修復に力を注いでいらっしゃるし…」
小彩は“そうですか…”と言うと、何かを考えるように再び下を向き、ぽつりと呟いた。
「…林臣様も百済への派兵には慎重なお考えですものね…」
「そうね…あの人にとってはこの倭国が母国であり、この国の都と民を守るのが一番大切なのよ」
「しかし、百済が滅びてしまうなんて考えただけでもおぞましいです…こんなに長い間友好関係が保たれているのに…」
小彩が寂しそうに呟いた。
「そうね。あなたの気持ちもわかるわ…」
私は息をひとつ吐き悲しげな彼女の瞳を見つめた。
いずれ百済は唐と新羅の連合軍に滅ぼされてしまう…
下手に歴史を知っているだけに、彼女を慰める適当な言葉が見つからない。私は彼女の肩にそっと手を置いた。
「さあ、そろそろ宮に戻りましょう」
「はい」
私達は立ち上がると草の上に置いておいた灯籠を手に取った。中の灯りがいつのまにか消えている。どうしようかと一瞬慌てたものの、ちょうど雲の隙間から月が現れホッと胸をなでおろした。
まだまだ運が良いらしい…淡い月の光がぼんやりと帰り道を照らす中、私達はそれぞれの思いに馳せながらただ黙って歩いた。
盛夏を過ぎると一気に涼しくなり日を追うごとに秋の訪れを感じるようになった。まだ山々に紅葉は見られないが、山野に咲く萩は花の重みで枝が垂れ、風にそよぐ姿はとても風情があった。
「小彩、小彩はいる?」
昼の忙しい時間帯なのに、どこを探しても小彩が居ない。彼女が黙って屋敷から出て行くとは思えないが、念のため門番の男に尋ねた。
「はい、今朝お屋敷を出てからまだお戻りになっておりません」
門番の男が頭をぽりぽりとかきながら言った。
「そう…」
いつもなら出かける時は行き先を告げるのに、いったいどこに行ったのだろう…
私はしばらく庭にたたずんだあと部屋に戻った。
しばらくして、庭門が開く音が聞こえたので顔を上げ外を見ると、庭を走ってくる小彩の姿が見えた。急いで玄関に向かうと、彼女は入口の横でゼーゼーと息を切らしながらうずくまっている。
「小彩、大丈夫⁈」
私は慌てて彼女の背に手をあてた。長いこと走っていたのか背中の衣は汗でびっしょりと湿っている。私は急いで厨房に行き、水を一杯汲んで戻って彼女に手渡した。
「いったいどこに行っていたの⁈」
私が尋ねると彼女は受け取った水を一気に飲み干し、
「と、燈花様申し訳ありません。人に呼ばれ都の外れまで出向いていたのです…ハァ…」
と言い、苦しそうに胸を手で押さえた。
「いったい誰に呼ばれたの?」
私が矢継ぎ早に問いかけると、彼女は少しためらったあと口を開いた。
「えっと…それが…実は、近江皇子様のお屋敷に行っていました…」
「近江皇子様のお屋敷に?」
「は、はい…」
彼女は気まずそうに答え小さく頷いた。彼女が何かを隠しているような気がした私は、回りくどいかもしれないが慎重に尋ねた。
「小彩、あなたとの付き合いは長いし、とても信頼しているし実の妹だと思っているわ。あなたも同じ気持ちでしょう?」
「もちろんでございます!」
「では何でも話せるわね」
純朴で私を慕う彼女は隠し事など出来ない。私は彼女の瞳をじっと見つめた。
「はい…実は近江皇子様より斑鳩宮への同行を任されまして、急で申し訳ないのですが明日からしばらくお暇を頂きたいのです…」
小彩は両手の指を絡ませながら下を向いた。
「い、斑鳩宮?」
思わず大きな声を上げ聞き返した。
「はい…その…近江皇子様と鎌足様のご一行が明日、斑鳩宮に向かうのでそれの同行を任されました…」
小彩は小さな声で答えると、こわばった私の表情を見て釈明するかのように話を続けた。
「先日、百済から数名の使節団が斑鳩宮に到着したそうです。何やら重大な事案を協議するらしく、その協議にお二人が出席するので私は身の回りのお世話係として同行を任されたのです…燈花様の許可なく引き受けてしまって申し訳ありません…」
小彩は不安そうな顔で私を見たあとうつむいた。
突然斑鳩宮と聞き私の思考回路は完全に停止してしまった。自分がどんな表情をしているのかもわからない。少し沈黙したあと言葉を絞り出した。
「そ、そう…もちろんいいわ」
私は彼女に心の内を悟られないように作り笑いを向けたが、声はかすれ言葉に温度はなかった。
「本当ですか?良かった。燈花様に感謝いたします」
幸運にも今日の彼女はぎこちない私に疑いを持つ事なく、安堵の表情を浮かべ嬉しそうに微笑んでいる。
大丈夫、大丈夫、落ち着いて…
私は自分に言い聞かせると、呼吸を整え話を続けた。
「それにしても、あなたがあのお二方とそんなに深い付き合いだとは知らなかったわ…とにかく気を付けていってらっしゃい。こっちの事は何も気にしなくて大丈夫だから」
「ありがとうございます!感謝いたします」
小彩は再び嬉しそうに微笑むと照れくさそうに両手で頬を覆った。私はこの時、彼女の頬が赤くなったのを見逃さなかった。
そうだ、肝心要のことを聞いていない、部屋に戻ろうとする彼女を慌てて呼び止めた。
「り、林臣様は行かないわよね?」
「はい、恐らくご存知だとは思いますが、協議には出席されません。代わりに巨勢様が来ると聞いております」
この事を聞いた瞬間、体から魂が抜けるような脱力感に襲われた。
彼は斑鳩には行かない…とりあえず良かった…
私は大きく息を吐き小彩を見た。
「そう…他に誰が出席するか知っている?」
「近江の秦様と数名の高官と官吏、そして軽皇子様もお見えになると聞いております。あと…山代王様もご出席されるそうです…」
小彩はバツが悪そうにチラリと私を横目で見た。
「そう…わかったわ…」
私は頷くと彼女を解放し玄関の柱にもたれながらぎゅっと瞼を閉じた。
どうしよう…震えが止まらない…きっとこれから何かが大きく動きだす…
固く握りしめた手がしだいに冷たくなっていくのがわかった。
翌朝、私の不安をよそに小彩は斑鳩に向け出発した。私は彼女の乗った馬車を見送ったあと重い足取りのまま庭に面する縁側に座った。朝の冷んやりとした風が体中の体温を奪っていく。
ガタガタ、ガタガタ…
背後で鈍い音がし戸の向こうでまだまだ眠そうな林臣が顔を覗かせた。
「林臣様、ごめんなさい。騒がしかった?今、小彩が斑鳩宮に出発したの…」
「あぁ…そうだったな。もう行ったのか…」
彼はあくびをすると布を肩に羽織り立ち上がった。
「もう起きる?朝食の支度をするわ」
「かまわないよ、今日は午後から朝廷に行くから少しゆっくりしよう。燈花おいで」
林臣はそのまま縁側の端に歩いてくると、床に座り両手で布を広げ私を呼んだ。彼の前に座ると後ろから布で私の体を包み込んだ。
「さすがに冷えるな…そなたの体も冷えているぞ」
彼の長い腕と大きな手が私の体をすっぽりと包み込む。なんて温かいのだろう…
「あなたは、行かなくても良いの?」
私は小声で尋ねた。斑鳩に行かない事をどうしても確認したかった。
「まぁな、此度は徳多を遣わしているから問題ないであろう。協議とはあくまでも表向きだけで、本当の目的はおそらく山代王様を説得し何としても倭国の正式な百済派兵への承諾を得たいのさ…次期帝になられる可能性も消せぬからな…」
次期帝に山代王様が?やっぱり同一人物なんだわ…どうしよう…
鼓動が一気に早くなる。ピタッと背中にくっついている林臣にこの異常な速さの鼓動が伝わりそうで思わず息を止めた。
「や、山代王様が帝の位を望まれているの?」
「まあな…」
林臣は私の耳元で長いため息をつくと私の肩に顔を沈め床の一点を見つめた。
「しかし、近江皇子や秦氏だけでなく、軽皇子様までも出向いたとなると、随分と強気な体制で山代王様の説得に当たるのだろう…」
「あなたは百済派兵をどう思う?」
「高句麗と百済が一丸になり新羅と戦ったとしても背後には大唐がついている。両国はいずれ同盟を組むかもしれん、新羅の女王が懇願しているからな。今動くのは賢明ではない事くらいみな承知だ。百済出身の地方豪族達がいくら騒ぎたてても朝廷としては、百済派兵をするつもりはないさ…戦は起きないから大丈夫だよ」
林臣は口元に笑みを浮かべ私を見た。
「それよりも次期帝の擁立を進める方が容易ではない…」
「あなたは古人皇子様を擁立したいのでしょう?…」
「…知っていたのか?」
林臣が顔を持ち上げ驚いた表情で私を覗き込んだ。
「いいえ。ただ古人皇子様はあなたのいとこであるし先帝のご子息だもの、帝の候補になるのが当然な流れかなと思ってね…」
私は歴史の流れを日本書記により知っているが、果たしてそれが事実かどうかはわからない。むしろ全ての話が偽りであって欲しい。そんな願いを込めながら涼しい顔で答えた。
「…政ごとに関心のないそなたまで、朝廷の醜い皇位争いに感づいていたとは実に情けない…」
林臣はため息まじりに言うと顔を横に振った。
「ずっと忙しいあなたの様子をみていれば察しがつくわ…小彩も朝廷で働いている知人がいるから色々と噂話を聞いてくるのよ…」
「そうか…」
彼はフッと鼻で笑うと私の頬を親指でなでた。
「山代王様が帝を望むのも当然といえば当然なんだよ。本来であれば宝皇女様の次の帝候補は山代王様だ…古人皇子は先帝の実の子息だがまだ年若く経験も浅い…山代王様と比べようがないのも事実ではある…だが、我々蘇我家としてはやはり、古人皇子に次期帝になってもらわねばならない…」
彼は固い表情を見せると口をつぐんだ。もちろんその口元に笑みはない。
「燈花?大丈夫か?顔色が悪いようだが…」
「えっ?あっ、大丈夫よ。お腹が空いたなって思って。少し早いけど朝食にしましょう」
「あぁ…そうしよう」
私は彼の腕の中を逃げるように抜け出すと足早に厨房に向かい竈に火を起こした。少しずつ燃え上がる炎を見て目を閉じた。
運命の時が迫っている…
パチパチとはじける炎の音を聞くといつもなら気持ちが落ち着くのだが、この日どんなに薪をくべて炎の勢いを増してもざわめく心は静まらなかった。
数日が過ぎた斑鳩宮では、協議を終えたばかりの百済の使節団がなんとも疲れた顔つきで、ブツブツと言いながら若草伽藍の講堂をあとにしていた。使節団のいなくなった講堂の一角で、今回の協議に出席した者たちが固い表情のまま、誰が最初に口火をきるのかと互いの顔をじろじろと見合っている。
「山代王様、百済の使節団に対してあのような言い方はさすがに礼儀に欠けるかと…」
ピリピリとした空気の中、秦氏が沈黙を破り口を開いた。
「何をいうか、媚びを売る筋合いはないぞ」
山代王が声を荒げた。
「しかし、百済と倭国は古くからの強い友好関係にあります。なぜそんなに頑なに百済派兵を拒まれるのか?」
「秦よ、拒んでなどおらぬ、百済だけでなくどの国にも協力せぬという事だ。何度も朝廷で申したであろう。まずは我が国の国力強化が先決だ」
「しかし、百済の今後を考え万全の体制を整えておかないと、任那のように滅亡しかねません。百済は我が国にとって最大の友好国です」
秦氏もまた今日は味方を大勢従えているせいか大胆にも反論の姿勢を崩さない。山代王は怒りをあらわにすると鋭い視線を彼に向けた。
「任那とは、そなた随分と昔の話をもちだすのだな。私は大伴氏ではないぞ。しかも百済こそ任那割譲を受けたおかげで命拾いしたのだろう?任那を滅ぼしたのはどこの国だ?」
秦氏は黙ったまま口を結び目をそらした。
「百済派兵については、また時期が来たら考えよう。今はまず、私の帝への即位を急ぎ取り決めて頂きたい」
「しかし…」
一瞬すくんだ秦氏が言葉に詰まると、
「もう、この話は終わりだ!!」
山代王は目を見開きピシャリと言うと、苛立ちを見せ立ち上がった。
「徳多よ、急ぎ飛鳥に戻り豊浦大臣に私の次期帝への即位の話を進めるように伝えよ」
「は、はい…」
急に話を振られた徳多がおどおどと答えた。
「軽皇子も、即位について帝に申し伝えて欲しい」
山代王は淡々と言うと、軽皇子を一瞥し静かに部屋を出た。
山代王が去ると、緊張が解けたのかさっきまでびくびくとしながら立っていた官吏達から大きなため息がこぼれた。
「以前も山代王様は大唐の使節団をえらく怒らせたな…」
一人の高官らしき男が腕組みをしながらぽつりと呟くと、
「はい。その時も、後から使節団の機嫌を取るのに苦労したと聞きました…」
隣にいた若い官吏が同調するように相槌を打った。
「全く山代王様には困ったものだ…」
秦氏はやれやれと軽く息をつくと、近江皇子をちらりと見て近くの椅子に腰かけた。少し間を置いて、物陰にいた男が秦氏の前に進み出て頭を下げた。
「秦様、ひと言申し上げてよろしいでしょうか。私が近江皇子様と共にもう一度、帝に直訴してまいります」
「鎌足よ…すまぬな、…山代王様が次期帝になれば百済滅亡は免れられないであろうし…蘇我氏の息のかかった古人皇子様が帝になっても百済派兵には難色を示すだろう…帝もまた豊浦大臣の言いなりだしな…我々は四面楚歌だ、どうしたものか…」
秦氏はそう言って目を閉じた。しばらく沈黙が続き、今まで静かに事の成り行きを見ていた軽皇子が咳払いを一つし、口を開いた。
「…私が帝であれば、姉上を説得し惜しむことなく百済救済に尽力いたしますのに…」
張り詰めた空気を破るように軽皇子の声が部屋中に響き渡り、全員が一斉に彼を見た。
夢を見ている
ここはどこだろう?真っ暗だしやけに寒い…あの灯は何だろう…
私は暗闇の中を小さな灯りに導かれるように、ゆっくりと歩き出した。近くまで来たところで引き込まれるように灯に手を伸ばすと、突如目の前の風景が変わった。燦燦と輝く太陽の下、青々とした段々畑があたり一面に広がっている。田畑から吹き寄せる風が指の間を通り抜けた。私はすぐに、ここがどこかわかった。
そう、ここは推古天皇の陵墓だ。
「燈花」
背後から懐かしい声がし振り返ると、目の前に中宮が優しい笑顔で立っていた。
「中宮様!!」
私は両手で口を押えると彼女に抱きついた。
「久しぶりだな。元気であったか?」
中宮がいつもと変わらない優しく温かな眼差しで私を抱きしめた。
「中宮様、本当にお久しぶりでございます。お会いしたかったです…ウワーン」
我慢していたものが込み上げ、私は堰を切ったように泣き始めた。
「おやおや、燈花よ、そんなに泣くないでおくれ」
中宮がそっと子供の頭をさするように、私の頭をよしよしと撫でた。
「中宮様、私怖いです。どうしたら良いかわかりません…」
「大丈夫、そなたはよくやってくれた。運命はやはりそう簡単には変えられぬものだ。これもあの二人には宿命なのだろう…そなたに重荷を背負わせてしまってすまなかった。時が来ればそなたも全てを忘れるだろう…」
「忘れる?ど、どういう意味ですか?中宮様?中宮様?」
もう目の前に中宮の姿はなくまた暗闇の中へと戻っていく…
ハァハァハァ、ウッウッ…
私は嗚咽しながら目を覚まし溢れた涙を袖で拭った。
これで分かった、中宮が何を望み私に託したかったのかを…
中宮様、やはり私の予感通りなのですね…歴史書どおり、林臣様も山代王様も死んでしまう…そんな残酷な運命を受け入れろというのですか?…
拭いても拭いても涙が滝のように溢れ布団にポタポタと流れ落ちた。
「燈花、どうしたのだ?大丈夫か?」
隣で寝ていた林臣が青い顔をして飛び起きた。
「燈花、燈花目を開けてごらん。悪い夢を見ていたんだよ」
「り、林臣様…お願い…死なないで…」
「燈花、そなたを残して死ぬわけなかろう…」
林臣が強く私を抱きしめた。
夜空が白み始めどんどん明るくなる。外から差し込む光に尋ねた。
いったい私はどうするべきなの?これから先、どうすればいいの?
私は答えを見出せぬまま林臣の胸に顔をうずめ途方に暮れた。




